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『近代科学を超えて』村上陽一郎著 での一節で気になる記述があります。

(Z会 現国問題集より抜粋)
西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー (中略) ー 日本や東洋に対して、機能としての両者(注1)の本質を、後者(注2)よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、ー
(注1)「両者」は自然と人間を指します。
(注2)「後者」は日本や東洋を指します。

質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか? 旧約聖書では神は人に対して「地上の全てを人に支配させよう」というようなことを言ったのではなかったでしょうか? ですので人と自然を同一視するはずがないと思えます。

人が自然の範疇内であれば、自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり、それはまるで地球を遠くから眺めた時にあたかも人を微生物のように見るという印象を受けます。つまり人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になるかと。

被造物すなわち自然、という定義もどうかと思います。

詳しい方のご意見をお待ちしております。

A 回答 (5件)

>質問なのですが、西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられているのでしょうか?




概ね、質問者さんの認識で正しいです。
この作者の言い分は誤りです。(一文しか読んでいないので、真意は他にあるかもしれませんが。)



欧米人の自然観は、「神が地球を作った。その地球の自然を管理するために人間を作り、人間にその職務を委任した。そして、その労力の対価として牛を食する権利を認めた。」


これが、欧米人の自然観です。


自然は、目下の存在で「管理する対象」に過ぎません。



一方、日本人は「頂きます」という食事の言葉が代表するように、いただきますの意味は、「自然の命を頂きます」という意味です。日本人は太古から、自然とともに生き生かされているという自然観を持っています。

よく、映画で欧米人の食事の挨拶で十字を切る光景を目にしますが、あれに「自然の命を頂く」という意味は一切ありません。そもそも、あんな事やっているのは映画の中だけで、実際の欧米人の食事は「何も合言葉(十字を切るなどの決まり文句)を言わないで、勝手に食べる」が主です。





日本人の「人間も自然の一部」とは、自然は偉大で崇高であり、大地震や大嵐は人間に太刀打ちできないほどの力を持っている。そして、自然の中に生き生かされている。人間は自然の一部なのだ。と言う価値観ですが、


欧米人の「人間も自然の一部」とは、管理している庭が荒れたら住みづらくなるし、住めなくなったら、死ぬかも知れない。だから、問題があったら改善しなければならない。自然(庭)と人間は一心同体といっても過言ではない。と言う人間中心主義の価値観に過ぎません。

根本的に、意味が違います。



この作者は、カトリック教徒みたいですが、根本的に「人間も自然の一部」の意味を違って言っている可能性があります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 真意は他にあるかもしれません

ということで、もう閉じます。
皆さんどうもありがとうございました。

お礼日時:2014/06/26 02:55

詳しい者ではないのですが、若干気になった点がありますので、一言。



先の方への補足で、パラドックスであると見なす点を西洋と東洋とにあるかのように書いておられますね。引用されておられる文だけからしますと、西洋的発想内に於けるものとも読めますね。すなわち、西洋的発想における「存在的本質」と「機能的本質」の捉え方が「パラドキシカル」である、と見える。それを、jonathan4403さんは、「パラドキシカル」ではなく、あってはならない矛盾、と捉えられた、という様にお見受けします。

仮に、「西欧では本当に人間も自然の一部または自然そのものとして考えられている」としましょう。それが、聖書に書かれているらしいことに矛盾するのかどうか。jonathan4403さんは、「人と自然を同一視するはずがない」とされますが、「人間も自然の一部または自然そのものとして考えられている」を「同一視」という言葉によって表すとしても、それが、「地上の全てを人が支配」といかなる意味でも相いれないのかどうか。異を唱えるようですが、私には両立不能のものとは見えません。jonathan4403さんは、ご自分の自然観をそこに投影していませんか。同一視するというのは、差異があるからなのですね。差異を抹消したり、無かったことにすること=「同一視」と言って、そういうはずはない、と主張されているように見えます。「人間も自然である」とすることが、人間と自然の差異をどう処理するものなのかは、その短い文章では触れられていませんね。例えば、風に揺らぐ蘆の葉と、自らの意志で動かす手とを考えてみましょう。共に、物理学の法則に従った動きでしかありえない。共に「神の被造物として神の御手に委ねられている」ということが同一性でしょう。差異性は、「自然と人間の存在的本質をきびしく区別した」のであれば、一方は風に従っただけの非意志的動き、他方は人間の意志行為という存在的区別がある、というところでしょう。言わば、同一性と差異性の矛盾ということですが、与えられた文の範囲では、それなりに整合的な解釈は可能である、と見えます。

もう二点、
>自然という言葉には勝手に変化する意味合いもあり
これは、この場合は意味が大きく外れるでしょう。オリジナルは「科学」の話でしょう。

>人を自然に組み込むと結局は人間不在の考え方になる
>これを敷衍すると、人の行為は全て自然なので人為ではない、と。
も、同様ですが、jonathan4403さんが「存在的本質」=「機能的本質」であるはず、と決めつけているか、あるいは、「機能的本質」と言う方はしっくり来ませんが、それの持つ意味を著者の論旨を超えて「敷衍」してしまっているのではないか。自然と人間との差異を無視する方向にいってしまっているし、「人為として自然から切り離す」の反対が「人為というものはない」と受け取ることは、可能ではあるでしょうが、存在的区別をなくすことにまで敷衍してしまっている。行きすぎのように見えますが、いかが。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

抜粋箇所は短いので東洋の話は入ってませんが、内容的はZ会本の要約を元にしています。

> それなりに整合的な解釈は可能である、と見えます。
それは大昔の西洋人が考えたのか、それとも現在のあなたの見解で推測なのかが問題になると思います。

これが質問の焦点のはずではないでしょうか。

もうひとつ、大昔から西洋では「人は自然の一部なのだから人が何をしても自然なのだ。その自然な人の行為を制約すべきだろうか、いやすべきでない。」という言説で一致団結していたという確証があれば私は納得します。これが東洋と西洋の正しい比較だと思います。

著者は以下のように書いています。(当初の抜粋外です)

「人間存在自体が必然的に『自然』を自然に変容させるのであって、言葉本来の意味での『バーバリズム』は、人間存在とともに、絶対不可能な虚辞となったのである。」

お礼日時:2014/06/23 23:20

貴方のおっしゃるとおりです。


キリスト教的考え方(ユダヤもイスラムも基本は一緒)では万物は神の創造物でありヒトはそれを支配する立場です。唯一動物の血(命)は神に戻します。これは生贄の血であって輸血とは関係ありませんよ。念のため。

一方神道では万物に神が宿り、神というのはこの場合創造主ではなく命そのものと考えてもいいでしょう。万物に宿る神は支配者ではなく共存者でもあります。どちらが優位かといえば神が優位なのです。これは神道だけではなく、アイヌや沖縄の信仰、道教やバラモン教などにも見られることです。

西欧では人間は支配者であって自然とは一線を画す。だから力で自然を押さえ込もうとしますし、動物保護や環境保護の考えも基本的には人間優位から発しています。

多分自然保護や動物保護の運動からこのような考えを持ったのでしょうが、あまりに表面的なものだけをとらえているものですね。ひょっとしたらそのような偏った考えを持つ人の論文などの抜粋かもしれません。
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この回答へのお礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。参考になりました。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/23 23:40

西欧語のnaitureを中国語の自然に当てはめて翻訳したことから混乱が生じたことの経緯は柳父章の「翻訳の思想」に詳しく述べられています。


それによれば東洋の自然は副詞としての自然で、動作の自然であることを意味します。
老子の「無為自然」も親鸞の「自然法爾」もみんな副詞的な用法です。
ところが西欧では自然と言えば、名詞的な用法で、物質的自然の考えで、人間とは対立する対象としての自然です。
ことに17世紀の機械論的世界観の登場以後は自然は無機質の機械的なものと考えられ、人間によって支配、改造される対象になりました。
ところが東洋とか日本には自然が人間に対立する対象という考えはなく、人間はその自然の一部と考えます。
人間と自然は一体のものであり、その自然と共に生きるのが良しとされます。
改造したり、破壊したりするなんてとんでもない。
だけど、自然を単なる無機質の機械的なものと考える西欧思想が、技術において東洋を凌駕し、武器・弾薬の製造技術で優れ、世界の覇権を握って行ったことも事実です。
東洋は不自然であることが悪とされ、政治も自然であることが良しとされたために、進歩・発展がなく、政治をマキャベリのように道徳とは切り離して、統治技術として考えることもなかった。
朱子学では「修身斉家治国平天下」と言われて、人間が道徳的に正しければ、政治はすべて上手く行くと言うオプティミズムが持たれるようになった。
中国では政治は人間の道徳的な在り方と同一視された。
だから中国の士大夫と言われる官僚は何かと言えば、道徳・道徳と連呼することになった。
自然であることが善である、という考えに由来します。
老子の「道徳経」でも、自然であることが道である、と言われた。
その中国の朱子学の自然観を批判したのが、我が国の江戸時代の荻生徂徠とか伊藤仁斎という古学派の儒者たちだった。
朱子学では、自然法というものがあり、人間の身分は天が定めた理であり、上に皇帝がおり、下に士大夫といわれる官僚がおり、さらに下に庶民がおり、さらに下に商人がいる、そういう身分制を正当化・合理化したが、徂徠や仁斎は人間はすべて平等であって、身分制が自然だなんてことはないと言いました。
言い換えれば、自然法を否定し、社会制度は恒久的なものではなく、人為のものに過ぎないと言ったことになります。
徂徠は国家・社会は家康という人格が人為的に作ったものだから、もしそれが間違った統治をすれば倒しても良いのだ、といったことになります。
政治と道徳を切り離して、道徳を人間にだけに限定して、国家・社会から道徳を切り離したという点で、徂徠はマキャベリとおなじ思想を唱えたことになり、近代的でした。
このようにして東洋的な副詞としての自然はだんだん我が国から消えてゆき、西欧的な機械論的な自然観を受け入れる素地が作られて行きました。
今、私たちが自然といえば、西欧的な自然のことをほとんど意味しています。
人間に対立するものとしての無機質的な自然の概念です。
だからこそ、自然破壊・環境汚染・大気汚染という現象が起きているのです。

あなたの質問、「西欧では本当に人間も自然の一部、自然そのものと考えられているんでしょうか?」

古代ギリシャ以来、人間と自然は別のもので、人間は自然を工作するものと見ていたのだから、自然は人間に対立するものでした。
アリストテレスは「形相」と質料(ヒューレー)の二元論、プラトンは「イデア」と質料(ヒューレー)の二元論、これが近世のデカルトになると心と身体の二元論、カントの主観と客観の二元論になります。
要するに人間は自然の一部ではなく、それと対立するという思想です。
「人間と自然を同一視するはずがない」。
中世には神が人間も自然も作ったのだから、人間と自然は同じ被造物でしかなかったが、近世になって神がいなくなると人間と自然は対立するものになります。
そしてデカルトが身体よりも心の方が、物質よりも精神が優位にあると言ったように、人間の方が自然よりも優位になり、人間が自然を支配するようになります。

この回答への補足

抜粋中の省略した部分も掲載します。

「西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取るー。自然と人間の存在的本質をきびしく区別したヨーロッパが、その場面では両者を融合的に取り扱う日本や東洋に対して、機能としての両者の本質を、後者よりも融合的に見なす、というのはパラドキシカルかもしれないが、」

補足日時:2014/06/21 20:15
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 中世には神が人間も自然も作ったのだから、人間と自然は同じ被造物でしかなかったが、近世になって神がいなくなると人間と自然は対立するものになります。

著者の論旨は、
西洋は存在的本質では人と自然を厳しく区別しており、機能的本質では同じ被造物なので人の営み(人為)は自然と区別しない。
東洋は存在的本質では人と自然は一体だが、機能的本質では人為を認めず人と自然を区別している。

これがパラドックスだとしています。これを敷衍すると、人の行為は全て自然なので人為ではない、と。
犯罪を犯しても全て自然現象、、、

西洋での存在的本質では人と自然を区別している事を認めつつ、機能面では都合良く全てを自然とし、全て自然なら・・・という感じです。

ですから、パラドックスが成立するには西洋で「人の営みは自然と不可分だ」としているかにかかっています。後から日本人の彼が考えたものかどうかです。

これを考えてみて、無作為を突き詰めると人類の運命は神のみぞ知るという傍観者的な立場になるのかなと思ったりしました。つまり、人間不在のような。

お礼日時:2014/06/21 20:05

>西洋的発想に立てば、人間も自然の一部(被造物)である以上、人間の営みだけを人為として自然から切り離すことを不自然と受け取る



“nature”は「本質」と言う意であって、「文明にゆがめられていない~」と言う意も含みます。

第一、基督教では人間は本来のエデンから追放されて、この世に暮らしているスタンスですから、この世の「自然」はあくまでも人間とは別の物です。


逆説的な言い方である「被造物」という意は通常は無いですね。

「手付かず」と「被造物」はニュアンスが違います。


自然は「無為自然」から来ており、老荘の一元論の思想からであり、人間もその一部と見なします。

natureは人の手が入っていいない意であり、基督教は二元論の思想です。

ご質問者様の違和感が正しく、例文の用法が間違っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/21 13:08

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