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 江戸時代の旗本には、領地を持っている人と領地を持たずに米で禄をもらっていた人がいると聞いていますが、実施には、どのくらいの割合の人が実際に領地を持っていたのでしょうか?
 また、大名の領地の支配機構を「藩」と言いますが、旗本の領地の支配機構には、「藩」と同様の呼び名はあるのでしょうか?

A 回答 (3件)

>旗本の領地の支配機構には、「藩」と同様の呼び名はあるのでしょうか?


No1の方の書き込みのように、知行所、というようです
(エンカルタ総合大百科「知行地」で検索)。ただ、土佐藩という言い方はしますが、吉良知行地とは言わず、「知行地は吉良にある」と言うようです。

>どのくらいの割合の人が実際に領地を持っていたのでしょうか?
 小川恭一氏の「江戸の旗本事典」(講談社文庫)の304ページに「旗本の500石以上の家は、90パーセント以上は知行どりで・・・」という記述はありますが、500石以上の旗本が何家あったかは、記憶にありません。
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2番の方の


>500石以上の旗本が何家あったかは、記憶にありません。
これについては、参考URLに出ています。
やはり大半が500石以下だったようです。

参考URL:http://www.tabiken.com/history/doc/O/O284L200.HTM
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米と領地を持っている人の割合については、ちょっとわかりませんが、


多くの旗本が多かれ少なかれ領地は持っていたと思います。

旗本の領地の事を一般に「知行所」といいます。
しかし、交代寄合という特殊な旗本(旗本なのに参勤交代がある)は
自分の領地の事を万石以下なのに藩と称しています。
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>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩
 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
  * 海産業を主とする三閉伊地方(三陸海岸沿岸部)に、水稲の基準で重課税。
  * 三閉伊地方の産業(海産、材木、製鉄)に御用金制度を用い、無理な課税を行ったこと。
  * 「軒別税」(人頭税)を実施したこと。
  * 藩札の大量発行によるインフレーション。
  * 幕府の手伝い普請(公共工事手伝い命令)による臨時課税。
  * 財政難から藩士の禄を長期にわたって借上したこと。
  * 戦国時代以来のライバルである弘前藩、仙台藩に対抗するために恒常的に高直しや官位の叙任工作を幕府有力者に働きかけていたための出費。

 島原藩は島原の乱を起してしまった過酷な藩政の責任を問われて、藩主の松倉勝家は、改易処分となり、後に斬首となった。
 (藩の藩主が切腹すら許されず斬首された事例は、この1件のみ)

 水戸藩は、御三家の中でも唯一江戸常勤を定められた為、膨大な支出がある上に徳川光圀(水戸黄門)の時より行われた水戸学(大日本史の編纂)の費用で、税は8公2民(4公6民~5公5民ぐらいが一般的)でした。

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 後の天狗党の乱の時も、関係者の家族まで処刑し、大勢が変ると報復に相手の家族を皆殺しにするなど、血生臭い行為に走りやすい傾向が有るのかも知れません…。

 ちなみに徳川光圀は、若い頃に辻斬りを行ったり、舶来物の贅沢品を好み、自身の趣味でもある大日本史の編纂に関係する資料の献上を推奨(賄賂)し、水戸学は幕末の倒幕のイデオロギーにも成ります…。
 (水戸黄門漫遊記の悪役を1人で包括出来そうな方だったり…。)

>逆にここに生まれたら不幸というような厳しい藩
 南部藩は、江戸時代に138回の一揆が発生したそうです。(次点の久保田藩(秋田藩)は87回)

 原因は
  * 水稲北限地域外で無理に水稲生産を強制したため、連年凶作に見舞われ、代換品による食事を奨励したが、代換品すらも備蓄が無かったこと。
  * 寛政5年(1793年)の松前(蝦夷地)出兵が原因の財政負担増。
  * 目安箱の設置が、罪人を糾明する証拠集めのために用いられたこと。
  * 負債を次から次へと作る新税・重税で解消しようとしたこと。
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Q旗本領地と代官などの天領地は被らないんですか?

旗本が所領する知行地は代官や郡代の支配には入らない場所になるんでしょか?
詳しい方お願いします

Aベストアンサー

こんにちは。
と、言うよりも、こんばんわ・・・かな?

>>旗本領地と代官などの天領地は被らないんですか?

回答から先に述べますと
「被りません」。

例を挙げて説明しましょう。

(1)江戸町奉行所の「与力」の俸給は、南北合わせて50騎いましたが、江戸近隣に10,000石の知行地をもらい、均等に200石ずつ分配していました。
この知行地の管理、運営、取立ては、その近辺の代官や郡代などではなく、その土地に信用のおける者を指名し、その者に管理をさせました。
この信用の置ける者は、後々「地主」または「庄屋」などと呼ばれる人たちで、金銭的に裕福だけではなく、村民からの人望も厚くなければなりませんでした。
主な仕事は、監督範囲の土地の管理・・・例えば、治水権などの争いの仲裁、家長を失った女手だけの田畑への「助っ人」の割り振り、夫婦喧嘩の仲裁、年貢の取立て・・・などなど、かなりの采配権を与えられており、代官などと、ほぼ同じ位の権限を有していました。

(2)旗本や御家人でも「旗本寄合席」などになると、知行地がもらえましたが、必ずしも、江戸近隣とは限らず、美濃であったり摂津であったりしました。
最盛期の元禄年間頃になると、実に、230家余りが「知行取り」に任命されています。
この人たちは、自らその地に移り住んだ者もいます。
「参勤交代」と聞くと、大名を即座に思い浮かべると思いますが、こうした地方へ移り住んだ「旗本」や「御家人」も、実は、「参勤交代」をしていたのです。
もっとも、大名の参勤交代は1年おきでしたが、幕末も近くなると、旗本や御家人の参勤交代は、2~3年おきでよろしい・・・との通達も出されて、出費の軽減を図っています。
こうした人たちは、当然、部下を代官に任命し、年貢の徴収などに当たらせました。
もちろん、知行地も、上総国(かずさ=千葉県北部)と上野国(こうずけ=群馬県)などと離れた知行地を与えられた者もいます。そして、自らは江戸在住をした者もいますので、これらの土地には、それぞれ自らの家臣を代官として派遣しました。
もっとも、代官に任ぜられた家臣も、その地へ行ったはいいが、実務的にはほとんど経験がなかったので、結局は地元の「庄屋」などに実務を負かせ、自らは「のほほん」と暮らし「横領」する者もいました。
この辺になると、「水戸黄門」のお出まし・・・となるのでしょうかねぇ。
あるいは、「お主も悪よのう、ガッハッハ」かも。
でも、大概は、自らのためと主家のために、旱魃などで不作の折には、任命された代官が自ら江戸の主人を訪れ、「減免」を願い出た例もあり、忠臣な者が多かったのです。

<結論>
(1)天領地を支配する代官や郡代は、旗本や御家人の支配地には一切関与できなかった。
(2)納める先の違う年貢を一手に引き受けたり、取り扱ったりはしなかった(できなかった)。
(3)旗本や御家人の知行地は、その主人の責任に全てが任せられており、幕府から任命された天領地の代官や郡代は口出す筋合いではなかった。

こんにちは。
と、言うよりも、こんばんわ・・・かな?

>>旗本領地と代官などの天領地は被らないんですか?

回答から先に述べますと
「被りません」。

例を挙げて説明しましょう。

(1)江戸町奉行所の「与力」の俸給は、南北合わせて50騎いましたが、江戸近隣に10,000石の知行地をもらい、均等に200石ずつ分配していました。
この知行地の管理、運営、取立ては、その近辺の代官や郡代などではなく、その土地に信用のおける者を指名し、その者に管理をさせました。
この信用の置ける者は、後々「地主」ま...続きを読む