人に聞けない痔の悩み、これでスッキリ >>

或いは歴史カテかとも思いましたが、敢えてこちらで・・。
「男の散り際」 と聞いて、先ず私が思い浮かべるのが、巷間余りにも有名ながら、関ヶ原に於ける大谷刑部少輔吉継その人、幼名を紀之介又は平馬。

御存知の通り彼の怜悧な頭脳は、明確に東軍の勝利を予想しておりました、加えて家康との関係も決して悪くなく、天下は器量人の持ち回りに帰すべし、つまり徳川の天下を許容する程度の順応性も持ち合わせていたようです。

一方東軍へ加担する恩賞といった意味合いではない、新知12万石の加増が関ヶ原以前の段階でほぼ決まっておりまして、上杉征伐へと至る途上、黙って佐和山城を後にしてさえいれば、彼自身の敦賀5万石・親族の3万石と併わせて20万石を超える身代となり、子々孫々を繁栄へと至らせた可能性は高いはず。

ところが最終的にはその全てを捨て、石田三成との友情に殉じた訳で、当然そこには西軍が勝利すればという打算は微塵も感じられず、恐らく友情という概念が希薄なこの時代に於いて、誠に稀有な例であったのでしょう。

その最期もまた見事、西軍を裏切り松尾山から駆け下った金吾中納言1万数千の大軍に僅か600の寡兵を以って立ち塞がり、且つ3度までこれを押し返して、西軍最後の意地を見せ見事戦場に花と散ったくだりは、涙無くしては語れないものです。

ところがこの話には余談がありまして、吉継直系の子孫こそ途絶えたが、孫に当たる人物が越前徳川家に仕官し後年その家老に列せられた由、一方この話を聞いた時の大老土井利勝が、「家康が知ったらさぞ喜んだだろう」 と語ったという。

そこには、関ヶ原で敵の主将となった人物へのバイアスは微塵も無く、家康自身が戦国の気風と男の侠気を愛した人物であったとの証左に他ならず、加えて天下を取った草創期の徳川家に人なしとは言えないエピソードでしょう。

大谷刑部に限らず、その種の逸話は決して少なくないはず、古今東西及びジャンルを問いません、或いは映像の世界でも結構、皆様が感動する 「男の散り際」 を教えて下さい。

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A 回答 (17件中1~10件)

伊達家臣の鬼庭左月斎。


人取橋の戦いにおける伊達軍壊滅の危機にあって殿を務め政宗の退却を無事成功させた左月斎は御年73歳。当時平均寿命は50歳ですから、今日の基準でいえば100歳超のご長寿。
御達者武将とはいえ寄る年波には勝てず、兜の重みに耐えられないので黄色い頭巾を被って戦闘に突入。
鬼庭隊は敵200を討ち取る大活躍の末にほぼ全滅。左月斎も討ち死にします。
その戦闘に至る背景として朋輩の遠藤基信との交流や先代輝宗への臣従なども左月斎の人柄を好感あふれるものにしており、男の散り際ベストに推したい。

次点としては大村益次郎。歴史上の人物としては最も好きな人です。
こちらは主君ではなく自分の論理的帰結に殉じる格好です。
技術者としてのあるべき姿ですね。

ジャンル問わずということなら、もう一人。
ローエングラム朝統帥本部総長のオスカー・フォン・ロイエンタールを。
左月斎と通じるのは主君の為の死という部分ですね。
しかも主君のためにあえて反逆の挙に及ぶ覚悟は涙を誘います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>伊達家臣の鬼庭左月斎。

私は伊達政宗のファンですので、人取橋の戦いに就いてはよく存じております。
苦難続きであった政宗の前半生に於いてすら、佐竹勢に攻め込まれ一時は政宗の首さえ危うかったこの戦いこそ、最大のピンチであったと申し上げても恐らく過言ではないでしょう。

何しろ伊達4代に仕え、しかも主君を逃す為に齢73にして壮絶な討死、まさに家臣の鑑の
ような御仁、その最期も天晴れでありました。

>次点としては大村益次郎

あの時代自称軍事専門家はそれこそ星の数ほどおりますが、この方は恐らく幕末唯一と言っていい、軍事のスペシャリストでありその筋のテクノクラー。

彼に関しては、医師(まあ元々彼自身が医師ですが)が断じるように、粛々と戦争をこなしたとの印象が強いが、反面無能な人間の感情を一切顧慮せず、その事が後の厄災へと繋がります。
ただ少なくともあの時代に一人の益次郎が現れなければ、或いは戊辰戦争そのものが画竜点睛を欠く結果になった可能性も否定出来ず、明治政府はその成立すら危うかったでしょう。

加えて戦争に対し、何よりも物理的指標に重きを置いた彼の姿勢が受け継がれてさえおれば、或いはその後の帝国陸軍が、妙な精神論へと走る事は無かったかも知れない、誠に残念です。

お礼日時:2014/06/30 19:19

お礼文が一つのストーリーの様に読めて



おまけに

遠い日のラブストーリー?まで登場したとあれば・・

という訳で勝手に再度登場してきました。


質問者様の業界も、分かってしまいました。


JAL4人組は、最初の計画では、課長級以上の400名(でしたか?)に血判状への署名を求めたのですが
直前になって、わりと下の方からは「指を切ると痛いからオレ嫌だ」とこれを回避する者が続出し。

この辺りは

赤穂浪士が計画途上ではかなりの人数だったのに、段々と減り、決行直前には脱落者続出になるという史実と重なるものがありまして。

脱落した赤穂武士は生存本能が湧いて来て逃げたと思われます。JAL課長は指を切ると血が出るから逃げました。

怒鳴り込まれたのはS社長で、4人の役員はSさんとソリが合わないH副社長派と思われます。

ちなみにS社長の後任社長の時に、会社更生法適用となりました。

一種の社内クーデターまたはクーデター未遂事件でしたね。

そういえばあの頃は、JAL機がよく飛行中にトラブル起こしましたね。JASとの合併により、整備点検システムの統一に苦労していたとか。
碌なことはありませんでした。


討ち入り装束の下に香を忍ばせ、万一討ち死にした後の姿にも気を遣った浪士達。

現代、指にカットバンを巻き、社長室へと討ち入った役員4人。


あれから10年近く経ち

JAL体質は本当に変わったのでしょうか。
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この回答へのお礼

再度の御回答を賜りまして、恐縮です。

先のお礼に於いて、JALを散々にこき下ろしましたが、実は本意ではありません。
とにもかくにもかつては文系大学生の人気就職先TOP5の常連、無論日本の航空業界を長年リードして来た名門企業でもあります。
かつての光彩を是非とも取り戻してもらいたい、私の真意はそこにこそあるのです。

さて回答者様に御提示頂いたJALの内紛劇、その内幕に少々興味を持ちまして調べてみたところ、何れの記事もほぼ営業部門と管理部門の反目という、その2文字であっさりと片付けられており、これを談じる客観的材料が余りにも少ない上、その種の事を推測で述べるのは私の主義に反する、・・という事で、口を閉じる事にしました。

>JAL体質は本当に変わったのでしょうか。

この点は正直何とも・・、恐らく当事者である彼らにも分からないはず、そもそも長い間普通の企業の在り方を御存知なかった面々ですから。

ただ高収益企業へと変貌を遂げようとはしているようです。
まあ当然と言えば当然でしょう、総額2兆3000億円を超えた負債の約1/3が債権放棄され、加えて利子の繰り延べ返済、更には企業再生支援機構に依る3000億円超の資本再注入他、長年足を引っ張って来た有利子負債の問題にほぼ解決の目途が立ちましたから。

最も大きいのが、事実上の借金踏み倒し・血税の投入といった観点から、悪名高い労組が口を閉じざるを得ず、公然とリストラを敢行出来た上、世の顰蹙を買った企業年金の大幅カット、不採算路線の廃止或いは縮小が為されつつある事でしょうか。

但し回答者様も当然お分かりでしょうが、リストラという後ろ向きの努力は不可欠なれど、決して企業100年の計に非ず、今後経営当事者の手腕の見せ所といったところです。

ただ問題なのは、これまでのJALを支えて来た企業ブランドの失墜(日本人の信仰と置き替えても良いが)、加えて私個人が非常に残念に思うのが、JALグループで唯一高収益であったJALカードの株式売却(49.375%)に応じざるを得なかった点にあります。

このJALカードの売却額は確か450億円程度でありましたが、箸にも棒にも掛からなかった日航ホテルなどの不採算部門とは異なり、常に金の卵を産み出す雌鶏でありました。
ただ不幸中の幸いで経営権は何とか残りましたから、今後はJALカード及びマイレージに何等かのテコ入れをしての販売強化、或いはアライアンスの見直しなどで、是非とも復活を遂げて頂きたいものです。

最期にまたまた余談を・・、大変残念ながらあの件は、遠い日のラブストーリーなどではありませんでした。
1980年代後半、私がシンガポールに駐在していた折知り合い、地上勤務の彼女の友人なども含めた遊び仲間であった、ただそれだけの事です。
急な帰国とチケットの繁忙期が重なった時には、端末を叩いて私の名前をウェイティング・リストの最上部に乗っけてくれた事もありました、懐かしい思い出ではありますが・・。

お礼日時:2014/07/01 23:59

>映像の世界でも結構、皆様が感動する 「男の散り際」 を教えて下さい。



読み飛ばしていました。
だったら、永遠のゼロの宮部久蔵。

「必ず娘の顔を見るまでは死なない」と告げて出征し真珠湾攻撃に参加したのち凄腕の戦闘機乗りと名を馳せるも、命を惜しむ腰抜けと罵られる。妻子への思いだけが彼を支え、ミッドウェー海戦後はラバウル航空隊に配属され、一度内地へ帰還。筑波海軍航空隊で教官を務めた後、鹿屋海軍航空隊の鹿屋飛行場から特攻に出撃し帰らぬ人となる。
物語は彼の死後も続き、彼に助けられた男たちが、戦後彼の遺族を助ける物語がこの小説の骨子ともいえます。
映画化された作品をうかつにも妻と一緒に映画館で観てしましました。
場内が明るくなる前に席をたとうと思いましたが、感動した観客がなかなか席を立ちません。私も立ち上がると両目の涙がこぼれ落ちそうなので、どうやって妻に気付かれずに涙を拭こうか迷っているうちに
「どうしたの。もう行くわよ」
宮部のゼロ戦が米空母タイコンデロガの艦体に海面すれすれで突入するシーンがタイトルバックに使われていていつまでも見入っていたくなりました。
映画館をでるまで妻が少し鼻をすすっていたようで安心しました。
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この回答へのお礼

再度の御回答、痛み入ります。

>永遠のゼロの宮部久蔵。

映画こそ観ておりませんが、私も百田尚樹氏のこの著作は読みました。
そして真っ先に感じた事は、何故当小説を名だたる出版社が認めず、ようやくサブカル系の太田出版から発表されたかという疑問。

編集者側に全く読解センスが欠如していたのか、或いはシリアスな戦争ものは読者に受けないと判断したのか、それは分かりませんが・・。

尚 Marennes さんに続きまして exhivisionist さんも太平洋戦争に関連した御回答という事で、少しばかりの脱線を御許し頂きたいと存じます。

それは私がまだ幼かった頃、近所に住む父方の祖母が私の顔をじっと見つめて涙ぐむ・・、そんな事が何回かありまして、幼いなりに不思議に思った私が父にその事を話しますと、「おまえは、戦死した私の兄に生き写しだ」と言うんです。
つまり祖母は、私に亡くなった我が息子の面影を見ていたらしい。

我が家は祖父・伯父の代まで、明治開闢以来綿々と続く帝国軍人の家系でした。
終戦当時祖父は某内地の司令官に任命されておりました関係上戦死を免れましたが、一方6人男子の末っ子で、戦争当時まだ幼かった私の父を除いた伯父5人は、南方戦線に於いて全員が若い命を散らしました、まあ軍人の家系に生まれた宿命といえばそれまでですが。

その伯父の一人が一時ラバウル航空隊の所属であったらしく、私の祖母は老齢を省みず、都合7度に及び日本遺族会並びに民間の遺骨収集団に全て自費参加しましたが、当然の事ながら思いは果せず、80余歳で息子達が待つあの世へと旅立ちました。

私の伯父達に限らず、それこそ多くの若者が祖国と愛する家族を守る為、戦場の花と散った訳です、「靖国の御霊よ安らかに!」。

話が横道に逸れて申し訳ありません。

お礼日時:2014/07/01 20:52

おはようございます。


じつは昨夜から出張移動で宿に入るも寝つきが悪く・・・。

あまりこの手は・・・わたくし元々地頭が悪く学識も無いのですが、一人ずっと心に引っかかる?方がいます。いろいろな論評・評価もありますが・・・自決した訳ではないけど(死を予測した遺書は認めていた)・・・

『山本五十六』

当時、東條英機と相反した彼・・・時代と組織の流れに押しつぶされ最高の叡智と要職でありながら真髄を誰も認めない(天皇はわかっていると邪推ですが)・・・

彼の経歴はいまさら言うまでもなく、Harvard、London・・・表面的では無く本質の大陸の脅威を知り尽くした人です。頭脳明晰で理論が確立、驚異的発想力と指導力、ついでに博打と女好き(ここ大好き。自分に器量が無いから猶更カッコイイ)。

本当に出来るオトコ・・・大和を反対しながら仕方が無く作っていながら、真珠湾の戦闘機奇襲・・・彼は最後まで『やりたくない』・・・戦争の恐怖、いずれ負けるという明確な審美眼。そして、一時の勝ち戦が逆に敗戦(大砲時代から戦闘機への戦略の変更)を晒してしまった事・・・。数年なら勝てるでしょう・・・のごもっともな結果。あの時政治判断を誤らなければ・・・と邪推したりします。

散った彼を国葬にした当時の昭和天皇の意志も勝手な解釈ですが納得します。最後空中戦で・・・自分のやりたくもないけど負けられない!国を、天皇を守る意思でドラスティックな作戦を練るにも、その同じ戦闘機戦で無念の戦士・・・そして、彼の予測がほぼ的確になってしまった敗戦。
理論派でいながら最後まで現場主義だったのかな・・・最上位の官僚で唯一の戦死者。その方が良かったの意見もあるけど、それは彼が敗戦を示唆した結果生じた最悪の事態となった頃の今更の周囲の言い訳に過ぎないかと・・・。

草葉の陰でどうだったのだろうか・・・負け戦を知りつつ、想った最悪の結果・・・。

社会も一緒で力関係もありますし、狭量の世界で自己顕示と慢心する人います。現代なら紙コップの中のネオンテトラ一匹程度かな・・・(苦笑)

私も社会人ですがその負け戦やったことあります。採れっこない受注、過酷なスペックとギャランティ、過大な自社負担(お金とは別に内容自体として)。結果最後で負けました。おまけに机上だけのバカな特許事務所の狭量のおかげで特許まで先を越される・・・机上しか知らない愚例で、即刻問答無用の契約違反で切りました。(後日別会社で先を越して顧客の面子も確保しましたがそれでも最悪です)。

この頃、ふっと子供の頃好きで作った『戦艦大和』となにかの『山本五十六』の本・・・彼がもしも首相になれたなら?最悪の原爆すらなかったのかも・・・なんで想ったりもします。それだけ彼は先見と審美眼と日本の限界と男の理論があったかと・・・極表面的な書物からの主観ですが感じています。

彼の名言集がたまたまあったので・・・(私には大好きで崇拝の言葉も)
http://www.ym56.net/meigen.html

人には立場・役職があるのですが、彼ほど正論を言い尽くしても結果受け入れられない・・・厳しくても彼は一方で温厚で義理堅く人情深い男・・・反論しつつ、やるべき最適な事を常に最高に実践する男。

真論を貫きつつ、認められずも義務を全うし散った彼(周囲を納得させられないと言う評価もあるかもしれませんが)は、私にとっての『男としての見事な散り様』と思います(本人はきっと本望でないでしょうが)。

表面的な古い知識と感情論と見られるかもしれませんが・・・

主観過ぎる長文で失礼しました m(__)m
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この回答へのお礼

こんにちは。

>『山本五十六』

この人こそ太平洋戦争開戦時の帝国海軍を代表する人物ですが、元来が徹底的な日米開戦回避派でしたねぇ、ただ彼も綺麗事ばかりを言っている訳ではない、「負ける戦をやっちゃあいかん!」、そう仰っていただけで・・。

それはもう絶対にやってはいけない戦争でした。
現在のGDP換算比で20:1・まさに大人と子供の喧嘩、近代戦は或る意味消耗戦の側面を持ちますから、開戦当初こそ少しばかり慌てたアメリカも、その戦時経済が順調に稼働を開始して以降、こちらは鍋釜を徴収して鉄砲の弾を作り・鬼畜米英なんてやっていた頃、一方海の向こうでは、名作 「カサブランカ」で ハンフリー・ボガード が イングリッド・バーグマン に向かって「 Here's looking at you, kid. 」、なんて囁いていた訳で・・。

自らが予想した結末を覆す役目(連合艦隊司令長官就任)を仰せつかった末の壮絶な戦死、それはもう誠に皮肉ではありますが、或る意味男の花道だったのかも知れません。

尚御提示頂いた五十六さんの明言は、飲食店の壁やトイレでよく見掛けますが、彼の信奉者は未だに少なくないようです。

>私も社会人ですがその負け戦やったことあります。

負け戦もそして喧嘩も決して無意味ではない、長い人生のどこかの局面でその効能を現わす時がきっと来る、そう思いたいものです。
長い物に巻かれず生きて来た私としては・・。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/07/01 19:48

こんばんはisokenさん。



>余りにも見事な、男の散り際

なるほど大谷刑部小輔吉継です。
あの時代友情と言う概念が希薄な時代に誠に稀有な例・・・
私はあなたと歴史の眺めかたが随分似ていると思います。
ただ、こればかりはあなたと考えを異にします・・・
本来、武士の起こりは「一所懸命」、これでしょう。

であれば、一人自れの感傷に一族郎党引き換えにするなど、
武家の棟梁として考えられないことです。
私は大谷吉継、十分勝算あっての決断と思いますが如何でしょう?

男の散り際、随分浮かびますが、
私は鳥居強右衛門勝商を、身は足軽雑兵ながら、
男子の本懐、天晴れ見事でしょう!

映像の世界も言いたかったのですが止めておきます。(笑)
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この回答へのお礼

こんにちは。

>本来、武士の起こりは「一所懸命」、これでしょう。
>であれば、一人自れの感傷に一族郎党引き換えにするなど、
>武家の棟梁として考えられないことです。

本当に仰る通りでして、この点を突かれるとぐうの音も出ません。
私個人としても武将当人の好悪・評価は別として、乱世を生き残る為の如何なる権謀術数をも容認可能、武家の棟梁として他人様の評判を気にするほうがどうかしている、そう考えます。

例えば近年浅野内匠頭の評価が急降下した由来は、私情を以って吉良上野介に切り付け、一族郎党を路頭に迷わせた点にあるのでしょう。

ただ大谷吉継は三度に及び三成の翻意を促しております、つまりこの時点に於ける客観的評価では家康方に軍配を挙げている訳でして、成算無きまま友情に殉じるつもりであった、私としてはそう解釈するところ、そして何より少しばかり男のロマンがあってもいいのかな、そうも思います。

>私は鳥居強右衛門勝商を、身は足軽雑兵ながら、
>男子の本懐、天晴れ見事でしょう!

この人の存在も完全に忘れておりましたが、男子の本懐・見事な散り花、探せば結構あるものですねぇ。

さて如何にも日本人好みの美談ですが、三河にはこの手の忠義者が多い、徳川の直臣でこそありませんでしたが、或いは家康に天下を取らしめた最大の要因かも知れません。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/01 18:51

お礼ありがとうございます。



ほんのちょっとだけ追加で。。。

> 全面的な勝利まではさすがに思考に無かったでしょうが・・。

福島正則っていう、アンチ大坂方かつ豊臣派の有力武将が、この戦いに参戦していないんですね。あとは日本の両端に味方がいる「かも」しれない。大坂夏の陣は、徳川方の意図もあり、豊臣派の疑いがある大大名を参戦させなかったので、無傷で残っているんです。
家康の死 を聞いて、軟禁されていた福島正則はともかく、島津、上杉が動かないかな? と思ってしまうんです。
真田幸村が父ゆずりの戦術の天才なのは、上田城攻防戦をみれば十分に分かりますが、戦略の眼があるのも期待してみたいと思いません?
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この回答へのお礼

再度の御回答、ありがとうございます。

>家康の死 を聞いて、軟禁されていた福島正則はともかく、島津、上杉が動かないかな? と思ってしまうんです。

先ずは結論から・・、最早大阪夏の陣に至っては、大きな歴史の歯車が反転する事は有り得無かった、そう申し上げる他ありません。

万に一つ全てがうまく運び、仮に家康を討ち取ったとしましても、幸村の戦術は真田勢の全滅を大前提としておりますから、徳川としては敵側から家康の死が漏れる恐れはない。
しかも当然の事ながら、味方にさえ隠しに隠すでしょうから、諸将に知れ渡るのは早くても大阪城落城後という事になります。

potatorooms さんそして私も同様ですが、滅亡を遂げた豊臣家の憐れな末路に思いを馳せる余りに、関ヶ原にしろこの大阪の陣にしろ、仮定の上に仮定を重ねてしまいがちなのでしょう、百歩譲って冬の陣までであれば、籠城中の家康の死を大前提としてひょっとするとひょっとしたかも知れないが・・。

ついでに申し上げれば、そもそも島津家は古より自立した存在、依って豊臣恩顧の諸大名とは異なり、関ヶ原以降の政変劇も、彼らにとっては単に豊臣から徳川へとの権力移譲が行われた結末に過ぎず、自家の存続と旧政権に対する感傷を秤に掛け、敢えて火中の栗を拾う愚を犯す可能性は、ほぼゼロであったものと思われます。

加えて事実上関ヶ原で敗北したにも関わらず、島津家は唯一本領を安堵された大名でして、この時点で徳川から新恩を受けたと解釈しておりから。

更には当時の軍役は大名家の自己負担でしたから、両度の朝鮮出兵に駆り出された島津家が、京・大阪の商人から年貢を担保にした借金の総額は、天文学的数字(一説に拠ると50年年賦)に達しておりましてそれこそ破産寸前、その本音と言えば戦をこそ最も避けたかった訳で、関ヶ原に於いて1000人足らずの動員出来なかった最大の原因こそが、そこにあります。

無論上杉も同様です、故太閤への恩義そして上杉の誇りを満天下に見せはしたが、会津120万石から米沢30万石への大幅な減知、同時に動員可能兵力も数万から8000程度に激減しまして、西軍の一翼を担った代償は余りにも大きかった。

大阪両陣に動員した兵力は恐らく数千に過ぎず、仮に家康の討死を知り得且つ豊臣側に寝返ったとしても、大火事に風呂桶で水を撒く程度のものであったでしょう、大変残念ながら・・。

お礼日時:2014/06/30 22:11

散り際=死  とは必ずしも定義しない、という前提で。



2000年代初頭

当時、息も絶え絶えだったJALの社長室に、「直ぐに辞めろ!」と血判状を持って怒鳴り込んだ4人の役員。

当然、社長(敢て名前は伏せます)と怒鳴り合い押し問答。

4人のうち3人が結果として身を引く結果になりましたが。

会社の行く末を憂い、、身を挺した4名。

JAL名物のお家騒動だと揶揄する向きもありますが。

血判状とは、欧米では聞いた事が無い日本の意志表示の形ですね。

その後JALは周知の如き事になりました。

単なる会社の末期的症状と言う人もあるでしょう。

しかし

この役員達の心情。企業社会に生きる人間ならば、理解しないと。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>当時、息も絶え絶えだったJALの社長室に、「直ぐに辞めろ!」と血判状を持って怒鳴り込んだ4人の役員。

この辺りの顛末は寡聞にして存じませんが、利益供与事件に揺れ世間に糾弾された、かつての第一勧銀の御家騒動を思わせますね。

ところで事実上JALが倒産に至り、既に4年半が経過しましたが、その遥か以前から我々の業界内部に於いては、その倒産劇は周知するところ、つまりは既定の路線でした。

我が国唯一のフラッグ・キャリアーとの事から、或る種のカンフル剤を投与し続け延命していた訳ですが、当時既に我々の関心事は、JALの破綻を政府がどうランディングさせるかに集中しておりまして、当時JALの財務内容の一端を窺い知る立場にあった私の同期が酒席に於いて、「もう無茶苦茶、一般企業であればとうに倒産している」と嘆いていたものです。

加えて大小8つもの労組に引き摺られた前近代的経営システム、この点は1960年代後半から80年代に掛けて、某自動車総連会長が君臨した日産自動車に酷似しておりまして、何しろ英語を喋る空のウエイトレスに過ぎない客室乗務員に、年額1000万円を優に超える高額報酬を与え続けていたこの一点を見ましても、「経営合理化とは一体なんだろう」世の経営者にそう考えさせるに足る低収益・高コスト体質でした。

尚余談且つ遥か昔の話で恐縮ですが、当時私が懇意にしていたSQのCAは、非番の日にはホテルの日本料理屋でアルバイトしていたぐらいでして、JALの給与水準に心底驚いていたのを鮮明に記憶しております。

次いで世界的なアライアンスに乗り遅れた先見性とビジョンの欠如、経営多角化に於ける躓き、更には非効率な大型機ばかりを集めたその経営方針は、太平洋戦争当時の帝国海軍・巨艦主義を思わせるものでして、例えば最新機を3年毎に入れ替えるSQとの比較に於いて、JALはほぼその倍近い稼働年数、そのどれ1つを取りましても、経営陣の無能振りはそれはもう明白。

巷間業績のV字回復と評されている昨今ですが、そりゃそうです、何しろ関係金融機関の債務放棄が約5200億円、まさに平成の徳政令でして、頑張ってもらわねば・・。

お礼日時:2014/06/30 20:16

ISOKENさん。

表参道を独自のアングルでとらえた「恋のはじまり」の情景描写敬服いたしました。




平和な時代に「余りにも見事な男の散り際」をみつけるのは難しいかもしれません。殉死もなければ、命がけの戦いもありません。そんななかで心に私の心に強く残る死があります。
逸見政孝 スキルス性胃癌  享年48歳
たけし、さんまを凌ぐ司会者として頂点を極めたなかでの突然の死は芸能界のみならず多くの人を悲しませ、命ある自分の生き方を振り返るきっかけともなりました。
幾度かの手術の果てに再再手術に向う際に視聴者に向って「私の病名は癌です」と告白し病院に赴く姿はどこか戦国時代の武将のようでありました。

 
石原裕次郎 肝細胞癌      享年52歳
藤原伊織  食道癌     享年59歳
栄光に満ちた人生の散り際が病死であっても、完璧な人生として「見事な散り際」と言えるような気がします。
では、戦前、戦後にまたがり官僚、財界人として活躍し晩年は妻とともに心豊かに過ごしたこの人の散り際はどうでしょう。
白洲次郎
評伝の少ない人で実像がはっきりしない一面もあるようですが近年「端倪すべからざる日本人」としてGHQから一目おかれた人物としてマスメディアでドラマ化されたりしドラマのイメージのほうが強くなったりしています。
「葬式無用、戒名無用」の遺言は有名ですが、彼が80歳まで1968年型ポルシェを乗り回し、ゴルフに興じ、三宅一生のショーにモデルとして出演もしたという晩年の様子は今ではあまり知られていません。
「正子夫人と伊賀・京都を旅行後、体調を崩し胃潰瘍と内臓疾患で入院。1985年(昭和60年)年11月28日死去。83歳没。」ウィキペディア
戦争と平和な時代をともに生きた20世紀の英雄は配偶者に看取られて天寿を全うしました。というあたり奥様を大切に一流財界人として見事な晩年の生き方を見せたと思います。
老醜をさらさず認知症にもならず配偶者と仲良く旅行し、旅の途中で天寿を全うするのも見事な散り際というべきかもしれません。
どんな人生であれ「人に命を燃やすことの大切さを教えてくれる死」は「見事な散り際」として人の心から消えないものだと思います。

(日本史の授業は机のうえに選択科目の世界史の参考書を出していた私にとってこの問題は難問でした。)
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この回答へのお礼

exhivisionist さん、こんにちは。

過分な御言葉を頂戴しまして恐縮ですが、私は私で貴兄の文章をいつも楽しく拝見させて頂いている者の一人です。

さて、本題ですが・・、

>逸見政孝 スキルス性胃癌  享年48歳

もう20年以上にもなるのですねぇ、逸見さんが亡くなられてから・・。
報道キャスターからバラエティー系司会者への転身、最初はおっかなびっくりという印象が否めませんでしたが、それが板に付き出した頃でしょうか、スキルス胃癌である旨のカミング・アウトをされたのは。
それこそ無数の方が亡くなられ、鮮明であった記憶も徐々にフェード・アウトへと向かう中、彼の事は今も我々の記憶の奥底に鮮明に残っている、或る意味幸せな一生であったのかな?、そうも考える次第。

>白洲次郎

実のところ、私自身はTVや紙面での伝聞以外によくは知らないのですが、家内が白洲次郎さんとその奥様に傾倒しておりまして、何だかんだと教えてくれます。
筋を曲げない辣腕の経済人、且つ男のダンディーイズムを貫き通した生涯、そして何よりお洒落でカッコいい、昔はこんなスーパーマンのような方がおられたのですね。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/06/30 18:47

イソケンさんこんにちわw




阿南惟幾陸軍大臣の散り際が潔かったと思います。

腹を切ったのは8月14日の夜でしたっけ。焦土となった国のために生きて働くことも出来たでしょうけど、立場的に自決を選んだのは間違いでなかったと思います。また宮城事件が起きている最中、陸軍大臣の自分が自決する事で事件の収拾を図ったのかもしれません。

腹を切っても、立ち会った部下に介錯を頼まず、15日朝に絶命するまでしばらく部下と会話してたんだとか。

真実はわかりませんけど、主戦論者を演じることで陸軍を抑え、真意は鈴木首相の終戦工作に協力していたんだと思います。最期に葉巻を持ってあいさつに来た阿南大臣に、鈴木首相は「最期の挨拶に来たんだね」と、自決の覚悟を読み取ってたとのこと。


運命に翻弄されながらも、自分の命を正しく使い切った人だと思います。
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この回答へのお礼

mikasa さん、こんにちは。

>阿南惟幾陸軍大臣の散り際が潔かったと思います。

貫太郎さんと阿南大将の縁は、随分と深いものであったようですね。

ところで終戦に至る阿南さんの行動から、一体彼は終戦論・継戦論の何れであったのか、説が真っ二つに分かれております。

これはもう当然推測でしかありませんが、私個人としては、やはり阿南大将の本意は本土決戦論にあった、但しそれを強硬に主張する事は、終生尊敬して止まなかった貫太郎さんを苦しめる結果に繋がってしまう、依って方や陸軍内部の強硬論を抑え、臣下・鈴木内閣の一員として、終戦という昭和天皇の御聖断に同意する一方で、その鬱懐を晴らし・且つ自らの立場を鮮明にする為に腹を切った、そう解釈しておりますが・・。

或いは mikasa さんが仰る通りであったのかも知れませんが、こればかりは故人に聞くわけにもゆかない、何れにしまして戦争に対する一片の責任を取ったそういう趣旨に於いて、それはそれで見事な身の処し方であった、そう考えますが・・。

お礼日時:2014/06/30 18:06

関ヶ原でいうなら、


 西軍だと島左近
 東軍だと鳥居元忠
も、散り際の美学かと。
あと、個人でなくてもいいなら、映画だと、マーケットガーデン。もちろん実話です。
 ノルマンディー上陸作戦後の進攻作戦で、進攻経路の橋の確保を目的に、空挺部隊で敵陣の中を占拠するのですが、
 作戦のいくつかの失敗などで、進攻軍が届かず、空挺部隊が全滅します。
日本だと、楠木正行 四条畷の戦いですね。天皇がいる京都への最後の防衛線を守るために、絶望的な戦いを挑むわけです。
太平洋戦争で実際に南洋で死んでいった人たちと同じ状況です。

そして、死んでなくてもいいなら、
 ロンメル戦車隊

 ダンケルク撤退戦
ロンメル戦車隊は、砂漠の狐でも知られていますが、ドイツ侵攻作戦を補助するために、そのごくごく一部を割いて実施されたアフリカ戦線での戦いです。当然、支給経路は乏しく、敵の弾丸、燃料を横取りしながらの長期戦。指揮官のロンメルは、戦力のなさから奇襲を中心としたその作戦能力の高さと、ナチスに加担することなくドイツ軍として戦い抜いた人間性で敵将からも尊敬された人物です。
すごいのは軍としてのロンメル軍で、最後は、敵軍に港湾に包囲され絶望的な状況の中、ドイツ本国に指揮官ロンメルが呼び戻され、副官の指揮で、ほぼ全軍が逃げることなく現地に留まり、最後の1発まで打ち尽くしたあとで全軍降伏します。軍人としての責務を完全に果たしたら、突撃も自決もしないのがドイツ軍なんです。ロンメルの北アフリカ戦線は、初期から末期までを通じて、ドイツ軍はプロの軍人がプライドをもって戦ったことがわかります。
ダンケルク撤退戦の主役は、イギリス首相 チャーチルと、ダンケルクに留まったフランス軍、そしてカレーに留まったイギリス軍です。
どちらも、個人ではなく、軍としての散り際の見事さですね。

話戻して、日本の武将だと、やっぱり、真田幸村かな。
関ヶ原が、作戦と戦略で勝った西軍が、謀略で勝った東軍に負けた戦いでしたが、
大坂夏の陣は、謀略、戦略、作戦で最初から負けている大坂方が、ただただ当日の戦術ひとつでの逆転を目指した戦いです。楠木正行の四条畷の戦いと違って、死に際のためではなく、勝ちを目指した戦いなんです。そこにひかれます。
軍略の階層って、大戦略、戦略、作戦、戦術、戦闘ってあるんですが、不利な方がひとつ上のレベルで負けているものを覆そうという戦いはいくつもあるんですが、大坂夏の陣は戦略レベルで負けているものを1つの局地戦でしかも1日の戦いで覆そうって戦いです。それがしかも、途中までというか、ほぼ最後まで成功している。。。
真田軍を家康軍に届かせるために、正面から敵軍を引き受ける毛利軍たち。影武者を含めて何人もの幸村が指揮し、正面から突っ込む真田軍。数をすり減らしながらも、家康軍に近づき、家康は後ろに陣を移す。後ろに進む本陣は、突入されている前の警戒で一杯いっぱいで、後ろには警戒しない。そこへ伏せている明石軍が襲いかかる・・・はずだったんですね。
そこに待ち受ける「はず」の別働隊の明石軍が、そこまで進めてなかったのだけが実現できなかったところで、本来はありえない劣勢の側の軍が、相手の本陣を後退させるというところまで成功しているんですね。この後退した家康軍を追いかけている過程で幸村は戦死したとされていますが、死ぬ間際では策の成功を確信していたと思うんです。絶対的な強者に対して、自分の全軍と命を賭けての戦いが成功したと確信できた地点まで攻め入っての戦死って、男としてしびれませんか?
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この回答へのお礼

数多くの事例を挙げて頂き、誠に恐縮です。
どれもこれもほぼ得心がゆくものばかりですが、ここでは真田幸村に絞って、お礼を述べさせて頂きたいと存じます。

さて後年に於ける何やら謎めいた真田幸村への評価・人気に関して、豊臣家に殉じた真田父子(或いは九度山で没した、昌幸を含めた真田三代)に対する、我が国特有な情緒的なもの、長い事そう思っておりました。

ところがです、よくよく調べましたところ、幾多の名将を輩出した戦国乱世に於いてすら、幸村ほど軍事的才能に溢れた武将は稀である、加えて窮地に立たされても決して諦めようとはしない粘着質の重厚な思考法も然り、そう認識を改めた次第です。

例えば御指摘頂いた、家康の本陣へと突撃したくだりですが、真田軽騎兵はほぼ真一文字に家康の本陣を目指していた事が分かります。
つまり家康の所在・徳川方諸将の配置に対する諜報活動に怠りが無かったという事でして、ややもすれば行き当たりばったりのこの時代、非常に稀な才能であったのでしょう。

ところで戦国中期までは、忠義の為の討死は僅かな例外を除き殆ど見られません、ましてや後世に名を残す目的の戦闘はほぼ有り得ない。
ただ日本列島が統一へと向かう中で、時の為政者に依り、徐々にその種の倫理観の形成が意図されております。

ところが大阪両陣は、戦国乱世最後のシャッフル・敗者復活戦という側面がありますから、ここで負けてしまってはほぼ先行きに望みが無い訳で、かつての乱世とは違いどこぞの大名家に潜り込む事も叶わない。

他方冬の陣までは大阪城という最低限の条件が整っておりましたが、その僅かな可能性もこの大城塞が丸裸同然となった時点で消滅、籠城という選択肢が消え去った段階で、特に客将に於いて、引き分けを含めた勝利というベクトルからの変更を迫られたのでしょう。

決して声に出しては言えなかったが、つまりは徳川に一矢報いる・或いは後世に名を残す華々しい死に様といった方向へと・・。
後藤又兵衛辺りは明確にそうですね、最早大野治長を罵ってもいない。

ところが事ここに至って、希望を捨てない客将が大阪城内に二人だけいました、それが真田幸村と明石全登です。
全登はキリスタン保護の為に入城しましたからまあ別として、幸村は家康を葬り去る希望を全く捨てていない、全面的な勝利まではさすがに思考に無かったでしょうが・・。

>絶対的な強者に対して、自分の全軍と命を賭けての戦いが成功したと確信できた地点まで攻め入っての戦死って、男としてしびれませんか?

思うに本邦の歴史上最高の男の花道、全くの同感です。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/29 20:29

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