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織田信秀の葬儀のとき喪主だった信長は 粗末な服装で現れ、位牌に焼香を投げつけるなどの「うつけ」ぶりを見せました。
その態度に、列席した家臣団はあきれ返りましたが
ある僧侶が「あれこそが天下人となる者の振る舞い、形式通りに振舞うなど誰でも出来る。信長殿は立派な武将になられましょう」と柴田権六や林佐渡を諭したと言います。

この和尚はどこの寺の何と言う和尚か分かるでしょうか?

A 回答 (2件)

その時、信長のことを評したのは、九州からの旅僧でした。



彼は、何も織田信秀の葬儀のために、九州から駆け付けたわけではなく、旅僧として、尾張に立ち寄った時、信秀の葬儀に、たまたま出くわしたので参列したのでしょう。

史料『信長公記』には、威儀を正した肩衣・袴を着用し、形式を踏んで整った作法の、信長の弟・勘十郎と、荒れた様相の信長を比較し、多くの参列者たちが、

「三郎信長公を例の大うつけよと、とりどり、評判し候なり」とありますが、これに対し、その時、

「その中に、筑紫の客僧一人、あれこそ国は持つ人よ、と申したる由(よし)なり」

と、あります。

これが正しい記録です。

つまり、天下人云々ではなく、信長は一国を治めるにふさわしい人、と、九州からの旅僧が、天文21年(1552年)の時点で、言ったということです。

この記録の年代からは、後世の創作・脚色などではなく、リアルタイムの評価だった、しかも事実の記録だった、ということがわかりますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/06/30 07:52

>この和尚はどこの寺の何と言う和尚か分かるでしょうか?


葬儀が行われた万松寺の大雲永端和尚でしょう。
大雲は信長の親父(信秀)の伯父に当たる人物です。
現在名古屋の大須にある万松寺は信秀が織田一族のために建立した寺とされています。
但し、葬儀が行われた頃は那古野城(現在の名古屋城)の南側にあったとされています。
家康の名古屋城築城の際に現在地へ移転させられました。

詳しくは下記サイトをご覧下さい
万松寺
www.banshoji.or.jp/

萬松寺 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/萬松寺

まぁ~直接大雲が言ったという資料はありませんが、小坊主の戯言ではなかったでしょう。
もっとも、本当にそんなことを言ったんですかね。
後からだれかがでっち上げたお話ではないのでしょうか。
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この回答へのお礼

信長公記に記述があるので実話と思われます

お礼日時:2014/06/30 07:52

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