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武士はどんな教養を身に付けていたのでしょう?
もちろん時代や身分や個人によって違うと思いますが。
知ってることを詳しく教えて下さい。

あと、どういう本を読んでいたか詳しく知りたいです。
孫子は読んでいましたよね。江戸時代ならあと論語とか。

お願いします

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A 回答 (5件)

>孫子は読んでいましたよね


戦がなくなって百年も二百年も経った太平の世の中で、こんなものを読んでいたのはマニアだけです。
この手のものであれば、軍記物と呼ばれる書物が沢山ありました。
源平の昔から関ヶ原までの合戦の物語りです。
本によっては、自分のご先祖の名前がポンポンでてきます。
舞台も自分が生まれ育った場所がポンポンでてきます。
実際に戦いに参加して手柄を上げた人達の子孫です。
現代のサラリーマンの子供とは訳が違います。

牛窪記 永禄美濃軍記 越後軍記 越州軍記 奥羽永慶軍記 大友興廃記 蒲池物語 河中島合戦記 関八州古戦録
清正記 九戸記 黒田長政記 謙信軍記 国府台戦記 惟任退治記 佐久間軍記 里見軍記 賤岳合戦記
柴田合戦記 島津家記 島津高麗軍記 上州治乱記 勢州軍記 太閤記 中国兵乱記 長宗我部元親記
東奥軍記 堂洞軍記 土岐斎藤軍記 中村一氏記 那須記 南北山城軍記 等々
各藩にまつわる合戦記も沢山ありました。

太平の世の中、武士だからといってしゃっちょこばっていたわけではありません。

日本は歴史的にも中国や朝鮮で行われていた科挙制度を全くとりいれませんでした。
何かの試験に受からなければ、家を継げない、とか役職に就けないなどということはありませんでした。
江戸にあった幕府の学問所である昌平黌で素読吟味、とか学問吟味とか言われるものをやってはいました。
資格試験や採用試験ではなく。成績優秀な者を表彰することで、学問を奨励することが目的でした。

江戸時代の武家は藩士や幕臣であれば、基本給は親子代々保障されました。
下級武家はそれだけでは生活ができませんでした。
何らかの役職について昇給してもらうか、役職手当を貰うことでやっと生活していました。
藩にせよ、幕府にせよ、軍事組織ですから、平和な時代に必要な仕事は限られていました。
その上世襲が原則ですから、あぶれた連中は親子代々食うや食わずの貧乏暮らしでした。
武家には、町人とは違い、職業選択の自由はありませんでした。
何らかの事情で役職の空席が出るのを当にしてセッセと就活をやっていました。
このときに、万が一昌平黌の素読吟味や学問吟味で良い成績を残していれば多少有利でした。
この程度の話です。
時代小説のような訳にはいきませんでした。

武家は生まれた時から武家に成るべく教育を受けます。
内容は武家としての一般常識です。
儒学者になる訳ではありませんから、論語だのなんだのは閑な奴がやっていました。
基本的には、実語教、今川状などというものを子供のころに、父親などから教わりました。
実語教や今川状の現物をネットで読めます。トライしてみて下さい。

「実語教(じつごきょう)」・・・日本人の心はこれで育った! - 世界遺産の ...
blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/61801398.html

今川状原文
shizuoka.veritas.jp/imakawa/imajyo.htm

現在の中学生ぐらい段階になると千字文という書物を徹底的に書き写させられました。
漢字の書き取り、書道の練習が目的です。
千字文も現物をネットで見れます。

千字文 原文
www.geocities.jp/qsshc/cpoem/qianziwentate.html

ほぼ同じころから、四書五経と呼ばれる儒学書の中から大学とか中庸とか呼ばれ本を学びました。
この際に、公立である昌平黌へいったり藩校へ通ったりする人もいましたが、私塾と呼ばれるものが無数にありました。
しかも儒学だけではなく、国学、医学(蘭学、漢方)和算 天文学等 専門のものも沢山ありました。
熱心な人は、家を離れてこの私塾へ留学する人もいました。
これ等の私塾で学んで後世に業績や名前を残した人は沢山います。

とは言え、義務教育ではない上に勉強が好き連中ばかりではありませんから、今の大学生と同様に遊びほうけている連中の方が多かったようです。
いつの時代も変わりません。

実際に武家の子供がどんな日常を送っていたかという実録があります。

八丁堀与力の暮らし ~お稽古と手習い~ - nifty
homepage2.nifty.com/makibuchi-2/kyodoshi/84kai.html

原胤昭という実在の人物です。
役職も与力ですからお奉行様のすぐ下の役職で、同心よりも上でした。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん
いつもありがとうございます。
返事遅れてすみません。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:48

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

☆武士の必須科目
もちろん、文武両道であるが、五歳~七歳ぐらいまでは、手習いで文字を覚えさせられた。七歳からはいきなり「中庸(=四書のうちの「礼節」の部分)」の素読から始まる。中味の意味までは教えてもらえない。八歳ぐらいになると師のもとに通い、十歳までに「四書五経」の素読を覚える。まあ、その間には、聞きかじりで意味を理解するようになる。武術は、剣道と水泳であった。

☆武士にも国家試験?
武士の子息が十二歳になると、湯島聖堂附属の学問所で試験を受けた。出世を目指す者は特別試験の「素読吟味」にチャレンジし、さらには、「学問吟味」と呼ばれる国家試験があった。前者は年に1回。後者は3年に1度行われた。これに合格すると「番入り」(=役所勤め)ができた。逆に、合格しないと、どんなに家柄が良くても家督相続さえ許可されなかった。けっこう、厳しい世界であった。

☆地方の武士
ある程度の大大名になると、大概は「藩校」を開設していて、そこへ通って「四書五経」などを素読できるように努力しました。

また、小大名ふたりでは、個人の「塾」があり、そこへ通いました。

>>孫子は読んでいましたよね。江戸時代ならあと論語とか。

残念ながら、「孫子」や「論語」は正式には学びませんでした。
あくまでも、個人の趣味の範疇でした。

また、犬公方で有名な5代将軍綱吉は「朱子学」が大好きで、暇があれば読書をし、政務は柳沢吉保ほか老中に任せっきりでした。
柳沢吉保はこの綱吉に好かれようと、自らも「朱子学」を勉強し、綱吉の弟子と称して止まなかったのです。
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この回答へのお礼

こんちにはbungetsuさん。

返事遅れてすみません。

やっぱり儒教が教養なんですね。
武士なのに兵法を学ばないのは以外でした。

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:42

江戸時代は江戸の藩邸で働くために地元から江戸に出てきていた人もいます。


そういう人は地元にいれば地元の藩校で勉強できたかもしれませんが、江戸には藩校はありませんし、かといって寺子屋で庶民の餓鬼どもと一緒に手習いそろばんを学ぶ訳にもいかないし…といった感じで勉強できなかった人もいたと聞いたことがあります。
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この回答へのお礼

なるほど武士としては、そんな恥かけませんよね

返事遅くなってすいません。
回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:44

昌平坂学問所の影響を受けて、漢学(儒学特に朱子学)を中心と


した教養でした。

儒学の教科書は、主として『四書』『五経』と『孝経』です。
孝経は論語とともに、我が国では最も広く読誦され、
国民道徳に深く影響を与えた経書です。

『四書』とは『大学』『中庸』『論語』『孟子』を指し、
『五経』は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』の
最も基本的な五つの経典のことです。

四書五経の学習は、江戸時代後期には下級武士や庶民の間にまで普及し、
君臣・父子・夫婦などの名分秩序の意識が浸透させていった半面、
読書能力を養い教養を身に付けるなど、
人民の文化水準の向上に果たした功績は大きいとされています。

素読の学習が終了すると、教材の内容の意味を
理解・解釈することを学び始めます。
朱子学派の藩校においては、道徳訓話を要約した『小学』や朱子により
「道学者」の著作や語録を編纂した
『近思録』が 朱子学への格好の入門書として広く読まれました。
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この回答へのお礼

返事遅れてすみません。

なんか学んでることは儒教ばっかりですね

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:47

    天莫空勾践時非無范蠡



    14世紀の武将なら、上記ぐらいの詩が書ける教養の人もいたようです。下記等をご覧下さい。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6% …
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この回答へのお礼

まるで中国人ですね。

回答遅くなってすみません。
ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/07/29 06:36

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Q江戸時代の武士の教養

どのような一般教養を身につけていたのでしょうか?
今、現在の我々でしたら、義務教育やセンター試験などが一般教養の最低ラインになるのではないかなと思います。
(これも言い過ぎとは思いますけどね)

では、江戸時代の武士たちにとっての一般教養ってどのようなもので、どうやって身につけたのでしょうか?

それとも、ちゃんと学ぶような一般教養なんて無く、生きているうちに身に付ける常識しかなかったのでしょうか。

どう、思われますか?

Aベストアンサー

 江戸時代の官営の学校で、大学に当たるのが有名な昌平黌(しょうへいこう)です。

 これは、幕府が制定したもので前身は林家の私塾で、寺小屋です。最初は上野忍ヶ岡、今の上野公園の下にありました。

 それを元禄四年(1691年)、五代将軍綱吉の時に文京区の湯島に聖堂を造って移転し、昌平学問所とし、大学頭、今日の学長を林鵞峯(がほう)の子孫に世襲させたのです。

 このために、林家は一万石の所領と、江戸城大手門の前に邸宅をもらい、歴代将軍の師匠と幕府文教政策の責任者、つまり文部大臣を兼ねていたのです。

 従って、昌平黌は学校であると同時に文部省のようなもので、幕府の教育行政の中心的役割を果たしました。だから、昌平黌は一般の学校というより、学者の養成機関であり、幕府直属の武士、直参の師弟の検定試験を行うところでした。

 当時は学生と言わずに、門弟と言いましたが、昌平黌の場合は住み込みで大学頭の指南を受け、一定の年齢に達すると、郷里へ帰って結婚して町塾を開いたり、各藩に仕えたりします。

 直参の場合は、十七歳になると大学頭の前に出されて、素読の試験を受けます。二回までは落第しても大丈夫ですが、三回落ちると再試験の機会を失います。そうすると、一生、武士として家を継げなくなります。つまり、武士としての階級は残りますが、家督相続は許されません。その結果、やむなく町民や農民の家に養子に行ったり、雑業につかなければならない、という厳しいものでした。

 従って、外国で武士に当たる騎士というのは、必ずしも教養があるとは限りませんが、江戸時代の日本の武士はかなり高い教養を持っていたといえます。教育内容は、『大学』や『論語』に代表される四書五経と言われる中国の古典の素読や高度の私文書の作成を身につけることでした。

 さらに、江戸時代には、諸藩に置かれた藩直営の藩黌(はんこう)・藩学というものがありました。
 この教育機関によって、武士は、直参以外の者でも教育を受けられたのです。藩黌は、普通儒学を建前としましたが、江戸時代後期には、洋学や医学なども教えるものもありました。
 これらの藩黌は、幕末にはなんと250校に及びました。現在の国立大学が99校であることを考えれば、当時の教育水準の高さが分かると思います。

この藩黌で有名なものは、岡山の閑谷黌(しずたにこう)、水戸の弘道館、会津の日新館、仙台の養賢堂、、米沢の興譲館、長門の明倫館、尾張の明倫堂、熊本の時習館などです。

   参考 樋口清之 國學院大教授著『続・梅干と日本刀』

 江戸時代の官営の学校で、大学に当たるのが有名な昌平黌(しょうへいこう)です。

 これは、幕府が制定したもので前身は林家の私塾で、寺小屋です。最初は上野忍ヶ岡、今の上野公園の下にありました。

 それを元禄四年(1691年)、五代将軍綱吉の時に文京区の湯島に聖堂を造って移転し、昌平学問所とし、大学頭、今日の学長を林鵞峯(がほう)の子孫に世襲させたのです。

 このために、林家は一万石の所領と、江戸城大手門の前に邸宅をもらい、歴代将軍の師匠と幕府文教政策の責任者、つまり文部大...続きを読む

Q江戸時代の侍は、普段何をしていたのでしょうか?

江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

Aベストアンサー

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれ...続きを読む

Q精神病は遺伝しますか?

私の父方の家系には精神病に掛かった人が非常に多くいます。祖父、伯母が精神分裂病、従兄弟がうつ病、叔母は自殺願望、そして私の姉も精神分裂病を発病しました。精神病と遺伝の関係を教えてください。
精神病は伝しないとの解説を読んだことがあるのですが、なんだか不安になります。
もし遺伝するなら私や父も予防が必要ですよね?
どのようなことに気を付ければいいのでしょうか?

Aベストアンサー

 
わたしは専門家でも何でもありませんので、こういう質問に回答してよいのかどうか分かりませんが、参考として聞いてください。

精神分裂症は、鬱病以上に複雑な精神の失調状態です。鬱病の遺伝性については、先に、別の回答で次のように書きました(参考URL):

>鬱病は、体質や気質と関係あることが知られていて、体質や気質は遺伝します。けれども、同じ体質や気質を受け継いだ兄弟姉妹のなかで、全員が病気になるということはなく、何かのきっかけで、ある人が発病することがあります。

>「鬱」の因子と「躁」の因子,その他、色々複雑な原因があって、鬱病になるようです。鬱病というのは、一つの病気というより、色々な病気や症状が重なっている状態だとも言えます。

精神分裂症の場合、遺伝的素因というのものも確かに幾らかあるようです。しかし、仮に遺伝的素因があっても、一つではないと考えられます。

人間の主体自我は、構築がたいへん難しく、バランスが難しいです。それは社会や文化や地域の人々や伝統や、家族との関係などで、構成されて行きます。自我がどのように自己構成するかは、社会の文化や、家族関係や幼少期の経験、成長経過などが大きく関係します。

脳の神経伝達回路(ドーパミン回路)が、何かの理由で、神経伝達に失調を来すとき、分裂症を発症する場合としない場合があります。この神経伝達回路の失調の可能性は、決定的ではありませんが、遺伝的に何か影響関係があります。しかし、この回路の失調は、何がバランスの取れた状態かよく分からないというような面もあります。

分裂症を発症した人の場合、この回路がかなりおかしくなっていることが多く、過剰な神経伝達を抑えるための薬物を投薬します(これが普通、精神分裂症に対し、医師が投薬する薬で、メイジャー・トランキライザー=強力精神安定薬と言います。ただしこれは症状がきつい場合で、弱い場合は、マイナー・トランキライザーを処方します)。しかし、こういう過剰な失調、伝達回路の狂いが,遺伝的に決まっているかというと、これはそうでないようです。

この神経回路の失調、伝達異常は、普通の人でも一時的には起こり、鬱病の人でも、神経症の人でも、躁病の人でも起こります。誰でも起こるのだと言えます(更に、メタンフェタミンやコカインなどの覚醒剤を使っていると、この回路が狂ってきて、強い擬似精神分裂症状になります。この場合は、覚醒剤の成分物質が、脳の回路を壊しているのです。覚醒剤を使うと、誰でもこういうことになります。ただし、覚醒剤中毒と分裂症の症状は、強い場合,似ていますが、「本質は、まったく別」です)。

遺伝的な要因としては、この回路の伝達異常が比較的、起こりやすいというのがあるようです。しかし、それだけではなく、人間関係に関する、交際のなめらかさを決めるような遺伝的要因が関係している可能性があります。この場合も、こういう遺伝的な失調は、誰でもあることです。

他にも遺伝的素因があるかも知れないですが、発症していないで、家族などに分裂症に罹患した人がいる場合、確かに、こういう遺伝的素因がある可能性が高いですが、それは普通の人より、少し敏感な程度だと思えます。

成長の途上で、家族や外部の人と、色々な人間的関係を持って、自我が構成されて行くのですが、この過程で、遺伝的素因が強く影響する場合があるということです。

仮に遺伝的素因など、まずないといえる人、家族や親族を何代にも渡って調べても、分裂症の人などいない普通の人でも、育ち方や,置かれた環境によって、発症することがあります。

普通の人でも、断眠4日とか3日とかすると、幻覚が出てきますし、おかしな妄想的な思考も出てきます。また、長期に仕事が忙しく不眠の上に、不合理で納得行かない仕事上の圧力を耐えていると、妄想が段段できてきて、神経症になり、分裂症にもなります。

どの程度かということと、もう一つ、精神的に失調しても、外から見ると判断がつかず、普通に見える場合、そういう神経症的分裂症的時期をやり過ごすと、発症に誰も気づかないし、本人も気づかないで、そのまま生活を続けて行くということになります。

遺伝的素因とは別に、成長の途中の自我構成の時期に、失調の「表現様式」の学習のようなものがあり、外から見て、この人はおかしい、というような失調を言動などで外に示す人は、日常生活で、おかしいということになることがあります。

遺伝的な影響も、確かにあるのですが、それよりも、もっと、生育環境や、自我の構成の仕方や、社会の文化や、属する集団の「正気」の考え方、それとどううまく付き合って距離を取るかの「技術」の問題、広い意味で人格のありようと、その人格が生活する場、家庭、社会、集団のありようが大きな問題になります。

一卵性双生児の場合、遺伝的素因は同じですが、その後の成長でも、両者を一緒に育てると、互いに心や行動の了解が容易であるので、自分と兄弟の自我の区別がはっきりしない形になることがあります。無論、大人になれば、互いに他者ですが、幼児期や子供の時に、同じような自我構成を作り出してしまうことが多いのです。

一卵性双生児を別々に育てたても、発症の相関があったように思いますが、逆にこのことは、遺伝的「決定」ではないという証拠にもなるのです。(分裂症は、「素因」が「生育過程での自我構成」に作用し、これにストレスなどが加わって発症するのです。「素因」は強弱の違いで、すべての人が自我を構成する限り、すべての人にあると考えられます)。

遺伝的素因は、二つや三つではなく、もっとたくさんあると思えます。しかし、この「素因」というのは、精神分裂症になる遺伝的「決定因子」ではなく、普通の人より、失調に陥り易く、それから抜け出しにくいとか、それを外部に表現し易いとか、外部環境の圧力に対抗しずらい自我とか、対人的に臆病になりやすいような要因ということです。

精神分裂症は、極端には、すべての人が、軽い状態で短い期間なら、みな、そういう状態になると考えるのが妥当だと思います。

遺伝的素因は、間接的には確かにあるが、それはかなりに影響するに低く、主に、人格形成に関係し、19世紀の西欧の場合はともかく、現代の日本の社会では、精神分裂症を発症する人は、発症前の生活や言動に、発症後のありようと連続した特徴があるということになります。

普通の人が、ある日、突然におかしくなるのではないと言えます。元々自我は、WIN・OSではありませんが、おかしいことがたくさんあり、おかしいままに、自分自身と他者と、社会と集団とのあいだで,何とかバランスを取って日々生きているのが人間です。

お姉さんが発症されたとのことですが、年齢が分かりませんので、また、わたしは専門家でも何でもありませんので、間違っているかも知れませんが、お姉さんの発症前の状態、他人との関係や、自分についてどう思っていたか、何か変なところはなかったか考えてみられることです。多分、そういう性格特徴の延長上に発症症状があると思います。

何とかバランスを保っていたのが、維持できなくなるのが発症で、突然おかしくなるのではないのです。

あなた自身については、自分の性格や人生について、これはこれで「わたし」なのだと思うことです。色々悩みやその他のことがあっても、別におかしくない、「わたしはわたし」だと思うことです。他人と違うというのは、自我はみなそうなので、仮にかなり違うとか言われても、そういうわたし、なのだということで、「どう違うかをよく知った上」で、そういう自分だと自己肯定することです。

ある程度「ユーモア」を持って、自分を客観的に、距離を置いて眺めてみることを心がけることです。ユーモアを持ってというのは、自分の欠点や心の悩みを、まあ、人生はこういうもの、と「心の余裕」を失わないことです。

他人との関係で、悩むことがあれば、「他人は他人、わたしはわたし」で、冷静になり、どうも悩みがきつい場合は、気晴らしなどをして、拘らないようにすることです。別に、分裂症の予防とかではなく、精神のバランスを保って、ストレスをうまく乗り越えるには、going my way の心で、余裕とユーモアで、ものごとを、自分自身を眺めるということです。

また、精神分裂症をあまり気になさらないことです。仮にそうなったところで、大したことではないのです。重症の場合は困りますが、それは現代では珍しいですし、重症でも、時間をかけて治療すれば、ほとんどの人は軽い状態になります

あなたのお父さんですが、これまで何も目だった問題がないのなら、大丈夫です。妄想症の発症の可能性はありますが、歳を取ると、大体、妄想をみな持つようになります。不安神経症などの神経症と一緒になった場合は、困りますが、これまで、色々な苦労があっても、社会生活を営んでこられたのなら、気になさることはありません。

「なったときは、なったとき」とは無責任ですが、これが、ものごとを、冷静に客観的にユーモアを持って眺める、受け取るということです。「くよくよしないのが長生きの秘訣」というのもありますが、同じようなことが言えます。
 
>No.332425 質問:うつ病に処方される薬の役割
>http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=332425
 

 
わたしは専門家でも何でもありませんので、こういう質問に回答してよいのかどうか分かりませんが、参考として聞いてください。

精神分裂症は、鬱病以上に複雑な精神の失調状態です。鬱病の遺伝性については、先に、別の回答で次のように書きました(参考URL):

>鬱病は、体質や気質と関係あることが知られていて、体質や気質は遺伝します。けれども、同じ体質や気質を受け継いだ兄弟姉妹のなかで、全員が病気になるということはなく、何かのきっかけで、ある人が発病することがあります。

>「...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q中国の今までの王朝の民族を教えてください 

中国の今までの王朝の民族を教えてください 

Aベストアンサー

■全土統一以来漢民族による朝代は漢と明のみではないでしょうか。
 歴代王朝の民族は、以下ご参考。

■たてまえの通説。
Wikipediaに詳細がありますが、要点は以下の通り。
部分引用しました。
・漢民族以外の民族による「征服王朝」とされているのは、
遼朝  916年 - 1125年 契丹人(キタイ人)
金朝 1115年 - 1234  女真族(ツングース系民族)
元朝 1271年 - 1368年  蒙古族(モンゴル高原を中心としたモンゴル語の民族)
清朝 1644年 - 1912年 満洲族(ツングース系民族)
  注:期間については学説により異論あり。
・五胡十六国時代の諸国や北朝は「浸透王朝」・・・全土を支配していなかった
  注:五胡十六国は304年の漢(前趙)の興起から439年の北魏による華北の
    統一まで。当時中国華北に分立興亡した民族・国家の総称。
    十六国とは北魏末期の史官崔鴻が私撰した『十六国春秋』にもとづき、
    実際の国数は16国を超える。詳細は、
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%83%A1%E5%8D%81%E5%85%AD%E5%9B%BD
  この間参与した国名と始祖、民族名が頁の下部に一覧があります。
  漢族も含めて匈奴、羯、鮮卑、羌etc.多種あります。

■以上の他に他民族王朝説があるのが、
・秦朝 現青海省~新疆方面の西戎(西方にいた遊牧民族)、羌(きょう)族。
・隋・唐王朝も鮮卑拓跋部出身貴族の楊氏・李氏。
      漢人出身を主張するも紛糾した。
・宋の太祖趙匡胤は漢民族ではなく突厥(トルコ系)。

■更に、
有史以来、周の時期(秦朝以前)までは全国統一されていませんでしたので、
現在とは版図も国の概念も異なりますが、
中原を中心に、おおむね漢族が権威をもって成立した政治と見てよいでしょう。
もっとも、当時の長江沿岸以南は漢族とは言えず、文化の淵源も異なります。

■おまけです、
こうしてみると、5000年?の歴史で、
漢民族が治めたのは細部はともかく周の時代まで、
以降については、漢代、明代のみが漢族国家と私は考えています。
北方民族の蹂躙を受け続け侵入を許してきたのが実態で、
それに抗して成功したのは、漢の劉邦と明の朱元璋、一時成功しかけた
のが李自成、3人とも南方出身です。
そういうわけで「中国の英雄は南から出る」と言う中国人が
現在も結構居るのです。
好悪は措いて、毛沢東もどういうわけか南方の湖南省出身です。
更に、「代」を付すのは漢民族の漢代と明代のみ、
他は全て異民族で「朝」だと主張する中国人もいます。
このような環境で、漢民族の文化を堅持してきたということは驚嘆に
値します。おそらく、春秋時代の諸賢が築いた成果によると考えます。

参考:中国の歴史・・・丁寧にリンクを辿るといろいろ見えてきます。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%8F%B2

■全土統一以来漢民族による朝代は漢と明のみではないでしょうか。
 歴代王朝の民族は、以下ご参考。

■たてまえの通説。
Wikipediaに詳細がありますが、要点は以下の通り。
部分引用しました。
・漢民族以外の民族による「征服王朝」とされているのは、
遼朝  916年 - 1125年 契丹人(キタイ人)
金朝 1115年 - 1234  女真族(ツングース系民族)
元朝 1271年 - 1368年  蒙古族(モンゴル高原を中心としたモンゴル語の民族)
清朝 1644年 - 1912年 満洲族(ツングース系民族)
  注:期間については...続きを読む

Q剣道経験者が合気道を始めることについて

自分は現在、高校で剣道をしているのですが、大学に入ったら興味がある合気道を始めようと思っています
これはあまりよくないことなのでしょうか
父親は剣道と合気道は通ずるものがあるといっていたのですが・・・

ぜひ、教えてください
お願いします

Aベストアンサー

両者通じるものはもちろんありますが、異なるものも結構あります。どちらを先にやったかで見方が少し異なると思います。

1)剣道が先の場合:
少し練習方法に違和感を感じるでしょう。合気道は声を出さない。道場が静かである。剣道のように地稽古はない。試合はない(合気協会系は除く)。動きがゆっくりである。力を込めない(筋力を緊張させない)。力と力をぶつからないようにする。練習方法による取り決めはあるが、合気道自体にルールはない。気と気のぶつかり合いが剣道の試合のようなぶつかり合いではない。左右均等の練習をする。

2)合気道が先の場合:

剣道の練習自体が、(基本の竹刀操法は除いて)先の先・後の先という「やるかやられるか」の緊張状態にとまどう。動きが速い。手の内や元の手(左手)の重要性にとまどう。かなり体力を使う。試合の審判がいる。地稽古には辟易する。合気の動きが柳生系の動きであるのに対して、剣道は一刀流(小野派・北辰)系が基盤にしているのに体がついていかない時がある。

まだあると思いますが、大体以上です。私は合気が主で、剣道の練習はきつかったですが、試合は結構いけました。他に打突系も経験があり、剣道に似ているところもありました。

まだこれから大学生でいらっしゃるようなので、40・50・60歳代まで、居合い・杖なども修められればそれぞれの違いから共通点、ひいては武道・武術の考え方も変わるのではないかなと思います。

話しが合気道ですので、元に戻しますと、合気道にも各流派があり考え方、練習方法もけっこう異なります。どの流派にはいるかで好きになったり嫌いになったりしますので、選び方は慎重になさった方がいいと思います(大学で流派が決まっている場合もありますが)。次に合気系の各流派の特徴をおおざっぱに掲げます。

1)合気会:
開祖植芝盛平の血筋直系の日本最大の流派。一教・二教・三教・四教・四方投げ・小手返し・入り身投げ・天地投げなど、技から入ります。
2)合気協会:
富木謙二が始めたもので、試合形式をとる団体です。
3)養神館:
塩田剛三が始めたものでかなり武闘的なところがあります。
4)気の研究会(心身統一合気道):
藤平光一が始めたもので、合気の習得のため、自身の体を「統一体」に常にするというところが特徴です。これができないと技をいくら練習してもだめだという立場をとります。
5)万生館:
砂泊諴秀が始めたもので、九州北部に拠点を置いています。力の抜き方に重きを置いているようです。
6)大東流各派:
技の宝庫と言われるほど、技が豊富です。合気道の元になる武道で武田惣角の創始になります。すべての合気道各派は武田惣角-植芝盛平から来ています。

その他亜流と言えば怒られるでしょうが、まだまだたくさんあります。それ以外はご自分で研究なさって下さい。

両者通じるものはもちろんありますが、異なるものも結構あります。どちらを先にやったかで見方が少し異なると思います。

1)剣道が先の場合:
少し練習方法に違和感を感じるでしょう。合気道は声を出さない。道場が静かである。剣道のように地稽古はない。試合はない(合気協会系は除く)。動きがゆっくりである。力を込めない(筋力を緊張させない)。力と力をぶつからないようにする。練習方法による取り決めはあるが、合気道自体にルールはない。気と気のぶつかり合いが剣道の試合のようなぶつかり合いではな...続きを読む

Q江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?

素人の質問なんですけど、江戸幕府はなぜ町人から税金を取らなかったのですか?既に貨幣経済が発達していたのだから、農民に年貢米を納めさせるだけでは、いずれ財政が破綻するのは分かりそうなものなのに、当時の人達は疑問を感じなかったのですか?

Aベストアンサー

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に納める冥加金などという税を取り立てていました。
この冥加金の中には、営業免許税とでも呼ばれるようなものもありました。酒税に相当するようなものもありました。
参考
冥加 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/冥加

江戸や京、大阪などの都市部では町政は町役人という自治組織に一括して委託していました。
この町政に必要な費用は町人が負担していました。
町人とすれば納める先が違うだけで実質的には納税しているのと同じことでした。
この町役人制度というのは大なり小なり大名領の城下町にもありました。

「既に貨幣経済が発達していた」とされておられますが、貨幣経済が行き渡っていたのは、江戸や京、大阪などの都市部だけでした。
物の売買の手段として、貨幣は全国的に使用されてはいましたが、全国的な規模では、貨幣経済と呼べるほどには発達してはいませんでした。
江戸時代を議論する場合には江戸の街や京、大阪の都市部の情報だけでは議論できませんので注意して下さい。
江戸の街というのは全国から見た場合は極めて異質な街でした。
経済史の観点から採用されている史料は、この全国的には異質な都市部の経済活動についての史料ですので注意して下さい。

幕府が財政破綻を来したのは、農民からの年貢による税収が不足したという単純な話ではありません。
幕府の財政を支えていたのは、金山や銀山などの採掘権をほぼ独占していたことによってもたらされていた金銀でした。
江戸時代中期以降はこの金銀の備蓄が枯渇してしまいました。
一方経済学的な見地からすれば、米という現物を徴収してこれを貨幣に変えて初めて幕府の運営費に使うというシステムが財政破綻の大きな原因です。
このシステムの最大の欠陥は、交換作業を全て町人に任せた上に、米価のコントロールを一切せずに市場経済という町人の経済活動に丸投げしていた点です。
札差と呼ばれる、米を現金化する作業を請け負っていた町人の手元に巨額の金が蓄積される一方で幕府が困窮して行った姿に現れています。
町民からの税収が少なかったためというよりは、農民からの年貢を米という現物ではなく貨幣による金納に変換しなかったことが結果として財政破綻を招いたと考えられてもよろしいでしょう。

租税の納入を米という現物から金納に変換するということは、明治政府がやりましたが、貨幣経済が未発達であった農村が忽ち疲弊してしまいました。
この史実からもお分かりの通り全国の大半を占めていた農村部では貨幣経済は普及していませんでした。
貧農史観というのは明治時代の状況を江戸時代にまで延長したことによって生まれた誤解です。
江戸時代の農村というのは貨幣の蓄積は少なかったものの極めて豊かでした。
豊かでなければ郷土芸能が発達したり伝承されるような余裕は生まれてきません。

>当時の人達は疑問を感じなかったのですか?
この徴税システムの欠陥にいち早く気が付いたのが田沼意次でした。
如何せん近代経済学というものがありませんでしたので、理論的に政策を推進することができませんでした。
急激に貨幣経済化を進めようとして失敗してしまいました。
不幸にも天候にも災いされました。
江戸時代の○○改革と呼ばれるものは改革でも何でもありませんでした。
ひたすら貨幣経済を否定して農本主義に戻ろうとしただけのことです。
当然悉く失敗しています。
むしろ改悪としたほうが当たっているでしょう。

蛇足
農耕文化から生み出された儒教精神にかぶれた人達が今でも○○改革と持て囃していますが、時代錯誤です。

なぜ取らなかったか、と言うよりも上手く徴税する方法が分からなかった、とお考えになられたほうがよろしいでしょう。
要は町人の所得を正確に把握する手法が見当たらなかったということです
農民に対しては土地というものを基準にできますが、土地に頼らずに所得を得ている町人の租税の負担能力を測る手段がなかった、とお考えになられても差し支えありません。
とは言え全く町人から税を徴収していなかった訳ではありません。
現在の固定資産税のような性格の公役銀とか定期的に一定額を納める運上金、不定期に...続きを読む


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