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これについては知恵袋の方でも、よい回答をみつけました。

『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないことを、きれいごとと言います。
だから、「きれいごとばかり言うな」という人に対しては、それがちゃんと実現可能なことを
身をもって証明すればそれでOKです』

では、思想、哲学はすべてきれいごとなのでしょうか?
それは机上の理論ではなく、身をもって体験されたことなのでしょうか?

確かに「きれいごと」は慰めにも勇気づけにもなります。
一方で単なる言葉遊びではなく、「それは自分で体験した得た結論なのか」という疑問もあります。

哲学ほど抽象的であれば難しいが、巷の様々な啓発についていろいろと試したいと思ってます。
そのため、「きれいごと」が期待していたものとは違うこともあると思いますが、
自分にとって真実だと思えることを選択していくため、また実現のためには、
どういう心構えが必要でしょう?

A 回答 (18件中1~10件)

全体の話しの流れから、綺麗事にもう少し前回よりも足したいので書かせて下さい。



ここは哲学ですので、よく戦争と平和や日本における自殺者問題や
宗教・思想、文化や経済など様々な話題が出ます。

理想は理想で実現できないことを「きれいごと」と
本来は言っているのだと思います。
日本語としての使い方は、そうですよね。

理想が実現できない範囲なら「理屈」だと思いますが
理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。

たとえば自殺者問題。
自殺する人は、すでに孤立して内面が孤独になっています。
人との良い関係の繋がりが、しっかりとあれば自殺は防げます。
とういうか、自殺しないでしょう。

誰しもが、自分の隣にいる人といい関係を構築し互いに手を結んでいれば
自殺は起きないでしょうし、その繋がりが広がれば広がるほど
世界中の人が繋がって行きます。

世界中の人が互いを認めて繋がり合えば、戦争は起きませんし
経済も確実に上向くでしょう。

その根底は、自分を深く理解すること。
自らを知れば、仕事も含め人生において自身を活かすことが
できるだけでなく、何が適切な選択かも理解できる。

それが叶えば、仕事は食べる手段に収まらず
高い労働力による高い収入や満足のいく労働にしていけるでしょう。
そのように変わって行くことで、搾取する者は減って行きます。

そこまで行けば、思想やシステムの問題より
それを運営して行く側の問題(個が問題)だということが
多くの人の目にも明らかになってくるでしょう。

主義や思想が何であろうと、新しいシステムが発案された所で
裏で反していれば、いつまでたっても本当の意味で良くなることはないですからね。

自身が自らを理解して行くことが、世の中のために
大きく貢献できることであり、自分と周りが幸せになって行くことだと
それが私が好きな「きれいごと」ですね。

自らを理解して自分の足で歩くのは、理屈ではなく
誰しもがそれぞれに十分叶えられる範囲であり
自身が、世の中が良くなって行く出発点だからです。

ですから理想を追っても、何も矛盾することは無いと私は思っています。
他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなものだと思います。

キラキラと呼ばれるものは、本来その幻や蜃気楼を
描いて追うなっていうことに繋がるのではないかと
個人的には思います。

そこに哲学的批判、つまりは問題をより高めて行く自問自答が
とても有効だと思います。
それにより自らで、自分に磨きをかけていけるからです。

自己啓発は、そこで繋がってくると思います。
適切に使っていくことですよね。

本当はデキる自分が、真の理想として持ってるものだと
個人的には思っています。


余談ですが、純粋理性批判は「純粋理性哲学自問自答」とすれば
日本人にはわかりやすいと思えます。
が、漢字ばかりで長いです(笑)
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この回答へのお礼

>理想が実現できる範囲においては、理論になっていると思います。

私もそう思うのです。理論というのは、万人に共通する普遍的なものです。心の整理ができていないとき、問題にぶつかったときに救うのは「理論」です。
その理論こそが哲学だと思っていますから、「きれいごとというのは哲学なのか」というこの自問についてはイエスという答えになるかと思います。

ですから「きれいごと」というのは、その人の経験からくる答えを濾過した理論ですから、万人といえなくとも、誰か一人のためにはなると。たったひとつの真実を、不特定多数が適用するか、それともそのように、たった一人が適用するかは本人の意思によりますから。

>いい関係を構築し互いに手を結んでいれば

もちろん同意します。一方でノーともいえます。
昔、死後の世界を「純粋に」知りたくて山から飛び降りた少年の話を知りました。
もちろん私は彼のことは知らないので、真意はわかりません。でもこのエピソードにはすごく衝撃を受けたのです。だから今でも鮮明に「記憶した」ということを覚えています。

彼は純粋に死にたかったのかもしれませんが、実は孤独に悩んでいたため、自殺の理由を彼にしか分からない事情のための口実にしたのかもしれない。それでもその口実が、いかにも厭世の美に包まれていて、彼の考え方は、私の中では自殺肯定の根拠となっています。

そうでなくとも、私は自殺について、本能的には当然誰も死を恐れているなど考えていません。むしろ「生」の方が「死」よりも険しい道です。それを否定するときに、自殺は罪だという(根拠のない)考え方がありますが、死を忌むべきもの、もっとも恐れるべきものだと考えている人たちが、自死者に自分の恐れを投影して「罪」だと考えていると思うのです。

いわゆる「死にたいは生きたい」ですね。
その切実な気持ちを誰からも顧みられず「死」を選ぶのでしたら、自死者を責めるのは死人に鞭をふるうようなものです。

ですから「自殺は罪」だという人間も、仮に「自分でそれを実行できないことがきれいごとの真実」だとしたら、それこそが「きれいごと」だと思うのです。

>自分を深く理解すること。

そうすれば労働環境もよくなる、というお考え、私もまったく同意します。

天職をまっとうしている人は、この世でもっとも幸福だと思います。生きるためにしなければならないのが仕事。でも「人はパンのみ生きるに非ず」と言われているように、目先のことだけでは心は満たされない。
どうせ、労働という険しい道を、自立する人間が誰もが歩まなければならないのなら、どうせなら、本当にやりたいことをやればよい。それが人生の幸福を満たす。自分がやりたいことをやれないストレスを他人で投影することはない。それには自分を知るべきだ、と思うのですが、学校教育では「我を知る」という教育がなぜなされないのかと思うのです。
偏差値や、社会の考える労働論、つまり質的なことを押しつけられ、質的なことを教え、考えさせる教育はまったくなされてない…

話がそれていきますが(笑)要は自分は自分で育てるということではないでしょうか。すれば

>搾取する者は減って行きます。

と思うのです。資本家も民主主義も、自由が本質です。しかし一握りの自由人で、多くの人が奴隷化されている。皆同じように平等の国で生きているのに。
だからここは、状況にまどわされない確固たる自分を持つべきだと思うのです。特に日本人は長いものに巻かれたい人種。巻かれないと決意した人間は容易く搾取されることを自分に許さないと思うのですが。

>他者が与えてくれる幸せこそが、幻であり蜃気楼のようなもの

それが世俗的な幸福ですね。お金、名誉、地位、権力…なぜあまりにもこうしたことが持ち上げられ、それが幸福の本質だという考え方がありふれているのでしょうか。不幸は複雑怪奇で、むしろその中に本当の幸福があるかもしれないのに…

>自問自答

誰かの幸も不幸もここにかかっていると思いますよ!

お礼日時:2014/07/08 21:51

お礼、ありがとうございます。




>たったひとつの真実を、不特定多数が適用するか、それともそのように、たった一人が適用するかは本人の意思によりますから。

それでいいと思います。
多数が適用する必要も、特に無いと思います。

何故ならば、自分を理解して行き自分の答えを自分で持つのが
その人らしさだと思うからです。

あえて書かせてもらったのは、自分を理解した人が同じ所にたどり着いた
もしくは、同じような話しを何処かで読んだなどが無いものか?
という思いが湧いたからです。

私は、自殺を否定・肯定や罪だとするのではなく
哲学カテゴリでよく話題になるということと
個人的には「もったいない」と思っているからです。

生きてさえすれば、楽しいや嬉しい体験をするチャンスがある。
自殺は、生きていれば味わえるかもしれない
喜びや嬉しさの体験を自分から自分が奪う行為に思えます。

何度も死にそうになり、偶然にも助かり生き延びたからでしょうか。
死にたいは、生きたいだと知っているからでしょうか。。。

死は、必ず誰にでも訪れるものですから楽しめるうちに
楽しんでおこうというのが、自分の今の生き方で有り
他者が同じでも違ってもいいと思っています。

誰しもが、生きたいように生きる自由を
今の日本に生きているというのは
多くのチャンスがあると思うのです。

自身を理解すれば、それもみえてくるものだと思うのですけどね。


>話がそれていきますが(笑)要は自分は自分で育てるということではないでしょうか。

その通りです。
全然それておりません。
自分を育てて、自由を与える。

所謂きれいごとをやって行く人が増えれば
黒人奴隷が解放されたように
時間とともに、人間の心も解放されて行くでしょう。

自由は、行動に矛盾がない方向を示してくれます。
未熟が減るようにやって行くだけです。

誰しもが自分の答えを見つけられるようになることを願います。
大切に思うのは、その点だけです。
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この回答へのお礼

>自分を理解して行き自分の答えを自分で持つのが
その人らしさだと思うからです。

自分探しの旅の終わりこそ「自分らしさ」かもしれませんね。

>あえて書かせてもらったのは、自分を理解した人が同じ所にたどり着いたもしくは、同じような話しを何処かで読んだなどが無いものか?

これは私もまったく同じ想いです。
結論に対する確認でしょう。そして同じ発想や想いの人をみつけると嬉しいものです。

とくにネット時代になり、こうしてテキストだけですが、一方的に閲覧したり、会話をしたりして、そういったことを確認できるのは幸福なことです。

お礼日時:2014/07/12 23:16

 理屈はどんなに正論であってもそこから具体的な実践へとつなげる段階で、TPOや人生のフェイズあるいは個人的な諸事情の要素等が絡まって、実行の困難度や重要度が決まってくるのが現実だと思います。

「正論には個人差に応じた運用が必要だ」ということを頭において自分なりの咀嚼を加味することが大切になるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>実行の困難度

そうですか…でも大衆を巻き込んで実行しているものがあります。「24時間テレビ」がその一つです、今年も告知されてたので、もしかしたらこれぞ、テレビ界の大きなきれいごとかと思ったので。

海外では、何かのチャリティに出演するとき出演料はもらわないそうですが、日本は違うようですね。あと募金の使途不明も含めて、いろいろと批判されているようですが、それが事実としたら、チャリティに純粋な目的を求めている人間からすればまさにきれいごとでしょう。いや、きれいごとを超えた偽善かもしれませんが。

お礼日時:2014/07/08 21:55

お礼ありがとうございます。


追記になります

「理屈が正しければ現実にも反映される」というのは、その場合の理屈の正しさというものを、どの程度の尺度で捉えているかによります。
それこそほんとうに正しいものであれば、その理屈を考えた当人の中に疑いは消え、悪い意味でくすぶる必要が無くなり、行動や実行に移りえる。
ひいては、それは周囲にも言えることですね。

また、経験をして得た理屈かどうかということですが、
哲学や思想は、それを考えるとき少なからず経験は関係しているのかもしれませんが、それを全て自己経験と関係させることができるか、ということが、どういうことなのか、それが重要なところではないかと思います。
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この回答へのお礼

>その理屈を考えた当人の中に疑いは消え

信頼性や妥当性ということですね。分かりました。

補足回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/07 02:04

他人に自分を良く見せるためや、自己欺瞞のための、口先だけの理想論は、きれいごとになってしまうでしょう。



たとえ現在、実現できていなくても、少しでもそれを実現するために行動を続けているのであれば、それは、信念となって、いつかは実現するでしょう。

あるいは、自分が生きている間に、それが実現しないとしても、その可能性を信じたい。

ありのままの自分で生きることができれば、こんなに身軽で、自由な事はありません。

自分自身をも欺く、ごまかしや嘘で、他人に見せるための理想的な自画像を作り、その中に閉じ籠もっていないだろうか?ということを常に自問自答することが大切でしょう。

そのためには、自分の醜い姿を自分自身で認め、それを他人に対しても隠さないことです。
ある部分は私もそれができていますが、ある部分ではできていません。

私は、「自分を守るための嘘はつかない」と言うことを心がけています。
そうはいっても、とっさに苦し紛れの嘘をついてしまうこともあります。
完璧になどできるわけもありませんが、嘘をついた時に、それを自覚する事が大切だと考えています。



実生活で、こんな事を人に打ち明けたことはありません。
それこそ、きれいごとと思われますから。

待てよ?きれいごとを言う人間だと人に思われたくないから、本当の自分を出していないのか?
どうなんでしょうね?
自分でも分からなくなりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>ありのままの自分

レリゴー♪レリゴー♪(笑)

>自分自身をも欺く、ごまかしや嘘

欺瞞!
他者が私を苦しめる根本的な理由はまさにこれだと最近やっと気づいたのです。

そういう欺瞞人間達に比べたら、私はかなり自分に正直だと思います。それはもう、少しは自分を守る必要があるくらいに。だからで生きづらさにつながってていますが。病んでいながら健康である、というような感じでしょうか。
それでも自分に嘘をつくことは耐えがたい(これが私の信念かもしれません)。

>ある部分は私もそれができていますが、ある部分ではできていません。


私も弱い人間の一人です。だから私も同じです。

私が向き合ってきた強さが、ゆるぎない信念を作り、私が向き合わなかった弱さが、別の信念を求めているのかもしれません。

その弱さと向き合い、克服していく中で少しずつ、無意識のところで身についていく考えや自信の集まりが信念となるのでしょうか…

>「自分を守るための嘘はつかない」

私もこれと同じ信念をもっています。

自分を守るための嘘をつく欺瞞人間はたくさんおりますが。そのため他者を無意識に無自覚に不幸にする。

私が知る欺瞞人間らに共通していることは、自分の弱さを認めることができません。いつもそれを他者に投影し、他者の弱さを追求し、他者を犠牲にしながらも、他者を通して映る本当の自分を見ようともしません。
そして、このような人間は容易に「きれいごと」を口にします。自分こそ、それを口にするに値する人間だというように…そのとき、彼らが身に付けたきれいごとは、安っぽい飾りや隠れ蓑にしかみえない。

ですから使う人間によって、きれいごとは、その言葉自体が持つネガティブなイメージになりさがるではないかと…とも思えます。

>きれいごとを言う人間だと人に思われたくないから、本当の自分を出していないのか?

よくわかります。

私はそのときの自分をだしすぎて後悔し、一方で、だすべきところでださなくて、後悔しています。
でもそのどの自分も、本当の自分、あるがままの自分を見つけさせるための自分、だと考えてます。

人のまじめな信念や考えを、他者がその無関心、軽薄さによって、きれいごとだと笑うとき、きれいごとは汚されたように感じることもあります。
だから皆、容易に自分の思いや信念を口にしないのかもしれません。
でも当人にとっては、宝石箱の中に輝く言葉たちなのであり、その輝きは変わることはない。むしろ、一見汚されたかのように感じることによって一層その美は増すのではないでしょうか。

傷つくのは口にしたことに後悔している自分。私もなんどそれで傷ついたか。でもダイヤモンドは傷つかないのです。それなのに、一緒にきれいだね、と言ってくれる相手、なかなか見つかりませんね、私の場合。

お礼日時:2014/07/07 02:00

回答番号11で最終のつもりだつたのですが、すばらしい「お礼」をいただいたので、もうすこし。

「輪廻」の質問文を読んだときから、frauさんとは、お話してみたいと感じてゐました。

>>恐ろしいのは個人のそれに加担する社会心理です。

これも、「ゆきすぎ」でなければ、いいのではありませんか。たぶんお読みになつてゐないと存じますが、詳細は、「驚き!!」ページに記載しました。回答番号9「安倍君をwatchでしょう。」の意味もわかります。「今日本でいちばん嫌われている男らしいですね。」(笑)ちなみに、私は現政権の政策にはかなり理解のある立場です。

>>自分の弱さを相手への愛によって誤魔化してしまう。
>>そういうとき「他者への愛」がきれいごとになる。
>>自分への愛をまっとうできて、その結果として、
>>自分を愛するように他者も愛する
>>(これが聖書でいう「隣人を愛せよ」ということかもしれませんが)
>>ことを実現できている人はとても少ないと思うのです。

これに、感動しました。私の考へのはるか先を進んでゐます。
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この回答へのお礼

お褒めいただき、誠にありがとうございます。
これからも仲良くしてください(^-^)

「驚き!!」について、読んでみましたが…kurinalさんとの対話がこちらに延長されていたのですね(笑)

でもこの質問が「ゆきすぎ」なのかどうかはちょっとわかりませんでした(^^ゞ

でも哲学カテゴリ、本当に個性豊かな人がたくさんいらっしゃいますね。

本当に久しぶりにここにきて、質問や回答をしていますが、やっぱりここはいいですねー。

plapotaさんの穏やかな感じの感性が、柔らかな文体に乗って伝わってきます。今後ともどうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2014/07/07 00:43

理屈が正しければ、現実にも反映されているということになります。



つまり
>『理屈は正しくても、現実にその通り行うことができないこと』
ということは存在しません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

なるほど~!

この場合、実行できないというのは実践を他者にゆだねている主体のことでしょうか。
その人自身の経験からの答えではなく、理屈で得たことを他者にやってもらうという無責任さのことでしょうか。

しかし、裏付けのない提言を、他者が実現してしまうということもあるのではとも考えます。

それでも理屈が正しければ、現実に反映する、ということになる。その場合、主体は関係なく、理屈の妥当性が重要になる、ということですね。

お礼日時:2014/07/06 00:45

まことに丁寧な「お礼」ありがたうございます。



私がいちばん影響を受けてゐる書物は、聖書です。たぶんfrauさんとは、思想が異なるとおもひます。聖書のなかに、あれだけ「他者への愛」が説かれてゐるのに、聖書を人生の指針とする人たちが、一般的にいつて、日常生活でも品行方正とはほどとほく、歴史的にも戦争好きなのは、なぜか、長年考へてゐる問題です。その現時点での見解が、回答番号7です。もちろん、宗教にかぎらず、人間一般にあてはまるものとして、書きました。

論点を明確にするために、いつも極端な書き方をしてゐます。現実には、さまざまな考への組みあはせが必要になります。それに、自分の考へが正しいとは、思つてゐません。みづからの狭い世界のなかで経験したことをもとにしてゐるだけです。おそろしいのは、他者を排除する姿勢です。哲学カテゴリなのですから、議論や批判は、当然あるべきものです。反対意見があるからこそ、みづからの見解が成長してゆきます。

質問文にもどりますが、「きれいごと」なら、素直にそれを「きれいごと」だと認識することが必要なのではないか、と最近感じます。(ゆきすぎた)他者への愛が「きれいごと」だとわかつてゐれば、他者におしつけたりはしません。他の人たちも自分と同じやうに「他者への愛」といふ考へを受け入れなければならないのだ、さう考へることが、争ひの原因となります。(あくまでも、ゆきすぎた「他者への愛」についてです。私自身、聖書の記載を否定してゐるわけではありません。)

「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。軍備放棄した国家が簡単に侵略を受けてきた歴史は周知の事実です。夢は必要です。しかし、夢は自分で見てゐるもの、他人に無理やり見せようとしても、無理です。悪意で侵略する者は、まだかはいい。悪いとわかれば、引きかへすことが可能です。しかし、自分の心を見失つた状態で、善意と信じて実行する者には、あともどりの道が残されてゐません。これが、宗教戦争、そして、国家戦争、民族戦争の多くの原因ではないか、そんなふうに、考へてゐます。

私の意見がまちがつてゐるかもしれません。世間は広いもので、だれかれかまはず、ヤマシサを追及し、ウソだと弾劾し、オシエを説く、そんな人までゐます。私はいろいろな人から話を聞きたいと思つてゐます。もちろん、frauさんからも。
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この回答へのお礼

私も常々思っているのですが、なぜキリスト教の人たちは、昔から自分が帰依している教えにそむくようなことをやっているのかということです。核保有国アメリカの戦争好きがまさにそう。
でもそれが

>善意

ゆえだというところに、plapotaさん独特の考えがおありになる。

>他者を排除する姿勢

まったく同感です。恐ろしいのは個人のそれに加担する社会心理です。誰かが誰かを批判するのは仕方がない。しかし、よく考えもせずに同調したり、異種だからという理由で排除に加担する、そういう浅はかな心理です。
ネットの掲示板などは特に、匿名性が増長させ、そういう社会心理が蔓延しやすいところでしょう。

「ゆきすぎた他者への愛」というのは、心理学でいえば「共依存」です。泥船です。

>争ひの原因

愛は争いではないですよね。私は愛というのは、無我になることだと思ってます。

でも共依存の一部のような、「尽くす」ということは自己愛にすぎません。
自分がみたくない自分の弱さを互いに投影するのは、男女間に限らず、親子、上司と部下、教師と生徒など、あらゆる関係に通じることらしいです。ですから宗教と信者、国家間でも同じなのかなと思いますね。
それでも、人が人と共存していくときに生じてしまう仕方ない心理だとしたら、真の心の自立ということは本当に難しいことです。

でもそれに気づかず、皆それを「愛」という言葉を口実にしている。どんな関係でも愛という名のもとに悪を実践している。すでにその関係が形骸していようが。
そして「愛」を実践する人は無口でなければと思うんです。本当に実践できなければ愛もきれいごとですね。それは自他への欺瞞です。私は欺瞞がいちばん許せない。

「自分を愛せなければ人も愛せない」ということについても、心理的にいえば、自己評価の低さが原因で自分を守れない、大切にできないことから結果的に間違った愛を導いてしまう。
自分の弱さを相手への愛によって誤魔化してしまう。
そういうとき「他者への愛」がきれいごとになる。
自分への愛をまっとうできて、その結果として、自分を愛するように他者も愛する(これが聖書でいう「隣人を愛せよ」ということかもしれませんが)ことを実現できている人はとても少ないと思うのです。

(この愛は自己愛という意味ではないです。いきすぎた自己愛はむしろ争いを生むと思いますから)

>「きれいごと」はあくまでも「きれいごと」です。実践したら、滅亡します。

だからこの世は不条理なのですね。不条理がこの世がある意義だとしたら、きれいごとがそのまま実現したら「この世のおわり」かもしれません。

お礼日時:2014/07/06 00:38

綺麗事かどうかはわかりませんが、身の丈ということはあると思います。

身の丈の論理と言いますか、それは身につけられることなのか、実行出来ることなのか、ということです。
一方で、哲学は心の世界のことでもありますから、身の丈である必要はなく、想いの丈を綴っても構わないものでもあると思います。
実践にこだわるならば、身の丈を、純粋さにこだわるならば想いの丈を、述べれば良いのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

身の丈、というのは成長するに比例することですから、そのときどきで違うきれいごとがあると思います。それは実行できる余裕というか、可能性というか。

そのときすんなり心に収まる言葉でも、実践するにはまだ早いということもありますものね。

>哲学は心の世界のことでもありますから、身の丈である必要はなく

ですよね。心の混沌が、頭の整列とした理論を作るのだと思っています。頭ではわかっているけど、自由にできない、というように、頭は心より自由かもしれません。

>実践にこだわるならば、身の丈を、純粋さにこだわるならば想いの丈を、述べれば良い

なるほどです。

お礼日時:2014/07/06 00:00

安倍君をwatchでしょう。

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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

アベくん、今日本でいちばん嫌われている男らしいですね。

秘密保護法、閣議決定の件…まさに「きれいごと」オンパレードですねー。
彼の場合、ゴリ押しに後づけする「きれいごと」ですわ。

お礼日時:2014/07/05 23:54

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