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我々(現在の日本人)は、県や県民より、日本国や日本人を自認していますよね。
(W杯の応援の光景を見て、改めて思いました。(ただし、高校野球を見ていると、県などが未だに強く意識されているようですが)
私は、江戸時代の終盤・明治維新の前あたりから、藩(狭い意味の国)などから、国(日本国)などへ変化したのかな、と思っています。
我々が、日本国や日本人を、自覚し始めたのは、いつごろからですか?

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A 回答 (11件中1~10件)

白村江の戦いでは庶民も「日本国」を意識したのではないでしょうか。


もちろん当時「日本」という国号はなかったのですから、唐や新羅に対して我らは、例えば“ヤマト”だと思ったことでしょう。
ヤマト王権の支配地から兵として駆り出された地方豪族配下の若者たちの数は、4万人ほどと推定されています。
大多数は庶民だったに違いありません。
長老の命ずるまま博多湾に終結した若者たちの多くは、何が何やらさっぱり分からなかったのか知れませんが、日本史上、国家の規模で行う最初の外征です。

以下、司馬遼太郎著『街道をゆく 韓のくに紀行』から引用します。

陸地を離れて洋上に出たとき、
「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」
ということに気づいたにちがいなく、同時にそれまで小さな氏族の氏人にすぎなかった自分が、日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。
敵は「唐」である。
唐を意識するとき、当然ながらかれは安曇のなにがしや大伴のなにがしではなく、日本籍のなにがしであるということを意識すまいとしても意識するようになる。
日本人が個々の意識のなかで誕生するのは、このときが最初であったにちがいない。
(引用終わり)

そして同時に日本の統一的な“ぬし”はだれかということを当然意識するようになり、兵士たちは上から教えられたとおりそれが天皇(スメラミコト)である、と痛烈に思ったにちがいないと続きます。

しかし、天皇という存在を知ったとしても、なお日本人はばらばらで、
というのはたれでもおがめる統一の神をもっていなかったから、
「それぞれがそれぞれの神をいただく諸氏族連合の日本部隊」で、組織からいえば軍隊というよりは弓矢を持った集団にすぎない面も多かったに違いない、と続きます。

42年も前の著作です。
最近の研究がどうなっているのか知りませんが、こんな見方もあるという程度の回答です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
引用して頂いた「韓のくに紀行」は、恥ずかしながら、本棚の奥にしまい忘れていました。これから読み返して見ます。ご回答で印象的だった文章は、この白村江の戦いで庶民までが、
<「われわれの住んでいる陸地は、日本とよばれるようになっているらしい」>
<日本人という抽象的グループに属する人間であることも気づかされた。>
です。日本が具体的にどの様になっているかはわからずとも、何となく日本である、ということが意識されたのですね。また、手段として、スメラミコトを活用したのですね。

お礼日時:2014/07/05 19:19

 スタンスは異なるかもしれませんが、heikyu氏のご指摘には何時も鋭いものを感じさせられもし敬服致しております。


 確かに「領域に対する意識」は階層によっても大きく異なり、博多の町衆が商人として貿易に接していたことと信長が地球儀を眺めていた意識では余りにも違いが大き過ぎもします。
 商人の論理からすれば、相手が商人であろうが国家であろうが関係はありません。ただ貿易することによって利益を得ることができるなら相手を選ぶ必要などありませんから、その様な区別をする必要もないのでしょう。
 もし日本人の意識の内に「日本国」の意識があるとするならば、それを裏付けるのは「この国の主権者もしくは祭祀的主宰者」とでも呼ぶ意識があることを意味することになりもします。
 しかしながら、史料としての「国王御教書」などが今現在でも発見されていないところをみますと、この「国王」との定義そのものを再検証していく必要もあるかと存じます。
 鎌倉幕府の崩壊の発端ともなった蒙古襲来が、この国の統治システムの根幹に関わる問題を炙り出したことも視野にいれねばなりません。
 一方は「実務部隊」ではあるものの、それに対する裏付けがないことから、必然的にその「お墨付きを与える主宰者」が一方にはいるはずです。そうした金魚鉢の中での争いを表舞台に引きづり出したのもこの一件に始まるといえるでしょう。
 その両者にしても、わしら以外の下々の者の意識までは視野に入れてもいません。けれども実質的に海外との交流を支えていたのも他ならぬ彼等以外の何者でもないことは確かです。武家政権が彼等を取り込むために様々な策を弄し、一定の権利を与えたりしたことを考えても、この国にトータルな形での“Nation”との意識があったのは少なくとも明治維新以後のことであると考えても不自然ではありません。
 そして具体的な形で「ウチとソトの論理の違い」に苦しんだ代表的な人物の一人が夏目漱石であることも納得のできるところです。
 政治組織としての「国家」、それも遅れてやって来た不良コピーが、促成栽培的そして少数によるピラミッド型構造による枠組の再編成の手段として選んだのも、他ならぬ「歴史教育」であり、それを1945年以前は「国史」との呼び方で統一もし、臣民教育の形で刷り込みを行っていたことも確かです。
 更に戦後もピラミッド構造を別な形で再編成するために遺していたのが東大の文学部-国史学科でした。
 従って、「国民自らが………」との形よりも「イデオロギーとして刷り込まれてきた時期」と考えることの方が適切であるといえましょう。
 因みに、海外に出掛けた時に、滞在者に与えられる言葉が“Citizen”ではなく“ètranger”なり“alien”であることもご存知でしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
歴史の大きな流れを解説して頂きました。
<「日本国」の意識があるとするならば、それを裏付けるのは「この国の主権者もしくは祭祀的主宰者」とでも呼ぶ意識がある>
ということなのですね。そして、
<この国にトータルな形での“Nation”との意識があったのは少なくとも明治維新以後のことであると考え>
られるのですね。現在は、
<「国民自らが………」との形よりも「イデオロギーとして刷り込まれてきた時期」>
なのですね。
難解な解説を、上のように読み取りましたが・・・・

お礼日時:2014/07/05 10:44

我々といいますが、王侯貴族と庶民とでは


自覚が異なると思います。

王侯貴族が日本を自覚したのは壬申の乱から
だと思います。
つまり7世紀中頃です。

白村江の戦いで大敗した日本は、中央集権体制
の必要を自覚し、ここから、日本国が誕生しま
した。

ということで、天皇や貴族など、上層部は
その頃から自覚していたと思われます。


庶民は、御指摘のように明治になってからだと
考えます。

明治になって、軍隊内で出身地藩間での争いが
多発しました。
それで、西周と山県有朋が相談して、天皇を
もってくることにしました。

お前らは、薩摩藩の藩人という以前に、天皇が
治める日本、という国の国民なのだ。
日本人だ。

これが日清日露戦争を通じて強化され、日本人という
自覚が下々まで浸透したのだと思われます。

尚、中国では、大正時代の留学生ですら、中国人
という意識が無かったと言われています。
上海人、北京人ですね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
為政者である王侯貴族は、白村江の戦いでの大敗の後の、壬申の乱から自覚はあったなのですね。
一方、大多数の庶民には、明治時代に入って、教え付けられたのですね。軍隊(おそらく政治でも)、藩閥を防ぐため、天皇を使い統一した国を自覚させたのですね。
江戸っ子や浪速っ子は、軽い意味しか持っていませんね

お礼日時:2014/07/05 08:42

いくつかの段階があると思います。



まず、日本人が「なんかおらっちの住んでいるところをなんていうんだ」という会話をして「日本」という国の単位まで話ができるようになったのは、大和朝廷が律令制をしいた後のことです(もちろん、庶民がそんな話をするとは言えませんが、そうした場合の最終的な落ち着き先が日本になったのはこの頃です)

次に鎌倉時代に元寇があり、政府レベルの人は「国防」を意識します。このとき守らなきゃいけない国土が九州・四国・本土だと意識したはずです。

そこからだいぶ時代が飛びますが、一般的な庶民が「日本」という国を意識するようになるのは、戦国時代の頃です。鉄砲が日本に輸入され、キリスト教など南蛮渡来のものがやってくるようになります。安土桃山時代には京都などに外国人がそれなりに来ていましたので、西国の人々はそれなりに南蛮/中国(当時は明)/日本と対比して考えるようになっていたでしょう。

この意識が広まり、日本国の国民のような意識(明確に日本国とは思っていなくても、公としての国家意識として)が広がるのは江戸中期にぐらいだと思います。

この時代になると、庶民にも教育が広がり、地球が丸いことや海のかなたに南蛮国などがあることは知られていましたし、また水戸藩で「大日本史」が編纂されるなど、国家という意識がだんだん形作られていったように思います。

明確に日本人の庶民に国民という意識が生まれていると考えられるのは、大黒屋光太夫や高田屋嘉平などがロシアに漂流した時代になります。大黒屋一行の漂流は1783年、高田屋一行がロシアに拉致されのは1812年です。大黒屋もロシア女王エカチェリーナに拝謁して、日本人代表として堂々としていたといわれていますし(つまり、自分の身だけを考えて故郷や国を貶めることはしなかった、という公の意識)、高田屋については、すでにロシアが北海道周辺に出没していたため、拉致される意味が分かっていたようです。

このあたりに、日本人が単に私人としてではなく、日本を代表する(せざるを得ない)公人としての役割を認知していた様子が見てとれます。

大黒屋が漂流してから約100年後のことになるのですが、大黒屋から高田屋の時代には日本近海にロシアやその他の西洋国の船が出没するようになってきており、日本も相当に情報収集をしていたようです。

庶民もそれなりに学のある人は1829年に刊行された「那波列翁伝初編」ナポレオン翁伝初編なども読んでいたようですし、アヘン戦争の情報も知っていたようです。

ですので、江戸の中期から末期には庶民もそれなりに「日本国」ということを自覚しており、自覚していたからこそペリー来航が引き金になって、幕末へ動いていったともいえるでしょう。

比較のためにいえば、それらの情報を積極的に集めず、また活用しなかった朝鮮は結局日本に併合されることになり、朝鮮には幕末・日本人のような「朝鮮人」としての自覚は無いに等しかった、といえるでしょう。

明治になり富国強兵のために、国民が学校に行き「日本人」としての教育を受けるようになったのは、西洋のやり方をみればむしろ当然です。当時ドイツの学校にはドイツ皇帝の肖像画がかかっていましたし、アメリカの学校には星条旗が当時も今も掲げられているからです。
民主国家において、国民を育成すのは当然のことなのです。

>私は、江戸時代の終盤・明治維新の前あたりから、藩(狭い意味の国)などから、国(日本国)などへ変化したのかな、と思っています。

そうだと思います。具体的に時期を揚げれば1800年に入ってから1840年ぐらいまでには国民意識はかなり浸透していたのではないか、そしてそれが幕末・明治維新への起爆剤になったと考えています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
歴史を俯瞰していただきました。
今回のご回答で一番強く気ずかされたことは、
<このあたりに、日本人が単に私人としてではなく、日本を代表する(せざるを得ない)公人としての役割を認知していた様子>
というところです。この時点で・18世紀から19世紀にかけて、公すなわち日本国や日本人が見てとれる、のですね。狭い私から広い公に移行していた、のが見えるのですね。

お礼日時:2014/07/04 22:03

坂本竜馬が「日本の夜明けぜよ」と言ったそのときからでしょう

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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
龍馬は、先覚者(の一人)だったのですね。

お礼日時:2014/07/04 19:57

統一した見解ってありましたっけ?



一般的には明治からで、大日本帝国憲法の制定辺りが其れになります。

其れまでは政治に関れなかった民衆が参加出来る世になったというのが、大きかったようです。


しかし大和民族となると、白村江の戦辺りがターニングポイントかもしれません。

其れまでは地方豪族が独自外交を行っていたようで、二面外交の証拠も見つかっています。

それがいざ、戦が近くなるにつれ、「日本国」での大和民族としての統一された意識が出て来たようです。

ただ、此の時はあくまで、支配階級である豪族間での意識なので、民衆は無関係です。

所詮、徴税権や交易の利益の取り合いの話ですし、どの国がどの程度の距離にあり、どの位の大きさかも民衆には分かり様も無かったでしょう。

あくまで支配者が誰になって、生活がどうなるか以上の意味を持たなかった事と思います。


日本は世界的に見ても、公的な奴隷制の維持も無く、身分制度も緩やかなモノで其の壁は世界に比べて非常に低い物でした。

御家人株を買えば、武士の身分が手に入るという事は、同じ「人間同士」という意識は確実に在った筈です。

正確に「いつから」日本人の意識が出来たかは、一口での説明は難しいのではないでしょうか。


逆に現在の先進国と言われている他の国では、実は統一された意識は殆どの国は持っていません。

あくまで「国籍」の所属だけです。

(ほぼ)単一民族の先進国は日本と韓国(ホントに先進国?)だけです。

日本って、「超」特殊な国家なのです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<一般的には明治からで、大日本帝国憲法の制定辺り>
なのですね。ただし、
<大和民族となると、白村江の戦辺り>
なのですね。ただしこの時期は、民衆にとっては、無関係・無関心だったのですね。
そして、初めて知ったのですが、現在の先進国では、
<あくまで「国籍」の所属だけ>
が問題なのですか。私は、言うまでもなく、単一民族の1人として、単一国家に住んでいるから、何処に属しているか(国籍は?)は意識しておりませんでした。

お礼日時:2014/07/04 19:53

やはり、日清・日露戦争のころですね。


ただ、この時期に急に目覚めたわけではなく、幕末からの世の中の変化にしたがって積み上げられていたと思います。
税が金銭による直接納税や自由民権運動、徴兵で息子が兵隊に取られる、兵隊になって初めて知らない土地や外国に行く、身内で都会や北海道に移り住む、電信の発達、外国文化の流入・・・これらの要素によって、それまで「村」しか知らなかった日本人の視界が広がったせいだと思います。

ここで言う「日本人」とは、人口の9割を占める農民たちです。
江戸時代末期まで、彼らは知識はあっても、「国家」意識は乏しかった。

もちろん、それ以前に支配者階級やインテリ層には、国家意識を持っている人はいました。
しかし、数で言えばほんの一握りです。
もし、この人たちを日本人の代表として定義するなら、「日本国や日本人を、自覚し始めた」のは、飛鳥時代にまでさかのぼります。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
(No2のtanuki4u様も触れられていましたが)
<人口の9割を占める農民>

<支配者階級やインテリ層>
とに分けて、考えるべきなのですね。前者にとっては、次第に視野が広がってきて、
<日清・日露戦争のころ>
なのですね。一方、後者にとっては、
<飛鳥時代までにさかのぼ>
るのですね。

お礼日時:2014/07/04 19:33

>我々が、日本国や日本人を、自覚し始めたのは、いつごろからですか?


日本以外の国を意識すると、自動的に、我々は日本人とか日本国というものを自覚します。

百済から仏像と経典がもたらされたときにも、外つ国(とつくに)の客人(まれひと)神、として理解しました。
日本以外の国の神という認識ですから、裏を返せば百済に対して日本国というのを自覚しています。

大宰府には水城を構築して外交窓口としての機能も備えていました。

聖徳太子が隋の煬帝に、有名な日出ずる国の云々という文書を送っています。
明らかに隋に対して日本国というものを意識しています。

平安時代にも、遣唐使というものを派遣しています。
渤海からは使節が来朝しています。

鎌倉時代には元が来襲してきています。

室町時代以降海外との通商が盛んになり、東南アジアの諸地方に日本人町を作りました。
そのときの日本の船には、後に日章旗とよばれるデザインの船籍識別旗を掲げていました。
日本人どうしであれば、だれの持ち船であっても日本から来た船ということで掲揚していました。
つまり、中国やルソン、シャム、大越に対して日本国の人間だということを認識しています。

江戸時代に入ると、オランダに対して明確に日本国というものを位置付けています。
朝鮮通信使という使節が将軍の代替わりごとに来朝しています。
異国船打ち払い令を出しています。異国すなわち日本国ではない国の船です。

庶民も三国一の花嫁とかなんとか言って、唐、天竺、日本ときちんと分けて認識しています。

江戸時代には藩が国で日本国という考え方はなかった、と吹聴したのは司馬遼太郎です。
一介の時代小説家の言説に惑わされないようにして下さい。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<日本以外の国を意識すると>
の際なのですね。他者を意識すると、自分が際立つのですね。古くは、
<外つ国(とつくに)の客人(まれひと)神>
なのですね。
<三国一の花嫁>
などは、庶民も関心を持っていた例ですね。

お礼日時:2014/07/04 16:43

明治維新後の、学校教育によってです。

その目的は、「国家に忠誠を誓う軍隊を作るため」です。

近代国家の軍隊というのは、国家そのものに忠誠を誓っています。だからもしその人物が国家にとって危険な人物となってしまったら、それがどんなに人気がある人でも軍人は国の命令とあらばその人に銃を向けなければいけません。
これは警察なら、その人物が犯罪を犯したなら警察庁長官でも首相でも逮捕しなきゃいけないのと同じことです。警察官は、警察庁長官や首相に忠誠を誓っているのではなく、国家に対して忠誠を誓っていますからね。
ご指摘の通り、幕末の薩摩軍や長州軍は、藩主に忠誠を誓った軍隊です。だけど明治日本の軍隊は藩主に対しての忠誠ではなく、国家そのものへ忠誠を誓わないといけません。え?天皇じゃないの?と思うところですが、もし天皇が野望をもって国家を私的に使うことがあってはいけませんから、本来は国家そのものです。
しかし、国家つまり政府となると、政権交代するたびに忠誠相手が変わったり、政治家の思惑で軍隊が政治的に利用される危険がありますから、日本軍は「政府に私的流用されない」ために、天皇の直属であるという「統帥権」を持ちました。そうじゃないと命令系統がややこしいからです。そしてその統帥権が逆手に取られて軍隊が暴走したのはご存じのとおりです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<「国家に忠誠を誓う軍隊を作るため」>
に作り上げた、のですね。すなわち、日本国や日本人ということは、気長に自然に育つのを待つのではなく、意図的に構築しなければばならなかった、のですね。近代国家の軍隊には、
<国家そのものに忠誠を誓>
わせなければ、ならなかった、のですね。

お礼日時:2014/07/04 16:34

一般国民的には



日清戦争前後

一般の国民が「外国」を強烈に意識させられた。

もうちょっと世界観がある層では、18世紀後半
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E9%9C%B2% …

対ロシアを国防上で認識したかどうかです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<「外国」を強烈に意識させられた。>
際ですね。それは、日清戦争前後であり、ロシアの南下が契機なのですね。

お礼日時:2014/07/04 12:52

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で、いったいなぜ江戸時代はキリスト教が禁止されていたのでしょうか???

Aベストアンサー

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

 次に創造主の元の平等、つまり創造主の絶対性ですが、それが日本の封建領主の倫理観とは相容れなかった。欧州では支配者と創造主は同一であるという「神権政治」、そこから発展した、王の地位は創造主より授けられたものという「王権神授」という伝統的倫理観が土壌にあります。そのような倫理観がない世界(日本)に創造主の絶対性を重んじる思想は、主君・領主への忠誠より、創造主への忠誠を優先させます。このことが天下統一のさわりになると、豊臣秀吉は天正15年(1587)に禁教令を発します。

 さらには外交政策の面。徳川家康は和平外交を進めるため、当初は信仰を黙認していましたが、慶長5年、オランダ船リーフデ号漂着により、プロテスタントであるオランダ・イギリスと交渉開始。日本市場の拡大を図るため、ポルトガル・スペインの締め出しを計画。そこでカトリックへの不利な情報と中傷を行いました。つまりカトリック国の侵略的意図。信徒を利用した反乱計画などをは、当時の幕府としては「天下統一のさわりになると」いう危惧をより拡大させました。禁制により教会の破壊・宣教師の国外追放。信徒の東北・蝦夷地への放逐などが行われました。
 徳川家光はさらに厳しく禁制を行いますが、寛永14年(1637)の島原の乱による衝撃から、鎖国政策の徹底とキリシタン弾圧はより強固となります。
 カトリックの海外布教は、プロテスタントに対する対抗措置という面がありました。その点、海外布教を重視していないプロテスタント国とは幕府は貿易を行えたのでしょう。

参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

江戸幕府のキリシタン禁制は慶長17年(1612)、幕府直轄領での禁制、翌18年に、全国さらに外国まで広げたものですが、キリスト教禁令にはさまざまな要素があります。
 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

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Aベストアンサー

『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』
(昭和21年、文部省教科書局調査課国語調査室作成)
では、

 「 」(カギ)、『 』(フタヘカギ)
   カギは、対話・引用語・題目、その他、特に他の文と分けたいと
   思ふ語句に用いる。これにフタヘカギを用ひることもある。

として、とくに書名は『 』を使うとは定めていません。

ただし、新聞や書籍では『 』を使うことが慣例になっています。

■標準 編集必携 (日本エディタースクール)
 『 』二重かぎ.「 」のなかにさらにかぎを用いたい場合,書名・雑誌名をくくる場合.

■最新 用字用語ブック (時事通信社)
 引用符の中に出てくる列車名、船名、航空機名、書籍・映画等の題名などには『 』を用いる。

■記者ハンドブック 新聞用字用語辞典 (共同通信社)
 (書名・作品名などは『 』を用いる)

■最新版 毎日新聞用語集 (毎日新聞社)
 作品名などに。 [例]「漱石の『草枕』を読んだ」

■朝日新聞の用語の手引 最新版 (朝日新聞社)
■読売新聞 用字用語の手引 (読売新聞社)
 … 朝日と読売は、『 』の項で書名・作品名などのくくり方には触れていません。

『くぎり符号の使ひ方〔句読法〕(案)』
(昭和21年、文部省教科書局調査課国語調査室作成)
では、

 「 」(カギ)、『 』(フタヘカギ)
   カギは、対話・引用語・題目、その他、特に他の文と分けたいと
   思ふ語句に用いる。これにフタヘカギを用ひることもある。

として、とくに書名は『 』を使うとは定めていません。

ただし、新聞や書籍では『 』を使うことが慣例になっています。

■標準 編集必携 (日本エディタースクール)
 『 』二重かぎ.「 」のなかにさらにかぎ...続きを読む

Q台湾は中国なの?

 率直に聞きますが、台湾は中国なんですか。 国際的に台湾は中国であると認めているんでしょうか。 ていうかそもそも台湾て国なんですか?国じゃないんですか? 台湾が中国なら、なんで台湾生まれの人は中国出身ではなくて台湾出身というのですか?
 
 非常にばかな質問かも知れませんが、誰に聞いてもあいまいな答えしか返ってこないのでよくわかりません。 はっきりとした答えをききたいです。 台湾の人は台湾を中国の一部だとは思ってないとか、ききますが実際はどうなんですか。 ていうか逆? 中国が認めてないの? 誰か分かりやすく説明してほしいです。 
 
 ちなみにこの疑問が生まれたのは、F4という台湾のアイドルグループが流行っていることを「華流」というのをきいたからです。 華は中華人民共和国の華ですよね? 

Aベストアンサー

他の方も言っておられますが、日本政府の立場を一言で言えば「台湾は中国の一部」となっています。これは日本だけではなく、中国と正式な国交を持っている全ての国がそうだったかと思います。逆に、中国と国交を持っていない国が台湾を独立国として認めています(世界中で二十~三十くらい)

ですが、実質的に現在の台湾は独立国のようなものです。独自の政体・軍隊・法体系をもっており、中国とは対立しています。また、2020年のオリンピック開催国に立候補もする話があるようです。

> 台湾の人は台湾を中国の一部だとは思ってないとか、ききますが実際はどうなんですか。

これは微妙な問題です。台湾人もこの問題に関しては一枚岩ではないからです。

現在の台湾の政権は「対中国・親日・親米」ですが、野党の中には「親中国・反日・反米」をスローガンとしている者もおり、またその意見も台湾の人たちの一定の支持を得ています。

極端な人たちの中には、すぐにでも中国と統一すべき、という意見もあります。
しかし、逆に「いや、中国は他国だ。戦争をしてでも我々は独立国家となるべきだ」という意見もあります。
まあ、こういう多様な意見が出る事自体、台湾は一党独裁・言論弾圧の中国とは一線を画した民主主義国家と言えます。

中国にとって、台湾は魅力的な土地ですから是が非でも欲しがります。ここが手に入れば、台湾島を軍事基地化して日本・米国・東南アジア諸国にかなりの圧力を加えられますから。

だから、日本は台湾が中国の一部とは認めていますが、米国との会談などで中国への台湾への圧力を問題視したりしています。米国もこれに同調しています。

本気で軍事力を行使された場合、日米両国は台湾側に付く可能性も否定できないなど、この地域は本当に紛争地帯の様相を呈しています。

他の方も言っておられますが、日本政府の立場を一言で言えば「台湾は中国の一部」となっています。これは日本だけではなく、中国と正式な国交を持っている全ての国がそうだったかと思います。逆に、中国と国交を持っていない国が台湾を独立国として認めています(世界中で二十~三十くらい)

ですが、実質的に現在の台湾は独立国のようなものです。独自の政体・軍隊・法体系をもっており、中国とは対立しています。また、2020年のオリンピック開催国に立候補もする話があるようです。

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Q主権国家と国民国家の違いって?

国際政治について勉強しているのですが、この2つの概念の違いがよくわかりません。

何か、概念的な違いはあるのでしょうか?

Aベストアンサー

主権国家というのは、「主権」つまり「政府が自分の力で自分の国を統治し独立的な権利を行使できるような国」のことを意味します。つまり外国に支配されていない、占領されていない、属国になっていない国のことですね。
国民国家というのはnation-stateといって、ネーション=国民が国の基本にある国です。フランス人の共和国であるフランスなどのように、たいていのヨーロッパの国は、国民国家です。しかし帝国のように皇帝などがいろいろな民族や国民を封建的に支配しているような国はあてはまりませんし、バチカンのような「宗教」でなりたっている国もあてはまりません。平安時代や武家社会の日本は、あてはまりません。ソ連も、いろいろな民族の連邦でなりたっていたので、国民国家ではありません。
でも、国民国家でないこうした帝国や封建的国家や連邦国家も、政府が外国の支配を受けていなくて国際社会からみとめられていれば、主権国家といえます。

Q日本はいつから日本国になったのですか?

海外の方に、掲題の質問をされて
答えに詰まってしまいました。
日本史は勉強したのですが、いつの時代から
「日本国」になったのかは覚えておりません。

おそらく簡単な質問なのでしょうが
こうした疑問をサーチエンジンで
探すのはできなかったのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本国という国号を用いるようになったのは、#1、#2の方の指摘の第二次大戦後ではありません。

確かに明治~太平洋戦争の時期は「大日本帝国」であり、戦後「日本国」に国号を変更したのですが、更にそれ以前の江戸時代以前も「日本国」でした。例えば「江戸幕府将軍」は外交文書では「日本国大君」となります。

いつ頃からか、ということについては、↓によれば、言葉自体が最初に用いられたのは645年、国号として用いられていたのは701年の大宝律令からだそうです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC

Qそもそも日本はいつ始まった。

NYの学生です。日本について発表をすることになりました。日本っていつから始まったんでしょう?私自身の持っている断片的な知識では、「三浦半島に人が初めて住み始めた。最も古いヒトの足跡は約2万5千年前である」「619年施行の”飛鳥浄御原令”から、この国土は日本と呼ばれるようになった」っていうのがあるんですが、「一番初めの、そもそもの日本と言うのはこのように始まりました」と正しく言うにはどのように言えばいいでしょうか。どうぞ教えてください。

Aベストアンサー

 日本ができる、というのは、会社ができる、というのは性格が異なりますので、けっきょくそんな「起源点」はどこの国の歴史にも存在しません。要するに好きなところを区切って使うしかないのです。

(1)日本という島ができた
 500万年前くらい。

(2)この国土に人が住み始めた
 1万3000年前から1万2000年前くらい。

(3)確実な年号をもって文献に日本らしい国の様子が初出する
 239年(卑弥呼が魏に遣いせしむ)。

(4)大和朝廷によってはじめて日本に広域政権ができる
 4世紀後期ごろ。

(5)日本という国号の初出
 645年(日本書紀所収の詔勅)。

(6)明治維新(王政復古の大号令)
 1867年。現在まで継続する政権が誕生した。

(7)明治憲法の制定
 1890年。(6)をさらに法制的につきつめればこちらを重視する見方もありうる。

(8)終戦の日
 1945年。8月15日を境に革命が起り主権のありかが天皇から国民に移行したという学説が憲法学においては現在では有力なので(8月15日革命説)、これを採用することもできる。

(9)現行憲法の制定
 1947年。

そのほか政治的に大きな出来事(大化の改新、飛鳥遷都、奈良遷都、平安遷都、鎌倉幕府の成立、室町幕府の成立、江戸幕府の成立)のたいていは「ここで日本がはじまった」というふうにこじつけられます。ぜんぶ正しくて、ぜんぶ間違い。

 日本ができる、というのは、会社ができる、というのは性格が異なりますので、けっきょくそんな「起源点」はどこの国の歴史にも存在しません。要するに好きなところを区切って使うしかないのです。

(1)日本という島ができた
 500万年前くらい。

(2)この国土に人が住み始めた
 1万3000年前から1万2000年前くらい。

(3)確実な年号をもって文献に日本らしい国の様子が初出する
 239年(卑弥呼が魏に遣いせしむ)。

(4)大和朝廷によってはじめて日本に広域政権ができる
 4世紀後期ごろ。

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Q民主政と共和政の違いがよく分かりません。

 タイトルのとおりです。民主政と共和政の違いがよく分かりません。教えてください。

Aベストアンサー

民主政
政治の決定が、選挙か選挙を通じた議会によるもの。

共和政
元首が君主でない。
選挙で元首が選ばれても独裁制を敷いてしまえば、民主政でない共和政ができあがる。


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