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織田信長の天下で世の中はどうなったと思いますか?若しくはかろうじて信長が本能寺から逃げ出せたら「例えば秀吉が何らかの手段で。。。みたいな」どうなってたと思いますか?

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A 回答 (13件中1~10件)

光秀がやらなくても秀吉がやってたでしょう


彼は農民から成り上がって ひょうひょうとした顔をしてますが内面はかなりの野心家です
いずれは信長を殺して天下を奪ったと思いますよ?
まぁ仮に安定して織田政権が誕生していたら日本の近代化は200年は早まったと言われています


ちなみに本能寺の変の黒幕は秀吉と朝廷です
変の計画→秀吉
実行の打診→秀吉→朝廷から光秀
実行犯→光秀

で変が起きれば光秀は謀反人
そこで秀吉がそ知らぬ顔して光秀を討てば自分は主君の敵を討った英雄&光秀の口封じが出来ます

中国大返しなんか明らかに事前に計画してないと不可能
変の事はともかく 事前に準備していたとしたら何らかの理由で秀吉はあらかじめ近畿に戻る予定があったと考えるのが自然です
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この回答へのお礼

やはり秀吉はただ者ではないのですかね?ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/10 21:03

信長が逃げ切ったら、光秀が撃たれ、その周辺の細川や筒井などが粛清され、上杉、長宗我部は滅ぼされ、毛利ももしかしたら、滅ぼされるかしたかもしれませんね。



秀吉があまりにも早く畿内に帰還すると信長の疑いを招くかもしれませんが、史実の中国大返しのスピードならば、常識的な行軍スピードの範囲内なので問題ないですが、毛利との講話は反故にされ、その後始末を秀吉がしなければならなくなるかもしれません。

本能寺の変に、秀吉が関わっているというのはまずありえません(物理的、のちの行動、言動的に)、同様に本能寺の変で窮地に陥り、命からがら逃げ帰る家康も黒幕足りえません。
朝廷説も、官位や将軍位を信長が求めていたことが裏付けられているので、これも微妙です。
結局、本能寺の変は光秀の怨恨説が一番有力と思います。個人的には細川藤孝などの旧幕臣グループが怪しいと思いますが。

さて、生き残った信長はおそらく、楽隠居ぎみになり、後は信忠に任せてしまうと思います。
信忠が将軍位につき幕府を開いて織田幕府が誕生しておしまい。

九州征伐あたりで、奴隷問題が露見してキリスト教は禁止されるでしょう。
その後はもはや妄想するしかないですよね、東南アジアで西欧と戦うのか、朝鮮に出兵するのか・・・。
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この回答へのお礼

確かに、ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/10 21:14

もちろん、明智光秀は討たれます。

徳川家康は天下をとれなかったでしょう。
秀吉は、一生信長にこき使われて、九州の一大名で生涯を終えたはずです。
西へ西へ攻めていったので、ゴールは九州になります。
当の信長は、おそらく自分は隠居して、傀儡の「将軍」を立てて政治をおこな
ったかもしれません。ひょっとしたら、「森(蘭丸)征夷大将軍」なんて将軍様が
誕生したら_おもしろいでしょう?
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この回答へのお礼

なかなか面白いお話しですね!ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/10 21:03

もしも本能寺の変が無かったら、安土城が現存して世界遺産に登録されていたかもです。

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この回答へのお礼

是非そうなったら見に行きたいものです。ありがとうございます

お礼日時:2014/07/10 21:03

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8596335.html
秀吉の傀儡として存続したでしょう。
名古屋がもっと栄えて、標準語はみゃーみゃー言っていたがや。
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この回答へのお礼

こればかりは歴史のいたずらですね、ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/10 21:03

素人考えですが、秀吉が良くも悪くも後継者だったのですから、信長が生きていても大陸を目指して朝鮮半島で大敗していたでしょうし、おそらく幕府を建てたりせず戦国の世の延長のままの統治。

代が1つ2つ代われば反乱勢力も出てきて、天下分け目の合戦をどこかでやることになり、さすがに家康は織田側でしょうが内側で成り上がってのっとり幕府を建てる、もしくは反乱勢力が天下を取って誰かが新たに幕府を建てる、で太平の世の中~みたいな流れになったんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

こればかりは?ですね?ありがとうございます

お礼日時:2014/07/10 21:03

 尚秀吉の領土ですが、四国は織田信孝と丹羽が軍団を率いて長宗我部に


九州は大友と島津が信長に臣従の意思を示していました。
 徳川も東の北条は信長の支配下にあり、武田家領土は信長の支配下にありました。
なので両者ともそれ以上石高を増やす余地がありません


 面白いのは柴田が上杉領土を全部保有し石高計算、あと支配下の商業地の収入を計算すると
信長配下の兵力は(寄騎含む)
1.織田信忠 10万以上
2.明智  2~3万(但し、大阪の商業地を支配下にあるので金銭的収入はダントツ)
3.柴田  4~6万  
4.秀吉  5~6万
5.滝川  4万
6.丹羽  4万
7.徳川  3万

 こんな感じの兵力ですかね。これでは正面からの謀反は無理でしょう。これ以外に日本にある空き地は伊達家で有名なの東北ですが、ここまで兵力差があれうと伊達家など北陸勢の大名は早々に臣従するでしょうし・・
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この回答へのお礼

やはり情勢からして黒幕の存在はありですかね?ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/10 21:09

信長の長子の嫡男信忠は武田家の、岩村城攻めの総大将として出陣(岩村城の戦い)。

夜襲をかけてきた武田軍を撃退して1100余りを討ち取るなど功を挙げたり、、信濃南部の武田方の拠点である飯田城・高遠城を次々と攻略したりと、信長軍団において武田方面軍の総大将でした。
 実績も人望もあり、信長は武田家滅亡後、甲府に入城した信長は、信忠の戦功を賞し梨地蒔の腰物を与え、「天下の儀も御与奪」との意志も表明してます。
 支配国は、美濃・尾張・甲斐・信濃の四ヶ国であり、石高も信長の軍団ではTOPです。

 で当時の書物によりますと信長は日本支配後、信忠に譲り渡し、大陸への侵攻を計画していました。それはおそらく失敗するでしょうが、日本はそのまま織田政権の世になっていたことでしょう。

 尚、秀吉ですが、後年の書物や発言などで謀反など全く考え無かった事がわかります。
家康は遠江、三河など領有し、配下に穴山などいましたが、当時は北条は信長に臣従しており、石高を増やす可能性はなかったでしょう。
 両者とも能力はあれども、それをひっくり返すような兵力は保有していません。天下を伺う可能性などなかったと思います。
 もし秀吉が毛利征伐に成功してもせいぜい4万、信長とは動員数がまるで違いますし、秀吉は平地戦闘は苦手でしたたから、勝ち目はまるでないです。
 さらにいうなら岩見などの銀山を抑えても、中国地方は米の収穫があまりない為、十分な兵站を構築できません。

 
 
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この回答へのお礼

秀吉ではないと?誰ですかね?ありがとうございます

お礼日時:2014/07/10 21:09

信長が病死しても嫡男信忠が織田家当主として実績を積んでいますので、スムーズに政権が継承されるでしょう。

仮に一部で反乱がおこっても、本能寺の変後のような瓦解状態にはならないでしょうから(本能寺の変後に織田家が瓦解してしまった要因は信長・信忠の二人が同時にいなくなったことにあります)、鎮圧されて信忠の代には全国が織田家の支配下になったのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

一番可能性が高いですね!ありがとうございます

お礼日時:2014/07/10 21:09

結論は変わらなかったように思います。

秀吉の策略だと思います。

中国大返し。これ、計画してなきゃ出来ないですよ。すでに秀吉と毛利、長宗我部あたりで密約が出来ていたのでしょう。家康や伊賀も加担していたんじゃないでしょうか。光秀が万が一動かなければ、中国戦線で信長を討死させることはそんな策略下ではたやすいことでしょう。

羽柴とか名乗っていながら柴田と丹羽の強いライバル意識の存在とかも計算していたのでしょう。信長がいなくなったら織田家の統率は保てないとの計算もあったことでしょう。

寺焼き討ちなどの悪行を以って、信長=滅ぼすべき悪人との風評をうまく利用したのが秀吉なのではないでしょうか。

事実と異なっていたらごめんね、藤吉郎さん。
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この回答へのお礼

秀吉はやはりただ者ではないのですかね?ありがとうございます

お礼日時:2014/07/10 21:09

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Q織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??

織田信長が本能寺の変で死ななかったらどうなっていたでしょうか??
個人的には信長が天下統一をして、他の国を侵略していたんじゃないかと思います。
(すぐに病死したなどはやめて下さい)実際塩分を取りすぎて健康ではなかったようですが・・・

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


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 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長の過去の方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に...続きを読む

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 全国統一はして、戦国時代は終わらせたかもしれませんね。
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 かつては暗愚な凡将との評価が有力でしたが、現在ではそれほど暗愚でもないとの評価になっているようです。
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Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

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どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

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 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
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Q関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
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関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

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 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
 後一つは、立花宗茂がいたらです。小早川を大津に残し立花を関ヶ原につれてきていたら、宇喜多と立花、島津と並んでいたら、西軍の勝ちになるでしょう。
 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
 ただ、一つ重要な点は、徳川軍本体は強かったかと言うことです。秀吉に対抗した当時までは、徳川は最強でした。でも、関ヶ原前の20年くらいは大きな戦争もなく人数はともかく経験不足でとても精強とは言えない武士団でした。もし、徳川本体が戦って強くないことがばれたら本当に大変なことになるところです。
 いろいろな書籍を読んでみてもホントにうまく進めた物です。家康という人物の戦略眼と組織作りは見事です。最終勝利者というのでしょうね。参考になります。

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮し...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q家康はなぜ島津を処分出来なかったのか?

関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

Aベストアンサー

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

azuki-7 さん、こんばんわ。


本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の...続きを読む

Q信長が天下を取っていたら

織田信長が天下を取っていたら、日本の近代化はもっと速かったし、日本人の気質も若干違っていたものになっていた気がしませんか?

Aベストアンサー

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長のそれまでの方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、既に出来上がりつつあった東南アジアの日本人町をネットワーク化していったのではないかと思います。(経済感覚が並外れた政治家である信長ですから。)


 信長の行動から見る限り、天下布武とは、武士だけに当てはまるのではなく、常にその分野で革新的・積極的(=戦闘的)であり続けることを意味しているように思います。

 宗教であれば、より哲学的で民衆救済に努力し続けるものを良しとする。
 商人であれば、より安く安定した物資供給を目指す者を良しとする。
 農民であれば、開墾・治水に努力し、より多くの収穫を目ざす者を良しとする。

 つまり、今の自由主義のような、貿易・経済活動を目指していたと思われます。

 また戦争がなくなっても、織田軍団は得意の土木工事(豊臣政権に引き継がれます。)をする公共・インフラ整備部隊として(ローマ帝国の軍団がそうでした。戦いのないときは、都市建設・道路・水道・港湾整備などの公共工事をやっていました。)全国展開・海外進出したと思われます。


史実:徳川幕府の政策によって、日本人の海外渡航と帰国ができなくなり、海外にあった日本人町も衰退しました。

IF:この要素を逆転すれば、海外の日本人町が大発展し、経済活動が活発化し、「海外」には大儲けのチャンスがあるという意識が日本人に根付く。


 当時の日本は、人口の増加が大きく、余剰人口を生みだしていました。
 従って、信長が天下を取り、そのまま織田信忠が政権を継いでいたなら・・・・

 一つのつの夢物語ですが、アメリカ西海岸への植民が行なわれたかもしれません。
 1620年、イギリスからアメリカへメイーフラワー号に乗っていった移民が、今日のアメリカ合衆国の基礎となる移民の始まりとされています。

 人口過剰の日本から、海外を目指す連中のなかには、先に渡航した日本人が既に基盤を作り、先取特権を築いてしまった東南アジアや、ヨーロッパ人の基盤のあるインド・アフリカ方向ではなく、新天地・政治力の空白地帯を目指し、太平洋を渡ってアメリカ西海岸に向かい、カリフォルニア北部に日本人の植民地を作る可能性があります。
 信長が本能寺で死ななければ、1585~90年ごろには、日本全土の統一は十分可能ですから、1600年頃からアメリカに移民が始まり、1650年ごろには、アメリカ西海岸に広大な日本の植民地が出来上がっていたかもしれません。(日本からアメリカは、ヨーロッパから行くより大分遠いのが難点ですが・・・)


 新大陸に、アジア系仏教国が出来ていれば、世界史における白人・アジア人種の立場が逆転した世界になっていくはずです

 参考:ピューリタンによるプリマス植民(メイフラワー号) 1620年

 参考:コルテスによるアステカ王国滅亡 1521年
    カリフォルニア半島を確認    1539年
  ※メキシコ湾に面した地域は、スペインの植民地になったが、太平洋側の植民地化は進まなかった。 

・1600年当時の日本の人口は、3000万人でポルトガルの10倍以上、スペインの3倍以上と言われる。(=母国の人口過多は、植民地へ向かう人間の数の多さを作りだす。)
 ヨーロッパと同等の武器を持った日本人による植民が、カリフォルニア北部~カナダ南部に広がり、ロッキー山脈も超え、ミシシッピー川の西は、日本人の住む地域になっていた?
4
 そうなれば、『アメリカ合衆国』は生まれなかったかもしれない。
 『アメリカ合衆国』がなく、明治維新もなく、鎖国による遅れを取り戻す「富国強兵」もなく、その結果生まれた軍国日本もない歴史があったかも。一

 織田信長の経済感覚や「天下布武」と言うスローガンから見て、もしあと20年、信長が生きていたら相当違った世界があったでしょう。

 信長のそれまでの方針や、商業振興による富の蓄積・天下平定による武士の余剰(秀吉の朝鮮出兵や徳川家による大坂の役・大名の取り潰しなどはその影響という説も。)からみて、フィリピン・東南アジアへの進出はかなり大規模であったと考えられますが、他国への侵略という面の支配ではなく、当時のヨーロッパ諸国がやっていたような植民都市建設=貿易拠点整備という形で、...続きを読む

Q前田利家が後15年生きていたら?

NHKドラマで利家が諸大名より大きな人望があるように描かれていますが、秀吉末期の家康との位置づけはどうだったのでしょうか?又、仮に後15年前田利家が生きていたら、関が原、夏の陣など世の中が  どう変わっていたと思いますか?ご意見をお聞かせください。

Aベストアンサー

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。
 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。
 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。

 私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。
 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。
 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。
 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。
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