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祈願というとはやり神社のような気がします。

賽銭は、神社では神様へのお願いの奉納だと思います。
また、寺では欲を捨てるという意味と理解しています。

祈願とは、神社。つまり、神前で己の行いから事を成就させる誓いを立てることと理解しています。
寺では、欲を捨て自らを見つめ直し、悟りを開いて仏陀を目指すのが目的だと思います。
もちろん、渾沌や極楽浄土への救いの意味もあることは知っています。
ですから、寺では祈願という概念は存在しないと思うのです。

神仏習合で寺でも神社を持っている場合や、その逆もあるかと思います。
稲荷と言われていても、じつは寺だったりしますよね。

と、いうわけで「祈願」ですが、やはり神社で行う物という認識で間違いないでしょうか。
最近、○○寺で××祈願をした。と、いうものを目にしたので違うのではと思った次第です。

A 回答 (12件中1~10件)

そうですね、実際、仏陀の教えと言うものがなんであるかを定めるのは難しいです。

仏教の多くは釈迦の弟子たちが説いたものですし、しかしかと言ってそれが間違っている、捨てるべきだということも出来ません。
ところで日本に仏教が入ったのは基本的に古代の中国からです。

日本に大きな影響を与えたのは空海が持ち帰った密教です。
密教は現世利益を求めているので、この中で祈願、祈祷という行為がなされます。
それに仏教はヒトの病苦の原因は“迷い”だと考えていて、迷いをなくすことが悟りへの路だとも考えています。現世利益を得ることも迷いをなくす手段だとも説いています(もちろん宗派によって異なります)

それに衆生救済は仏の重要な修行の一つです。これも「願い」と言えないでしょうか?
救済を願い仏に祈るつまり祈願でしょ。

願いはヒトの自然に心が発するものです。未来へ向けたものです。
慾や迷いを捨てたいという思いも願いであり、その成就を願う事も祈願です。
祈願祈祷は神道。仏教の区別無くあるのではありませんか?
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この回答へのお礼

いつも回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/29 14:58

「仏教の教えと違う」とのことですが、


仏教の教えをどの程度ご存知なのですか?

密教経典の多くには、呪文(真言)をはじめに、願望(欲望)実現のために行者がすべきことなどを詳しく書いてありますよ。
これらは仏教でないとおっしゃりたいのですか。
日本の真言宗やチベット仏教は、仏教でないと。

質問者さんの仏教に抱くイメージと仏教の加持祈祷が結びつかないというだけの話ではないのですか。

仏教が日本国中に広まると、民衆は仏教に頼ったんですよ。
病や日照り、飢饉などから免れますようにと、病が治りますように、
果ては、家族に迷惑がかからないようにポックリ死ねるようにと、
仏教の神仏に救済を求めたんですよ。
どうしてこの事実を認めようとなさらないのですかね。
どうして、平安期の皇族や貴族が、安産祈願や病平癒の祈祷などを真言や天台の僧侶にさせた事実、無視するんですかね~。
国家安泰の祈願は、宮中の一室で、明治維新まで、ずっと真言僧が行っていたんですよ。
源氏物語をはじめに、枕草子、宮中の公式な記録、貴族の日記などに、このことを裏付ける資料は、いくらでも残っています。


現在伝わる神道が仏教や儒教、道教などの影響を受け、さらに、神道の教義体系や儀式を整備したのは、少しこの方面に明るい人ならば、知っていることですよ。
仏教伝来以前に存在したといわれる古神道なんか、日本のどこにも残っていません。
そんなものが本当にあったかどうかすら定かではありません。
最も古いとされる伊勢神道ですら、これが確立したのは、鎌倉時代、鎌倉!!
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

回答者様は聖徳太子不存在論者か日本書紀捏造論者なのでしょうか。

どうも明後日の方向へ話題が逸れたので元に戻したいと思います。

お礼日時:2014/07/28 17:46

 5番回答者です。



 思い出したのですが、国分寺は、「五穀豊穣・国家鎮護を"祈願"するため」に、各地(国ごと)に作られたお寺ではなかったですか?

 東大寺は「総国分寺」です。鎮護国家の祈願所の最高峰だと、学校で習った気がしますが?

 祈願は神社にすべきものでお寺ですべきものではないとしたら、国分寺はなんのために建てられたのでしょう。東大寺は?


 大河ドラマの・・・ なんだったか忘れましたが、豊臣秀吉が人気取りのため、東大寺の大仏殿(戦火で消失)の大仏に弓を引くシーンが出てきたのを覚えています。

 当時、関白なんてなんなのか、一般庶民にはわからない用語。

 下々をたくさん集めてその前で、「いやしくも、国家鎮護の大役を命ぜられて建立されていながら、自分の身さえ守れないとはなんたる無様。日本の関白の地位にあるものとして、汝大仏をきつく叱り置く」(大まかな趣旨)というような口上を述べて、弓をひいた(引く真似?)のでした。

 あと、元寇の際は、各地の寺にたくさんの坊主が集まって読経し、怨敵退散・敵軍撲滅の「祈願」をしていたはず。

 まあ、これは大河をはじめとしたテレビドラマや、再現シーンなどで何度か見ただけの話で、著名な史書に書いてあるのを見たわけではないし、教科書に書いてあったわけでもないので、テレビ局や小説家の空想だと言われれば反論はしませんが、「間違いだ」「ウソだ、あり得ない」と言えるのでしょうか?
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>「間違いだ」「ウソだ、あり得ない」と言えるのでしょうか?

言えませんし、言うつもりもありません。
たとえば、
あと20分程で放送される軍師官兵衛の中国大返しの際、毛利が後を追いかけてこなかったですね。
織田家家臣のうち、敵に追いかけられ身動き取れず京都へ行けなかった者がいます。
ですが、羽柴軍の後を毛利は追いかけてこなかった。
この事実はありますが、なぜ毛利が追いかけてこなかったのかはわかりません。
大河ドラマの劇中では、官兵衛と小早川・安国寺恵瓊とのやりとりが描かれていますが、
その実はわかりません。歴史書にもどの文献・資料にも書かれていません。

国分寺は、WIKIにも載っていますが、

>国分寺(こくぶんじ)は、741年(天平13年)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。

というわけで、聖武天皇が願いと祈りを込めて建立したものですね。
「仏教による」ということで。

日本語の成り立ちによる読み言葉と用語としての意味を持つ言葉との違いではないかと思います。
たとえば、足を洗うというのは、まあ読み言葉としては、汚れた足を洗うということでしょううが、
もともと仏教というか、寺の僧侶から出た言葉ですね。そこで用語化されている気がします。

ですから、
> あと、元寇の際は、各地の寺にたくさんの坊主が集まって読経し、怨敵退散・敵軍撲滅の「祈願」をしていたはず。

常用語、日本語としての祈り・願いなので祈願かもしれませんね。
でも、仏教。つまり、仏への願いというのは合点がいきません。
仏教の教えと違うように感じるからですね。
まあ、元寇などの場合は、神様仏様何でも良いから誰が助けて!っていう具合でしょうし。

お礼日時:2014/07/27 19:52

祈祷も祈願という言葉も、仏教→神道ですがな。


どうせ、神職が紙に書いた祝詞を読み上げるのだって、仏教(密教)のパクリに違いない!!
───日本は無文字文化。文字を紙に書き付け、それを読み上げるなんてことが、古くから行われていたはずがない───

祈願も祈祷も、本家は仏教(密教)だと思いますよ。
その形式が、日本の神道に取り入れられたと考えるのが自然です。

七福神の弁財天、帝釈天はインドの神様で、仏教の伝来とともに日本に伝えられたものです。
大黒さまだって、マハー・カーラ(マハー・大、カーラ・黒)でインドの神様よ。これは、本来、大国主ではないのよ。(大国主の大国を「だいこく」と音読みし、両者が一体視され、日本国中に広く信仰されるようになった。大国主が日本で広く信仰されるようになったのは、この一体化によって。大国主は、出雲地方の神様で、全国区の神様ではなかった)

そして、こうしたインドの神様は、お供え物などによって買収が可能。お備えをし、護摩をたくなどの怪しげな儀式をすることによって、人々の願いをかなえてくれる。
インドの神様は、日本の神様のように品行方正な神さまじゃないから(笑い)。
ですから、願望や欲望実現のために、お寺に参って、こうした神々にお願いをするというのは、いたって当たり前のこと。
全然、おかしなことではありません。
むしろ、こちらの方が本家筋なんですから。

雨乞い、呪殺、商売繁盛、恋愛成就、病の平癒、子供ができますように、安産、勉強ができますようになどなど、
ありとあらゆる願望や欲望実現の方法などが、仏教(密教)の経典などに書かれていますよ。

仏教の呪術部分は、非科学的だし、明治以降の仏教にふさわしくないということで、
仏教のこうした部分が後退したんですよ。
意図的にこの部分を日本の仏教から切り捨てようとしたんでございます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

前段は決めつけのように受け止めています。
根拠となるものが見つけられません。

確かに、朱印帳はお寺が先ですよね。
写経を収めると印かしるしを書いて貰っていたものですよね。
神社でも参拝客から求められるので、後から書き始めた物ですよね。

シバァ神のことは概ねそうですね。
私は俗に言う縁起物はあまり好みではありません。

人間の欲の為に、物と引き替えに神頼みというのはありますよね。

お礼日時:2014/07/27 18:06

神社が多いですが、寺でも祈願をしているようです。


信州長野の善光寺では祈願を受け付けています。
http://www.zenkoji.jp/kuyo/index.html
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

この寺は無宗派の寺ですね。
自由度は高いと思います。

お礼日時:2014/07/27 18:08

No.2です。


わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。

こちらの説明不足もあり、お礼の中に若干齟齬が見受けられましたので、追加の説明をさせていただきます。

>愛知県の豊川稲荷です。日本三大稲荷かどうかはさておき。妙厳寺(みょうごんじ)つまり、寺院であり、神社ではないようです。
>寺の敷地内に社を後から構えたものもあるのかもしれません。

豊川稲荷と妙厳寺との関係は、ご指摘のサイトでも説明されておりますように、妙厳寺は稲荷神として祀っているのではなく、
吒枳尼天を寺の守護神として祀っているだけです。

日本仏教では日本の神が仏法ひいては寺院を守護するという考え方があります。
奈良の東大寺には手向山八幡宮が祀られています。
比叡山の延暦寺には日枝神社(山王神社)が祀られています。
上野の寛永寺には花園稲荷社が祀られています。
この寺院と神社の関係を別当という言葉で表します。あるいは別当寺と呼びます。
妙厳寺の場合は、たまたま守護神である吒枳尼天の方が有名になっただけです。
吒枳尼天はキツネを眷属としています。吒枳尼天が稲荷と混同されて、妙厳寺の吒枳尼天を一般人が豊川稲荷と称しているだけです。
別当寺の考え方というのは、インド仏教の「天」の考え方から派生したものです。
「四天王寺」や柴又の「帝釈天」などの「天」です。
ところで、七福神は、神様とお考えですか仏様とお考えですか。
お正月の行事の一つとされる七福神めぐりは、どこへお参りにいかれますか。
日蓮宗のお寺で法華経の守護神とされている鬼子母神は神様ですか、仏様ですか。
これ等の一連の事象の背景にあるのが神仏習合と呼ばれる考え方です。
神仏習合が最も早く始まったのが伊勢神宮です。
嘗ては神宮寺が併設されていました。

>やはり神と仏は違う物ですので、それぞれがそれぞれであって良いと思うのですよ。
前記しましたような日本の伝統的文化に関する知識をロクに持ち合わせていなかった明治政府が神仏分離などというバカげたことをやった結果、寺社に対する正確な知識が途絶えてしまいました。
質問者さんが誤解されたのは、質問者さんの責任ではなく明治政府の担当役人の責任です。

これからお盆休みが始まるかと思いますが「お盆」という習慣は神道とお考えですか仏教とお考えですか。
欣求浄土厭離穢土として南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土へ成仏された祖霊がなぜ迎え火に魅せられて娑婆へ戻ってくるのですか。仏教で説明できますか。

>ただ、アジア特有の協調性の基で、曖昧や適当な物言いや振る舞いはヤダなって思うのです。
中国や韓国、北朝鮮は儒教思想国家です。
儒教は大人、小人、君子などと人を上下に峻別して優劣を決める考えを持った思想です。
中華を標榜するのも基本はこの儒教思想です。
インドネシアはイスラム圏最大の人口を有するイスラム国家です。
ロシアはロシア正教と呼ばれるキリストを奉じる宗教に裏打ちされています。
フィリピンも同様にキリスト教思想に基づいた教育を行っています。
タイ、ミャンマ-などは南方仏教と呼ばれる日本の仏教とは異なる仏教を奉じています。
タイでは男性は出家修行して初めて一人前とされます。
そのため企業でも社員の長期休業が認められています
アジア特有と一括されておられますが、韓国の方とインドネシアの方の考え方や立居振舞が同じだとお考えですか。
日本人の考え方と中国人の考え方立ち振る舞いが同じだとお考えですか。

質問者さんを糾弾誹謗している訳ではありませんので、誤解無きよう願います。
ご質問の趣旨は曖昧な行動や中途半端な解決方法がどうにも釈然としない、ということではありませんか。
そのようなお気持ちでおられるところに、お寺で祈願などと聞きなれない言葉遣いが耳に入ったということではありませんでしょうか。
日本人の和を尊ぶ精神は、曖昧を受け入れろ!などという安直なものではありません。
日本人が和を尊び公の秩序を優先するのは、国際的にも称賛されている日本固有のものです。
アジア諸国とは異質なものです。
日本の伝統、文化というものを今一度お調べ下さるようお願いします。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

民俗学を勉強したいと以前から思っています。
時間を見つけて、また、良い資料に巡り会えたら勉強したいと思います。

お礼日時:2014/07/27 18:11

仏教でも沢山の宗派がありますが、私の宗派も「病気平癒御祈念」があり「祈願」と同じ意味と思います。

ただ、「祈願」は神社、「葬式」はお寺、結婚式は教会、と言うのが最近の若い方の風潮ですが、これでは風邪の注射もガンの注射も皆同じと言う事になってしまい嘆かわしい思いです。最近の若者のお寺離れはお寺の経営を圧迫して困窮にあり、その根本はこれらの宗派の教えにはもは人々を救う力が無い事を意味しています。貴方は自分に悩みがあればお寺に行きますか?行かないでしょう?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どの立場でお話をされているのか確定できませんが、
お寺の経営が圧迫・困窮されていてもそれはそのお寺の問題ではありませんかね。
既出の言葉のように「経営」と言ってしまっている時点でちょっと嫌悪感を抱きますね。

お寺の説法は、その場凌ぎでしかないように感じますので悩み相談にはいきませんね。
巷では最近、お寺カフェ?テルプルカフェ?のようなものがあるそうで、お茶を飲みながら
悩み相談に僧侶が乗ってくれるらしく人気だそうですね。

お寺の為に人間がいるのではないと思いますよ。
人間のために宗教があるのです。

シッダールタであっても、キリストであっても、人間ですよね。
また、最近の教えは2世、3世の教えを運用していますよね。
これは現代では良い部分だけをつままれるだけの知恵でしかありませんが、
唯一、神は人間でも知恵でもありませんよね。

お礼日時:2014/07/27 17:40

> 「祈願」ですが、やはり神社で行う物という認識



 哲学ではなく、使われている「日本語」という共通財産を前提にして言うならば、お寺でお願いするのも、「祈願」ですね。したがって、その認識は間違いだということになります。

 例えば「広辞苑」では、「祈願」とは「神仏に祈り願うこと」とされていますし、ほかの国語辞典でもほぼ同様に「お寺」を含めています。

 「祈願所」は、「願掛けのために建てられた社寺」となっています。寺が入っています。

 これら国語辞典は、一時的に流行しただけとかは除いて、そうとう長期間使われ続けてかなり意味が固定されてから載ることになっているので、「お寺での祈願」もかなり昔から行われていたものと思います。

 また、削除されずに今も載っているという点から、いまもそのように使われていると考えざるをえません。

 つまり、「祈願とは神社で行うもので、寺で行うものではない」と言ったら、「日本語」としては正しくないことになります。

 が、 「と、私は思っている」と付け加えてもらえばOKです。

 あるいは、「民法で言うところの『悪意』」とか言うのと同じく、「哲学的意味における『祈願』」とか言っていただけると、哲学者間ではOKかもしれません。
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

この反論くるんじゃないかと思っていました^^

>例えば「広辞苑」では、「祈願」とは「神仏に祈り願うこと」とされていますし、ほかの国語辞典でもほぼ同様に「お寺」を含めています。

 「祈願所」は、「願掛けのために建てられた社寺」となっています。寺が入っています。

 これら国語辞典は、一時的に流行しただけとかは除いて、そうとう長期間使われ続けてかなり意味が固定されてから載ることになっているので、「お寺での祈願」もかなり昔から行われていたものと思います。

これらは、事典発行会社や編集部による宗教的配慮と慣習によるものと理解しています。
国語的にというよりは、神仏習合という形で長い間そうしてきたのですから、本来そうでなくても
そういうことにしておこう的なものだと思います。

この国は協調性の名の下に私利私欲を隠し、責任追及をせず、うやむやにふわっとしてきたのですから。
たぶん、総括や追求が始まると次の事件が起きて?(起こして?)終わったことにする国ですから。

日本語の中や仏教、心理の中で過去形にすることで救うこともあります。
たとえば、躓いて泣いている子どもに「痛かったね~」とか、諦めきれない人に対して「よくがんばったね~」とか。まだ終わっていないのに過去形にしてもう大丈夫だよ的なことにする思いやりのある国なんですよね。

配慮と受け取るのが自然だと思いますよ。

お礼日時:2014/07/27 00:30

 単純な話です。

何れでも問題はありません。古代仏教(奈良仏教)も平安仏教でも寺社何れも加持祈祷を行っていますから神仏習合はあっても神仏分離でなければならないとの事象を見つける事は困難です。
 悟りを開くなどというのは、後から付けられた説明であってその典型が禅です。鎌倉仏教の浄土真宗や遊行念仏で知られる一遍の時宗が悟りを開くことを信者に求めましたか?
 悟りを開いて仏陀を目指すならば一向門徒が現世利益を求めて行動などもしなかったことになります。それが実際にあったということから逆に考えるならば、悟りを開くことの意味が古代仏教の経典解釈とほぼ同義になり、鎌倉以後の新仏教の展開を説明できなくなってしまいます。
 神も仏もないものか、などと恨み言を呟く時に遣われる言葉からは、日本人の宗教観として神仏に優劣などなく従って住み分けすることの必然性も殊更にはないとの説明で十分でしょう。
 或いは神社に特殊な意味があるとすれば、祟り神を封印するとの意味くらいでしょうね。彼方此方に要石や鎮石を置いているのはそうした土俗信仰の表れともいえます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/07/26 19:24

お寺でも加持祈祷を行います。

密教系の真言宗と天台宗のお寺では盛んに行なわれます。浄土宗や浄土真宗ではまったく行ないません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

祈祷と祈願は違うと思うのです。
加持祈祷は、病気・災難などをはらうためものですよね。自力なので浄土宗・浄土真宗にはないわけです。
祈願(例えば合格祈願)は、願いに神の加護を受けるためのものですよね。

お礼日時:2014/07/26 19:22

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