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戦争中に生きていた人たちの話を聴くと、戦争は悲惨だ、戦争はやってはいけない、と口々に言いますが、
そんなに戦争体験が嫌だったならなぜ戦争中に厭戦気分が国民の間に蔓延しなかったのですか。
厭戦を口にすると当局に弾圧されたと言いますが、共産主義者等の特殊な場合を除いて、大弾圧が起きたという記録は見たことが無いので、本当は戦争中は厭戦など感じていなかったのではないのですか。
「戦争は悲惨だ」という意見は戦後に新しく出て来た意見であって、戦争中は(言葉は悪いですけれど)国民は戦争を楽しんでいたのではないのですか。

A 回答 (13件中1~10件)

日本は、その当時と基本的な考えは、ほとんど変わっていませんから、現代で考えてもらっても十分に通用します。



建前では「本当に勝つと思っていた」、
と言うより「どうせ、負けるに決まっている」なんて言えば、「お前がそんな事を言ったから、負けたんだ」なんてのは、今の日本でも立派に通用する考え方ですよね?
もちろん、そんなことを言うヤツは、今でも「非国民」として罵られるでしょう。

つまり、下手なことを言ってしまうと誰かに「告げ口」されるから、怖くて誰も言えないのです。
今でも、誰も信用できない世の中ですから、これも今でも通用します。

そして、告げ口した人は褒め称えられるでしょう。
そして、告げ口した人は「俺だってこんな事はやりたくなかった」なんて、涙ながらに語ればいいだけですからね。

今の考え方で、その当時の事は十分に理解できます。
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人のことを右蔑む人が、いわゆる左翼です。


何事も日本が悪いと教えられた、アメリカのウォーギルトインフォメーションプログラムという洗脳を受けた可愛そうな人達です。

戦争と一口にいっても、どれも原因が違います。
もちろん第二次大戦中の日中戦争と日米戦争では、ものの道理が違います。

第二次世界大戦中の日本の戦争
 戦争名         その原因
・満州事変       清でのクーデター。
・日華事変       下関条約の中華側の反故。中華で頻繁に起こったテロへの報復。
・日中戦争       日華条約の中華側の反故。中国共産党のテロ行為への報復。
・日仏戦        ベトナムルートの中国への補給路の阻止と、ベトナムの独立。      
・日蘭戦争       インドネシアの油田の確保。
・日英(印)戦争    インドルートの中国への補給路の阻止と、インドの独立。
・日豪戦争       ニューギニアをはじめとした、アセアン諸島の確保と基地化。
・日米戦争       ハルノートによる海上封鎖(フィリピン・シーレーン)と石油輸出の停止。
・日ソ戦争       満洲及び、北部朝鮮、南樺太への侵攻。

これだけの戦争を行いました。

第一次世界大戦中の日本の戦争
 戦争名         その原因
・壬午事変(日朝戦争) 朝鮮王の大院君のクーデター。
・日清戦争       大院君の要請による、日本への宣戦布告。
・日露戦争       国連の要請でのシベリア出兵。
・日独戦争       日英同盟でのイギリスの要請。

で、どの戦争の事を言っていますか?
それで回答が変ります。
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#10の方は完全に「右翼」の走狗。

最後の文以外は大嘘。
最後の文には意味があります。
アジアの人達は百年以上続いた植民地支配で、
白人:えらい人、ご主人様。
アジア人:良くても家来、悪きゃ奴隷。
と刷り込まれていました。
我が国がアジア諸国を席巻したとき、上記の関係が「逆転」したのを眼で見て、気が狂う程のカルチャーショックを受けました。
白人がアジア人に牢獄へ放り込まれている、そんなのありか。やっても天罰受けないのか。
だから独立運動に点火した功績は無視できませんが、別にアジア人のために働いた分けでは無い。
石油や他の資源が欲しかっただけ。
でも一応「傀儡政権」をブチ起て我が国が完全に牛耳る「国際会議」を作って、正当化した。

なお米国との開戦前に「満州国」以外の中国大陸では既に泥沼。
御存知と思いますが、昭和帝の御前会議で米国開戦が議題になり制服側が調子の良いことばかり言った。
昭和帝は平和主義だから激怒した「現在中国で泥沼ではないか、お前達中国と太平洋とどちらが広いかも知らぬのか」
内閣は即日瓦解してしまった。
中国(国民党)との戦争で既に厭戦気分は蔓延していた、だが米国と開戦した、国内を引き締めないと戦争以前の問題で国内が崩壊する、だから必死に宣伝し「有る事無い事」吹き込んだ。
国際法で捕虜は「人間的扱いをせねばならない」と決められているが、それを兵士に教えたら「不利になったら降伏」してしまう。
だから口が裂けても教えなかった、兵士は捕虜になっても絞殺だろう、それより玉砕の方が恰好が良い。
我が国には江戸時代以前から「死の美学」が支配していた、逃げたのは荒木村重だけ。
負けたら腹を切る、本来は司令官の重要な使命、だが愚劣な陸軍は士官だけ逃げた。
海軍は逃げようにも船に乗っているから、司令官だけが船と共に海の藻屑になる、どこの国でもそうだ、大バカのイタリアだってそうした、まあ欧州の司令官は「貴族」が多かったから「プライド」が高かったとも言える。
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厭戦とはいいますが、鬼畜米英が上陸してきたら女は犯され男は殺されるんですよ。


そりゃあ必死ですよ。
厭戦どうとか言ってる場合じゃあないです。

例えれば、なんか言葉の通じないエイリアンが宇宙から攻めてきて人間を食べるんです。
厭戦とか言ってられますか?
必死に身を守ってたんです、日本は。

インディアンもハワイ先住民族も、アメリカに駆逐されました。
先人が、世界を巻き込んだ必死の防衛戦闘を行わなかったら、
今頃日本はハワイ州に次ぐ、日本州になっていたかもしれません。

ドイツも分割統治され、家族は引き離され、ベルリンの壁を越えようとしたものは射殺され、
再統合には多くの労苦と血が流されました。

なぜ日本はそうならなかったか?
日本は当時植民地とされていたアジア解放のために戦ったからです。
日本がハルノートを受け入れてアメリカの属国、植民地となっても、
開戦したとして、数カ月で敗戦したとしても、今の日本はなかったのです。
大国、アメリカを大苦戦に追い込み、世界を巻き込んだアジア解放の流れを作り出した。
アメリカは一度、戦艦、空母等、主力艦艇の全てを行動不能にされているのです。
米メディアでは、米海軍最悪の海軍記念日と称されました。
これを苦戦と呼ばずしてなんと呼びますか?

アジア有色人種が欧米人に敵う、という実例を作り出したのです。
この潮流は世界を巻き込んだ流れとなり、勇気づけられたアジア各国は独立していくことになります。
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1つの要因が敗戦したことです。



スポーツで頑張って相手に勝てばそれなりの充実感がありますが、負ければ疲労感の塊になります。
それと同じで負けて多くの戦死者を出したことが現実として降りかかると思います。
戦っている最中は異常心理で高揚していて多少のことは無視する様になります。

もう1つは日本人が島国でまとまりのある事があります。
東日本大震災の時表面上大きな暴動がなくおとなしく整然と並んで食料を受け取る姿が称賛されました。
この様に世間の目という暗黙縛りがあることが戦時中に表面上反戦的行動に出られない理由です。

開戦直後はまだ戦死者も少ない時期ですが、その後は戦死者が増えます。それは自分の周りの人が戦死報告を受けて厳しい現実が徐々に実感します。
また相当の若い男性が兵士として赤紙で召集されますから、働き手がいなうなり生活が厳しくなります。
砂糖とかタバコが配給になったりお寺鐘や火鉢など金属の供出などがありました。
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今の様にマスメディアは無く、一部に新聞社と政府の言うことだけが日本人の情報源でしたから朝日新聞や政府広報が戦争に日本人を駆り立てたので誰も疑ったりしませんでした。

厭世、厭戦を持つ人なんて本の一部の人(社会民主党等支持者数みたいに)しかいません。
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こんにちは。



太平洋戦争前からの満州事変や支那(日華)事変の頃は日本軍の戦局が優勢だった影響が大きかったのでしょう。

日本軍による真珠湾奇襲攻撃でも、日本軍の圧勝という報道に「日本が負けるはずがない」と信じる国民は多かったですし「鬼畜米英」と教育された国民はアメリカとイギリスは悪い国と信じてましたから「欲しがりません勝つまでは!」というスローガンに戦時中の物資不足にも疑問を持たずに堪えました。

私の、母親の兄(伯父)が海軍将校でしたので、ミッドウエー作戦で日本軍が大敗したことを知って、妹になる母親には「東京は必ず火の海になるから実家に疎開しなさい」と警告したそうですが、国内向けの報道は「互角の戦いだった」されましたので、頑張れば勝てると国民は信じてましたから、母親からは舅と姑になる父方の祖父母は「お膝元(天皇陛下が住んでる)の東京が攻撃されるはずがない」と嫁である母親の言葉を信じなかったそうです。

ですが、軍需工場に技師として勤めてた父親はアメリカと日本の工業力が違うことを知ってましたから、母親を実家に帰しました。

しかし、父親も日本が負けるかも知れないと思うようになってからも口に出すことは出来なかったそうで、結局は東京大空襲の犠牲になり祖父母は亡くなりました。

最後まで祖父と空襲火災の消火活動をしてた父親も、辺り一面が火の海になってしまい逃げ場を失ない死を覚悟したそうですが、幼子を抱きながら焼け死んで行く近所に住む若い母親の姿を見て「俺にも幼子がいたのだ」と我に帰り防火用水を全身に被りながら火の海を抜けて生き延びたと父親本人から聞いてますけど、一夜にして両親(祖父母)を亡くした(助けられなかった)自らを責めて悔やんでました。

実際に、父親のように悲惨な空襲体験をした当事者は当時の様子を思い出したくないようですから「戦争は悲惨だ!」と他人事のように口から出して言えるのは、本当の悲惨さを知らないから冷静に言えるだけでしょう。
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楽しんではいませんでしたが、勝ってもらいたいとは思っていました。

南京攻略や真珠湾攻撃の時は誰もが拍手喝采して提灯行列が出来たほどです。厭戦気分が出てきたのは敗色濃厚で、東京や名古屋大阪が空襲に逢い始めた昭和19年頃からです。それまでは国民は大いに盛り上がっていました。朝日新聞など、「欲しがりません勝つまでは」とか「一億玉砕」とか「鬼畜米英」などと国民を大いに煽りました。終戦の前日、昭和20年8月14日の朝日朝刊の見出しは「いざ本土決戦」でした。それが二日後にはころっと変わって戦争批判を始めました。実に性悪な新聞です。
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やはり金融恐慌に続く軍部の台頭/政党内閣の崩壊というのがきっかけになって、満州進出、国連脱退、日中戦争、太平洋戦争へと軍国主義にのめり込んで行ったことが大きいと思います。



新聞の論調を見ると「災いの元は...支那側の増上慢であって、今日までことなきを得たのは日本の辛抱強い我慢のためであった。...日本の堪忍袋の緒は見事にキレた。...日本軍の強くて正しいことを徹底的に知らしめよ。...」とあるように、尖閣に関する今の中国共産党の日本非難を上回るひどい論調でしたよ。1931年の朝日新聞です!

気がつくと国家総動員法が出来、国民は国家に協力するのが当たり前で、何も反対出来ない雰囲気になったわけです。「隣組」が一種の監視制度になって、今でいう自治会長などが国の手先となって出征兵士をオメデトウ/バンザイと叫んで送り出す側になったわけです。仮に嫌がる人がいれば「非国民」と言われ、公安警察にしょっぴかれたわけです。むろん国は勝利のみを謳いました。敗走が始まっても国民は真実を知らされずに「勝利を楽しんでいた」のですね。しかし気がつくと知らぬ間に日本国民の(餓死などによる)死者は3百万人に上っていたわけです。最後の方は把握出来た範囲で死亡通知が届くようになったわけすが、「お国の役に立った」と言われて反論は出来なかったと思います。

日本は中国や東南アジアを侵略した側なのに日本の民衆には加害者意識はさっぱり生まれず、戦後は国にいいように使われていたという被害者意識だけが残ったわけです。
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戦争というのはですね、誰でも嫌なのです。


でも、いったん始まると、とにかく勝って欲しいと思うものです。
負けたら悲惨ですからね。

ですから戦争が始まるまでは「戦争になったら嫌だなあ」と思っているのですが、
始まってしまえばひたすら勝つことを望みます。
戦争に勝つことイコール大事な家族が死なずに済むということですからね。

戦争中に戦争を楽しんでいたということはありませんよ。
ひたすら勝つことのみを願っていたはずです。
戦争に行った家族が生きてもどることを願っていたはずです。
日本が勝ち続けて、早く戦争が終わることを願うしかないのです。

イラク戦争の時がそうでした。
始まるまでは、アメリカのある意味民主的な世の中では
戦争反対の声が大きかったです。

でも始まってしまったら、戦争反対の声は小さくなってしまいました。
勝って早く終わって欲しかったからでしょう。
そして戦争が終わったあとで、またイラク戦争への批判が始まりました。

人とはそういうものだと思います。
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