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以前、時事カテゴリで「アスペな私に教えて~」という共通タイトルで、差別、本音と建前について質問させていただいた者です。
今回は、解決編というか、私が回答のやり取りをする中で、まとまった考えが、定常発達の一般の方から見て、どう映るのかを、教えていただきたいと思い質問いたします。
私はアスペルガー症候群と、医師より診断を得ており、障害者手帳の3級も受けています。今回の質問文は長い上に、少し読みづらいものと思います。私なりに、これまでの質問を踏まえ分析した結果と、対策などです。
読まれた上で、あなたの目には、どう映ったか教えていただきたく思います。

ー本音と建前に関する理解ー
本音と建前とは、本来個人にとって「真実」と「嘘」あるい「闇」と「光」のように、相容れないものである。本音とは、その人がありのままに思うぶぶんであり、その中には、社会通念として受け入れられない部分も含まれる。極点としては雑人衝動や差別意識なども含まれる。一方の建前は、社会通念・常識といわれるもので、社会はこれによって維持されている。
ただ、建前は理想という側面を持っており、これが前面に出る場合、建前は混沌とする場合がある。例えば、「非武装平和主義」や「格差完全撤廃」「差別の根絶・人類皆兄弟」など、確かに理想として語るには良いが、実践困難なものも含まれる。つまり、建前は、多くの人が現実的共通認識として持てる「小学校的道徳」と理想の極点として憧れはするが、実践困難な「大人の事情的理想」に大別することが出来ると考えられる。

本音のみでは、社会秩序が維持できず、建前だけでは人間性が維持できない。よって通常、本音と建前は部分的に混交する。これは本音よりの例では「死刑」や「個人の利益の優先」といった、もっともな理論を纏い、個人の権利を制限したり、逆に個人の権利を拡大する方向で現れる。
一方の建前よりについては「公益の優先」や「所属集団の最大益のために、個人の権利を無視する」などの、個人の権利を押さえ込む・集団の利益を拡大する方向で現れる。
これを、カクテルや水割りなどの、酒の飲み方で例えてみる。
原酒のままでは、アルコールがきつく、味に癖がありすぎて、普通の人は飲めない。これが飲める人は、普通の人から見ると、泥酔し理性の箍の外れた人に見えると思われる。建前なら「独裁者」本音なら「(今風に言えば)サイコパス」ということになるだろう。
なので、普通は原酒を掛け合わせ、そこにアルコールを薄めるための副材料が投入される。つまり大勢の人に膾炙できるまで混ぜ合わせ、薄めたものがたものが、普段一般に言われる建前と本音と言えるものである。
つまり、建前と本音とは、それが認識された時点で、すでに双方が混ざり合い、どちらの味がより強いかという程度の混交した状態なのである。

ー定常とアスペルガーの違いー
定常発達の人は、この酒を混ぜ合わせる行為を、意識上に載せる機会が少ない。経験則もあるが、無数のレシピの中から、それに近い状況で有用であった割合で、本音と建前、副材料を混ぜ合わせ、その場に「それなりに」通用するカクテルを提出できる「融通性」がある。これは、柔軟さというよりも、記憶配列の連結が、芋ずる式に広がっているからだと、私は考えるが、とにかく、普通の人は「混ざり合う」という状況を、無数の記憶と経験のつなぎ合わせにより、違和感無く理解することが出来る。この点で重要なのは、カクテルのレシピが「目分量」つまりは自分でも言語化して理解できていなくても「なんとなく」出来てしまうということである。

一方で、いわゆるアスペルガー症候群などの人は、経験則にのみよってカクテルを提供しようとする。レシピには分量がきっちりと書いてあり、「ピッタリ」の物を出そうとしてしまうのだと、私は考える。「ピッタリ」を出そうとするので、ハズレがでやすく、「空気が読めない」といわれるようになる。
これは、記憶の連結が「一本釣り」に近いからではないかと、私は考えている。芋づる式であれば、本当に欲しい部分の周辺も着いてくるので、回答に「幅」がある。一本釣りではドンピシャかハズレの二択しかない。散弾と狙撃の命中率の違いのようなものだ。

では何故、「それなり」と「ピッタリ」との違いがでるのか。これも芋づると一本釣りから、考えることが出来るように思う。芋づるとは結局曖昧さであり、引き出される記憶が曖昧な「面」として引き出されているのだと推察できる。具体的に言うと、一つの記憶に付随して、類似するパターンが複数でてくるということだ。いくつものレシピを参照にして作れるので、味の失敗が少なくなる。
それに対して一本釣りは引き出される記憶が「点」であることが、最大の違いである。一つのレシピから出来上がるものは、一つのカクテルで、その汎用性は低い。
さらに言うなら、アスペの思考は一本釣りを基点にしているため、曖昧さに関する理解が薄い。面に見える部分も、よく見ると無数の点の集合体である。
この「面」か「点」かの違いが、アスペルガーが本音と建前を理解する際に、苦労する原因であろうと思われる。

ー対策ー
まず、前提として本音と建前は、カクテルのように混ざり合い、部分を端的に抜き出すことが出来ないという前提に立つ。
その上で考えるのは、点の拡大化だ。
一つには、一点を大きくする考え方がある。カクテルの味の汎用化だ。味の幅を大きくすることで、点でも対処できる範囲を大きく出来る。ただ、それも限界はアリ、大味にしすぎると、逆にハズレとなってしまう。
そこで二つ目の考え方だが、点の連結である。一本釣りではなく、釣り針を増やしてやる。あるいは一本釣りをする回数を増やすことである。面に近づけるわけだ。参照に出来るレシピが増えれば、それだけハズレが出る確率を減らすことができる。
このためには、経験則を溜め込むこともだが、使い込むことが必要となる。出す回数が多くなれば、熟練し、同時に複数の「点」を引き出すことも、苦ではなくなり、表面上は「面」と「点」の差は無くなる。

ー対策の問題点ー
習熟・経験値を積み重ねるためには、練習をする必要があり、そのためには周囲の理解が必要である。孤立しがちなアスペルガー傾向のものには、理解を得るための努力が必要であり、理解を得るための習熟先をどこで得るかという「たまごが先かにわとりか」ということに陥りかねない。

また、点を面に拡大化するための努力は並大抵ではない。曖昧さではなくはっきりした論を積み重ねて、同じ範囲を抑えるわけだから、苦労の比は比べ物にならないだろう。また、定常の人と同じだけの範囲を抑えることは、そうとう時間と労力を必要とすると思われ、現実的かといわれると、返答に困る。

ーまとめとしてー
普通であれば、本音と建前は曖昧さの中で、自然に理解されるものである。カクテルを飲む際、味は「カクテル」であり、原料の味ではない。だが、アスペルガーなどは、そこに原料を見てしまう。曖昧さを明らかに細分化してしまう。また、曖昧さを求められる場面でも、細部から全体を作ろうとするため、出来上がりにが求めていたものと違う結果が多い。それが、アスペルガーの特性といえば、それまでだが、そこを理解して、ことの臨む必要があるのではないかと考える。

以上

読了お疲れ様でした。
気付かれたこと、思ったことなどあれば、教えていただけると幸いです。それを元に、考え方の補強や修正などを行い、自分の今後に役立てたいと思います。

よろしくお願いします。

A 回答 (7件)

労いなんか感じてませんよ話相手がいると安心するでしょ?面だとか点だとかはうつだったときこだわった記憶があります。

なんだったかは思い出せないや。どこかで同じ事を考えるんだね。うつはうつどおしでも言い合いになったりします。いやな一面をお互いにもっていてそれを指摘しまうとすごく怒られます。ブロックされたりしますけど仕方がないよね、わたしも昔の自分が嫌で嫌で仕方がなかった。アスペさんがこんなに理解ある人だとはしらなかったな。やっぱり精神障害ってものは、どこか共通点があるんだろうね。健常者にはわからない悩みを抱えていて誰か助けてと思ってもこころの余裕がもともとないものだから、同じ悩みを持った人を探しだせないで孤独におちいるよね。その孤独が半端てはないからこまるんだ。それでもって自分が信じられないでしょ。藁だって掴みたいのにつかめない。どおしようもなくなります。分離脳ってしらべてご覧よ。結構、面白いよ。わたしは、これこれって思いましたから。
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この回答へのお礼

再度の回答ありがとうございます。

分離脳、知らない言葉です。調べてみたいと思います。

障害の違いはあれ、共感できる部分、出来ない部分は、結局人によるのではないでしょうか。例えば鬱同士でも、人の合う合わないはあるでしょう。障害というのは、タグでしかなく、結局はそのものを見るまで実像は分からないものかもしれません。
できれば、私をアスペの何らかの基準とは思わず、先入観無く他の方を見ていただければ幸いです。私は少し変わり者らしいので。

一連のやり取り、とても楽しかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 23:40

結局、おれたちおかしな思い込みをしているだけなんじゃないかな。

こうでなくてはいけない。だから、生きる意味がないって思うわけでしょ。小さな頃からの思い込みってなかなか治らないんだよな。でも、それに気づくことは大事なことなんだ。なんだ、間違えかって。やーめた。この考え方ってって気づくこと。はっきりいってめんどくさかったから。なにが正しい?なんにも正しくない。おれは、強い自分が好きだったのに、うつが弱い自分を連れてきた。これが本当の自分だよ。って連れてきた。連れてきたというよりは、昔から自分の中にいたのだと気づいた。弱くて寂しがりな自分。気づくと逃げられないこともわかった。貴女には、優しさをすごくかんじるのね。だけどおれにとっては、わがままな汚い貴女もおれは、好きなんだ。自分がそうだから。貴女が寂しいよって泣いたとする。愛おしって思う。自分がそうだから。うつとアスペの違いはこだわりだよ。定義づけにするのがアスペで思い込むのがうつ。こんな自分、どうでもいいやって思ってみな。そしたら、貴女はみんなに愛される。自分のことを大切に思わないのが愛。なんていったらいいのかわからなくなっちゃった。うーとね。白紙にもどします。人間は慈愛に満ちているっていうよね。慈愛とは、許すこと。貴女がわたし、寂しがりなんだって言えたとする。ふーんそうなんだ。みんな一緒だね。が愛。わたし、汚いところがあるんだよねって言えたとする。みんな一緒だね。が愛。でも、貴女が優しいのはわかりきっている。人間だもん。慈愛というものは、否定をするものではなく受け入れること。考え方を180度変えてみな。そこには愛が絶対にある。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

三度目ですね、多大な労を割いていただいた事感謝いたします。
たしかに、思い込みはあるのでしょうね。世界はあるがまま、成すがままと思い、自然に振舞えればどれほど気が楽でしょうか。
アスペというか、私の場合、受け入れたものが「分からない」のが問題なのだと思います。他の人であれば、「何となく分かった」や「言葉には表せないが、気持ちは理解できた」といえる受容能力が、私の場合決定的にずれているんですよ。暗黙のやり取りの結果自分だけ周囲とずれた認識をもってしまうことが、問題なのだと理解しています。
だから定義を定め、自分を縛ることで、社会との「暗黙理解」の誤差を少なくする。それが私の定義の意味だと思っています。
愛って何ですか?とか言っちゃうのが私なので、本当に申し訳ありません。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 07:21

アスペもうつっぽくなるんだ?知りませんでした。

うつは、自己否定なので貴女が定義づけないと不安だには、つながるのか。自己否定してるときは、こんなおれは、おれではないって思っていたよ。地獄のような気持ちだったな。自分がなんで存在していてよいのかがわからなくて突然涙なんかしたりさ。情けなかったな。アスペも不安でしょ。その点は、一緒だね(^^)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

アスペルガー症候群の二次障害として、鬱は多いと聞きます。また、アスペルガーであるが故の社会適応のストレスから発症した鬱の部分部分だけ切り取られて「鬱病」とのみ診断される場合もあるそうです。まだあまり認知が進んでいない分野ですので、難しいものです。
私も日々不安はありますよ。その点は一緒です。私の場合、不安に立ち向かう武器が「定義による理解」だと思っているので、随分と堅苦しいですが。他の方に押し付けないよう注意していきます。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 07:06

本音と建前に関する理解についてですが、「人生で一番知りたかったこと」(三宝出版)という本に書いてあったことを読んだ記憶を参考にして話します。

少し理解不足のところもありますので、違っているところがありましたら、ゴメンなさい。

人間には本音と建前のほかに、もう一つ本心というものがあるのだそうです。

例えば、あなたの家族が自分に遊びにゆく用事があるので、あなたに家の仕事を押し付けてきたとした場合に、本音の部分では、「チェッ!仕事を押し付けてきていやだなあ、自分でやってから遊びに行けばいいのに」という気持ちが働いたとします。

建前の部分で、「このまえOOをしてもらったから、いま嫌だと言ったら今度はしてもらえなくなるから、ああいいよ、楽しんできてね、と言っておいたほうがいいかも」と思って、「ああいいよ、楽しんできてね」と会話したとします。

本心というのは、本音と建前のもっと奥にある本当の願いのようなものであるそうです。

この場合ですと、「このまえOOをしてもらったときには本当に助かった。いつもお世話になっていてありがたい。だから自分に出来ることをさせてもらおう」という思いが、どなたの心の奥にも息づいているのだそうです。
それで、結果的には建前と同じ言葉を語ったとしても、「ああいいよ、楽しんできてね」と語った時に、「家族で仲良く暮らしたい」という心の奥の願いとともに、本心があらわれてくるのだそうです。

自分の本当の気持ちに目覚め、素直に生きてゆくことが「本心で生きる」ということになるようです。

自分の本当の気持ちに目覚めるのは、いいかもしれない、とお思いでしたら、この本を参考にしてみてはどうかなと思いました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「本心」ですか?回答を読ませていただいた限りでは、私の理解する「本音」とそう大差ない概念のように思えますが…
一度、ご紹介いただいた本を当たってみたいと思います。しかし、本心ですか。これ以上ファクターが増えると、定義化しても実践運用難しいなぁ。今でも実践運用は経験頼りな面が多いのに。難しいですね、当たり前のことを理解するのって。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/13 07:11

おじさんです。


質問にある「ー本音と建前に関する理解ー」は間違ってはいませんが、あまりにも極端な定義ですね。
例えば、あなたが近所に住む同級生と朝に道で久しぶりに会った場合に。
まず、お互いにおはようと挨拶しますね。あまり親しくはなくても別れ際に「今後機会があったら一緒に遊ぼうね」と言い合って笑顔で別れます。
これは建前です。本当に遊ばなくてもいいのです。これがお互いの雰囲気をよくするからです。
建前とは社会的な堅苦しい習慣だけではなく、日常のちょっとした人間関係でもたくさんありますね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

以前の命の価値に関する質問でもお答えをいただきましたよね。ありがとうございます。
とりあえず、理としては、そんなにおかしくないとの事、ホッと致します。例示が極端なのは、極点を内包できる理であれば、日常をも内包できると考えるからです。以前の質問でも同じ指摘を受けましたが、たぶん発想が積み上げ型ではないのだと思います。ご容赦を。

日常のさりげない気遣いも、私の頭の中ではこのように変換されます。逆にその方が分かりやすいのです。結果として表に出るのは、そう変わらないことでも、よほど習熟しないと有効に運用できないのが、私の有り様ですから。日常のちょっとしたこと、仰るように出来るようになれればいいなと思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 22:01

はじめまして。


一言に言うと、考え過ぎ、ではないでしょうか。
建前は、自分や相手の立場を守るために使うものと私は思います。
一種の気配りです。世の中の人々にはそれぞれの人生の背景が存在しています。その背景を暗に隠して、対等の立場であることを実現するために必要なものです。

一方本音とは、その暗に隠した人生の背景の部分をも晒して語る言葉ないし態度と言えるでしょうか。

例えば今、質問者さんはアスペルガーであることを告白し、ご自身の考えを抜き身で語られています。これは本音の部類に入るでしょう。

他方、私はそれに対して考え過ぎだと言いました。これは、建前によるものです。本音は語っていません。
本音は私の個人的な人生経験をも踏まえて発される言葉であり、この場で言うことは慎まれるべきことと思います。不用意に発すれば誰かを傷付けてしまう怖れもあるからです。

以上参考になりましたでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

どうなのでしょう。仰ること、理屈としては理解できます。本音は剣で建前は鞘のようなものなのでしょうね。見せるだけでも、抜き身は怖い。
ただ、見ず知らず、袖触れ合う程度の間柄だからこそ、言える本音もあるのではないかなとは思いたいです。抜き身を見て、問題なく整備されているか確認したい、そんな気持ちです。
対面であれば、よほど注意はします。付き合いが続く間柄ならなおのことです。そういうことで、お許し願えれば幸いに思います。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:50

俺はうつだったが、物事をこうだのあーだのと決めつけにいかない。

真実は真実だよ。あーだの、こーたのではない。隠れた真実だよ。あすぺは、どーでもいいことを定義化する。だから、めんどくさい。定義化することにより安心感を求めるがこっちには窮屈なんだ。うつは自由が好きで自由すぎて何もかもなくしてしまう。なんにもかないっておもう。アスペは、反対、俺の定義は、これだっていいたがる。まあ、どうだっていいさ。うつきらいでしょ。俺は、うつ大好き。俺はうつをこれからもまもっていく。アスペは、貴方がまもっていく?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

確かに窮屈な考え方かもしれませんね。押し付けがましい文章と感じられたなら、謝ります。
真実は真実と言い切れるのは、羨ましいです。私の場合、それは真実か?と問うところから始まりますから、定義をつけないと不安なんです。日常のつまらない事でも。

別段、鬱をどうこう思いはしません。むしろ私自身抑鬱傾向が強い性質ですから、親近感すら持っています。お互い、周囲の状況が好転すると良いですね。

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/11 21:38

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