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荒木又右衛門や大久保彦左衛門等
江戸初期を扱った時代劇ドラマで

外様大名と旗本・御家人は
反目していて
仲が悪かった
特に旗本は外様大名を目の敵にしていた

と言うのがあったのですが

質問(1)
当時、外様大名と旗本・御家人が
実際に対立したり反感を持っていたり
していた事があったのでしょうか?

質問(2)
(1)があったとしたら
両者が両者が対立したり
仲が悪かった原因は
どんな事でしょうか?

質問(3)
外様大名の分家で
旗本に取り立てられた家がありますが
そう言うのは
外様大名、旗本・御家人
どちら派になるのでしょうか?

A 回答 (5件)

荒木又右衛門や大久保彦左衛門等


江戸初期を扱った時代劇ドラマで

外様大名と旗本・御家人は
反目していて
仲が悪かった
特に旗本は外様大名を目の敵にしていた



ドラマにした時に見ている(現代人に)分かりやすいから、そういうことにしてあるだけ。

幕閣の重要人物 ≒ 譜代大名
譜代大名の親戚に旗本とかいるわけで、外様大名などでは、その旗本家と昵懇になっています。
親戚づきあい重要です

上杉家は跡継ぎがいなかったので潰される危機があったが、嫁の実家が保科正之だったので
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89% …

救済されている。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/14 22:41

質問(1)


個人的にそういう感情を持っていた人はいたのかもしれませんが、具体的には寡聞にして知りません。
ご指摘のドラマを見ておりませんが「外様大名と旗本・御家人は反目していて仲が悪かった特に旗本は外様大名を目の敵にしていた」と十把一絡げにした言い方は少なくとも全くの見当はずれだ、とは言えます。

質問(2)
個人ベースの感情ですので記録も見当たりません。
従いましてこれが原因だ、と言えるだけのものはありません。

質問(3)
「派」と言われておられますが、どのようなことを指されるのでしょうか。

外様、譜代、という言う区分には明確な定義がある訳ではありません。
外様という言葉は江戸時代以前から使われていたことばでです。
応仁の乱以降の武家どうしの勢力争いの際に、取りあえず協力関係にあって、軍事的な協力をする人を外様と呼んで、運命共同体のような関係を結んでいた人とは区別するために使われていた言葉です。
外様大名という呼び名も便宜上使っていただけです。

江戸幕府という組織は、大名の中で軍事的にも経済的にも突出して大きかった徳川家が、朝廷の委任を取り付けて、他の大名を統率するために設けられた組織です。
現在のような中央政府ではありません。
幕末に大政奉還という手続きと言いますか儀式がおこなわれたのは、徳川家が朝廷に対してこの委任されていた責務を返上しますという儀式です。
徳川家が業務を行うための組織ですから、当然徳川家と運命共同体的な関係にあった人が業務に携わりました。
外様大名が幕閣に就任できなかった、と巷間言われるのはこの為です。
藤堂家のように、何で徳川家の手伝いなんぞせにゃならんの?と考えて幕閣になる気などさらさらない人達もいました。

江戸時代も中期以降になりますと、どこの大名も財政難に陥り幕府から多額の借金をするようになりました。
身内の方がお金が借りやすいですから、セッセと徳川家からお嫁さんを貰ったり、養子を貰ったりしました。
徳川家側も将軍は一人ですので、他の子供をセッセと他の大名家に押し込みました。
薩摩島津家もお嫁さんを貰いました。
徳川家からお嫁さんを貰うと親戚になりますので、同時に徳川家の旧姓である松平を名乗りました。
つまり島津家はお嫁さんを貰った時以降は松平薩摩守斉彬などと名乗りました。
幕府の役職には就任しませんでした。
江戸時代の中期以降の江戸の街の地図をみるとややたらに松平があります。

江戸時代というのは約300年という長い期間ですので、一括りで考えると誤解がおきます。
幕末の勤王佐幕がスローガンとなった時代には、幕府に敵対するグループの主力が幕政に関与していなかった大名の家臣団だったこともあり、この時代には外様はけしからんと考えていた人は沢山いたでしょう。
中には水戸の家臣のようなハネッカエリもいました。
特に江戸の街に住む旗本と呼ばれる人達は徳川家とは運命共同体でしたから、佐幕運動は自分達の生活を脅かす運動でした。
これより以前ののどかで平和な時代に、大名に対して一々色づけして考えるようなシチメンドウくさいことはやってはいなかったでしょう。
荒木又右衛門や大久保彦左衛門は幕末期の人ではありません。

とまぁ~こんな状態ですから何を根拠に反感を持つのかということになってしまいます。
何時の時代でも個人的な感情にはあまり論拠はありませんので、問い詰めるのは如何なものか、ということになります。

TVや映画の時代劇や時代小説はあくまでも文芸作品です。
全て著者の創意工夫で創り出されたものです。
歴史学会の発表論文ではありませんので、論拠となった源典資料など一々書かれていません。
これをつかまえて史実かどうか、と言ってみて見ても大した意味はありません。
こう書いても、あるはこう演出しても見ている人に違和感を与えないだろう程度の話です。
有名な宮本武蔵なる人物像も吉川英二が創作したものです。
長谷川平蔵こと鬼平も池波正太郎が創作した人物像です。
赤穂浪士や大石内蔵助なども歌舞伎の台本作家が作り上げた姿です。
事件を基にして、演劇を創り出しました
史実と違おうがどうであろうが文芸作品としての価値評価が変わるものではありません。
時代劇ドラマとして楽しんでください。
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基本的に外様大名は幕政に関与しませんので、外様大名と旗本・御家人が政治的に対立することはほとんどありません。


その時代劇の時代考証が甘いというだけかと。
江戸初期であれば藤堂高虎のように幕政に少なからず関与した外様大名もいますが、幕府政治の体制も固まっていない時期ですので、旗本と対立するようなケースは想定できません。
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下級の旗本と小藩外様大名とは反目する理由も面識もなかったと思います。

老中などの要職は親藩大名で、幕府のために小藩の取り潰しで反目していたでしょう。旗本も書院番クラスや大岡忠相のように奉行クラスは将軍と話すことができるので、小藩大名は幕格の旗本を恐れていたでしょう。加賀藩、薩摩藩、仙台藩の外様大名は徳川家との婚姻関係で立場はゆるぎないもので反目する必要はなかったと思う。
柳沢吉保は大名の家来から出世して大名になり、大岡忠相も旗本から大名になっている。小藩外様大名の子弟が旗本の養子になることはあったと思うが、出世して旗本になることはなかったと思う。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/15 09:51

Erdbeerkegels さん、おはようございます。




質問(1)
当時、外様大名と旗本・御家人が
実際に対立したり反感を持っていたり
していた事があったのでしょうか?
自分の屋敷に入ってきたものを処分するのはその屋敷の主の裁量にかかっていて、たいていは助けるのが当たり前らしいです。昔、徳川家康が伏見の屋敷に石田三成をかくまったのは有名な話です。反感では別にないでしょうが、
当時は戦国時代から日も浅く、そういう荒々しい気風が残っていたのでしょう。
そういう旗質問(2)
(1)があったとしたら
両者が両者が対立したり
仲が悪かった原因は
どんな事でしょうか?
場合によりけりだと思います。旗本一般の中には外様大名に一泡吹かせてみたかったのでしょう。また、役付きの旗本の中には戦ではなく役付き官僚として出世した人もいるので、その人たちにとっては外様とはいえ、大名との付き合いはプラスになるでしょう。
質問(3)
外様大名の分家で
旗本に取り立てられた家がありますが
そう言うのは
外様大名、旗本・御家人
どちら派になるのでしょうか?
たぶん事態を静観する側につくのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/08/15 08:47

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