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戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで、幕府軍はなぜ負けたのですか?グタイテキナ理由があるのですか?

A 回答 (6件)

>幕府軍はなぜ負けたのですか?



他にも回答がありますが・・・。
倒幕派(薩摩藩と岩倉具視?)が戦術として、「偽物の錦の御旗」を掲げたからです。
確か、皇室は「この時点では、倒幕派に「錦の御旗は、渡していない」。
この戦闘も、薩摩藩からの攻撃が戦端ですからね。
孝明天皇は、徳川慶喜・松平容保を信任していましたよね。
幕府側としては、「当方が正義(官軍)」として戦っていたのです。
が、突然(偽物としても)敵方(倒幕軍)に「錦の御旗」が掲げられた訳です。
「錦の御旗」を攻撃する事は、天皇に弓を引く事になりますよね。
この時点で、幕府軍は「賊軍」になり倒幕軍は「官軍」になります。
錦の御旗の真偽を確認する術を、幕府軍は持っていません。
余談ですが・・・。
嘘か真か、暗殺で(倒幕を望まなかった)孝明天皇が急死しますよね。
その後、三条実美が幼い明治天皇を擁立。全ては、三条実美の思いのままでした。
※七卿落ち時、三条実美は幼い祐宮(後の明治天皇)を人質として連れ去った!との話もあります。
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その前に長州征伐ってのがあったのですが、外国からの武器を買い込み西洋風の戦いを学んだ長州に、幕府連合軍が負けちゃったわけです。

まぁ藩主レベルの人たちは長州が殺人兵器を沢山買い込んでるのを知ってて、あまり相手したくないって思ってたようなところもあるみたいですが。

だから戊辰戦争が始まったとき、すでに幕府軍に勝ち目が無いって、他ならぬ幕府軍の総大将が思ってたんだと思います。
下の者たちは、まだ天下の将軍様が負けるはずが無いみたいに思っていたのかもしれませんが、まぁそれがもう時代遅れな感覚だったんですね、きっと。
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>グタイテキナ理由があるのですか?


御大将の慶喜が戦の最中にスタコラ逃げ出したました。
総大将が逃げては戦には勝てません。
旗印を忘れて逃げだして、江戸の親分が子分衆と一緒にあとから東海道をエッチラ担いできてくれました。
旗本八万騎ではありません。
スッ町人の江戸っ子です。
これでは戦に勝てというほうが酷でしょう。

尾張の義宣ごときは自分の立場もわきまえずに薩長軍に加担しています。
紀州の茂承においては兵を差し出すだけではなく15万両という軍資金まで差し出しています。
どちらの家にもそれを止める家老も家臣もいませんでした。
そもそも家康が紀州と尾張に将軍就任の権利を持たせてまで、城を築いたのは、西国の軍勢を押しとどめるためでした。
自分がいかなる責務を持たされているのか、そのおかげで今の地位があるのだ、などという自覚はゼロです。

鳥羽伏見まで薩長軍が上ってくる道すがらの姫路の酒井も岡山の池田も指をくわえて見ていただけです。
会津や長岡のように玉砕覚悟で兵を出して立て籠もればいかな薩長でも簡単にことは運ばなかったでしょう。
山陽道になぜバカでかい城を二段構えで設けられているのか、という本来の目的を忘却した腑抜けた虚け者でした。
どちらの藩にも単身切りかかるだけの胆力のある藩士もいませんでした。
彰義隊も会津の白虎隊もいませんでした。

ということで、そもそも鳥羽伏見などというところで戦を始めること自体が大間違いでした。
勝てるわけがありません。
すでに徳川幕府という体制が内部から腐り果てていましたから、負けるべくして負けました。
錦の御旗などというインチキ模造品を持ち出してこなくても慶喜の軍は早晩総崩れになっていたでしょう。

「武士道とは死ぬこととみつけたり」「二君にまみえず」などという言葉はどこにもありませんでした。
新渡戸のオッサンもどこを見ていたんですかね~
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幕軍側の要因


 旧式の装備
 旧式の戦術
 寄せ集めの部隊による指揮命令の不統一
 実戦経験の欠如

薩長側は逆で、特に
 新式装備と実戦経験(下関戦争、薩英戦争、長州征伐)による
 
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ANo1です。



失礼致しました。

幕府軍の軍艦名は「海洋丸(誤)⇒開陽丸(正)」でした。
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戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いで倒幕派軍は「錦の御旗(朝廷の旗=菊の紋章)」を掲げてました。



この、錦の御旗を戦場で見た会津藩家老「神保修理」が大阪城で指揮を執ってた徳川幕府15代将軍「徳川慶喜」の御供をしてた会津藩主「松平容保」に倒幕派が錦の御旗を掲げていることを報告すると会津藩主の松平容保が徳川慶喜に倒幕派軍が錦の御旗を掲げてることを伝えたことで将軍の徳川慶喜は「朝敵になってしまうことを恐れた」のか側近の松平容保等と共に後の箱館(函館)戦争でも使用された幕府軍の新鋭軍艦「海洋丸」に乗艦して大阪から江戸に逃げてしまったことで幕府軍の統率を執る指揮官が居なくなり、兵力では倒幕派軍より勝ってたはずの幕府軍は敗北という結果になったのです。

この、錦の御旗を倒幕派軍が掲げてることを会津藩主の松平容保に報告した会津藩家老の神保修理は将軍の徳川慶喜が松平容保等を御供させて江戸に一緒に逃げてしまった責任を感じて後に切腹してます。
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