下のURLをご覧ください。
http://www.tsukurukai.com/_src/sc359/nenpyo.pdf# …

歴史の年表で30年くらい前の教科書に古墳時代、という区分はありましたか ?

古墳時代と飛鳥時代がかぶっていますが、これはどういう意味ですか ?

時代区分で1333年から1336年までが、空白になりますがこれはどういう意味ですか ?

室町時代のところが、南北朝時代や戦国時代になりますがこれはどういう意味ですか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

>歴史の年表で30年くらい前の教科書に古墳時代、という区分はありましたか ?


ありました。50代の方に確認してみては?
>古墳時代と飛鳥時代がかぶっていますが、これはどういう意味ですか ?
古墳時代:古墳が作られていた時代
飛鳥時代:飛鳥に政治の中心が置かれていた時代
したがって、飛鳥時代でも古墳は作られていた間は古墳時代でもあるということです。

>時代区分で1333年から1336年までが、空白になりますがこれはどういう意味ですか ?
いわゆる建武の新政と呼ばれる時期ですが、○○時代という呼び名が作られていないので空白になっているだけです。

>室町時代のところが、南北朝時代や戦国時代になりますがこれはどういう意味ですか?
南北朝時代:南朝が成立してから南北朝が合一されるまで
室町時代:足利尊氏の建武式目制定から室町幕府の滅亡まで
戦国時代:応仁の乱の開始から室町幕府の滅亡まで
したがって、室町時代の初期は南北朝時代でもあり、室町時代の末期は戦国時代でもあるというわけです。
現在のように元号で時代を区分しているわけではなく、いろいろな目安で時代を設定しているので、重なったりもするわけです。
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この回答へのお礼

年表の作り方は簡単ではないのですね。
よく理解できました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:01

 これはよく誤解されがちな問題ですが、時代区分論ほど実際に困難な問題も他にはありません。


この年表ともいえない年表と呼ばれる代物をみても「鎌倉幕府の創設」が1192年となっていることを実例としてお話ししましょう。
 「鎌倉幕府の成立に関する年代」といっても実際には幾つもの説が、この「1192年論」もその中の一つでしかなく、それも現在では少数意見的な存在です。その理由も明確で「頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年だから」との理由で、征夷大将軍と鎌倉幕府を等号関係に置いている点に説得力がない。
 むしろ「幕府」の権能に着目し、守護が全国に配置された年を以て幕府の成立と見なす考え方の方に説得力はあります。
 そして何時から何時までを○○時代と呼ぶとの言い方にも問題があり、現在の様に全国一律そして瞬時に情報伝達をできたともいえない時代ですから、地域による偏差もあります。
 と同時に実際の政権運営主体による行政統治がいつ動き始めたかとの問題もありますので、○○時代はいつに始まるなどとは教えもしません。教えても意味などありません。いっみれば「移行過程の連続と断裂」の繰り返しともいえます。
 1333年の問題でいえば、後醍醐のアナクロニズムによる朝令暮改が繰り返された建武親政とやらの時期ですから、それによる歪みを巡り生じた新たな枠組を求めての前哨段階ともいえますので、南北朝時代と記すケースもあります。
 ここからここまでが何時代と切れ味の良い包丁でスパッと切れる羊羹の切り口のようにタイトに区分できるのではなく、切れ味の良くない包丁で切ったトマトのようなものとお考えになれば解りやすいかと存じます。
 
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この回答へのお礼

歴史年表というものは、学生のころに思っていたよりも
いろいろと複雑な要素があるのですね。
勉強になりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:20

30年前の教科書は手元にないのですが、


吉川弘文館の標準日本史年表(1982年増訂初版)には、
[原始・古代][中世][近世][近代・現代]の大区分があり、
[原始・古代]には、(原始時代)(飛鳥時代)(奈良時代)(平安時代)の中区分があり、
[中世]には、(鎌倉時代)(室町時代)(織豊時代)の中区分があります。
「古墳時代」との表記はありませんが、(原始時代)には《先土器文化》《縄文式文化》《弥生式文化》《古墳文化》との表記が並んでいます。また、《先土器文化》《縄文式文化》《弥生式文化》《古墳文化》との表記の他に、【縄文文化時代/弥生式文化時代/古墳文化時代】【先史時代/原史時代/歴史時代】【石器時代/金石併用時代】の区分表記も並記されています。これらには西暦年のような数値表現での区分はなく、境界線らしきものは斜線で表示されています。
 
「1334年建武の中興」が、鎌倉時代の区分線の内側に表記されています。
北朝・南朝が併存していた頃は、中世の中ではあるのですが、「○○時代」と明記されていないで、吉野朝廷と武家の政権(室町幕府)の並立のような表記法です。1394年頃に室町政権の確立と表記されていますが、1404年には地方分権の進行、1478年には下克上・群雄割拠・大名領の形成、1490年代には朝廷の衰微との表記があります。
中学、高校の教科書は、ほぼこの標準日本史に似た時代区分を使っていたのではないかと思います。

現在ポピュラーな日本史の時代区分ならば、ウイキペディアをご覧ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …
多くの時代の始期・終期に関して異なる説があるのは当たり前でしょう。
時代区分は、「時代をどう見るか、どこに時代の特徴を考えるか、その始まりがいつ頃起きたと考えるか」という認識の問題だから、見方、考え方で変わることがあります。
教科書は、そうしたことを踏まえて、その教科書が書かれた時代に「できるだけ客観的に証拠などを挙げて考えた場合に、多くの学者・研究者が妥当と思っている区分」を使っています。
で、飛鳥/白鳳/天平、室町・南北朝/室町/戦国のような区分は、文化や政治状況を考えるか、政権の所在地で区分するだけで済ませるかというようなことも絡んで来ます。

時代区分の名称や年号が大事だとテストなどでは思うのでしょうが、どのように区分にすると(時代の政治や経済、文化などの事情がどのように際立って認識出来るのか)と考えてみてはいかがでしょうか。 そのように考えた場合、時代と時代の移行期は、固有の時代名付けたり、一方の時代に入れてしまわない方がイイということもあるかもしれません。
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この回答へのお礼

年表というものは、唯一無二の物では無かったのですね。
一番一般的な年表を教えて頂いてありがとうございました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:14

q123sos さん、こんばんは。



歴史の年表で30年くらい前の教科書に古墳時代、という区分はありましたか ?
あったと思います。

古墳時代と飛鳥時代というのは飛鳥時代に日本に仏教が伝来しました。しかし、天皇家や豪族たちはまだ古墳を作っていましたから、重複するのです。


1333年から1336年までが、空白になりますがこれはどういう意味ですか ?
それは建武の新政という時代です。後醍醐天皇が朝廷で直接政治を見ていた時代です。この時代は鎌倉幕府が滅ぼされ、室町幕府が成立するまでのわずかな時代です。

室町時代のところが、南北朝時代や戦国時代に分けれているのは
足利尊氏によって開かれた室町幕府はまだ不安定な政権でした。南朝の後醍醐天皇に嫌われた尊氏は持明院統の皇子をを担ぎ出し、北朝を作ったのです。この間義光の時代まで60年間にわたって騒乱の時代になります。これを南北朝時代というのです。

戦国時代は8代将軍義政の時代で起きた応仁の乱がその発端ですから、まだ室町幕府は存在します。だから重複するのです。織田信長が足利義昭を京都から追放する約100年間を戦国時代と呼びます。

この回答への補足

こんばんは。

補足日時:2014/08/20 21:06
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この回答へのお礼

今と違って、時代が重複することもあるのですね。
色々と勉強になりました。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 21:06

意味としては書いてあるとおりの意味だと思います。



時代区分というのは、1つの瞬間が必ず1つの時代に属するように分類する方法もあるし、
「xx時代はxxxの事跡をもって始まりxxxの事跡をもって終わる」という方法もあります。
ご覧になっている年表は後者の考えで作られており、無理に隙間や重複をなくそうとはしていないと言うことだと思います。

例えば鎌倉時代が始まったのは何年か(どの事跡を始まりと考えるか)もいろいろな考え方があるわけなので、あまり細かいことを気にしてもしょうがないと思いますよ。
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この回答へのお礼

なるほど。
年表の作り方は、一つではないのでね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/08/20 20:57

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数年前に奈良の古墳の年代測定で、卑弥呼の時代はすでに古墳時代に突入していたというニュースがありました。
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邪馬台国畿内説の優位は動きませんか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>卑弥呼が亡くなったときにはすでに古墳時代であったということで決着がついたのでしょうか?
現段階では卑弥呼は古墳時代初期に数えることが多くなっていると思います。しかしこれで決着がついたかという点は分かりません。またこれから何らかの発見・展開があるかもしれません。

>邪馬台国畿内説の優位は動きませんか。
畿内説を信じている人が多いという点、ほかの説を信じている人も少なからずいるという点では変わっていないと思います。
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Qhttp://www2.odn.ne.jp/hokkeji/sub7.

http://www2.odn.ne.jp/hokkeji/sub7.html
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空海以前に果たして日本に護摩というものがあったのでしょうか?

Aベストアンサー

一般に、日本の密教で見られる護摩修法は、延暦23年(804年)に留學僧として唐へ渡った最澄と空海が持ち帰って広めたもの言われます。しかし、密教を組織的に学んだ日本人は最澄と空海が最初なのでしょうが、彼ら以前に、すでに護摩修法が断片的に日本に伝わっていたようです。修験道の役小角(えんのおづぬ)らも護摩修法を行ったといわれます。役小角は7世紀末の人であり、最澄や空海よりも100年も早く、護摩修法を行っていたことになります。

インドで密教が成立したのは5世紀の頃です。100年後に中国へ伝わり、さらに100年後の日本へ伝われば、7世紀に既に密教が断片的に日本へ伝わっても不思議ではありません。

Q古墳時代の始まりについて質問です。

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邪馬台国のその後は不明ですが、3世紀中頃に日本国内に有力な勢力があって、古墳時代の始まりが早まったのだと思いますか?

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よく言われているのは、定型の前方後円墳が作られるようになってから。
遠く離れた地域に縮尺は違えども同一の形のものが作られるようになってからですね。

近年の考古学の成果で、それに当てはまるのが3世紀の中頃までさかのぼったということです。
箸墓古墳あたりがそれにあたり、邪馬台国との関連を指摘する説もありますね。

>3世紀中頃に日本国内に有力な勢力があって、

考古学の成果をもとに、離れた地域に同じ形の前方後円墳があったということは、同じ設計(測量方法なども)で作られたと考えられる。
だから、それぞれの地域の有力者が協力関係、連合関係にあったのではないかと推測されています。
それが大和政権なのではないかとも言われていますね。

Q 先日、http://questionbox.jp.msn.com/q

 先日、http://questionbox.jp.msn.com/qa5817520.htmlの質問があり、私も拙い投稿をしました。
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 先の大戦後、ある意味で当然ですが一国を統率して国際の中で伍していくために、国民の統率が大事な課題となっている東アジアの諸国があります。
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 【質問】
 仮にその支えとなっている反日思想を除去してしまった場合、そういう国々の国民の心の支えは空しくなり、ふらついてしまうでしょうか?

Aベストアンサー

 国ごとに国情が違うため、同一ではないでしょう。

<韓国の場合>
 民族国家維持=ナショナリズムというようなところがあり、反日思想の強い人は、反米・反露・反中です。
 元々、政治・軍事的には日本以上に、これらの国に対して危機意識を持っています。

・反米
 在韓米軍が駐留していて、アメリカの言う通り外国に戦闘部隊を派遣しなければならないことへの反発。
・反露
 第二次大戦終結時、金日成を起こりこんだ民族分断の元凶。朝鮮半島進出を狙い、日本の進出を誘発した過去がある。
・反中
 1000年以上前から、属国扱い。朝鮮戦争時に大軍を送り込んで、半島分断を決定づけた国。

 朝鮮半島に利害関係を持つ国、日本・ロシア・中国・アメリカは、韓国よりもはるかに人口が多く、どの国も経済力・軍事力で韓国を上回る。
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 ちょっと微妙なところがあります。
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Q映画スタートレックと古墳時代の古墳との関係について

映画スタートレックに出てくるエンタープライズやボイジャーなどの宇宙船の形は古代の古墳時代の前方後円墳の形に似ていると思うのですが、何故あのような形をした古墳が沢山作られたのだと思いますか。

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Aベストアンサー

私もなにげトレッキーですが。
絶対に無関係と断言します!。

フェニックスから、NX-01になるまでの経緯と、
NCC-1701(E以外)系列から、1701Eになる経緯。。
んま、第2船体切り離して、落ちたっつ~だけですが。
->ワープ5以上を出してはならない条約が出来たための、新型の船体。
NCC-74646なども・・・

そのため、可動式のワープリアクターになった後は、確かに似ているが。。
全部がそうなわけでもないですよ~

が、いい質問ありがとう!
遠まわしに、トレッキーの応援に感じたので、
うれしく思います。

私としては、裏ストーリーの1701D改のスペックは、むしろ知りたいですが。

Qhttp://oshiete1.goo.ne.jp/qa3416318

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3416318.html

上記質問に「藤原氏は物部氏の末裔である」とする説があると記されています。

(1)どなたのとなえた説でしょうか。
(2)どういった理由で「藤原氏は物部氏の末裔である」としておられるのでしょうか。
(3)この説について、なにか思うところがあればご意見をいただければありがたいです。
支持する、支持しない、どちらも説も大歓迎です。

Aベストアンサー

この系図から。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E9%83%A8%E6%B0%8F

現在多忙を極めています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BA%83%E5%97%A3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E8%89%AF%E7%B6%99

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BC%8F%E5%AE%B6

藤原氏と式家との系図関係は以下。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E6%B0%8F

誰か時間のある方、頼みます。

Q弥生・古墳時代に東南アジアなどからガラス玉を輸入?

10月28日付の毎日新聞によれば、
東大寺法華堂・不空羂索観音立像の宝冠にあしらわれている1万数千点の宝玉のうち、3割が弥生・古墳時代にアジアから輸入したガラス玉である可能性が高い、ということです。

読売新聞によれば、
1万数千点の宝玉のうちの20点を分析したところ、15点は国産品でしたが、残る5点は
<古墳時代に東南アジアなどから輸入されたアルカリガラスと確認>としています。

そこで疑問があります。
1.弥生・古墳時代にガラス玉を「東南アジアなど」から輸入できたのでしょうか。
「など」が付いていますから「中国」を含むと解釈できます。
毎日新聞の記事では「青色系のアルカリガラスは弥生・古墳時代に中国などから大量に輸入されており、これを宝冠に転用した可能性が高いという」と最後の方に書いてあります。

2.大量に輸入したということは、対価を支払ったと思いますが、対価は何ですか。
「生口」ですか。

よろしくお願いします。

毎日新聞 2012年10月28日 大阪朝刊
「東大寺・不空羂索観音立像:先祖伝来の宝玉、冠に 弥生・古墳時代の輸入ガラス転用」
http://mainichi.jp/feature/news/20121028ddn041040012000c.html

10月28日付の毎日新聞によれば、
東大寺法華堂・不空羂索観音立像の宝冠にあしらわれている1万数千点の宝玉のうち、3割が弥生・古墳時代にアジアから輸入したガラス玉である可能性が高い、ということです。

読売新聞によれば、
1万数千点の宝玉のうちの20点を分析したところ、15点は国産品でしたが、残る5点は
<古墳時代に東南アジアなどから輸入されたアルカリガラスと確認>としています。

そこで疑問があります。
1.弥生・古墳時代にガラス玉を「東南アジアなど」から輸入できたのでしょうか。
「など...続きを読む

Aベストアンサー

参考
http://syoki-kaimei.blog.so-net.ne.jp/archive/c2303075854-1

古代のガラスに関してイロイロ

http://www.archatlas.org/ObsidianRoutes/ObsidianRoutes.php
黒曜石などでは一万年以上前から交易されています。

http://www.kunidukuri-hitodukuri.jp/web/koso6/img/201105/jomonbunka_02_13-2.jpg
日本でも、縄文の段階でかなり広範囲で交易されています


※ しかし新聞記事で弥生・古墳時代のものの移動を「輸入」と表現するのはいかがかなと思う。

Q明治期の長野県の識字率が、男性だと90%近くあったみたいですが、 http://d.hatena.n

明治期の長野県の識字率が、男性だと90%近くあったみたいですが、
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/touch/20121101/1351777387
何でこんなに長野県の識字率は高かったのですか?教育県だからですか?
あと東北だと宮城県と福島県、滋賀県も識字率高いですね。

Aベストアンサー

面白そうなことが書かれていたので、どうしてだろうと強く引かれてしまいました。
長野県が結果的に明治22年の調査で識字率や就学率、卒業率で全国で最高値を上げたのは確かなようです。
長野は教育熱心と色々のところで書かれていますが、そのことはよくわかりません。
ただ、明治初期に就学率、卒業率がこの地域で高かったのは、長野県に統合されてしまった筑摩県が、偶然の事情である高官(永山盛輝)の強い指導で、学制よりも前に郷学校百数十校を設置、教員の制度や給与制度、教科書などをしっかり整備した結果のようです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E7%9B%9B%E8%BC%9D
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jacsi1994/6/6/6_6_61/_pdf
内陸で地形地理的にも産業経済的にも、識字率や就学率、卒業率が低くて不思議がない地域であっても、時の絶対権力者に周辺に強い実行力を行使する者がいると、こうした影響を引きおこすこともあるんですね。
勉強させて頂きました。
20歳男子の悉皆調査は徴兵制度の本籍主義で基本的には壮丁の本籍地の軍で行われ、聯隊別に集計され、長野聯隊が就学率(入学したことがある者の率)も、卒業率(最後まで卒業した者の率)とも、就学率79.92%、卒業率65.21%で全国最高であった。

面白そうなことが書かれていたので、どうしてだろうと強く引かれてしまいました。
長野県が結果的に明治22年の調査で識字率や就学率、卒業率で全国で最高値を上げたのは確かなようです。
長野は教育熱心と色々のところで書かれていますが、そのことはよくわかりません。
ただ、明治初期に就学率、卒業率がこの地域で高かったのは、長野県に統合されてしまった筑摩県が、偶然の事情である高官(永山盛輝)の強い指導で、学制よりも前に郷学校百数十校を設置、教員の制度や給与制度、教科書などをしっかり整備した結果...続きを読む

Q古墳時代に騎馬戦はありましたか?

古墳時代の馬は珍獣で、飾り立てた姿が権力の象徴であったという説が有力です。
では、実際に馬に乗って戦うということがあったのかが、知りたいところです。
古墳時代といっても永いので、中期以降には馬の数も増えて
実際の戦闘に参加するようなこともあったのではないでしょうか?
それとも馬のサイズが小さくて、騎馬戦には向かなかったのか?
牛並みの力があったなら、平安時代に牛車代わりに馬車が使われていたと思います。
増えて農耕馬に堕してしまっていたのか。
いつごろまで馬は珍重されていたのか。
源平の時代には騎馬戦が華やかですが、古墳時代の馬と同種なのか?
馬に関する質問、あれこれ書きましたが、何でもいいのでご教授ねがいます。

Aベストアンサー

面白いご質問ですね。大いに興味があります。
と言っても、すっきりした回答をする自信はありません。
ただ、新聞記事の切り抜きとか、私自身の読書メモを読み返して、参考になりそうな個所をまとめてみました。

>馬のサイズが小さくて、騎馬戦には向かなかったのか?

昨年9月の新聞に、古代(古墳時代中期)の馬の復元模型の記事が出ています。

大阪府報道発表資料「府立近つ飛鳥博物館作製の古墳時代の馬の復元模型」
添付資料「復元された古墳時代の馬」に写真があります。体高127cm。
http://www.pref.osaka.jp/hodo/index.php?site=fumin&pageId=11418

詳細は下記URL
鹿児島大学総合研究博物館「ニュースレター ナンバー18」
http://www.museum.kagoshima-u.ac.jp/publications/pdf_images/newsletter/newsletter_18.pdf#search='%E8%94%80%E5%B1%8B%E9%81%BA%E8%B7%A1+%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%A6%AC+%E5%86%8D%E7%8F%BE+%E5%BE%A9%E5%85%83'

復元された馬は、今のポニーくらいの大きさです。馬上で太刀を振り回したり、槍を使ったりできたのか疑問です。
宮本常一著『旅の民俗学』の中の「道の文化史」の章には
「最初に入ってきた馬は胸までくらいで鹿児島の宝(トカラ)馬で残っている。次に蒙古系が来るが精々肩くらい、武将が乗るとすぐ息切れするから替馬を用意したほど」とあります。

>源平の時代には騎馬戦が華やかですが、古墳時代の馬と同種なのか?

このサイトでは、源平時代の軍馬の体高は、名馬で140cmくらいと推測されています。
古墳時代の馬と同種かどうかは、分かりません。

須磨観光協会「源平時代の軍馬」
http://www.suma-kankokyokai.gr.jp/modules/tinyd0/index.php?id=6

次のサイトは、まとめとして最高です。さすが、専門家です。
私も、大いに勉強しました。
“多くの馬は戦闘よりも、重い鎧を着た武者を戦場まで運ぶ輸送用”とのこと。

日本獣医史学会誌「日本在来馬と西洋馬」
http://nichiju.lin.gr.jp/mag/06406/a6.pdf#search='%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E3%81%AE%E4%BD%93%E6%A0%BC+%E4%BD%93%E9%AB%98'

>牛並みの力があったなら、平安時代に牛車代わりに馬車が使われていたと思います。
増えて農耕馬に堕してしまっていたのか。

元来牛車は、中国の律令制度導入と関連があり、貴族の乗り物は牛車となったので、馬が余っても余程の事情がない限り、牛にとって代わるという発想はまずなかったのではないでしょうか。
以上、長々と失礼しました。

面白いご質問ですね。大いに興味があります。
と言っても、すっきりした回答をする自信はありません。
ただ、新聞記事の切り抜きとか、私自身の読書メモを読み返して、参考になりそうな個所をまとめてみました。

>馬のサイズが小さくて、騎馬戦には向かなかったのか?

昨年9月の新聞に、古代(古墳時代中期)の馬の復元模型の記事が出ています。

大阪府報道発表資料「府立近つ飛鳥博物館作製の古墳時代の馬の復元模型」
添付資料「復元された古墳時代の馬」に写真があります。体高127cm。
http://www.pref.o...続きを読む

Q日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから? http://gendai.is

日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから?


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52091

ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
藤田 元信

今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。

最近、新著『戦略は技術をくつがえす』(クロスメディア・パブリッシング)を発表した藤田氏は、75年前の海戦における日本の失敗を分析した上で、技術と戦略の関係を学ぶことの重要性を説く。

日本で無視され、米国が評価した技術
ミッドウェー海戦は、お互いの艦艇を視界に入れずに戦った、史上初の海戦であったと言われています。そして、アメリカ軍の勝利に決定的な役割を果たしたのは、電波の反射を使って目標を探知する兵器である「レーダ」でした。

レーダには、発振器とアンテナが欠かせません。じつは、アメリカをはじめとした諸外国のレーダ開発には、日本人の発明が利用されているのです。ご存知でしたか?

その代表的なものが、「八木・宇田アンテナ」と「分割陽極型マグネトロン」です。

八木・宇田アンテナの発明者の一人 八木秀次教授(出典:随筆集[1953])
八木・宇田アンテナは、その名前のとおり、八木秀次と宇田新太郎という日本人研究者の研究成果でした。魚の骨のような簡単な構造で、優れた性能(鋭い指向性と高い利得)が得られることが利点です。いまでもテレビの受信アンテナとして広く使われているので、皆さんも見たことがあるのではないかと思います。

このアンテナは、日本では誰にも注目されなかったものの、1926年に英語で論文を発表したところ、米国で大いに賞賛されたと言われています。


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分割陽極型マグネトロンもまた、日本人研究者である岡部金治郎が、1927年に発表したものでした。

岡部金治郎らの発明をきっかけとして、小規模ながら、日本国内でもマグネトロンの研究が行われていた。写真は、のちに戦艦「大和」にも搭載された二号二型電探(対水上用)に使われたマグネトロンの陽極と同等のもの。(public domain)
分割陽極型マグネトロンは、それまでにアメリカで開発されていた単陽極マグネトロンでは不可能だった、高い周波数の発振(マイクロ波を発生)を可能としたうえ、高効率でした。レーダの実用化に向けて、性能を飛躍的に高める研究成果でした。

早くも1920年代に、日本人研究者により八木・宇田アンテナと分割陽極型マグネトロンという、画期的な新技術が生み出されていたにも関わらず、日本陸海軍はその研究成果をレーダの開発につなげることはできませんでした。

たとえば海軍では、「これからの海戦にレーダが必要かどうか」という議論が盛んになされた一方、事業化に進むための具体的な検討はずっと低調だったようです。一方、アメリカとイギリスをはじめとする諸外国では、これらの研究成果を早期に事業化し、通信機器やレーダの開発に応用していました。

シンガポールの戦利品から発見
1942年5月中旬、「シンガポールの戦利品で、現地で理解できないものがある。電波兵器のようなので、調査に来てほしい」との依頼を第5陸軍技術研究所から受け、日本電気と東芝の社員からなる民間の調査団が組織されました。

調査団が現地で調査したところ、件の電波兵器は、日本人が発明した八木・宇田アンテナであったことが判明しました。日本では誰も顧みなかった八木・宇田アンテナを、イギリスがみごとに兵器に応用していたことは、関係者にとって衝撃だったと言われています。

同じころ、日本陸軍は、押収した文書(通称「ニューマン文書」と呼ばれる)の中に、YAGIという単語が出てくることを発見しました。そこで捕虜に質問したところ、「それはそのアンテナを発明した日本人の名前だ」と教えられ、そのとき初めて八木・宇田アンテナの存在を知ったとも伝えられています。

じつは、日本の海軍技術研究所や陸軍技術研究所でも、小規模ながら、レーダ技術の研究は行われていました。ところが、軍上層部には、レーダの研究開発に対する理解者が少なく、レーダの研究開発は遅々として進まなかったと言われています。そのため、大東亜戦争の開始時点でも、日本のレーダは実用化にほど遠い段階にありました。

ようやく、海軍で初めて実用レベルのレーダが作られたのは、開戦から数か月が過ぎた、1942年3月のことでした。このときは波長の異なる2種類のレーダが試作され、戦艦「伊勢」「日向」に搭載されました。それぞれに長所・短所があるものの、どちらも一定の機能・性能を有することが確認されました。


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ミッドウェーで払った高い代償
1942年6月、ミッドウェー島に向かった日本海軍の空母機動部隊には、レーダを装備した艦艇は1隻もありませんでした。実験艦として、レーダを搭載していた戦艦「伊勢」「日向」は、ミッドウェー島から遠く離れたアリューシャン方面に派遣されていました。

一方、ミッドウェー島付近で、日本海軍の空母機動部隊を待ち受けるアメリカ海軍の主要艦艇には、対空捜索レーダCXAMが装備されていました。さらに、ミッドウェー島に設置された固定式のレーダも稼動状態にありました。

アメリカ海軍は、主要艦艇にレーダを搭載していた。空母エンタープライズ(CV-6)の艦橋に、対空捜索レーダCXAMが装着されていることが分かる。ミッドウェー海戦直前の、1942年5月の撮影。(public domain)
そのため、ミッドウェー島付近で日本軍の攻撃を待ち受けていたアメリカ軍は、日本軍の艦載機の接近をレーダでいち早く察知し、奇襲を避けることができたのです。

レーダの実用化により、日本海軍の戦略の前提となっていた、空母と艦載機を中心とした奇襲攻撃は、もはや成立しなくなっていました。

そのことに気がつかない日本海軍は、ミッドウェー島に有効な打撃を加えられなかったばかりか、反撃してくるアメリカ海軍の艦載機を直前まで発見できず、主力の空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と約300機の艦載機、そして多数の熟練兵を失いました。

こうして、日本軍は、自らのレーダの技術開発の深刻な遅れを、高い代償により知ることとなったのです。

ミッドウェー海戦において、レーダを持たない日本艦隊は、艦載機を飛ばして敵を探さなければならず、レーダを駆使したアメリカ軍に対して苦戦を強いられた。写真は、アメリカ軍機の攻撃を受け、炎上中の空母「飛龍」。(public domain)
日本の戦略家が技術を学ぶ意義
ミッドウェー海戦における日本の敗北は、一般に、機械故障による索敵機の発進の遅れや、現場の混乱を誘引した指揮官の判断に原因があると論じられています。確かに、偶然や現場での判断により左右された部分もあったでしょう。

しかし、ミッドウェー海戦を、「技術」という観点で捉え直すとすれば、ミッドウェー海戦は、レーダ技術が、日本軍の戦略を破壊した戦いだったと総括できるでしょう。

戦いの様相を一変させるレーダをいち早く取り入れ、使いこなしたアメリカ軍と、要素技術の研究において国内にアドバンテージを有しつつも、レーダの必要性の議論に終始し、事業化を推進しなかった日本軍の能力には、大きな差が生まれていたのです。

日本でも、ミッドウェー海戦の後、それまで低調だったレーダの研究開発は、おおいに奨励されました。しかし、長年の蓄積を必要とする研究開発の遅れは、ついに取り戻すことができませんでした。

「技術」という観点から、ミッドウェー海戦の敗北へとつながったレーダの研究開発の問題点を考えると、以下の2点に集約されると考えられます。

(1)未知の要素が多いレーダの研究開発に関し、上層部の理解が得られなかったこと
(2)国内の科学技術イノベーションを国防に生かす仕組みが未成熟であったこと

1930年代において、レーダの研究開発は未知の要素が多く、きわめてリスクの高いテーマの1つでした。技術的な内容を理解できる人間も、レーダが戦いにどのような効果をもたらすのか、という部分を論じることができる人間も、国内にわずかしかいなかったうえ、双方が対話をする機会も、ほとんどありませんでした。

国内にどのような技術があり、どう育成し、どう活かすのか、といった長期的な視野で技術マネジメントを行うことができる、組織や人材が欠けていたと言ってもいいかもしれません。

これらの問題点から、現代日本にも通じる教訓を得るとすれば、長期的な技術マネジメントの視点の欠如が、致命的な結果をもたらすことがあるということでしょう。

様々な新技術が、市場や社会のあり方を支配するようになった現状を鑑みると、組織運営を担うリーダ、戦略家が技術を学ぶ意義はますます高まっているものと思われます。技術者もまた、自らの職責の範囲を超えて、技術が戦略に与えるインパクトについて、もっと意識すべきかもしれません。

日本がミッドウェー海戦で敗北した原因はレーダー探知機無かったから?


http://gendai.ismedia.jp/articles/-/52091

ミッドウェー海戦は、日本人が生んだ技術に日本が敗けた戦いだった 現役防衛技官が語る「75年目の教訓」
藤田 元信

今年6月、太平洋戦争の転機となった「ミッドウェー海戦」から75年を迎えた。日本の敗戦へのきっかけとなったこの近代史上最大の海戦に、「現代日本に通じる大切な教訓が隠されている」と指摘するのは、防衛装備庁技術戦略部の藤田元信氏だ。

最近、新著『戦略は技術をくつが...続きを読む

Aベストアンサー

いや、レーダー以前に日本側の情報が全て筒抜けだったからです。レーダーはあくまでも現状の把握にしか使えません。予測して必要数を配備するには情報の入手が必要です。
偵察だけなら射程外からでもおおよそ把握することはできます。まともな指揮官がいればその時点で把握できるでしょう。しかし日本は上に行けば行くほど無能だった。それは今の政府や企業も同じ。否、江戸時代から変わってはいない。一人や二人の有能な人材がいてもダメなんですよ。だから負けたと言えます。


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