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清和源氏と桓武平氏は2大軍事勢力ですが、平清盛と源頼朝に至る源平合戦までの経緯と両者が滅んでも傍流は戦国時代まで続きました。その盛衰を見て両者で何が違っていたのでしょうか。

源平合戦までは源氏の武勇伝が多く、平氏の武勇伝は少ないのです。名前だけ挙げると、源氏の頼信、頼義、義家、義綱、為義、為朝、義朝、義仲、義経、頼朝。平氏の将門、貞盛、忠盛、清盛。

源平合戦の後では平氏の数が圧倒的に多いのです。源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。

しかし、その後に大名になった平氏が少ないのです。源氏は足利、新田、佐竹、今川、武田、大内、土岐、斯波と大名になり、平氏の北条、千葉、三浦、伊藤、桑名はいずれも滅んでいます。不思議だなあと思っています。

A 回答 (8件)

平氏の系統の歴史が巷間ではあまり知られていないために出てきた疑問かと思います。


ご質問の中に
「源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。」
とありますが、これも源氏が勢力を拡大した時期と平氏が拡大した時期にズレがあったことから結果としてご指摘のようなことになりました。

源氏も平氏も都の人からみれば新興勢力です。
源氏や平氏が版図を広げることができたのは、京や奈良の人達が見向きもしなかった東国です。
古い国名は常陸以北の地域は陸奥でオシマイです。
日本海側も精々越後、出羽までです。
歴代の朝廷は、この辺境の地で常陸、上総、上野の最高責任者は皇族出身者が着任するように定めていました。
朝廷の北辺の地を守護する重要な拠点と考えていました。
つまり、常陸守、上総守、上野守は全て皇族出身者でした。
藤原氏出身であろうとも守の補佐役の介が最高の官職であり官位でした。
吉良義央が上野介を名乗りとしたのも、信長が上総介を名乗りとしたのもこの為です。

東国へ最初に進出したのが桓武天皇の系譜である桓武平氏です。
高望王という人が初代でした。
高望王以前に源の苗字をもらって皇族から臣籍に降下した人は沢山いましたが、みんな都から離れませんでした。
高望王だけが、サッサと都を離れて上総に下向して定住しました。
関東周辺の国には当然都から派遣された国司がいましたが、格が違います。
高望王の子供や孫はそれぞれ関東一帯に分散して住み着きました。
当時の関東平野の南部は現在の江戸川や中川、荒川、隅田川、多摩川の大型河川の河口部分に当たり東西の移動は極めて難しい地帯でした。(橋などありません)
日本武尊も、現在の三浦半島から浦賀水道を横切って房総の地へ渡っています。
国の名前に上総下総などの上下や越前越後という前後を付ける場合都に近い方を上または前としました。
即ち西国から房総の地を経て常陸や陸奥へ行くには東京湾を横切るのが簡便でした。
同じことが後世の東海道の熱田、桑名の間で起きています。(七里の渡し)
伊勢湾の奥は木曽川、長良川、揖斐川、などの河口部分で東西の移動が困難でした。(橋などありません)

上総から東京湾周辺の地域へ移動するのには専ら船がつかわれました。
最終的には東京湾を取り囲む地域は高望王の子孫である桓武平氏一族の版図となりました。
全員の苗字が平では紛らわしいので、各々の居住地の地名を苗字としました。
ご指摘の千葉氏や三浦氏や北条氏はみんなこのような経緯で苗字となりました。

源氏が東国へ進出してきたのは極めて遅く義家の時代になってからです。
出てきてみたものの、関東南部の一帯は既に平氏一族が押さえていましたので、やむなく北部の下野上野甲斐などの丘陵地帯に住み着きました。
ご指摘のように源氏の領国に山国が多いのはこのためです。
東海道が東西の幹線道路になったのは家康以降です。
それまでは、中山道が京都と坂東を結ぶ幹線道路でした。
逆に平氏は早くから都を離れていて源氏が遅くまで都に留まっていたことも。京都中心の歴史書には源氏系統の人が残されやすかったのではないかと思います。

平氏系の目立った武将や大名が見当たらないのも若干経緯があります。
高望王の子供たちの中で長男の国香の子の貞盛が草深い関東の地を離れて都へ上りました。
その子の維衡が伊勢平氏の始祖となりました。
伊勢平氏の末裔である清盛が栄耀栄華を極めますが、このときに、坂東に残っていた坂東平氏一族を全く顧みませんでした。
これに対する不平不満が坂東平氏一族に蔓延していました。
源氏の嫡子である頼朝が伊豆で一敗地にまみれて安房へ逃れてきました。
頼朝一行はわずかな人数で北上し下総の国府(現在の市川市)にようようたどり着きました。
このとき、坂東平氏の親分株だった千葉常胤が兵を引き連れて駈けつけてきました。
常胤と頼朝の父義朝とは保元の乱を戦った戦友でした
戦友の御曹司が伊勢平氏打倒の志で兵を挙げたというので、放っておくわけにはいかないと駈けつけました。
常胤のジイサンが加勢したというので、坂東平氏の連中が我もわれもと集まってきました。
現在の市川市には頼朝旗揚げの地として白幡神社というのがあります。
後はお馴染の源平合戦です。
ここでお分かりの通り頼朝はあくまでも旗頭で、実態は伊勢平氏と坂東平氏の戦でした。
結果として都にいた伊勢平氏の一族はチリヂリになってしまい再び歴史に登場することはありませんでした。

鎌倉幕府のスタートメンバーも多くが坂東平氏の末裔でした。
この坂東平氏の末裔どうしの政争に勝ち残ったのが北条氏です。
この政争で後世大名となるような坂東平氏は駆逐されてしまいました。
地元の有力豪族程度であれば沢山残りました。
室町時代から戦国時代の関東の有力豪族であった渋谷氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏、太田氏などは全て坂東平氏の末裔です。
これもやがて小田原北条氏の配下に組み込まれ、最終的には家康にとって代わられてしまいました。
このような経緯と、源平合戦から関ヶ原までの歴史が西国が主体だったことも坂東平氏の譜系の一族が出てこない遠因でしょう。
特に戦国時代の武将が系譜を云々する際に、武家政権の始祖である頼朝にあやかって源氏を名乗ったことも影響しているのかと思います。

参考
平氏一門とされている氏族は、前記の人以外に以下の苗字のような人がいます。
関東地方の地名が多いことに注意して下さい
東 稲毛 飯倉 海上 小山田 大庭 大須賀 河越 河崎 梶原 金沢 木田見 国分 畠山 秩父 相馬 武石 匝瑳 大堟 馬加 千田 丸子 六郷 柴崎 俣野 長尾 村岡 中村 長野etc  
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この回答へのお礼

ご説明は正確です。私も日本の歴史全26巻(中公文庫)を何度も読みますので理解しています。
源氏が京都を離れなかったことが発展の理由との説に納得しました。頼義も義家もお種は東国に残しても役の後は京都に帰っています。義朝もお種を東国に残して結局は京都に帰っています。平氏の中で伊勢平氏が京都に居たので発展できた。
国家権力の中枢に居ないと一族は発展しない。朝廷の命令で大軍を引き連れるから武功が立てられる。

お礼日時:2014/08/20 14:12

 戦国時代以前の守護大名を対象とするならば、彼等の出自が何であるかも殆ど明白です。

土豪であり受領ですから、その遙かな系譜を辿っていっても郡司や富豪層になります。
 その富豪の中の一部が平氏であり源氏である、何も清和源氏が云々やら桓武平氏が云々との問題ではないのです。
 もしその血筋や家系との問題を前面に出して疑問を解決しようとお考えであるならば、武家の棟梁の問題と氏長者の問題そして両者の関係がどのようなものであるのかといった問題からお考えになることをお勧めします。 キーワードは在地首長制論・在地領主制論・戦国大名論・幕府論・権門体制論あたりとなります。 

この回答への補足

長男でもあり家系には関心があるのです。その意味から歴史に興味を持っています。源氏と平氏の武士の切り口を例として家系の違いによる発展過程の違いの理由を知りたいのです。

補足日時:2014/08/20 13:13
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出所のはっきりした大名なんか居るんでしょうか?


そもそも頼朝が清和天皇の子孫て話も疑えば怪しいものです

平氏は桓武天皇系統からしか生まれてませんが
それだって皇族と結びつけて権威付けるための系図の査証だって考えられます


まぁ滅んだ源氏と平家は本流だからです
傍流は生き残ったでしょ?
苗字や出自を変えて源平と無関係だと言えばそれ以上当時は調べようが無いし

織田信長は平氏の子孫でもないし
徳川家康が系図を改ざんしてたのは当時から朝廷も知ってる(けど大金もらったので不問にした)


全うなのは実際藤原氏ぐらいです
現在日本中にいる○藤って苗字はみんな藤原の子孫です
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この回答へのお礼

下克上が行なわれた戦国時代以後は源氏と平氏を論ずることは意味がありません。戦国時代以前の守護大名の出所を問題にしているのです。
すなわち、血筋と支配の関係です。その意味では藤原氏の摂関家もテーマになりえる題材です。

お礼日時:2014/08/20 09:32

 黙って成り行きを眺めていましたが、回答の中ではNo.1のtさんのそれが最も適切ですね。


何も源氏だから………、平氏だから………との理由などどこにもないのですよ。実際に北条氏が源の後継者となりえたのも、当時の政権構造に起因し、その後の得宗専制へと展開し得たのであって、平氏だから滅びたなどの理由もありません。それならば室町幕府が源氏であったことを説明できないはずです。
 そしてもう一つのポイントは「領国支配」の問題があります。如何に武勇に優れるとはいっても、それだけで領国経営を維持することは不可能であり、守護大名から進化した戦国大名は何れも分国法を基盤として領国支配を実現しているともいえます。 
 有名どころだけでみても質問者が挙げられている「源氏系」の守護大名でこれに相当するのは今川・武田・大内であり、「平氏系」では北条氏が領国支配に成功してもいます。北条が滅んだというのも、恐らくは幕府が崩壊し政権の座から去ったことと混同されていることによる勘違いかとも存じます。足利氏も将軍職にありながら「滅び」もしました。これ一つみても「源氏だから滅ばずに平氏だから滅んだ」とは言えないでしょう。
 守護大名が守護職(しゅごしき)としての側面を有することも忘れてはならず、その任免権者が誰であるかも考える必要があるでしょう。
 そのためにはNo.1のtさんのご指摘が妥当であると存じます。一般的(あるいは俗流といっても過言ではありませんが)経済感覚で全てを推し量ろうとするのでは、「運動としての権威と権力の相克関係」を歴史の中で見落とすこととなりもしますので、一言申し上げさせていただいた次第です。

 補足
(1)元々、武士は日本の法体系からすれば想定外の存在ですから、その存在を証明するには彼等としても裏付けを必要としていた明らかで、その一例が貴姓と呼ばれる四つの家柄を求めていたことに覧られもします。
 土俗が存在を誇示するには実力だけでは限界もありますから。

(2)源氏の領地は云々との部分ですが、平氏没官領が関東御領として幕府財政や恩賞の基盤となっていた部分をどう評価するかとの問題にもなり、断定は危険でしょう。領地が海国だとしても、平氏政権の財政基盤は対外貿易と国内の荘園経済に依存もしていますから、領地が海国だから豊かだったとはならないはずです。この文脈では海上交通に関する税の取り立てを行いそれが財政基盤だったと読めてしまいますから、補足をお願い致します。
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といっても江戸以前の家系のほとんどは「後から作ったもの」なので……。


大名家レベルでは系図が粉飾もされずに続いているほうが珍しいですからね。

例えば織田信長は平氏と名乗っていますが、信長は最初藤原氏を名乗っています。一説には忌部氏ともいわれています。
因みに言えば信長は「上総介」を名乗っていますが、武家平家の祖の一人平高望も上総介だったりします。

徳川家も清和源氏と名乗っていますが、ウソかまことかという位のものですし(系図のねつ造があるといわれている)・・・。

室町初期からの家柄が江戸期以降まで保たれたのは、一握りにすぎませんし、そのうちのいくつかは、例えば伊達家が藤原氏、毛利氏が大江氏のように、源平ではありません。
自称ではなくがっちりと残った清和源氏の家は島津氏や細川氏、佐竹氏などです。
家臣レベルならいると思いますけれどもね。


江戸以降には源氏が多かったということですが、単純に言って源氏を名乗っていた豊臣家が天下を統一したからですね。
元々の姓をもっている、例えば加賀・前田氏などは、元々の姓を名乗っていますが、そうでなければ「うちの先祖は~」という時に、将軍家と同じく源氏ですという方が色々とよさそうでしょう?
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この回答へのお礼

織田が平氏で、徳川が源氏などと誰も思っていません。出所のはっきりした守護大名のことを論じているのです。

お礼日時:2014/08/19 23:13

戦国時代までの清和源氏大名のほとんどは足利源氏です。

足利氏が功績のあった一族に各地域の守護を任せた結果というわけです。戦国時代までの大名=南北朝の勝ち組ですから、当然足利氏関係者が多数を占めるわけです。
どれくらい足利系が多いのか興味深かったので、室町期守護大名の出自を下にまとめてみました。

ちなみに桓武平氏の戦国大名は、長尾氏・後北条氏(伊勢氏)・千葉氏・相馬氏・葛西氏・蘆名氏・戸沢氏など坂東平氏系を主体に結構出てきます。それでも清和源氏のほうが多くはなりますが。

○足利一門
 斯波氏・畠山氏・細川氏・一色氏・今川氏・大崎氏・仁木氏・渋川氏
○清和源氏(河内源氏新田流)
 山名氏
○清和源氏(河内源氏)
 武田氏・小笠原氏・佐竹氏
○清和源氏(摂津源氏系)
 土岐氏
○桓武平氏
 千葉氏
○村上源氏
 赤松氏・北畠氏
○宇多源氏
 京極氏・六角氏
○藤原氏
 伊達氏・上杉氏・宇都宮氏・小山・結城氏・富樫氏・大友氏・少弐氏・菊池氏
○多々良氏
 大内氏
○越智氏
 河野氏
○惟宗氏
 島津氏・宗氏
○その他
 阿蘇氏

この回答への補足

忠盛、清盛の伊勢平氏は東国平氏に冷たくして滅ぼされる。平氏である北条氏は仲間の平氏を滅ぼす。鎌倉幕府執権の北条時宗や時頼の全盛時代がありながら、平氏の勢力は伸ばせず新田に滅ぼされる。南北朝でぐちゃぐちゃなのに足利が統一する。応仁の乱でも平氏の影は薄い。それに較べると源氏は圧倒的優位である。
平氏が武功を挙げれないのも統治方法に問題があったのではないかと思っているのです。

補足日時:2014/08/19 23:05
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この回答へのお礼

良く調べていただきました。記述内容に異論はありません。

お礼日時:2014/08/19 23:20

鎌倉幕府の初期、室町幕府も徳川幕府も、征夷大将軍は源氏系ですから、当然のように大名も源氏が多くなるでしょう。


家系図を偽装というか、空白部分を埋める作業で、平家より源氏の方を採択することが多いでしょう。
源平合戦までの歴史をまとめたのも、源氏でしょう。とうぜん、身びいきがあります。
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この回答へのお礼

記述した源氏の武将は有名な戦いでの武将名です。当時の貴族の日記にも出てくる人物名です。貴方が知らないだけです。

お礼日時:2014/08/19 23:19

源氏 VS 平氏



で競争していたわけでなく、信頼できる親方に付いて行く。
それがたまたま 源氏出身だったらい平氏出身だったりする。

それだけの話し。

だから源三位頼政は清盛についていたし、坂東平氏のみなさんは頼朝についた。

大名(特に守護大名)で源氏が多いのは

足利家が天下を取る時に、分家がいっしょに頑張った。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9% …

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%AD%B7% …
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