日本が開国をする過程で、阿片戦争に影響されたと聞きました。
それは、どのような面で、影響されたのでしょうか。
また、(歴史にもしもは禁句ですけれど)、阿片戦争がなかったら、
日本の開国はなにか変わったのでしょうか?

よかったら、教えてください。

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A 回答 (3件)

アヘン戦争がなければ、開国を急ぐことはなかったでしょう。


 世界帝国の一つである清が列強の侵略を受けたことは驚天動地の事件でした。攘夷派の長州の高杉晋作は一時中国へ様子を見に行き、ひそかに倒幕、開国に変わります。また伊藤博文は英国へ留学し、英国の近代化を目にして、攘夷の間違いを悟って長州藩を説得しようとしましたが、まだ時至らずでさんざんに切り付けられ死にそうになったりしています。
 攘夷であった長州、薩摩が下関戦争、薩英戦争で倒幕、開国に本格的に動くのは、列強の強さをまざまざとも見せ付けられたからです。
 幕府も開国なら開国で押し切ればよかったのですが、井伊直弼は暗殺されるし、攘夷でかちかちの朝廷へ開国のお伺いをたてたため、かえっては国の方針が動きのとれないものになり、薩摩と長州は口で攘夷といいながら、倒幕が終了した途端に開国すると言った詐欺まがいの動きをするのです。
 かわいそうなのは正直に攘夷を信じた武士でした。新撰組も思えば哀れです。
 
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また専門家のokarinsenpaiさんが完璧な答えを出されているので、補足というか、私見を...。



1)鎖国時代オランダは日本にとって唯一の近代文明への窓口であったが、そのオランダですら、西洋の中ではフランスに占領される程度の小国であることは既に知られていた。イギリスが当時世界最強国であることも...。

2)ペリー来航前から、オランダ人によって、欧米列強の動向は幕府に知らされていた。当然、アヘン戦争に付いても知らされていた。

3)ペリー来航前からロシアが再度、開国を要求して来ており、ペリー率いる黒船の到来は幕府にとっては決して寝耳に水でなかった。

4)海外情勢は、蘭学者や幕府重鎮だけでなく、一部諸藩の重鎮等も精通していた。たとえば、薩摩の島津斉彬、水戸の徳川斉昭。徳川斉昭は頑迷極まりない国粋主義者、攘夷論者と思われているが、最近の研究で意外に海外情勢に通じていたことが明らかにされている。

5)これに対して、朝廷の外国嫌いで、且つ、海外の事情に疎かったらしい。

6)大老井伊直弼等は当然、海外の事情にかなり精通しており、まともに戦火を交えることが不可能であることが分かっていた。彼は二枚舌、即ち、夷テキ嫌いの朝廷には、「今は無理だがいずれ必ず攘夷をする」と約束し、外国勢力には、ぬらりくらり逃げながら「開国」の形を取ることになった。しかし、結局「二枚舌」は破綻し、「朝廷をないがしろにした逆臣」、「安政の大獄の最高責任者」として、恨みを買い、水戸浪士の手にかかって桜田門外で落命したのである。

7)相手の強さや、アヘン戦争を知りながらも、下関砲撃事件や薩英戦争まで、攘夷派は「神州日本」は神風によって元寇を撃退し、勇ましい武士の守る特別の「国」であると半ば本気で思っていたようだ。薩長は直接戦火を交えて相手の強さを知り、攘夷から討幕へと急転換していく。

8)実は開国後ですら、攘夷派の武士が振り回す、外国人にとって「恐るべき残虐兵器」である日本刀の威力や、薩英戦争での薩摩軍の奮戦は、外国人に「日本人侮り難し」という意識を植え付けていた。

9)だから、仮に、開国せず、戦争になっても相手を相当てこずらせていたであろう。しかしそれは、神風特攻隊や夜襲と同じで、相手にとっては嫌なものではあるが、戦局に影響を与える程ではなかったはず。何故なら、当時の日本の大砲と英国のアームストロング砲、向うの大型鉄製蒸気船と日本の木造船を比較すれば一目瞭然。制海権は完全に握られ、セコセコ作った防塁も木っ端微塵。正規戦では所詮勝ち目がなく、ゲリラ戦かテロ位でしか対抗できなかったでしょう。

10)仮に、正規戦で負けたとした場合でも、上記のように「日本人侮り難し」と思われていたでしょうから、中国と全く同じ運命を辿ったとは私には思えません。「日米通商条約」は明らかな不平等条約でしたが、明治政府が比較的早期に不平等性を解消できたのも、「日本人侮り難し」ということが欧米列強に分かっていたからだと思います。それには「日本刀の切れ味」が一役かっていたいうのが私の意見です。
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 鎖国中、長崎出島に滞在していたオランダ商館長は毎年、江戸幕府に対して国際情勢を記した「オランダ風説書」の提出が義務づけられていました。

そのため、江戸幕府の要人は「オランダ風説書」を通して世界で何が起きているのか知ることが出来ました。当然、アヘン戦争についても江戸幕府の要人は把握していたはずです。アヘン戦争によって中国がどのような状態になったかを知っていた江戸幕府の要人がペリーの来航に際して、中国(当時は清)のようにならないためにも開国やむなしという考えに至ったということは十分考えられます。
 アヘン戦争後の中国の惨状については開国直後の日本ではよく知られていたらしく、フランスに派遣された江戸幕府の使者が中国に寄った際、イギリス相手に奮戦した中国の将軍を偲んだという話を聞いたことがあります。アヘン戦争が開国に何らかの影響を与えたのかどうかははっきりしたことはわかりませんが、日本の知識人に「このままでは中国のように欧米に侵略される」という意識を植え付け、後の明治維新の原動力になったことは確かです。
 もし、アヘン戦争がなかったら江戸幕府は相手の力がわからなかったはずですから、ペリーの艦隊に対して無謀な攻撃を試み、アメリカと戦争になった可能性があります。もちろん、当時の技術力で日本は勝てるわけはありませんから、日本は戦争に負け、中国のように欧米列強の半植民地あるいは植民地になっていたのではないでしょうか。
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Q室町幕府の扱いについて

徳川家康が始めた江戸幕府について、「頼朝の鎌倉幕府以来の武家による政権」という言われ方がすることがありますが、この言い方だと室町幕府を除外して考えているようですが、これは、室町幕府は江戸幕府・鎌倉幕府と異なり武家による政権として何か不足していることがあるからなのでしょうか?江戸幕府・鎌倉幕府と室町幕府の違いがあるのなら教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
 もちろん、江戸時代からの判官贔屓体質や尊皇思想などさまざまな要因も影響しているとは思います。南朝を正統とした「大日本史」もそのようですし。
 さらには主に対して忠であるべし、とする儒学の思想も関係しているかも。

 とにかく戦前には室町時代の研究も盛んとは言えなかったのではないでしょうか。
 近年になって、参考で挙げた今谷氏を始めとして中世を専門とする研究家も増え、当時の文献も多数研究されてきて、かなり新しい中世像が生まれつつあるのが現状のようです。そう詳しいわけではないですけど。

>尊氏は天皇に反逆した逆賊という扱いをされており

 そういうところは確かにまだ残っていると思います。
 それは、明治維新後、天皇家の権威を高めるために天皇中心の歴史を造り上げていった結果です。
 南朝が正統の天皇と定められたのも確か明治になってからの筈です。
 権力のパワーバランスから言えば明らかに北朝の方が上なのに(南朝には即位したかどうか不確かな天皇すら存在しています)、まさにfumidera2さんが書かれた建武の新政を尊重したためにそのようなことになっていったと思われます。
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Q太平洋戦争でもしも日本が勝っていたら

歴史に「IF」がないのは分かってるんですが、質問させて頂きます。
タイトル通りの質問ですが、どうなるんでしょう?
まず勝てないだろうとは思いますが
うまくやれば早期講和に持ち込んだり出来るかも、と……。
↑は漫画のジパング知識です(笑)

もしも、勝ったらどうなるんでしょう。

Aベストアンサー

>太平洋戦争でもしも日本が勝っていたら



ミャンマーの軍事政権のような、一見して民主主義があるような形で、しかし主要な言論・国会・選挙は軍人優先の政権が大きな影響力を持ち、権力を握っている。

それでも、勤勉で創意工夫の努力家である、日本人が財閥の健在な実業界が、満州・北方領土・朝鮮・台湾にレベル差はあっても大きな権益を有し活用する事で、世界第2位のGDP国であると思います。

一番、敗戦による影響があるのが、教育と軍隊(徴兵制の存続)、天皇陛下の政治的(実権と機能)影響だと思います。
そして、神社神道の行事や慣習、社会的地位が大きく、日常生活の就職・結婚・出産・教育にも神社の意向・影響が大きく宗教と修身と天皇、軍事教練が随分と違う形になり、陸海空の士官学校も存在していたことだろう。

やがて、ソ連・中国(国共内戦の結果も変わり)、分裂した2ケ国に成っていて、ソ連と日米の後ろ盾を持って対立状態が続く。
従って、朝鮮半島も分断されず、連邦制または緩やかな大東亜共栄圏(EUのようなスタイル)が日本・朝鮮・満州・台湾で存在し、日本の技術力と関係連邦内の資源がうまく融合して、工業・商業が発展をしたのではないでしょうか。

勿論、そこに朝鮮戦争は起こらず、拉致事件やミサイル問題、歴史教科書や靖国神社問題、竹島や尖閣諸島、東シナ海の海底油田、密輸密漁のトラブルも当然ありえなかった。

でも、民族・宗教・言語の違い、経済格差が地域別に大きく、紛争の多発から、やがては独立機運が高まり、21世紀にはそれぞれの地域での独立国家となり、EUのようなシステム、スタイルの各国の自主性と言語や宗教の違う事の相互に承認された広域連合となると思います。

>太平洋戦争でもしも日本が勝っていたら



ミャンマーの軍事政権のような、一見して民主主義があるような形で、しかし主要な言論・国会・選挙は軍人優先の政権が大きな影響力を持ち、権力を握っている。

それでも、勤勉で創意工夫の努力家である、日本人が財閥の健在な実業界が、満州・北方領土・朝鮮・台湾にレベル差はあっても大きな権益を有し活用する事で、世界第2位のGDP国であると思います。

一番、敗戦による影響があるのが、教育と軍隊(徴兵制の存続)、天皇陛下の政治的(...続きを読む

Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

Aベストアンサー

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例...続きを読む

Q【日本で戦争が始まったら】お金の日本円の価値は無くなりますか? 戦争時に価値が維持されるものはなん

【日本で戦争が始まったら】お金の日本円の価値は無くなりますか?

戦争時に価値が維持されるものはなんですか?

Aベストアンサー

日本が勝てると思ったら値上がりするでしょうし、負けると思ったら値下がりするでしょう。
中東のテロとの戦いになるとアメリカでも勝ってはいませんので日本が勝つこともありません。そうなると1ドル200円ぐらいまで下がることになるともいます。

Q室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか

室町時代の幕府の財源ですが、本で調べると「御料所からの収入がおも」とか「守護たちは独立して領地を治めていたため、幕府は山城の国一国からの収入しかなかった」などと書かれています。しかし、半済令などで減っていたとはいえ、全国から年貢を得ていたのではないのでしょうか。
また、幕府の年貢は守護請では「守護→荘園領主→幕府」と動いていたと思うのですが、それ以外の場合は「守護→幕府」と「荘園領主→幕府」の2重取りだったのでしょうか。
さらに、朝廷はいったい何を財源にしていたのでしょうか。荘園からの収入だけで成り立っていたのでしょうか。
素人なりに調べたのですが、今ひとつわかりません。
どなたかご存知の方がいらっしゃいましたら、素人でもわかりやすいように教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

私も昨年から中世に興味をもって本などを読んでいるのですが、ご質問のように幕府財政はどうなんだと余り考えたことはありませんでした。

当時は、「幕府」といっても、「朝廷」がなかり力を持っていましたし、全国を考えても、畿内、西国、東国とそれぞれかなり状況が異なっていたような気がします。ですから、全国一律に「幕府」が年貢を徴収できていたかと言うと、かなりバラバラだったと考えた方が良いような気がします。

荘園と国衙との二重構造で、荘園は御家人(地頭)や地頭代が直接管理して、中央政府に米や特産品の年貢や夫役を納めていたと思いますが、一方で、大量の宋銭の流入による貨幣経済の発達(幕府は鋳造しませんでしたが)、また日宋貿易の幕府独占による収入など、その“財政”の姿は、現代は勿論、江戸時代ともかなり異なっていたのではないかなとか思っています。

まあ、ぜんぜん、回答にはなりませんが、思っているところを少し整理させていただきましたが、わたくしもその点に注意しながら更に読書したいと思います。

Q小学生のころから歴史が好きで、今まで 戦国時代→第二次大戦→湾岸戦争→中東・イライラ戦争→第一次大戦

小学生のころから歴史が好きで、今まで
戦国時代→第二次大戦→湾岸戦争→中東・イライラ戦争→第一次大戦と
勉強をしてきました、ほかに何か良さそうなものありますか?

高2です。

Aベストアンサー

必ずしも歴史書が歴史の真実を記しているとは限らない。それに、歴史書は必ずしも面白くない。面白く無ければ人間は読むのをやめてしまう。

そこで私が推薦するのは、パール・バックの「大地」だ。中古で千円以下で手に入るようだ。第一巻だけでも読むと良い。あなたの人生が変わる。とてつもない価値の有る本だ。ピューリッツァ賞と、ノーベル賞を取っただけの事はある。

Q幕末の幕府と藩の関係

幕末には長州藩は幕府と戦争したり、幕府の権威も失墜していたと思いますが、だからといって幕府には藩を取り潰したり、処分を下したりする力までなくなっていたのでしょうか。だとしたら参勤交代なんてみんな拒否しそうですが、ちゃんとやってたから生麦事件が起きたわけですよね。それにいくら薩摩長州が強くても親藩譜代大名がみんな幕府側なら、かなうはずないような気がするのですが。そのあたりの当時の状況について教えていただけませんか?

Aベストアンサー

幕末には徳川幕府の権威も形の上だけで形骸化していました。
幕府に弓をひくような藩例えば長州藩に対し取りつぶしの処置もできず、武力により征伐するべく各藩に出兵を命じましたが親藩の指揮官の尾張藩ですら十分な兵力を用意出来ず、譜代や外様大名も同様でした。
その上旧式装備でしたから長州藩の新式装備、奇兵隊の活躍の前に敗北を重ねて進攻は頓挫する始末でした。第1次長州征伐は長州藩の内紛でなんとか勝利したのですが重役などを切腹させただけでそれ以上の処分は出来ませんでした。

この為第2次長州征伐が必要になったのですが、既に各藩とも戦意を失い、譜代大名の小倉藩の小倉城も落城、譜代の浜田藩も敗退し戦線は後退、膠着状態になる始末でした。

このように親藩譜代といえども全て佐幕派ではなくなっていました。
幕府が先手としていた彦根藩も桜田門事件で藩主が首を取られたことを理由に処罰を受けたため勤王派に鞍替えしてしまいました。
親藩の尾張藩も代々将軍になれなかった恨みから戊申戦争では勤王派につく始末でした。

Q歴史 戦争

今、社会主義革命(ロシア革命)の辺りを学習しているのですが
この革命の後、日本含む周辺諸国は社会主義の拡大を恐れて干渉戦争を起こした。とありますが
なぜロシアに出兵させるほど社会主義が嫌いなんでしょうか
日本が社会主義国家になった場合の政府としてのデメリットはなんですか

Aベストアンサー

社会主義になった場合に何が起こるか考えてみてください。

王制(日本の場合は天皇制)の廃止
貴族(日本の場合は華族)の財産没収&処刑
宗教の廃止(寺や神社といった宗教施設は破壊され、財産没収、聖職者は追放または処刑)と、それによる伝統的文化活動の大部分の修正または廃止
財閥や大企業の解体&国営化
資産家や地主の財産没収&再分配
思想統制とそれに伴う不満分子の粛清

つまり政府に属する人たちや、政府に影響力を持つ人たち全員が確実に粛正の対象になってしまうんですよ。
そして選挙権は一定以上の納税をしている人に与えられていましたから、有権者も全員が粛清の対象となります。
しかも、ほとんどの国は最下層の国民はまともな教育を受けてなくて、先進国ですら識字率が高くありません。教育をちゃんと受けている人たちが粛清されて、教育をろくに受けていない人間が政権を運営するような国になってしまう・・・つまり、国家が完全に崩壊してしまうという危機感があったわけです。

Q鎌倉幕府の年号変更について

鎌倉幕府が、守護地頭を置かれた年に変えられているようですが、幕府と言うものの定義がわからないのです。征夷大将軍によって、開かれるのが、幕府だと思うのですが…。
秀吉が、幕府が開けなかったのは、源の血ではないと言う理由で征夷大将軍にれなかった…。なので、代わりに、関白になった…。と思っているのですが…。違うのでしょうか?
そう思うと、征夷大将軍が、幕府を開くことができるのであって、守護地頭を置いても、征夷大将軍でなければ、幕府を開くことは出来ない…。と思うのですが?どうなのでしょうか?
ただ、幕府と言う言葉が、いつ名づけられたのか…。それによっても変わってくるとも思います。当時の人が、将軍が開いたものが、幕府と言ったのなら、当然、それは、将軍になった時点で、開かれたものだと思いますし、後世の歴史学者が便宜上名づけたのなら、問題ないと思います。
実際のところ、年号変更することは、適当なのでしょうか?

Aベストアンサー

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、1189年に右近衛大将になっておりますので、この段階で幕府とも言えます。
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、それが、在京職でなかったからだという説があります。つまり、右大将では、朝廷からの「任官したんだから京都に来い、ずっといろ」という要請に対して抵抗できなくなるが、征夷大将軍は、現地将軍なので、京都に行く必要がないというものです。
※ 役職的には 征夷大将軍<<右大将です
吾妻鏡でも、1196年段階で、頼朝のことを前右大将家と呼んでいます。それは右大将の方が位階として上位だからです。

武士の統領による政府形態を幕府と呼ぶようになったのは、江戸時代後期に入ってからです。
それまでは 鎌倉殿 であったり 室町殿であったり 柳営だったりしております。

1192年から1185年に鎌倉幕府の成立が変わったのはなぜ?
という質問かと。
1185年説は、鎌倉殿(頼朝)の主従関係が公式なものとされたというタイミングです。
これが守護地頭制度。
それまでも、在地の武士は鎌倉殿の家来であったのですが、朝廷によって認められたというのがポイント。
言い方は悪いですが、やくざの親分が、ある時政府に認められて、地方の手下をそれぞれの地方の警察署長にしたというようなもの。

1192年説は、征夷大将軍任官を鎌倉幕府成立とするものですが、No1さんのご指摘の通り、...続きを読む

Q歴史にもしも…は御法度ですが…

もしも、徳川幕府が鎖国をやめなくて、イギリスにこてんぱんにやられて、日本がイギリスの支配下に入って、傲慢になることがなかったら、世界大戦は起こらなかったと思いますか?

Aベストアンサー

spinna-ginnnさん、おはようございます。


もしも、徳川幕府が鎖国をやめなくて、イギリスにこてんぱんにやられて、日本がイギリスの支配下に入って、傲慢になることがなかったら、世界大戦は起こらなかったと思いますか?





とすれば、明治維新はおきなかったでしょう。幕府が存続し、幕藩体制が存在してくれていた方が植民地支配がやりやすかったと思うので・・・近代化もかなり緩やかなもので、みんな英語が公用語になります。ただ、北進事変のような事態になったら、イギリスのためにお手伝い戦をしなければならないのではないかと思います。
ただ、日本はこんな調子でも、当時ヨーロッパの列強の中で新興国ドイツ、イタリアはどうでしょうか?ドイツは統一後、海外の植民地獲得のためにイギリスをライバル視します。イタリアは統一後まだオーストリアやフランスに割譲された失地を回付することや、ドイツと同じく海外の植民地獲得のためにそれぞれ膨張政策を採り始めます。これが世界大戦の火種にならないとは限りません。そうなれば、インドのように日本もイギリスのためにお手伝い戦としてヨーロッパの陸戦を経験することになるかもしれません。
この当時の世界はまだ国際連盟がなく、本当の弱肉強食の世界なのですから・・・

spinna-ginnnさん、おはようございます。


もしも、徳川幕府が鎖国をやめなくて、イギリスにこてんぱんにやられて、日本がイギリスの支配下に入って、傲慢になることがなかったら、世界大戦は起こらなかったと思いますか?





とすれば、明治維新はおきなかったでしょう。幕府が存続し、幕藩体制が存在してくれていた方が植民地支配がやりやすかったと思うので・・・近代化もかなり緩やかなもので、みんな英語が公用語になります。ただ、北進事変のような事態になったら、イギリスのためにお手伝い戦をしなけ...続きを読む


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