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今回は南京大虐殺のデマです。

■(朝日新聞)南京占領5日目の写真(第1回の写真特集)「平和甦る南京《皇軍を迎えて歓喜沸く》」
占領5日目に早くも露天商が出て、兵隊が銃も持たないで買い物をしている。
(1)兵隊さんの買い物(右)
(2)皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民達。(中上)
(3)皇軍に保護される避難民の群。(中下)
(4)和やかな床屋さん風景。(左)

事の経緯はこうです。
昭和47年(1972年)の「日中国交回復」に先立つ昭和45年(1970年)に、当時の朝日新聞社長の広岡知男氏の指示で、中国共産党の「文化大革命」礼賛記事を紙面に掲載した。

中国共産党の機関紙「人民網(人民日報)」との提携開始もこの時期と思われます。
また、同時期に、公明党訪中団と中国共産党による「共同声明」発行とも符合している点が興味深い点の一つと謂えます。

朝日新聞は、この文革礼賛記事を皮切りとして、翌年 昭和四十六年(一九七一 年)から
「南京大虐殺」という虚構宣伝のキャンペーンを開始したのです。

同紙記者の本多勝一による「中国への旅」を連載し、その虚構は広がりました。

まさに、従軍慰安婦の”植村隆”記者と一緒です。
こうして、南京大虐殺は一人歩きします。

※戦時中の朝日新聞の報道記事
■残骸の敵首都を行く 【南京にて12月14日、朝日、横田特派員】

中山門の内外総ての兵士達はもう嬉しさが過ぎて泣いてしまっている。
戦いに疲れ切って城門の横に眠っている勇士さえ
閉じた眼に一杯涙を溜めて泣いている。

その中山門の花形役者青木隊長が頭一杯に包帯巻いて、
「無錫からここまで一睡もしません、城門を占領した瞬間、
張りつめた力が抜けてヒョロヒョロと立ったまま眠りこけてしまいました」
と述懐したのであった。

城門左側の城壁一帯は我が巨砲に撃たれてまるで
先住居族の住家のように大きな穴が開いている。

この城門前一町ばかりのところには我が戦車を防ぐための物凄い戦車壕が
大道路一直線に横切り、城門は煉瓦と土嚢が城壁と同じ高さに積上げられ、
爆破以外にはこれを開く方法なく如何に敵の防禦が
物凄かったかを如実に物語っている。

城外の遺族学校は蒋介石麾下の軍人の遺族を集めて、
特殊の教育を誇った美齢夫人を校長とする学校だが、
ここも総て皇軍の日向ぼっこの場所となって、
教室に掲げた「徹底抗日」の四字が恥しそうに消えかかっている。

城門の一部では部隊長が部下を集めて

「ここは敵の首都南京だ、
お前たちは天晴れ皇軍たる規律を厳守して寸毫も犯してはならない」

と堂々と大和武士の本領を説き聞かせていた。

城門をよじ登って一歩中山門に入れば、堂々24間道路が東西に一直線に貫き
明の故宮の美しい緑色の屋根と赤い柱とが昔日の面影をそのまま映し、
所謂新生活運動の本城たるその隣の励志社が朝霧の中に低くうなだれている。

中山門が開かれ一同万歳の声と共に戦車を先頭に大野部隊を主力として、
どっと大南京市に部隊が進入したのは13日午後3時であった。
それから敗残兵掃討が開始された。

暖かい程の戦勝日和「国威宣揚」と書いた日章旗が
市の東方の東京の永田町ともいうべき政治区を意気揚々と進んで行く。

中山門から向って左側の故宮飛行場に入れば、
ここは中国民間の全国第一の飛行場で欧亜航空公司、
中国航空公司の待合所がしょんぼりと孤影を大地に投げ、
格納庫の中にはまだ新しいユニヴァーサル二機と小型一機とが潜み、
わが爆撃のため、ところどころに大穴をあけられた飛行場の片隅には
敵機一機が見苦しい残骸を曝している。

突如その付近の一棟から毛布を背負った
敵の正規兵2、3名が現れたが巧みに敬遠した。

窓ガラスの割れた中央監察委員会の絢爛たる支那建築を見過ごして
抗日支那の本拠中央軍官学校の前道路を入ると
前方に土嚢を築いた陰からこれも突如敗兵の射撃だ。

蒋介石の居室をのぞき見て慌てて退散、
広大な近代式の中央医院の前にも土嚢中から銃眼が鋭く覗いている。
建築委員会の建物の中は敵の兵舎と化し去って水筒二つが残り、
火が燻っているところを見ると、敵はほんの今し方逃げたらしい。

【南京にて12月17日 朝日 今井特派員】

嗚呼感激のこの日、同胞一億の唱和も響け、
今日南京城頭高く揚がる万歳の轟きは
世紀の驚異と歓喜茲に爆発する雄渾壮麗な大入城式である。

この軍中支に聖戦の兵を進めて4ヶ月、
輝く戦果に敵首都を攻略して全支を制圧し、
東亜和平の基礎茲に定まって国民政府楼上に
翩翻と翻る大日章旗を眺めては誰か感激の涙なきものがあろうか、

荘厳勇壮を極めるこの大入城式を目のあたりに
実況を故国に伝える記者の筆も感激と興奮に震える。

南京は日本晴れ、この日紺碧の空澄み渡って雲一つ浮ばず
銃火茲に収まって新戦場に平和の曙光満ち渡る。
中山門、光華門、通済門、中華門、和平門、太平門、
日の丸の旗波打つこれら輝く各城門から
午前早くも光輝燦然たる日章旗を捧持して、
南京総攻撃参加の各部隊続々入城、
中山門より国民政府に到る三キロのメーンストリート中山路の沿道に
堵列の将兵は征衣に積もる戦塵を払って意気軒昂。

見渡せば道の北側に上海派遣軍、南側に杭州湾上陸部隊、
血と汗に汚れた戦闘帽に輝く両頬は今日
この一瞬の歓喜に満ち満ちて日焦した満面が感激に燃えている。
午後1時全部隊集結完了した。
 
畏くも金枝玉葉の御身を以て親しく南京攻略戦に御従軍遊ばされた
朝香宮殿下の召された御自動車が中山門に到着した。

続く車は杭州湾上陸の○○部隊長、
そして中山門に感激の瞳を輝かせつつ下り立ったのは
上海戦の労苦を双頬に刻んだ軍司令官松井石根大将である。

午後1時半松井大将を先頭に朝香宮殿下を始め奉り○○部隊長、
各幕僚は騎乗にて、ここに歴史的大入城式が開始された。

東方紫の峰を横たえる紫金山の中腹にこの盛典を見守る中山陵、
ああ、この日! この時!
新支那建設の父、孫文はその陵下に在って如何なる感慨があるであろうか。

恐らくは抗日支那の末路をわが将士とともに哀れんで居るであろう。
此時下関に上陸した支那方面艦隊司令長官長谷川中将は、
各幕僚を随えてこれに加わる。

午後2時国民政府正門のセンター・ポール高く大日章旗が掲揚された。
翩翻と全東洋の風をはらんではたはたと靡く日の丸の美しさ、
嚠喨たる海軍軍楽隊の「君が代」が奏でられ始めた。

空に囂々たる爆音を響かせて翼を連ねる陸海軍航空隊の大編隊・・・・・
挙げる祝杯は畏くも将士を労わせ給う恩賜の日本酒立食の大卓に
並べられた饗宴は、烏賊、かち栗、昆布の戦捷を祝う品々だ、
肝に銘じしみ渡る美酒の味! 再び繰返される聖寿万歳の轟きだ。
恐らくはこの一瞬祖国日本に一億の同胞が
挙げる万歳もこの歓喜をともにするであろう・・・・

※読売新聞の報道記事
■松井軍司令官重大声明 【南京読売特電18日発】

17日威風堂々南京入城式を挙げ続いて18日陣没将兵慰霊祭を主祭した
わが松井上海方面軍最高指揮官は、
同日午後4時南京入城の第一声として特に司令官談を発表し、
南京陥落後に処する毅然たる皇軍の態度を表明するとともに
重ねて国民政府及び支那朝野の反省を求むるため恩威両立、
情理兼ね具えた左の如き重大声明を発表した。

わが軍は南京を占領し17日を以て晴れの入城式を行い
18日慰霊祭を執行したので、
直ちに今後の作戦に即応すべく新たなる体勢に移り、
その一部を以て直ちに江北地方に、
また他の一部を以て浙江、安徽地方に向わしめ連続作戦を行いつつある。

併しながら軍全般としては上陸以来4ヵ月に亙り間断なき湖会戦に
引続き追撃に移った為相当疲労しているので、若干の休憩を必要とするから、
この間において新たに軍備を整備し、その作戦地方における警備、
人民の宣撫を図りつつ再度の作戦を準備する筈である。

而して今後の軍の作戦如何は実に蒋介石
並びに国民政府の態度如何にかかるもので、
今直ちにこれをいうことは出来ぬが、
惟うに江南地方軍民は過去の戦闘により少なからず脅威を受けたものと思う。

また自然これにより国民政府に真の反省の機会を与えたと信ずる。
自分はもともと今次の出征により
支那軍民の蒙った甚大なる損失に対して寧ろ同情に堪えない。

随って国民政府をして速やかに反省せしめ
支那軍民をして真に皇軍に頼るべく親しむことを
悟る日の一日も速やかに来ることを願うものであるが、
国民政府にしてなお反省するところがなかったならば、
遺憾ながら当然の任務上国民政府が漸次承服する時期の
来るまで軍を進めなければならぬ。

時将に寒気に向い年末も迫っている。
自然軍としては一面には支那軍民の反省を促すため、
一面には軍の正義のため暫く支那軍に反省の時日を貸そうと思う。

本日はわが軍陣没将兵を弔って感慨深いものがある、
しかしながらこれら陣没将兵に対する惻隠の情は
独り日本将兵に対するのみに止まらず東洋の現勢に盲目にして
かくの如き事態に立ち至らしめた国民政府に虐使せられた
不幸なる支那軍陣没将兵に対しても同様である。

殊にこれら戦争に禍いせられたる幾百万の
江浙地方無辜の人民の損害に対し一層の同情の念にたえぬ。
今や旭旗南京城内に翻る皇道江南の地に輝き東亜復興の曙光将に来らんとす。
この祭に当たり特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである。



朝日新聞は自分のとこの記事も忘れたのでしょうか?※写真はなぜか虐殺ネタにされてます。

「朝日新聞の虚報(デマ)はいつまで続くのか」の質問画像

A 回答 (3件)

>朝日新聞は自分のとこの記事も忘れたのでしょうか?



「やっぱりそうか」と呆れただけで Memo 保存 (或いは Bookmark) していなかったことから何処で読んだのか忘れてしまいましたが(^_^;)、慰安婦問題を朝日新聞が提起した頃、Seoul の朝日新聞記者達が本社に書き送った記事、つまり慰安婦と称した人達への Interview 記事などが尽く無視され、朝日新聞の発表記事は東京と大阪の編集者が勝手に創り出した記事であることを既に退職した元朝日新聞 Seoul 記者達が証言している記事がありましたね。

また、何時だったかな……10 年程前に NHK が「ヒロシマはどう記録されたか」という題で、奇跡的に爆死を免れた「中国新聞 (広島の新聞社)」と「NHK 広島放送局」の社員の方が原爆投下時から翌日にかけての広島市内の状況を語った本が出版されましたが、その中で「中国新聞社の Cameraman」の方が原爆投下当日に撮った、今でも著名な原爆写真……撮影時には中国新聞社の記者と一緒に行動していたようで、記者の方は「一緒に行動していた」と証言しているのに対して Cameraman の方は「一人だけで行動していた」と証言している『記憶のズレ』が生じているのが印象的でした。

本では「原爆という常軌を逸した状況の下で如何に記憶が混乱するものなのかの例」のように解説していたと思いますが、私はこれを「外界の状況が常軌を逸したものでなくとも、体験している本人が興奮状態にあったり、後になって記憶を整理する段階で感情的な偏向や (政治理念などの) 理念的な偏向で、事実とは異なる記憶が想起される事が、新聞記者 (Journalist) と言えども少なからずある。」と解釈しています。

そのため、私は「当の本人が体験した事を語る『一次資料』と言えども事実と乖離している事が少なからずあるものであり、一次資料であっても他の資料と照合して事実のみを時系列で浮き上がらせる『歴史化』作業を経なければ信用できるものではない。」と思っているのですが、そうした不確かな「一次資料」は勿論、後代の創作物でしかない二次資料以下の資料を鵜呑みに信じる人が多いのには首を傾げてしまいます。

御質問者さんが A No.1 さんへの御礼で述べられていらっしゃる事は正に質問文で例示されている複数の一次資料から浮き上がらせる事ができる共通項であり、各々の記者による偏向や記憶のズレを排除して「歴史化」可能な事実であろうと思います。

南京市街での兵士が体験した話はまた「歴史化されていない別の資料」に基づく二次創作話であり、少なくとも南京市内に於いては御質問者さんの仰る通りにしか解釈できない筈でしょう。

南京市内の状況に付いては当然、当の本人である複数の記者達からの記事が上がってきている朝日新聞では「歴史化」可能な事実を多数拾い上げている筈であり、そうした事実を尽く無視して編集 Desk で「創作活動」をするようになったのでしょうね。……その時期は御質問者さんが明示されていらっしゃるように「人民網(人民日報)」と提携して文化大革命礼賛記事を創作し、北京支社の設立を推進し始めた時期でしょうね。

今では自社社屋内に中朝の Media 支局を配して中朝 Media のために記事を書く……朝日新聞が報じた反日記事は当日や翌日には中朝 Media 記事や政府の抗議に利用されるのですから「中朝の反日出先機関」に過ぎぬ新聞社と看做されても致し方ないでしょう。……その太鼓持ちに過ぎない毎日新聞社とか地方左派新聞社はもっと低俗に見えますが(^_^;)……。

そんな新聞社を儲けさせるために購読するなんて気は毛頭起きません。……現代は Internet を介して「無料」で記事を読む事ができる時代ですので、興味があれば Web Site で読めば良いと思うのですが……月々 3 千円ほどで他の Web Site も、海外の Site も見放題の Net Surfing できるのに(^_^;)……。
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この回答へのお礼

如何にクソ新聞だとしても、当時は従軍して戦死までしている記者の記事です。
一次資料としては価値があると思っています。
また、当時のカメラマンの写真が、当時の報道とは別の資料に使われていることに憤りを感じます。
なぜ、そんなことが起こるのか?
本当に不思議でなりません。
しかし、昨今の朝日新聞の姿勢を見るに、理解もできます。
本当に駄目な新聞になりました。
思えば、テレビでも”水曜スペシャル”や”木曜スペシャル”といったなんちゃってドキュメンタリー番組を多く作ってくたのもこの時期ですね。

回答ど~も

お礼日時:2014/08/30 19:49

南京で数万人の捕虜をあるレベルが発して軍命で虐殺に等しい方法で殺害したことは事実。

また、当時、日本軍が、捕虜を「丸太(マルタ)」と称し非常に酷いやり方で処分していたことも周知。南京の最高司令官自身が、その回顧録で「日本軍の非道なる蛮行の存在を知って驚いた。南京で虐殺された方の人数が問題ではない。そういうことを行ったこと、あったことが問題なのである!」と記している。

朝日のデマ云々よりも最高司令官自身が認め謝罪した南京での虐殺行為をあたかもなかったように言う方が正にデマ。桜井某他の評論家が冒頭の事実を知らない筈がない。回顧録も読んでいることは間違いない。それなのに、「なかった」と強弁する。「這っても黒豆」とは、このこと。その手の狂った論とは一線を画したがいいですよ。
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この回答へのお礼

朝日新聞のデマの部分の話です、
中国戦線での便衣兵の処分の話はしていません。

^@しかも南京市での虐殺行為は”中国軍”の字軍への攻撃の結果の話です。
もっと勉強された方がいいですね。

回答ど~も

お礼日時:2014/08/30 08:29

此処まで詳しく書くと あなたが朝日新聞を肯定してる様に取れるのが不思議だ

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この回答へのお礼

いくら朝日新聞の記者でも、この頃は従軍して、ピストルも携帯しています。
今のように、まったくの創作はできないと思うわけです。

で、虐殺があったのなら、そのような記述があっておかしくないのです。
この時代、それは戦果であるからです。

新聞各社の中国戦線での一様の書き方はすべて一緒です、
日本軍相手に怖がる市民はいないのです。
逃げ出す兵士の話は山ほどありますが、逃げ出す市民はいません。
むしろ日本軍万歳!の連呼です。

なぜそんなに自国軍を恐れるのでしょうか?
それは中国軍の軍閥が、今までしてきたことだからです。
略奪・暴行・放火・強姦・窃盗・・・もはやヤクザと同じだったからです。

回答ど~も

お礼日時:2014/08/30 08:38

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