▽ (ローマ法王に「宗教の国連」提案 イスラエル前大統領) ~~~
 http://news.nicovideo.jp/watch/nw1221182

 共同通信社 2014年9月5日(金)9時28分配信

 【ローマ共同】 ローマ法王フランシスコは4日、イスラエルのペレス前大統領とバチカンで会談した。ペレス氏は法王に、宗教対立などの問題に対処する「国連形式の宗教組織」の創設を提案した。ローマ法王庁(バチカン)が明らかにした。

 ペレス氏はカトリック専門誌に対しても、世界で起きている戦争の根底には宗教があると指摘し、神の名の下に人を殺害するテロに立ち向かうためには「宗教国連」が最善だとの考えを示した。

 バチカン報道官によると、法王はペレス氏の考えを慎重に聞き、関心を示していた。今後、宗教間対話の担当者が内容を検討するという。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (あ) スサノヲ市民社会( S 圏)の上に・第二階として アマテラス公民圏( A 圏)が乗っかっている。そのような《 S - A 連関制》として成る国家の上にさらに仲裁・調停などのためメタ・アマテラス普遍語を扱う機関として 国連がある。――こんなものが 果たしてふつうに・うまく機能するのだろうか?

 (い) シュウキョウは そもそも 個人の信仰とは別だ。信仰から得られたとは言え そのオシエを あろうことか 信じよと言う。人が信じるのは オシエではなく そのみなもとのナゾのほうだ。おまけに そのためのヒエラルキアとしての組織までをもつくった。――これは 支配欲に支配された人間が 好んで参加する組織でなくて ほかにどういう中身があるだろうか? 金儲けという目的のほかに。

 (う) イスラエルは ユダヤイズムのままでは やはり立ち行かないのではないか? なぜなら あたらしい契約――つまり無契約――へと脱皮しないことには 自己主張すら出来ないはずだ。なぜなら 聖書に《民族浄化》に似た殲滅作戦を神が命じているかぎり ナツィのショーアなる悪行を ほんとうには批難・批判しがたい。

 (え) 戦争は 《宗教》でおこなうものなのですか? シュウキョウを組織としてつくるのが ニンゲンであったように 戦争をもシュウキョウの旗を掲げるにせよ何にせよ やはりニンゲンが起こすに過ぎないのではなかろうか?



 ご教示を請います。

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A 回答 (27件中1~10件)

こんにちは。



友人は、結局聖書が戻らないので、こちらから送った質問だけに手短かに答えてきました。まず下の個所ですが、erはやはりすべて「悪魔」を指すのではないかとのことでした。訳を訂正します。

Ich halte nämlich dafür, daß er, einmal Fürst unter dem Himmel geworden, auch nach dem Sündenfalle seine Herrschaft nicht verloren hat. - "Der noch jetzt", heißt es weiter, "in den Söhnen des Unglaubens wirksam ist". Siehst du, daß er nicht mit Gewalt und Zwang, sondern durch Überredungskunst verführt? Er gebraucht den Ausdruck Unglaube, was so viel besagen will als: durch Betrug und Überredungskunst zieht er alle an sich.
つまり私は思うのだが、かつて天の下の頭となった悪魔は、罪に堕ちたあともその支配権を失わなかった。―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者」お前は、悪魔が権力や強制ではなく、説得術で誘惑しているのがわかるか。悪魔は不信心という表現を使うが、これは、欺瞞と説得術ですべての者を自分に引き付ける、と言うよりもはるかに重要なことを言おうとしている。

友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。あの国の人たちは、真面目な発言と不真面目な発言の境目が不明瞭なので迷惑します。ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。

人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。

そして、下の個所なのですが、「was er anführt」のerは「神」でよいそうなので、No.22でした訂正は誤訂正ということになります。ただ、最初の訳はbragelonneさんのおっしゃるように、意味が通りにくいと思います。たぶん、anführtの方が誤訳だと思います。「手引きしているのは」ではなく「理由として挙げていることは」の方が正しいと思います。

"Erbarme dich meiner nach deiner großen Barmherzigkeit". "... um seiner großen Liebe willen, womit er uns geliebt hat." Der Apostel zeigt, woher die Liebe Gottes zu uns stammt. Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.
「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。

これなら少しわかりやすいと思いますが、いかがでしょうか。
この件について、もう一つだけ補足します。昨日、偶然、スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。冒頭部分だけ書き取っておきました。

Auch euch hat Gott zusammen mit Christus lebendig gemacht. Ihr wart nämlich tot aufgrund der Fehlungen und der Sünden, die euer frühes Leben bestimmten. Ihr hattet euch nach den Maßstäben dieser Welt gerichtet und wart dem gefolgt, der durch die Mächte der unsichtbaren Welt zwischen Himmel und Erde herrscht.

最後に、この御質問本来の話題に戻します。
「宗教の国連」については、外国のネット上でもまだ報道のみの情報が多く、賛否については把握できません。ただ、自然発生的なものとは言えないようです。また、メタ・アマテラス的なものでもなさそうですし、世界宗教者平和会議(WCRP)とも目的が異なるものです。
「宗教の国連」が提案された理由の一つは、この数年、国連内での宗教間の問題解決が行き詰っていることのようです。つまりこの点に関しては、国連はもう機能していないということです。宗教の非難に関する決議が、西側諸国とイスラム協力機構の不和を招き、決議は放棄されました。また、宗教に対する非難により、特定の宗教を信仰するという理由で個人が差別されることになり、人権問題や、意見の自由に触れることになります。そういう事情から、「宗教の国連」は、今の国連とは違う憲章を立てる方向だそうです。つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。
以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。

とりあえず、これでまとめとさせていただきます。

この回答への補足

 このご回答で 表題の《宗教の国連》についての少なくとも取り組みをめぐるしかるべき姿勢が明らかにされたと考えます。

 派生する主題としてのエペソ書2章(その初めの部分)についての解釈などをめぐる議論は――おおよその答えとしても―― ご回答No.22にて承りました。訪問者の方々は そちらのほうをも参照なさってください。

 

補足日時:2014/09/23 12:57
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 だいたいそのように落ち着くのでしょうか。

 最初の件につきましては 最後の一文の《 er 》も 悪魔のことなんですね。正直 気持ちが宙ぶらりんになってはいますが たぶんそういう文章をクリュソストモスは書いたのだと思って飲み込みました。

 二件目は なるほど。うんと 分かりやすくなったと思います。神の《怒り》と《神が怒りを持たざるを得なかったその人たちへ なお憐みを垂れる》とがつながるように思うときにはです。 
 ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.
 ・・・なぜなら、神が指摘していることは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値するようなことだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いえ。まったく これがよいと思います。

 つまり ここから深読みをして 《怒りと厳しい罰》も――あたかも悪魔による何かよくないことの指し示しと同じように―― 広く大きく神の愛であると言おうとしている場合にどうか。という贅沢な変な気持ちが出て来るというおまけがあるというだけのことです。




 ★ 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。
 ☆ これは 真面目な――生真面目な――方面での意味もあるように思います。蛇の誘いに負けたのは あくまでエワであるという議論です。そのあと アダムは エワに――あたかも思いやりでおつき合いするかのように――従って 同じく善と悪とを知る木から採って食べた。のだという議論が ふるくにはあったようです。男尊女卑の考えですね。

 でもこれは 過去の遺物でしょう。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、悪魔の行為については、わかりやすくこう書いてくれました。

   人間をまんまとだました後、悪魔は神に悪態をつく、
  「見てみろ、お前の創造した者たちを、哀れじゃないか」と。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは そうなんですけれど・つまり 人間は女も男も意志が弱く心がきよらかではなかったのですけれど これは 自然本性における自由意志の自由度として(わが心にさえさからう自由として)すでに織り込み済みであった。とは 考えます。

 そうでなかったなら 人間という生物が おかしいことになると。

 けれども ヨブの場合には あの義人とかいうヨブをちょっと打ってやってもよいですかと悪魔が神に願ってそれがゆるされたあと ヨブは身も心も地に落ちたごとく沈んでしまった。けれどもそのとき 悪魔はこの悪態をつくことは出来なかったのだと思います。

 ヨブが弱くなかったということでもなく きよらかそのものだったとも言えないにもかかわらず サタンは ヨブをいいほど虐めたあと やはり ヨブめ ざまあ見ろとは言えなかったと思いますから。神によって ヨブは人間の分際であることを忘れないようにと注意を受けただけだと思います。


 そうしてその後 イエスによって死の製作者たる存在とのおつき合いをとことんするというお持て成しを受けて その悪魔は ナメクジのように溶けてしまったものと思います。





 ★ スイスの若い神父の説教を見つけました。その神父が読んでいるのは、完全な現代ドイツ語訳で非常に分かりやすいのですが、「空気」という言葉はもう使用してありませんでした。もしかすると、ἀήρはもう空気とは訳さなくなっているのかもしれません。
 ☆ これは おもしろいですね。もう言葉へのこだわりもないようなのですね。ありうるのでしょうね。

 すなわち《クウキ》という言葉にしても じつは 《シューニャター》の空観に立つならば ただカザリつけたような・じつはシガラミであって 取り立ててこのクリスマスツリーのようなクウキは 人間の存在と共生にとって要らないものだと考えられるからです。

 空気と言うのなら それをいちいち読むか読まないかを考えるようなクウキだと言わなくとも 互いに自由に批判をも含めて発言をおこなって行けるような場こそが のぞましい空気だと思われるからです。






 ★ 世界宗教者平和会議(WCRP)は、宗教に関するあらゆる問題を扱うのに対して、「宗教の国連」は、戦争やテロ行為に対することを主目的としており、国連が今のシステムで機能できないのならば、今回の提案はそれなりに理解できます。
 ★ つまり、現在世界で宗教の名のもとに行われている殺人や大量虐殺は、宗教とは無関係な行為、つまり、いかなる宗教によっても正当化されない行為であることを明言するつもりのようです。
 ☆ なるほど。あまり重く受け留めていませんでした。ただし 実際にはむつかしいようにも感じてしまいます。ジハードは クルアーンから取り消すことが出来ないでしょうし へブル語聖書にかんしては 民族殲滅といった話が出て来ていますし。

 むつかしいですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 ただ、トップにローマ法王を据えるということになると、どうしても西側先導という印象になりますので、その辺がどう出るかです。
 以上のような事情から、御質問(あ)~(え)は、「宗教の国連」の構想に至る経過と目的を考えると、お答えできなくなります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ なるほどですね。この場合・つまり 《宗教の国連》という提案の場合には 正面からのシュウキョウ批判とは やや筋を別にして事務的な作業をつうじて現実の問題を扱うようにして取り組む必要がある。のかも知れません。出直したほうがよいようです。




 長いあいだにわたって いろいろとお世話になりました。脇が甘いということを知ったと言いますか 問題はいくつかの視点から捉えて行かねばならないということ。また 議論や理論は ひととおりすでに西欧では豊富な蓄積があるので ウワベの情報をかすった程度ではまだきちんと消化したとは言えないこと。歴史の重みがありますね。

 つまり ちょっぴり反論しますと 必ずしもその結論には 従わなければならないとも言えないような。つまりむしろ従ったあと なおあたらしい見方を われわれ日本人としても 打ち出して行ってよいではないか。こうも――いままでのデカイ顔を小さくしつつも 基本線においてこうも――思われて来ます。


 わたしは 日本人の神と信仰についての理論(思い)とそしていわゆる宗教についての評価 これらは それほど間違った内容ではないと思っています。それを きちんと思想として自己表現することが出来るようにして行く必要がある。こうも考えます。いままでずっと考えて来ました。





 ありがとうございます。表題がややずれたかなとは思うものの いいスレッドをつくり残すことが出来たと思っております。これからも ご指導のほどをお願いいたします。

 しばらく開いていて 閉じることにします。

お礼日時:2014/09/21 18:13

>★ これがウィーン人です。


>☆ この期に及んで 正直幸兵衛でまいりますが この内容は けっきょくさっぱり分かりませんでした。

やはり御報告しない方がよかったですかね。ヨーロッパには、風刺やパロディーの伝統があります。真面目な日本人から見ると不愉快なものもあると思います。しかし、これもまた彼らのアプローチの一手段です。聖書でも遠慮はしないでしょう。もちろん向こうでも、まじめな人から批判は出ると思いますが、笑いによって別の面を引き出すということはあると思います。ただ、現地で生活して、その気風にじかに触れないと、なかなか理解できないかもしれません。

>★ 解釈
>☆ は するということは分かりましたが そのことについて どういう条件がついているのか ずばずば言うとすれば さっぱり分かりません。

これは直接会って話さないとよくわかりません。条件ということではないと思います。特に深い意味はなさそうですが、聖書解釈の議論は、普段一般の人がなかなか知る機会のない世界という程度のことかもしれませんので、あまり深くお考えにならない方が良いと思います。

>★ 女=エワ
>☆ についての評価が 男のアダムより先に個人的にヘビにそそのかされたこと(または ヘビの所為にするかたちを整えつつ 自分の欲するままに自分ひとりの一存で振る舞ったこと)をめぐる問題よりほかにあるとは まだ読んだことがありません。ゆえに 真正直にお応えしますと 狐につままれた状態ではあります。

これも誤解ですね。No25のコメントにこう書いていただきました。

>★ 友人はここで、(悪魔が誘惑しているのは人間ではなく女)、とカッコつきで書いてきたのですが、これは多分、無断で聖書を貸してしまった奥さんへの皮肉を込めたジョークだと思っています。
>☆ これは 真面目な――生真面目な――方面での意味もあるように思います。蛇の誘いに負けたのは あくまでエワであるという議論です。そのあと アダムは エワに――あたかも思いやりでおつき合いするかのように――従って 同じく善と悪とを知る木から採って食べた。のだという議論が ふるくにはあったようです。男尊女卑の考えですね。

これを友人に伝えたところ、bragelloneさんのおっしゃる通り、エワの意味で書きました、という返事です。

岡本太郎は若いころ結構読みました。私もいろいろなことに反抗する人間ですので、全然かまいませんよ。

これで本当に最後にします(笑)。
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この回答へのお礼

 お答え・ご回答をありがとうございます。


 ★ ヨーロッパには、風刺やパロディーの伝統があります。真面目な日本人から見ると不愉快なものもあると思います。しかし、これもまた彼らのアプローチの一手段です。聖書でも遠慮はしないでしょう。
 ☆ そうですね。実際のことを経験したということがありませんので ありがたく承ります。

 それと同時にですが わたしには・日本人ですがこのわたしには タブーはいっさいありません。たとえば イエス・キリストを《大嘘つき》と呼んでいます。そのようにです。

 【Q:闇の中にいた人が光を見たと言えるようになるには?】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8762412.html
 ☆☆ (趣旨説明欄)  (ε) しかもこの《人間イエスかつ神キリストの物語》は 大いなる虚構である。闇の中から光を見させたなら 用済みである。大芝居を打った。それによって 神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てとしての〕宗教についての一般理論が 完成した。




 ★ 解釈 
 ☆ の件について 了解しました。往生際のわるい性癖が出てすみません。


 ★ エワ
 ☆ の件は そういう意味でしたか。あやまって理解してしまい まことに申し訳ありませんでした。ごめんなさい。


 たびたび わづらわせ申して 済みませんでした。

 これで すっきり・かつ感謝しつつ 取りあえずこの質問を閉じることにします。
 ありがとうございました。

 みなさんにも 感謝申し上げます。

 

お礼日時:2014/09/23 12:50

まだ開いていたので御報告します。


友人が言った「学問のための学問」には他意はなく、「限界のない解釈の余地の中でのこと」という意味で言ったそうです。解釈をやめる、という意味ではありません。
それから、「女」というのは、まじめにイブのことを言ったそうです。彼は作家なので、「やろうと思えばすべてのストーリーをジョークとして解釈もできるけれど、君の聖書解釈者(bragelonneさんのこと)を怒らせたくないので、言わないでおいたほうがいいな」とも書いてきました、これがウィーン人です。ただ、エフェゾ人への手紙には、今回の問い合わせをきっかけに、彼も興味を持ったようです。

今回は私も非常に勉強になりました。ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 さらにご報告をいただきありがとうございます。


 ★ これがウィーン人です。
 ☆ この期に及んで 正直幸兵衛でまいりますが この内容は けっきょくさっぱり分かりませんでした。

 聖書について
 ★ 解釈
 ☆ は するということは分かりましたが そのことについて どういう条件がついているのか ずばずば言うとすれば さっぱり分かりません。

 ★ 女=エワ
 ☆ についての評価が 男のアダムより先に個人的にヘビにそそのかされたこと(または ヘビの所為にするかたちを整えつつ 自分の欲するままに自分ひとりの一存で振る舞ったこと)をめぐる問題よりほかにあるとは まだ読んだことがありません。ゆえに 真正直にお応えしますと 狐につままれた状態ではあります。




 確か岡本太郎が言っていたのだと思いますが かれは《金平党》だと言います。金平糖のごとく 一見ハリネズミに見られるとしても 尖っているのだ・突っ張っているのだという行き方のことです。

 わたしは これを踏襲するといった意識もなく しかも同じようにそういう行き方をどこかに身に着けて来ているかと思います。あしからずどうぞと言えるほどには つつましさに欠けて来ております。お詫びにもならないでしょうけれど せめてもの説明責任のようなことを ひと言でした。


 重ねて 特に今回のおつき合いに感謝申し上げます。
 

お礼日時:2014/09/23 08:02

こんにちは。


友人からの返事を待つ間、閑話休題です。ギリシャ語の解説で引用した説明の一つは、ゲーテの「色彩論」だったことがわかりました。補遺に含まれるもので、本文はネットで活字化されているのですが、補遺はスキャン画像しか見つかりませんでした。下の部分です。

http://books.google.co.jp/books?id=x55wvGvFX8kC& …

この説明の後に、濁りは光と闇の中間に位置する、という記述も見えました。

現代の聖書解釈にはずいぶんいろいろな方向があるようです。ちょっとドイツ語は読みつかれたので、読むのはやめていますが、下のWikiのページに紹介されているようです。

http://de.wikipedia.org/wiki/Biblische_Exegese

>○ Denker des Abendlandes - 19 - Augustinus - eine Zeitenwende
>☆ これが 聞いて分かるようになればいいなぁと単純に思います。

幸いこの対談は活字化されています。会話文なので、それほど難しくないと思います。その代り、一般視聴者向けなので、深い解釈があるわけではありません。面白いのは、哲学者と自然科学者(宇宙物理など)の対談ということです。私は、分厚いハードカバーで手に入れたのですが、来年1月に文庫化されるようで、日本のアマゾンからも入手できますよ。Kindle版なら今すぐ購入できます。

http://www.amazon.co.jp/Die-Grossen-Denker-Philo …

>けれども アクマも神の使いである。と見てよいのかも知れません。

私の印象では、ヨーロッパではやはり、悪魔は天使の一人、堕天使という考え方が結構一般的なのではないかと感じています。

今日はこれにて失礼いたします。
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ゲーテの「色彩論」
 ☆ でしたか。そして
 ★ 哲学者と自然科学者(宇宙物理など)の対談
 ☆ ですか。正直に言って 手を広げなくなりました。

 ですから もし仮りに聞いてもよい話があるとすれば おまえさんのは 人生哲学であっても 哲学本来のものではないよと言われています。ちょうどいまその質問をも挙げているのですが。

 何とも言えません。何とも動きが取れません。対話などは PC を開いているときに 声だけでも聴けるようにオンにしておこうとしていますが。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
  >けれども アクマも神の使いである。と見てよいのかも知れません。

 私の印象では、ヨーロッパではやはり、悪魔は天使の一人、堕天使という考え方が結構一般的なのではないかと感じています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ そうなんですか。特に違和感はなかったでしょうか。勇み足は言うに及ばず 破天荒で奇妙奇天烈なあたらしい仮説を推し出していますので。・・・そういった思索が 合っているし 好きなんでしょうね。わたしは。
 アウグスティヌスの延長線上にあると言ったら 信用する人は誰もいないでしょうかね。

 しかるべきときには ぼろくそにコテンパンにご批判くださるようお願いしておきます。



 アマゾンでなく 楽天にあったなら よかったんですけれど。(けちですから ポイントがたまっているので)。

お礼日時:2014/09/18 15:05

(続きです)



アウグスティヌスに対する批判については、私の意見でもなければ、賛同するものでもありません。ただ、日本のサイトではあまり得られない情報かと思って御提供しました。改めて読んでみると、批判しているのは宗教改革期の人たちではなく、比較的現代の神学者や哲学者(アルフレート・アダム、ヴィルヘルム・ヴィンデルバント)でした。二元論、と言うのは、もしかすると善悪ということよりも、哲学的な意味なのかもしれませんが、詳細は不明です。下記サイト、アウグスティヌスの項のKritikに説明があります。

http://de.wikipedia.org/wiki/Augustinus_von_Hippo

アウグスティヌスが思想家として、今日まで偉大な人物の一人であるという評価は変わらないものなのでしょう。私はまだ読んでいないので、語る資格はありません。ちなみに、ドイツのテレビ局が、一般視聴者向けに企画した「西洋の思想家たち」という対談のシリーズの1回分がアウグスティヌスにあてられています。このシリーズは、ドイツ語の訓練もかねて、寝るときに聞いたりしているものです。Youtubeに出ていますので御紹介しておきます。



最後にもう一度「空気」に戻りますが、私は今回の検証の結果、No.9でご紹介した、Walter Tlachという現代の神父の説教が一番しっくりくるように思います。現代の時代にも適切な話のように思えます。

ἀήρ = Mode(流行)= 悪しき時代の支配的雰囲気
悪魔 = Diktatur(独裁)= verführen(誘惑)とanführung(指揮、引率)

こんなところでしょうか。
では後日、もう一回だけ回答します。
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この回答へのお礼

 つづきましてご回答をありがとうございます。

 アウグスティヌス批判につきましては 
 ▽  einer da(Ausdruck eines neurotischen Schuldgefühls)mit zusammenhängenden Verschmelzungssehnsucht mit Gott, die bis heute bei unzähligen Gläubigen belastend fortwirken.
 ☆ にちなんでひとこと述べたいと思います。つまり 引用のみにてです。

 ▲ (アウグスティヌス:逆におまえがわたしに変わるのだ) ~~~~

 私の見た・・・光は 油が水の上にあり 天が地の上にあるような仕方で私の精神の上にあったのではなく 私を造ったがゆえに私の上にあり造られたがゆえに私はその下にあったのです。

 真理を知る者はこの光を知り この光を知る者は永遠を知る。それを知る者は愛です。

  おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ!
  あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。

  はじめてあなたを知ったとき あなたは私を引きよせて

    見るべきものがある
    だがそれを見うるだけの者にまだ
    私はなっていない

  ということをお示しになりました。

  そしてはげしい光線をあてて弱い私の視力をつきはなされたので
  私は愛と恐れにわななきました。

  そしてあなたからはるかにへだたり
  似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。



  そのときはるかに高いところから


   私はおとなの食物だ。
   成長して私を食べられるようになれ。

   食べると言っても 肉体の食物のように
   おまえが私を自分のからだに変えるのではない。

   逆に おまえが私に変わるのだ。

  というみ声を聞いたように思いました。

   (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの言いたいことは 神は 《非経験の場》であり これを心に受け容れても《非思考の庭》として成るのみであるということです。つまり 文学的なカザリとして自己表現しているのみだと思います。読む方が拡大したり膨張させたりするのだと思います。強烈ですから。



 ○ Denker des Abendlandes - 19 - Augustinus - eine Zeitenwende
 ☆ これが 聞いて分かるようになればいいなぁと単純に思います。




 《二元論》にちなむ話から 議論を継ぎます。

 光と(つまり光のあたっているところ)と闇とは ふたつの元でしょうか?
 善と悪とは ふたつの別別の実在するものなのでしょうか?

 神は――つまり 非知なるナゾは―― 善悪の彼岸であると だいたい相場は決まっています。
 経験世界には 光の明と暗とが 経験事象としてある。

 善は いのち と生きること また ともに生きることだと考えます。
 ウソをつこうとすると この存在の条件〔としての善〕にさからうことになるのだと見ます。したがってのように やましさ反応が現われます。動悸が激しくなったり顔を赤らめたり。

 ヤマシサ反応(つまり 従ってわが心)にさからっておこなう思惟や行動 これが 《善をそこねる》意志行為であると捉えます。その結果 わが心には 傷がつきます。あるいは 善の一部が欠けます。このように善の損傷行為およびその結果の欠けを マイナスの善として捉え 言葉として悪と呼ぶ。のだと見ます。

 悪が 実在のものとして善とならんであるのではなく そうではなく 善の損傷のことを 別様に悪と呼ぶだけであると。悪は 悪と呼ばれる現象としてはあるが 善と同じ次元の別のものとしては ない。


 このように考えるとき それでも現象としては 善と悪とがあるので これを二項対立として捉える向きがある。そして さらには不用意に二元論だと呼ぶことがある。こういうことではないでしょうか。
 悪は 善なる存在から ひとの自由意志によって――ヤマシサ反応にさからう行為として―― 現われる。と見ます。





 もしこうだとしたら では ひとの自由意志にあって しかもその自由意志とほぼ同じと見なされるわが心にさからう意志は どこから来たのか? その自由度は どうして起こるのか?

 みづからの自由意志にさからう意志自由は どこから来たのか? つまり 悪は どこで現象として生まれるのか?


 ヘビともサタンとも呼ばれる悪魔にそそのかされることによってだろうか?

 この悪魔のさそいを神は そうすることをゆるしたと言います。
 おそらく 人間が 自分で自分の心にさからう意志行為というものを認めたくなくて どこか誰か別のものを悪者に仕立てて その所為にしたかった。のかも分かりません。

 あるいは わが心にさからったからには そのむくいをむしろ自分からすすんで受け容れたいとねがっている場合もあるかと考えます。だから 神にそのような戒めをおこなう悪魔を送ってくれるようにひとは願った。


 なんで人は ぜんぶ自分が思い・成すことであるのならば 自分がやったと・自分の所為だと認めないのか?


 光のあたらない陰や暗闇への窓を閉めたくないという自由度を保っていたいからであろうか?

 善なる存在の欠けが生じたとすれば――つまりは 思わず不覚にもウソをついてしまって その損傷が出来てしまったとき―― 毒を食らわば皿までというふうに 自棄(やけ)に成ったからなのだろうか?





 ですから 悪魔が 闇の支配者としてわたしたちをこらし 苦しめるのは 神のゆるすところであり むしろわたしたちがそれぞれ心に望むところでもある。のではないでしょうか?

 悪魔も 神の愛のうちにはたらく或る種の仕方で言う愛である。のではないでしょうか?



 ただし問題は この悪魔が われわれにとって常習の共犯となったりして 慢性化した場合です。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 ἀήρ = Mode(流行)= 悪しき時代の支配的雰囲気
 悪魔 = Diktatur(独裁)= verführen(誘惑)とanführung(指揮、引率)
 ~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ ヤマシサ反応を思い出して 心にさからう《悪》なる意志行為を悔い もとの自然本性に立ち戻ることを そのつど一回の行為ごとに繰り返していれば まだよいと思われるでしょうが 何度もその《立ち戻り》を経ないで 善の損傷行為を重ねて行ったばあいだと考えられます。

 雰囲気と言いますか 香りあるいは匂いまでがついて来る場合が けっきょく現状なのだと思われます。

 けれども アクマも神の使いである。と見てよいのかも知れません。だって もとのわが心に立ち還ることなく しかも雰囲気としてのアクマがそこに何も残っていないとしたら かえっておかしいわけですから。

 神は アクマをも遣わして われわれを見ている。という見方にもなりますまいか。


 善悪・明暗・浄不浄・聖俗などを わたしたちはそれぞれ精神の胃袋に飲み込むことではないでしょうか? やるべきことは。
 神がついていれば だいじょうぶです。神がついていなくても 心配要りません。すべては わたしたちの自由意志のなせるわざの積もり積もったものだと捉えられるからです。


 カッコウをつけてみました。どうでしょう。

お礼日時:2014/09/18 11:13

こんばんは。


今日はほかに質問がないので、少し補足します。
友人からは短い返事があり、今日か明日聖書が返ってくるので、もう少しで待つのは終わり、ということでした。学問のための学問、の件については、「クリュソストモスは、伝統的な解釈に反抗することによって、自らVarianteになっている」と返ってきました。これは、もっと具体的に説明してもらわないと納得できないのですが、彼は長いメールは絶対書かないので、あきらめます。おそらく、いくら議論して違う解釈をしても、五十歩百歩、とでも言いたいのかもしれません。もともと聖書の解釈などには興味を持っていなそうなので、そういう立場からの発言かもしれません。だとしたら、仕方ないでしょうね。おそらく、現代ヨーロッパの人の多くは、こういう議論には懐疑的なのでしょう。我々にとっては未知のことでも、彼らにとってはうんざりなのかもしれませんし。ドイツ語の質問だけすることにします。

> と言いますか 要するに《空中の権能》とは何か? だけなのです。問うていることは。
 >《悪魔》のことだとすれば なぜそれを《空中》と言うのか? だけです。ここでは。

この点については、plapota師匠がギリシャ語を教えて下さらないので、いまだ明らかになっていませんでした。No.16でご紹介した資料について、自力で少し調べたのですが、空気と訳されているギリシャ語については、次のような意味があることがわかりました。

ἀήρ 英語の資料

mist, haze(ホメロスやヘシオドスでは常にこの意とあります), air, climates, (mephitic) exhalations, hot-air room (in baths), sky-blue or grey (a pigment)

ἀήρ ドイツ語の資料

ἀήρ  auch ἠήρ  die von Luft, ἀήρ, ἠήρ, gebildten Ableitungen ἀέριος .. ἀεροειδής

Ursache und Wirkung oder Grund und Erscheinungsweise des Trüben, schon früh zu bezeichnen gewußt, welche nicht allein die farblose Trübe, wie νεφελώδης und ὀμιχλώδης, sondern auch den vor dunklen Gegenständen durch sie entstehenden Blauduft naturgemäß anzeigen
濁り―無色の濁りだけではなく、暗い物体の前に自然に表れる青い薄靄―の原因と作用、もしくは理由と現れ方。

ἀήρ, die umgebende Luft, Himmel, Atmosphäre 
周囲の空気、空(天)、雰囲気

http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Per …

http://www.verstecken.uni-trier.de/cgi-bin/WBNet …

http://www.operone.de/altspr/wad187.html

それから、下の個所につては、数日前に友人から返事が来ており、まだ若干疑問は残っているのですが、訳は訂正します。「die Geschöpfe」を「被造物」と訳したからおかしいので、これは、何らかの人格を有するもの、実体のあるもの、と解釈すべきようです。つまり、悪魔は何らかの人格的存在ではないので、Stimmungsbild(気分や雰囲気を伝える描写)、つまり「ἀήρ」という語でしか表しえない、ということです。

Damit du nämlich den Ausdruck "Weltbeherrscher" nicht so verstehst, als sei der Teufel unerschaffen, setzt er hinzu: "der Finsternis dieser Zeit". Auch anderweitig bezeichnet er als böse Zeit den verkehrten Zeitgeist, ohne darunter die Geschöpfe zu verstehen.
「世界支配者」という表現を、お前が、悪魔は創造されていないものと誤解しないように、パウロはこう付け加える、「この時代の闇の」と。パウロは、この誤った時代の霊を人物として解することなく、悪しき時代とも言い表している。

以上のことを総合すると、悪魔を空気と表現した理由は、悪魔が人格的存在(Person)ではないため、雰囲気として描写せざるを得ないということになり、また、ここで「空気」と訳されているギリシャ語ἀήρの原義は、「濁りや暗いものから立ち現れる靄、有害な発散物、雰囲気」であるため、「空気」という訳が適切であるかどうか疑問符が付く、ということになります。実際、No.16でご紹介したコンラート・シュテファン・マッティース著「パウロのエフェゾ人への手紙の解説」の当該ページにも、「ほとんどの解釈者が、ἀήρを空気と解釈してしまい、ユダヤ教のラビが、その空気に悪魔が住む、という観念を作り上げた」という意のことが書かれています。

さらに、以下の部分について、友人からの返事はまだなのですが、よく読み直してみて、誤訳と思われるので、訂正します。「was er anführt」の「er」ですが、「anführen」という動詞の意味から言えば、悪魔のはずです。「人間」かなとも思ったのですが、たぶん違うと思います。

Nicht schlechthin barmherzig, sondern "reich" an Erbarmung, wie es auch an einer anderen Stelle heißt: "Nach der Menge deiner Erbarmungen"; und wiederum: "Erbarme dich meiner nach deiner großen Barmherzigkeit". "... um seiner großen Liebe willen, womit er uns geliebt hat." Der Apostel zeigt, woher die Liebe Gottes zu uns stammt. Denn das, was er anführt, verdient nicht Liebe, sondern Zorn und strengste Strafe. Also muß sie aus seiner großen Erbarmung stammen.
慈悲深い、と断定するのではなく、憐みに「富んだ」という言い方は、ほかの場所にもある。「あなたの憐みの大きさにより(詩篇第68篇17行/バルバロ訳では第69篇)。」そしてまた、「あなたの大いなる慈悲で私をお憐み下さい(詩篇第50篇3行/バルバロ訳では第51篇)。」「神が我々を愛した、その大いなる愛のために。」使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、悪魔が引率したことは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値することだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。

もう一か所のわからないところについては、友人の返事を待ちます。

四重の字義についてはやはりご存じなのですね。私がお話しする必要はないようです。エルサレムの解釈の例も、昨日、何か所かで読みました。今回の御質問から外れますので、私がみつけたサイトから一つだけご紹介しておきます(まだ読んでいません)。

http://theoblog.tobiasspeck.de/blog/2012/04/18/d …

4000字を超えているようなので、次の回答に続きます。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 《四重の字義》をありがとうございます。
 
 その《解釈》論ですが 初めに次の議論を持ち出していればよかったかも知れません。
 例によってアウグスティヌスですが こういう議論です。:
 
 ▼ (アウグスティヌス:聖書解釈について) ~~~~~
 
 すべての聖書解釈は二つの方法にもとづいている。
 それは理解されなければならないことを見出す方法と 理解されたことを表現する方法である。
  (『キリスト教の教え』加藤武訳 1988 第一巻第一章)


 すべての教えは ものについてであるか しるしについてである。
 しかし ものは しるしによって学ばれる。
 ・・・
 ところでその用法がすべて指示するはたらきに属するようなしるしが存在する。たとえば言葉がそれである。
  (同上 第一巻第二章)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 言葉は 声や文字としては モノであるが 総じてシルシであるということだと思います。表題(『キリスト教の教え』)とはやや印象が違って こういった議論が進められています。

 聖書記者が自分におとづれたヒラメキ(インスピレーション)を理解したあと それをどのように表現したかという観点は すでに現代ではそういった研究がすすめられて来ていると思います。聖書批判学へと進んで来ているかと思います。

 言葉がシルシとして 何を指し示すかという観点も とうぜんのことであるかと考えます。そこからいくつかの説が出て来ているということではないでしょうか。



 ★ おそらく、いくら議論して違う解釈をしても、五十歩百歩、とでも言いたいのかもしれません。
 ☆ そうですねぇ。パウロが 意味の解らない《異言》よりも それを解釈した《預言》が 教会(つまり 人びと)を励まし 癒すと言っていたと思います(コリント前書 14:1-19)。聖書本文が 異言であるとも言えないでしょうが さらに分かったほうがよい場合が多いかと思います。

 要しますと わたしの場合 いたって単純であるかと思います。四重の字義としての探究の歴史がある。その方法を当てはめるかどうか。そういった観点からは 勝手に自由になって来ていると思います。解釈するかどうか。したばあい その結果がよいものならよい。こういうシンプルな態度なのですが。・・・





 アエールについて ドイツ語資料は――さすがドイツ人なのでしょうか――濃いですね。
 そうですね。
 ★ 濁り―無色の濁りだけではなく、暗い物体の前に自然に表れる青い薄靄―の原因と作用、もしくは理由と現れ方。
 ★ 以上のことを総合すると、悪魔を空気と表現した理由は、悪魔が〔* 被造物ではないと解するよりは〕人格的存在(Person)ではないため、雰囲気として描写せざるを得ないということになり、また、ここで「空気」と訳されているギリシャ語 ἀήρ の原義は、「濁りや暗いものから立ち現れる靄、有害な発散物、雰囲気」であるため、「空気」という訳が適切であるかどうか疑問符が付く、ということになります。
 ☆ まづ英文辞書(リデル&スコット)で 《〔 air or climates 〕of mephitic exhalations》を見落としていたことをくやみ お詫びします。

 ここは厳密にすすめなければならないと思うのですが 《暗い物体の前に自然に表れる青い薄靄》は 《闇》そのものではないですね。それが 《有害な発散物》をも意味するとすれば どうか? 《〔おそらく雰囲気として〕濁り》でもある。そして エペソ書の記者(おそらくパウロ)が どのような使い方を広くふつうにしていたのか。といった見方を綜合することに成るかと思います。

 たぶん いまふと思い浮かんだのですが 《闇》という言葉をもパウロは用いている。とすると:

 ▲ (エペソ書 6:12) わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。
 ☆ ということは 《空中の権能》の《空気》もしくは《天》なる言葉が 《闇》と同義で単なる言い換えであるのか。それとも 多少は意義を変えつつ 別様に表現したものか。であるかとも考えられます。
 おそらく《天》は 別様のものでありつつ 同じ意味の語としたのでしょう。《空気》は どうか? になるかと思われます。空気を 闇の放つ雰囲気として言ったものなのでしょうか?




 ふたたび エホバの証人からの文章にかかわりますが:
 ☆☆ (No.9補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 
  ☆ 《何事をも否定する精神》という呼び名があるように 《あたかも独立して何ものの下にも立つまいと心に決めた存在》として 《空中の権能》がある。これをしもわれわれは あたかも空気のごとくどこにいても吸い込まねばならないかのごとく 接しつつ 受け留めている。世の中ないし世間というものは この権能のチカラがはびこって影響をあたえる場である。



  すなわち空中の権能が あたかも《クウキ》のようだという見方について もう一件の説明事例を取り上げてもらっています。
  △★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ドイツの現代の神父の説教のようです。17歳の少女の例を挙げて、
  
  「クウキ」に当たる部分を、

   「die Schmutz-Atmosphäre(汚れた大気、雰囲気)」
   「Mode(流行)」
   「Die Mode ist eine Diktatur(流行は独裁である)」

  というような表現を使って話を進めています。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ☆ これだと 《クウキ》により一層近いものだと思われます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



 このあと 次のくだりをめぐってさらに考えます。:
 ◆★ (クリュソストモス) 使徒は、神のわれわれへの愛がどこからくるものか示す。なぜなら、悪魔が引率したことは、愛ではなく、怒りと非常に厳しい罰に値することだからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。
 ☆ というのは 次のパウロの文章と突き合わせようとしています。
 ▼ (コリント後書 11:14-15) ~~~~~~~~~~
 14: だが、驚くには当たりません。
   サタンでさえ光の天使を装うのです。

 15: だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 《光の天使をよそおう》まちがった《愛》も やはり愛ではないか? という議論です。次のNo.23に継ぎます。

お礼日時:2014/09/18 08:21

こんばんは。


オーストリアの友人は、パソコンの画面ではなく、本で読みたいようなので、もう少し待たされそうです。何でも、奥さんが無断で聖書を誰かに貸してしまったらしいのです。
その一方で、私の質問に答える前に、「四重の字義(Vierfacher Schriftsinn)」というWikipediaの項目を送ってきて、聖書の解釈は学問のための学問みたいなもので、クリュソストモスもほかの教父の解釈のヴァリエーションに過ぎない、とツッコミを入れてきました。ところが、よくその項目を読んでみると、クリュソストモスは多重字義には反対の立場で、文字通りの解釈、歴史的解釈を旨としていたと書いてある。で、こちらからツッコミ返したところです。「四重の字義」というのは、日本ではあまり一般的に知られていないのか、ネットにはあまり情報がありませんでした。日本語版Wikiの聖書解釈の項目に少し出てくるのですが、11世紀のスコラ派でやっと出てきます。ドイツ語版の方では、多重字義の始まりは、オリゲネス(185–254)となっていました。この点について、アウグスティヌスがどのような立ち位置にあるのかまだ把握していません。アウグスティヌスに関する項目も少しだけ比較してみましたが、批判に関しては、日本語版ではかなり控えめに紹介されています。ドイツ語版の方では、宗教改革期以降、いろいろな批判があったことが紹介されていました。おもに、マニ教に由来する二元論や、新プラトン主義からの影響がやり玉に挙がったようです。
「四重の字義」については、ドイツ語サイトの説明を後日ご紹介します。
ということで、今しばらくお待ちください。
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この回答へのお礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。


 ◆ 「四重の字義(Vierfacher Schriftsinn)」
 ☆ ですか。このように決まった言い方があるとは知らなかったのですが 内容は だいたい分かります。と言いますか もし
 ◆ 聖書の解釈は学問のための学問みたいなもので、
 ☆ ということでしたら そこから二つの対応があるように思います。

 もし それゆえいっさい《解釈》はしないのだということだとすれば それは 何だかむつかしいですね。

 でもそうではなく 《学問のための学問》として解釈する――ですから 訓詁学や文献学の段階と分野にとどまるようにしか読み取らない――ことを いやそれは違うのだと戒めているのだとすれば とうぜんいろんな解釈の可能性をむしろふくむ〔ことがありうる〕ということではないのでしょうか?

 もっともそのとき同時に そうして得た解釈が原文に取って代わるということではない。こういった注意もふくまれるのだと思われます。


 と言いますか 要するに《空中の権能》とは何か? だけなのです。問うていることは。
 《悪魔》のことだとすれば なぜそれを《空中》と言うのか? だけです。ここでは。

 たぶんその答えによっては 実際の経験事象としてそれが何を意味しているのか? これをも尋ねていることにはなると思います。――つまりは 《解釈》の問題にその時点で成るとは思います。

           * 

 日本語の資料を ここに引いておきたいと思います。

 ■ <聖書の達人> ■せいしょかいしゃく 聖書解釈
 http://iclass.cbc-j.ac.jp/classdocs/BIB001/1b790 …

 ▲  聖書解釈の歴史http://gospel.sakura.ne.jp/pdf/%E8%81%96%E6%9B%B …


 ■  b.アンテオケ学派. ~~~~~~~~~~~~
 タルソのディオドロス(393 年頃没),モプスエスティアのテオドロス(350年頃―428 年),クリュソストモス(354 年頃―407 年)らによって代表されるこの群は聖書の字義的,歴史的解釈を提唱した.

 彼らによれば,字義通りとは特定の文脈内における表現の通常認められている意味ということであって,比喩を排除するものではない.キリストが「わたしは門です」(ヨハ 10:9)と言われた時,その文脈における「門」の比喩的意味は明白である.

 しかしながらこの派は,キリスト論に関して異端の宣告を受けたネストリオスとのつながりのゆえに,また教会の東西分裂もあって,しだいに影響力を失っていった.

 ■  c.アウグスティヌス(354―430 年) ~~~~~~~~~~
 はすぐれた神学的洞察をもって彼の『キリスト教教理』の中で聖書解釈の諸原則を体系化することを試みたが,依然として寓喩的解釈の枠を抜けきってはいなかった.しかし彼は自分の唱えた諸原則以上に実際には字義的理解を示している点もあり,また教会の正統的信条との一致をも重視した.

 ▲ アウグスティヌスの聖書解釈 ~~~~~~~~~~~~

(1)歴史的解釈方法:書かれている事柄が実際に起こったこととして解釈する方法。
(2)原因論的解釈方法:なぜそのことが書かれたのかという理由を旧約聖書に求めて解釈する方法。
(3)類比的解釈方法:新旧約聖書は矛盾するものではないという信仰によって解釈する方法。
(4)比喩的解釈方法:記録された事柄が文字通りに受けとらえるべきでなく、象徴的に理解されなければならないと教えられる場合、それは比喩に従った方法である。
 ただしアウグスティヌスでは比喩的解釈とよばれているものの中に今日の学者たちが型による解釈(予型論)と呼んでいる解釈方法が含まれている。

 ■ (2)中世時代.中世のスコラ学者たち ~~~~~~~~~
 の関心は専ら哲学と神学に向けられ,聖書解釈という面では教会の伝統の踏襲に終始した不毛の時代であった.
 聖書には四重の意味があるとされ,

 たとえばエルサレムは
 (i) 字義通りにはパレスチナにある都市を意味し,
 (ii) 道徳的比喩としては人間のたましいを,
 (iii) 寓喩的には教会を指し,
 (iv) さらにその奥義的意味(アナゴーゲー)は天の都である

 と解釈された.このようにして言語の意味の明瞭さは失われ,人々は自分の見出したい意味を聖書のことばに読み込んだのである.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


         *

 ★ アウグスティヌスに関する項目も少しだけ比較してみましたが、批判に関しては、[・・・]おもに、マニ教に由来する二元論や、新プラトン主義からの影響がやり玉に挙がったようです。
 ☆ 細かいことを述べます。
 ここ(この哲学カテ)でのやり取りにおいて 師匠の思想や流儀をまなぶときの行き方として《守破離》ということを聞いたのですが わたしはアウグスティヌスに就いて 《離》はないと思いますが すでに《守》を過ぎて来て《破》に入ってしまったとは考えています。それでなくても 《水による洗礼》はわたしは受けていませんので。そして時代と地域が違うとは思います。

 それで 《新プラトン主義からの影響》は 大きいと思います。あるいはつまりもっとそれを広げて かれは 人びとの心の中にあった観念の共同としてのような聖書の権威に頼っているところがあると思います。(それをも突き抜けて 宗教や宗派に関係のない普遍の神について問い求め語ろうとしているところに学びたいと思っています)。

 《マニケーイズムの二元論の影響》 これがあるという見方には反対します。マニケーイズムの影響はいくらでもあるのですが――大方は そんなこともあったなぁと懐古するかたちの・むしろ影響について否定的なものだとも思うのですが―― 《二元論》の影響は 有り得ません。はずです。善神と悪神を立てるなどということは 有り得ません。これは すでに触れたと思います。(No.16お礼欄 ザラトゥシュトラにおける悪神アンラマンユのところで触れました)。




 なおわたし自身の立ち位置を デカイ顔をして述べますが 旧約のヤハヱーはすでに《正式に》みづからをアウフヘーベンしたと見ますし それをイエスが成就したと伝える新約聖書に到っても そのキリストなる神が ひとつに組織宗教としてのものではなく ひとつにシュウキョウの一派としてあるものではないということ。ここに立っています。

 水によるバプテスマを受けていないと述べましたが このことはバプテスマが無くなったというのではなく 《聖霊による水の洗い》には浴していると思っています。そして 聖霊は――アートマンやブッダターと同じく――あまねくナゾとしてひとに宿ると想定するかぎりで すでにシュウキョウを超えて ふつうに人間の条件であると考えています。

 ○ 【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html

 などなど すでに幾度も問うて来ています。《よっしゃ よく言った。そのとおりだ》というまでのご賛同はまだいただいておりません。
 キリスト・イエスの指し示した神とその信仰は こうだと思っております。無神論も 《無い神》という神を心に受け容れている信仰であると見ています。つまりは 霊の問題であるのだと。



      *

 ★ オーストリアの友人は、パソコンの画面ではなく、本で読みたいようなので
 ☆ そう言えば 思い出しました。本ですと あの語句はうしろのほうの確か右ページにあったとか 真ん中あたりの左のページにその議論が出て来ていたとか そのようなかたちで記憶をしていたことを思い出します。それが パソコンの検索を始めてからは もう無くなっています。

お礼日時:2014/09/17 07:10

こんにちは。


友人からの最初のメールに、聖書が見つからないと書いてあったので、聖書が見られるサイトを紹介したのですが、誰かに貸したので、もう少し待ってほしいと返事がきました。エフェゾ人への手紙の全文を確認したいそうです。リンクに気が付かなかったのか、自分の聖書が見たいのか不明なのですが、今日、5種類のドイツ語の聖書から、エフェゾ人の手紙全文をPDF化して送っておきました。クリュソストムスも、抜粋ではなく、ダウンロードしたもの全文を送っておきました。補足に書いていただいたアウグスティヌスも送ってみようかと思うのですが、御紹介いただいた箇所がどこにあるのかわかりません。先日御紹介した教父講解集のサイトに「三位一体論」が出ているのですが、章分けが違うのか、場所の検討が付きません。全部読破されているbragelloneさんなら見当がおつきになると思います、御教示ください。

https://www.unifr.ch/bkv/bucha205.htm
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この回答へのお礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 アウグスティヌスの引用は たいへん失礼しました。第13巻という表示を忘れてしまいました。ごめんなさい。

 『三位一体論』 第13巻 第12章〔パラグラフ区分で 16〕~第13章 〔17の途中まで〕

 でした。

 DREIZEHNTES BUCH / 12. Kapitel. Alle sind Sünder wegen der Sünde Adams.〔16〕
 http://www.unifr.ch/bkv/kapitel2679-11.htm


  〃  / 13. Kapitel. Nicht durch Gewalt, sondern mit Gerechtigkeit mußte der Mensch dem Teufel entrissen werden. 〔17〕
 http://www.unifr.ch/bkv/kapitel2679-12.htm

 ・ ・・・
l.32  das heißt wieder die Gewalt erhält, zu richten. Den Gerechten ist das am
l.33  Ende vorbehalten, wenn der in ihrer Ordnung vorausgehenden
l.34  Gerechtigkeit die Macht folgt.

☆ 途中ですが ここで切り上げています。


 たいへんご無礼いたしました。
 すみません。よろしくお願いいたします。

お礼日時:2014/09/16 17:17

こんばんは。

 友人から一度返信があったのですが、まだ不明瞭な点があるのと、もう2か所おかしいところがあるので、改めて聞き直しました。もうしばらくお待ちください。
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この回答へのお礼

 ありがとうございます。

 とても助かります。


 あと No.15の補足欄に アウグスティヌスの解説を引用しました。

お礼日時:2014/09/16 00:08

こんばんは。


やはり鋭くていらっしゃいますね。No.15でご指摘のあった部分、

―こう続く、「不信心の息子たちの中で未だに威力を発している者。」お前は、パウロが権力や強制ではなく、説得術で魅惑しているのがわかるか。

これは、おっしゃる通り、誤訳だと思います。ただ、前後のつながりがわかりにくく、verführenという動詞が「誘惑する」という悪い意味であることを分かっていながら、先に主語をパウロにしてしまい、強引に「魅惑した」とおさめてしまいました。また、もう一方の御指摘の部分、

なぜなら、神が手引きするのは、愛を受けることではなく、怒りと非常に厳しい罰であるからだ。つまり神の愛は、神の大いなる憐みからきている。

は、私も未消化で、単なる直訳です。訳していてこれはまずいなと思ったところです(ツッコまれそうだとおもいつつ)。いずれにしても、もっとじっくり時間をかけて翻訳するべき文献です。ドイツ語そのものより、文章の前後関係が非常にわかりにくいです。もし、オーストリアの友人が、今日送ったメールに真面目に答えてくれたら、こちらについても聞いてみようかと思います。

この数日、あちこちでかなり膨大な回答文を書いたので、ちょっと休憩します。
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この回答へのお礼

 このクリュソストモスという人は 議論の導き方が どうも独特なかたちであるように感じられます。

 それでも 《語り口調》なのですね。読者(聴衆?)に あなた 分かりますか? を繰り返して相手に尋ねる形式をも採っています。


 一たん休憩したほうが よいようですね。一たん 離れてみておいたほうが よいみたいです。


 ご友人の方の返答もまちどおしいですね。


 たいへん ありがとうございます。これは 勉強になるわというような感じです。この文章は 濃いですね。
 
 

お礼日時:2014/09/14 00:29

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