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この役が起きた背景を簡単に教えてください。

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A 回答 (5件)

奈良~平安時代にかけて大和政権は、領土拡大のため、北関東から宮城のあたりまで攻め込みます。

桓武天皇が国全体の疲弊のため、東北征服を中止し(九州の防人を除いて)国軍を廃止して、蝦夷とは共存の時代に入ります。この間東北では、金・毛皮・馬などを産出して朝廷に献上、また朝鮮と直接交易するなど富を蓄え、それを狙った関東の武士たちが東北進出を図り、源頼義が陸奥の守に任じられて、些細なことを口実に前九年の役が起こされます。後三年の役は#1の書かれた内容でいいと思います。
10年位前だったと思いますが、NHK大河ドラマで「炎立つ(ほむらたつ)」という前九年の役から奥州藤原氏の滅亡までを描いたものがありました。原作の同名小説もあります。
つい最近の新聞で青森で古代の戦闘跡が見つかり、蝦夷内の抗争か、蝦夷と大和政権の戦闘か、どちらか調査中というような記事がありました。
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前九年の役


 源頼義が陸奥守としての任期(最終年)の1056年に、地元豪族の安倍頼時の子、安倍貞任が権守藤原説貞の道中を襲った。源頼義は安倍貞任を処罰しようとしたが、安倍頼時が貞任を庇った為、戦争となった。これが源頼義側の言い分。
 しかし客観的(利害の無い歴史の傍観者)に見て、任期の最終年に恭順の意を示している安倍氏が突然叛旗を翻すなんて理解できません。少なくとも武勇の誉れが高い源頼義の任期後ならば充分理解できますけれどね。まあ源頼義の悪巧みじゃないでしょうか。
 結果は、1063年地元豪族の清原氏を味方に付けた源頼義の勝利。頼義はこの戦争の勝利によって正四位下伊予守になっています。(状況証拠から)頼義が源氏の勢力拡大を目論んで仕掛けた戦争では無いでしょうか。

後三年の役
清原氏の内訌に、源義家が介入した戦争です。
1083年に源義家が陸奥守として着任。その時、清原本家である清原真衡と清原家衡&清原清衡(連合)が対立していた。偶然?通りかかった義家の郎党が真衡側に請われて加担し、この内訌に介入することになる。その後、真衡は急死し、清原家衡も義家に降伏し、義家は真衡の遺領を家衡・清衡に分け与えた。
 しかし家衡は遺領の配分に不満を持ち、清衡を襲い妻子を殺した。これに義家は清衡側で参戦。しかし家衡は清原武衡と連合し抵抗。これに対し義家は弟の源義光の救援により最後の抵抗地である金沢柵にて家衡を破る。
 これはどう見ても清原氏の私戦なので、義家に対して朝廷からの恩賞はなし(まあ当然ですね)。しかし、義家の家来は手弁当で参戦しているので恩賞がなければ、今後家来が義家に従うメリットはは無し(デメリットのみ)。主従関係を義家側から破棄するということです。そうなっては源氏の名折れ。義家は自分の身銭を切って家来に恩賞を与え、家来からの信頼を集めました。これが後に源氏が天下を取る下準備となるのです。
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 こんにちは。


 私は源義家に興味があって、WEBで色々調べたりしています。
 「この役が起きた背景を簡単に」説明するとしたら、(昔のことは基本的にわからない、が原則ですが)義家は代々、今風に言えばやくざの愚連隊だったわけです。(愚連隊というのは古いかな。)
 ブッシュも親子二代、人んちの石油がほしくて難癖つけて暴力で乱入して、フセインの孫まで殺したわけですが、「この役の背景」は古文書よりも現代を見ればわかりますネ。(もっとも、前九年・後三年には後世の絵巻物位しか残ってませんが。)
 回答 義家とその親父が強欲だったから。
(大真面目な答えです。因みに、その後の大名などは義家の自称子孫が沢山います。だから悪く言わないのでした。義家に従った関東の豪族共々強欲だった。)
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下記のURLを閲覧下さい。



参考URL:http://www.shokokai-kagawa.or.jp/nio/hassaku/200 …
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高校で習った程度なので、お答えになるかどうか心配ですが、知っている事を書きます。

また、前九年に関しては自信がありませんので、後三年だけ書きます。

ただ、はっきり言えるのは、この頃源氏は1028年の平忠常の乱を筆頭に東国(北の方)への進出を始めました。なので、前九年合戦は源氏の領地拡大のための戦いと考えて良いと思います。

1051~1062年の前九年合戦で、陸奥の豪族安倍氏は、出羽の清原氏の援助を受けた源頼義、義家親子に鎮圧されます。
その際、清原は安倍の妻とその子供(清衡)を連れ帰ってしまいました。
清原は既に妻と子供(実衡)がありましたが、安倍の妻との間にも子供(家衡)ができました。
さて、誰が後継ぎになるか。この権力争いが後三年合戦です。

源氏が清衡を援助し、清衡が勝利。その後清衡は平泉を中心に奥州藤原氏を繁栄させていきました。
ちなみに、清衡がなぜ藤原を名乗ったかと言いますと、安倍の妻、つまり清衡の母親の旧姓が藤原だからだそうです。
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Q「前九年・後三年の役」の呼び名の由来は?

日本史に詳しい方、どうか教えてください。
平安時代後期の「前九年・後三年の役」ってありますよね。
鎌倉時代初期までは、前九年の役は「康平の十二年合戦」と呼ばれていたと古今著聞集にあるのですが、ではいつ頃からどういう由来で「前九年の役」と呼ばれるようになったのでしょうか。
同じように、後三年の役も、後白河法皇が後三年合戦絵詞をつくったことからそう呼ばれるようになったことまでは分かっているのですが、その後三年という言葉がどこから出てきたのか分かりません。
やっぱり、「前・後」というからには何かから起算して9年だったり3年だったりするんでしょうか?
学校の先生に聞いても「知らん」と言われてしまいます。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

源頼義と安倍氏の戦いは、古くは、「奥州合戦」とか、「奥州十二年合戦」と呼ばれていました。それが、「前九年の役」と呼称されるようになったのは、鎌倉時代からです。ところが、この九年という年数がどこから出されたものかは甚だあいまいで、恐らくは十二年合戦というのを源義家の「後三年の戦い」を合わせたものと錯覚し、十二年から後三年を差し引いて出された年数と考えられます。もっとも、十二年合戦という呼称は、頼義が陸奥守となって赴任した永承六年から、安倍氏との戦いの終結する康平五年まで足かけ十二年に及んだことに基ずくのですが、実際に十二年の間戦闘が行われたわけではなく、こうしたことも後に誤解を生む原因の1つにもなりました。

Q前9年の役、後3年の役

前9年の役
安部頼時×源頼義
が戦った。
源頼義は負けそうになるが、清原武則に助けを求めて安部に勝つ

助けを求めたのは、頼義の子供義家ですか?

そして、源頼義は退却?させられ、清原武則が奥州を支配する。

後3年の役
清原家の内紛
清衡と家衡が戦った
このとき、清衡は源義家に助けを求めて勝った。

前9年の役を後3年の役をまとめて
自分でこう解釈したのですが、間違えがあれば、指摘して教えてください。
お願いします。

Aベストアンサー

「解釈」の前に資料に記載された事実をきちんと踏まえないと意味がないです。

●源頼義は負けそうになるが
○黄海の戦いでは源頼義が負けていますし、陸奥守も解任されていますから緒戦では負けています。

●助けを求めたのは、頼義の子供義家ですか?
○助けを求めたは頼義です。

●源頼義は退却?させられ
○退却させられたわけではなく、陸奥守に再任されなかっただけです。

●清衡と家衡が戦った
○最終的にそうですが、初戦では清原真衡の義家が清衡と家衡に分割させたことにより清衡と家衡の対立となっていきました。

間違いも少なくはありませんが、概要としてはウィキペディアなどの記述を参考にされた方がよいかと思われます。


前九年の役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9
後三年の役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9

Q国債を小学生にも分かるぐらい分かりやすく教えてください

国債とは何ですか?

小学生でも分かるように簡単に説明してくださいませんか?

Aベストアンサー

普通、国(日本国政府)が高速道路を作ったり、空港を作ったり、ダムを作ったり、ムネオハウスを作ったりするお金は私達納税者(税金を払う人)が払っています。
でも、私達納税者やその代表者である代議士が、「高速道路を作って下さい、空港を作って下さい、ダムを作って下さい」と、国にあんまり言い過ぎるので税金だけではお金が足りなくなってしまうことがあります。
そこで、国はお金を持っている人からお金を借りることにします。それが国債です。

お金が足りないのなら、がまんすればいいのですが(普通そうしますよね)、なぜか私達納税者とその代表者である代議士はそんなことはしません。
お金がないのを知っていて、相変わらず「高速道路を作って下さい、空港を作って下さい、ダムを作って下さい」と言いつづけています。なぜかは解りません。
そこで、国はしかたなく今年も去年も一昨年も国債を発行して、私達納税者とその代表者である代議士が気に入るようにがんばって借金をし続けているわけです。

因みに、実は日本では国が国債を発行することはホーリツで禁止されているそうです。

ちょっと古いですが(なにしろ1997年のころのハナシです)↓に少し説明があります
今は、当時よりも~っと悪化しているそうです

参考URL:http://www.nhk.or.jp/kdns/_wakaran/97/0309.html

普通、国(日本国政府)が高速道路を作ったり、空港を作ったり、ダムを作ったり、ムネオハウスを作ったりするお金は私達納税者(税金を払う人)が払っています。
でも、私達納税者やその代表者である代議士が、「高速道路を作って下さい、空港を作って下さい、ダムを作って下さい」と、国にあんまり言い過ぎるので税金だけではお金が足りなくなってしまうことがあります。
そこで、国はお金を持っている人からお金を借りることにします。それが国債です。

お金が足りないのなら、がまんすればいいのですが(...続きを読む

Q加羅(伽耶)について

加羅は5世紀ごろ当時の日本(大和政権)が
朝鮮半島に有していた支配地域(勢力範囲)と認識しています。
高校時代の日本史の教科書でもそのように習いました。

確か任那とも呼ばれてたと思います。

先日、韓国の方とその件で意見の違いがありました。
その方がおっしゃるには

「加羅などない。そんなものは日本に来てから初めて知った、日本の教科書は間違っている」

言い返そうかと思いましたが

彼女と私の言い分は結局

・自国の教育で習った
・自国の教科書に書いてあってそれを信頼している

それだけが根拠なのです。そこで加羅の存在について教えてください。


1.存在していたが、実態はよく解らない
2.存在していて「日本の支配が及んでいた」といえるほど深いつながりを持っていた
3.存在していたが、日本とはほとんど関わりがなかった
4.そもそも存在しなかった

いろいろ考えてみましたが、どうなのでしょうか?

Aベストアンサー

実は日本の教科書の記述も昔と今とではかなり変化しています。同じ山川出版社の高校の日本史教科書でも以下のように違います。

私が使った40年前の教科書:大和朝廷は4世紀後半になると、倭人が古くから関心をもっていた南朝鮮の鉄資源の確保などの必要から、百済と結んで大軍を朝鮮におくった。その結果、半島南端の弁韓諸国の地に領土の任那を樹立し、高句麗とも対立するようになった。(『精選日本史(改定版)』18頁 昭和47年3月発行)

子どもが使った最近の教科書:さらに4世紀後半に高句麗が南下策を進めると、朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)<注>と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も、高句麗と争うことになった。

注:馬韓諸国では百済が、辰韓諸国では新羅が台頭したのに対し、弁韓とよばれた朝鮮半島南部の地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続いた。『日本書紀』では伽耶諸国を「任那(みまな)」とよんでいる。(『詳説日本史』22頁 2007年3月発行 2002年4月文部科学省検定済)

ご質問に即して申し上げますと、私が高校生だった40年前の試験問題であれば(2.)が正解となるでしょう。40年前の教科書には「領土の任那を樹立し」と明確に書かれていますから。ただし、今の日本の古代史研究者で4世紀後半の朝鮮半島南部について「任那という日本の領土が存在した」と書いてもよいと考える人はあまりいない、というより、多くの研究者はこの時代のこの地域に「日本の領土」という表現(概念)を用いること自体が不適切だと考えるのではないでしょうか。

さてそれでは、現在の考え方ではどうかといえば、「最近の教科書」の注にあるように、弁韓とよばれた朝鮮半島南部の地域では4~6世紀になっても小国の分立状態(「伽耶」諸国)が続いていた、ということと、この伽耶諸国を後の時代に編纂された『日本書紀』では「任那」とよんでいる、という2点はまず確実だと考えます。

しかしこの伽耶諸国の実態と倭国(ヤマト政権)との関係がどうであったか、というもっとも知りたい肝心な点は、ご指摘のとおり限られた史料しかないため詳しくは分かりません。ただ倭国(ヤマト政権)が伽耶諸国を恒常的に支配していたという証拠を示すことは困難でしょう。(「最近の教科書」でも「密接な関係」としか言っていません)そこで強いて選べば(1.)でしょう。

いずれにせよ古代史のこの部分は、近代の日本と朝鮮との関係とも関わり、日本でも韓国でも政治的には微妙な問題であることには十分留意する必要があると思います。(もちろんだからといって政治的な配慮で歴史学上の誠実さを損なうようなことがあってはならないと考えます。)

実は日本の教科書の記述も昔と今とではかなり変化しています。同じ山川出版社の高校の日本史教科書でも以下のように違います。

私が使った40年前の教科書:大和朝廷は4世紀後半になると、倭人が古くから関心をもっていた南朝鮮の鉄資源の確保などの必要から、百済と結んで大軍を朝鮮におくった。その結果、半島南端の弁韓諸国の地に領土の任那を樹立し、高句麗とも対立するようになった。(『精選日本史(改定版)』18頁 昭和47年3月発行)

子どもが使った最近の教科書:さらに4世紀後半に高句麗が南下策を進め...続きを読む

Q公家とは?

武家は武士の家ですよね?
公家は何の家なのでしょうか?
小学生でもわかるレベルで教えてください。ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

武家はお侍さんたちです。ちょんまげで刀持って、どちらかと言うと「ござる」な感じの人達です。どちらかと言うと、幕府側の人たちになると思います。

公家は、天皇や天皇に近い人達などです。「~でおじゃる」なんかを使ってたりします。朝廷側の人たちですね。


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