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「神仏を尊び神仏に頼らず」、これは信仰として成り立つかと問うてみた。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8749349.html

その結論として、「神仏を尊び神仏に頼らず」は立派に信仰として成り立つと結論できました。
しかしながら果たして神仏への願いを伴わぬ宗教がこの世に存在するであろうか。
わたしが知る限りではおよそそのような宗教が存在するとは思えない。
では信仰と宗教の違いとは何か。
神仏への願いを伴わぬ信仰は信仰として成り立つが、神仏への願いを伴わぬ宗教は有り得ないのであれば次のように結論できるのではないか。

信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。
宗教は神仏への願いを伴う信仰である。
 

A 回答 (17件中1~10件)

言葉遊びをしているのではないとして、



日本語の「宗教」の熟語はまだ使用の歴史が短いそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99# …
「宗教」の熟語の意味はそれほど明確ではないのでしょう。
質問者さんやその他の方が「宗教は神仏への願いを伴う信仰である」と定義をすることはご自由でしょうが、一般の日本語の「宗教」の使い方とは不一致のケースが出てしまうと思います。

「信仰は宗教を内包する。宗教ではない信仰も存在するが、信仰ではない宗教は存在しない」というようなことを主張したいのでしょうか。

太陽信仰のような用語の使い方を認めた場合、太陽は神仏なのでしょうか。太陽神というから神なのでしょうか。神仏と日本語でいう場合、個人に何かの働きかけをするものを私はイメージしますが、太陽神にはそうした神仏機能はないのが基本形のように思います。
 
(現世利益の享受のバーターとして礼拝し勤行を勤め、あるいは供物などを供する)信仰形態を日本ではしばしば見かけます。 水神信仰、雷神信仰、地蔵信仰、菩薩信仰、観音信仰、○○詣でなどたくさんあり、一括する一般名称は民間信仰、民俗信仰、庶民信仰でしょう。 もちろんこれらを宗教と呼んでも構わないのでしょうが、教義もない、創唱者も、指導者もはっきりしないのは宗教ではないと思っている人は少なくないので、用語の混乱を大きくするだけだと思います。
 
畏敬や服属、戒律の遵守などが、信仰や宗教では基本にあることが多いと思います。

『世界宗教事典』ではリューバの分類・分析を踏まえ、また、宗教を成立させている基本要素が超絶的ないし超越的存在(神、仏、法、原理、道、霊など)をみとめる特定の観念であることを踏まえつつ、宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、その観念体系に基づく教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団であるとまとめているのだそうです。
儀礼、祭祀の仕方、祭祀や儀礼を行う場所がある程度固まっているなら、山岳信仰でも、巌(岩)や樹木を信仰するのも信仰と言って、多くの場合の用語使用例にそぐわないことはないと思います。
ただ、一般例では、やはり教義の中心、教義の体系を備えていることが、宗教と呼ぶ必要条件のように思われることが多いと思います。 もちろん、教義の不明確な神道や道教のようなものも宗教とすることが多いから、儀礼、施設、組織などが確立し、その祭祀などを主導するプロが専任でいると、教義はなくても宗教と呼ぶのだと思います。
創価学会は、その点微妙なところがありますが、一般には宗教と呼ぶでしょう。

宗教や信仰を考えるときに、あまりに単純化したいくつかの条件だけで考えたら、現実を見て切り分けることも、考えることも出来なくなると思います。
「信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。宗教は神仏への願いを伴う信仰である」も、単純化しすぎるやり方だと思います。
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信仰=神向


信仰は神仏に我が心が向かうという初歩、発心のようなもの。
信じるとか頼るとか依然の状態で、神って何?仏って何?の段階。けれども神仏に心が向かっている上等な人(高飛車ですみません)


宗教=天(ウかんむり)が示す教え
御釈迦様信仰であれば、御釈迦様の教えを伝える、イエス信仰であればイエス様の教えを伝える、○○信仰であれば○○の教えを伝える、宇宙法則を伝える、こと。天が示す法則を伝えること。


先ずは、神仏って、何さ?(信仰)に始まり、『こうだよ』と説く(宗教)。

その理解度が悟りの深さ。
頼る頼らないは、深さの違いに過ぎないだけである。


宗教は伝える行為であり、
信仰は己の心のあり方である。
以上が私の想うところです。失礼しました♪

今風に云えば
スピリチャルに住する者は、今、何を考えているか?が重要視されている。
あなたは、今、何を考えていますか?なのです。

今、です。『中今』です♪
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>この問題そこに答えん限り先に進めんではないか



先に進まないのは勝手

進むも勝手

誰が阻んでいる?

自分以外の誰が?
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最後の2行


>信仰は神仏を信じ尊ぶが、必ずしも神仏に願うことはしない。
>宗教は神仏への願いを伴う信仰である。
を読んで、本当?と首をかしげ、もう一度考え直してみる気になりました。
冒頭に挙げられた以前のご質問にも
>神仏を尊び神仏に頼らず。
という宮本武蔵の名言を書かれていますね。

丁度、私が現在質問中の
あなたは「祈る」ことがありますか?
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8735362.html
に寄せられてくる皆様の回答を読んでいると、同じようなニュアンスの回答が多く、なるほど、日本人の多数派の宗教感覚はそういうことだったのか? とやっと腑に落ちてきた、という印象もあります。

つまり、質問者様や宮本武蔵に代表される多くの日本人が「信仰」と「宗教」に対して抱くイメージと言うのは、
先ず、「何事のおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」と言った自然に湧き出てくる「信仰心」が先にあり、その存在に対して、では「祈る」(或いは「拝む」、「願う」、「頼む」)のか、と問われれば、必ずしもそうではない、もし「祈る」とすれば、それは、「信仰」とは別のレベルの「宗教」活動である、ということなのか、と漸く納得した次第です。

この点、私は、前記の質問への回答を読んでいて、随分、カトリック信者である私の感覚とは異なるな、という印象を強く感じました。・・・私は、常日頃、仏教や神道はじめ他宗教にも共感を覚えていますが、その私ですら、40年に及ぶカトリック信者生活を経て、やはりキリスト教的世界観なり信仰のあり方の方に余計に影響を受けている証左かもしれません。

キリスト教で言う「信仰」とは、宇宙の創造神である「神」(固有名詞であるGod)を「信頼」することであり、その点ではあなたの言われる「信じ尊ぶこと」と似通っている気がしますが・・・(以下URLご参照)
http://www.nskk.org/osaka/shinkou.html
http://www2.odn.ne.jp/shionkyokai/doc18.htm
・・・その「信仰」の具体的表現方法としては、やはり、神に「依り頼み」、「祈る」姿勢が非常に重要視されている気がします。

例えば、新約聖書に出てくる、イエスの有名な発言「あなたの信仰があなたを救った。」は、マタイ・マルコ・ルカの各福音書に何度か出てきますが、特にルカに至っては、「罪深い女」(7章50節)、「出血の止まらない女」(8章48節)、「らい病のサマリア人」(17章19節)、「物乞いの盲人」(18章42節)と4回も登場します。彼らはいずれも社会的には大変弱い立場にいる人々ですが、ひたすら、神に「依り頼む」姿勢を見せたことで、イエスから上記の言葉を投げかけられています。

日本には「困った時の神頼み」という言葉があり、神様にお願いをしたり、祈ったりすることは、純粋な「信仰」の風上に置けない、一段レベルの低い「信仰」であるという思い込みがあるようです。

しかし、「信仰」の基本は「祈る」ことであり、その祈りの対象として、自分のご利益のために祈ったとしても、その内容が神様の意向に沿うことであれば、何ら責められることではなく、むしろ「神に対する信頼の現れ」であるというのが、カトリック信者としての私の考えの基本です。


・・・その私の基本線は基本線として、勿論多くの日本人の考える「信仰」のあり方も、それはそれで尊重すべきであるとは思います。

「信仰」のベースに、先ず、利害を超えた、神仏に対する揺るぎのない「信頼」や「崇敬」の念があり、それらに「手を合わせる」(必ずしも「祈る」とはイコールでないにしろ)気持ちがあれば、それは「信仰」と言えるのではないでしょうか?



・・・一方、「宗教」と言う言葉から受けるイメージからは、どうしても「組織」を想起せざるを得ません。即ち、「信仰」が、「個人」対「神仏」と言う一対一の関係でも成り立ち得るのに対し、「宗教」と言うと、どうしても特定の宗教への所属を前提とせざるを得ない、と言うことかと思います。

こうした制約・拘束観念があるために、多くの日本人は、特定の宗教への所属に二の足を踏み、「無宗教」を貫くのでしょう。

こうした状況に風穴を開けるために、私は、カトリックと言う組織宗教に所属しながらも、本来の理想の「信仰」の姿としては、「普通名詞としての神」に一対一でつながる関係があってもいいのではないか、と常々考えているのです。詳細は以下の私の過去問をご覧下さい。

「普通名詞としての神」に祈ること http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7321056.html
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この回答へのお礼

 
>しかし、「信仰」の基本は「祈る」ことであり、その祈りの対象として、自分のご利益のために祈ったとしても、その内容が神様の意向に沿うことであれば、何ら責められることではなく、むしろ「神に対する信頼の現れ」であるというのが、カトリック信者としての私の考えの基本です。


「神仏を尊び神仏に頼らず」
神は偉大であると尊ぶが、決して神に願ってはならない。
何故なら神に願うことは神の意思を変えようとすることだからである。
神の意志は変わりませぬ。
何故なら偉大な神は完全であるからである。
既に完全なものは何一つ変わり様がないからである。
人間は誰であろうと決して神の意志を変えることは出来ない。
人間は神の意志を変えようなどと考えてはならない。
だから神に願ってはならないのである。
神に願うことは神の完全さを否定することだからである。
神が何たるか理解していないのである。
我々に許されていることは神は偉大であると知り、神を尊ぶことだけである。
「神仏を尊び神仏に頼らず」とはそれを語っています。
これを心得ていた宮本武蔵はやはり偉大であります。
 

 

お礼日時:2014/09/13 06:09

サービス解説:


【願い(プラス要因)か、or 恐れ(マイナス要因)か、は別にして】

>これはつまり、アメ(勧誘)とムチ(脅迫)ってことなの?
++++++
「No! いいえ違います」が回答です。
この回答者の「回答のポイント」をお教えしますので、疑ってみてください。
◎ポイント:
・いかなる宗教(無宗教という信仰も含め)でも、「心の安寧や精神的社会基盤」を目的とした「利用価値は現在ある」と言える。
・自己を自制し、自律的に社会貢献できれるならば、法も宗教も不要な道具だ。
・その自制を身につけていくプロセス上に、「宗教という道具」は、他律的権威としての「参考」に成りうる。
・どのみち結局、鈍感な人間には、どんな宗教とて「自分で判断しても、善き参考にはならない」。
・たとえ大馬鹿かつ不良であれ「矢吹丈・寅ちゃん(モチーフ)」のように、一見逸脱し正しくないにせよ、自己流の生き方しかできぬ者(権威に反抗的)でも、自己中心的な力が強ければ、自分で「自制も大事やな」と気付けるので、神は不要(道具箱にでもしまっておけ)。
・そうこうしているうちに、科学が「神はいない」と実証した。かといって、「道具宗教はあってもよいし、自由だ」。【なにせ手段でしかない】のだから。
・夢や希望(=あこがれ)を想うより、目的(=幸せ)への歩みを続けるだけで充分だ(余計なエネルギーは使うな)。矢吹丈の【ラストシーンのように、せめて最期は「満足な顔」で、真っ白になるまで燃え尽きる方が、断然おもしろい】のであり、「勝敗という名の結果」よりも、この読者が今この文字を読んでいる「プロセスが少し面白い」ように・・・生きる上で「結果や夢や希望&計画性、は必須ではなく」、逆に「ほんの気まぐれ・出たとこ勝負」こそ、満足感を上げる事が可能となる【=『プロセスのみ』しか、宇宙が『面白く存在する価値』はない】。

以上。
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No.8です。


私の日蓮宗は先祖代々のもので創価学会ではありません。創価学会は日蓮正宗と言う分派を破門された宗派だと聞いています。創価学会には関心もないので接触したこともありません。

私にとって仏教の日蓮宗は願い事や頼み事の対象では無いと書いたつもりです。頼みごとの対象は亡くなった両親や神道の神様なのです。しかし、それを信仰と思っているが、宗教だとは思っていません。何回もいっているのですが、自分の考えと異なる他人の文章には関心がないのでしょうね。

最後に申し上げると、 私にとって願いを伴わぬ宗教は仏教です。仏教は教えであって、私にとってお願いごとをする対象ではありません。私にとって仏教は高貴な存在なのです。
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この回答へのお礼

 
ありがとうございました。
 

お礼日時:2014/09/11 23:28

此処は親心で注進して置きます。



他の方へのお礼文ですが。

>誰も答えられないってことは、やはり神仏への願いを伴わぬ宗教はこの世には存在しないのでしょう

私は答えていますよ。

少なくとも回答はしています。

知りたいのならば、学びなさい。

孤高を護りたいのならば、黙りなさい。

他者を貶めて、自己を測る事に価値を見出すやり方を選んでも、虚しさも恐怖も消えません。

何故なら、自身が知っているから。

貴方が一番誤魔化しているのは、自分自身です。
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この回答へのお礼

 
この問題そこに答えん限り先に進めんではないか。
 

お礼日時:2014/09/11 22:17

No1です



>それは逆で、宗教は信仰の一つでしょ

布教活動を例にとってみましょう、布教活動はまぎれもなく宗教ですが
それを行うのは信者でなくともできます
つまり宗教が信仰の一つであるなら、不信心者は布教活動を行うことができないはずです
でも実際にはできます
賃金を渡して宗教活動をしろと人を雇えば信仰の存在しない宗教が存在することになります
つまり宗教を信仰の一つと考えると単純に矛盾することがでてきてしまうのです
だからあなたの考えは誤りです

>あなたは神仏への願いを伴わぬ宗教を知っていますか?

願いを伴うかどうかはある信仰が宗教であるかどうかの判断とは関係ないですから
あなたの質問そのものが無意味です
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この回答へのお礼

 
>つまり宗教を信仰の一つと考えると単純に矛盾することがでてきてしまうのです

つまり宗教は信仰でもないってことですね。
神仏に願うだけであれば信仰である必要もないので。
神仏を尊びはしないが神仏に願うってゆー。
となると信仰と宗教は全くの別物ってことになりますね。
 

>願いを伴うかどうかはある信仰が宗教であるかどうかの判断とは関係ないですから
あなたの質問そのものが無意味です

これについては誰も答えられないってことは、やはり神仏への願いを伴わぬ宗教はこの世には存在しないのでしょう。
 

お礼日時:2014/09/11 21:51

信仰は動詞です。



信仰心ならば名詞ですが。

宗教は名詞です。

宗教そのものは、人に何かを強制する物ではありません。

宗教「団体」が其れを「定義」します。

団体によって現れる形は違う訳です。


多くの場合は現世利益を求める方が普通ですから、社会通念としては、貴方の想像通りです。

しかし其れはケースバイケースの話です。

まぁ、徒党を組んで献金を求めていない団体なんて聞いた事が無いですがw
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私にとって信仰とは教えられこともなく、生まれながらに持っている感情です。

その感情である信仰の中に、教えられ学んだりして会得する宗教が存在しています。信仰と言う大きな領域のなかに小さな領域の宗教が存在しています。別の言い方をすると信仰心が先に存在して、後で教えられた宗教が入ってきたのです。

具体的には信仰の中に神社神道などなどが存在しています。神社神道も広い意味で宗教なのでしょうが、私にとっては宗教との認識がありません。宗教として認識するのは仏教としての日蓮宗です。両親への思いは仏ではありません。傍にいるものとして感じるので神様に近い存在でもあります。仏教としての釈尊や日蓮は妙法の教えを説くものとして存在しているのです。

願いごとをするために信仰心があるわけではないが、困ったときにお願いするのは神様と両親です。釈尊や日蓮にお願いしたことはありません。しかし、自分の考えを支配するのは仏教なのです。

その点では質問者が規定している「宗教は神仏への願いを伴う信仰である。」との概念とは逆なのです。

この回答への補足

 
>宗教として認識するのは仏教としての日蓮宗です。

つまり学会員てっことですか。
 

補足日時:2014/09/11 21:56
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この回答へのお礼

それにしても神仏への願いを伴わぬ宗教を知っていますか?と訊いて、誰も答えられないってのは何故なのか。
やはりそのよーな宗教はこの世に存在しないってことなのかな。
 

お礼日時:2014/09/11 21:37

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