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幕末 。アメリカのペリーが (1853.7.8) 来航し
日本に開国を迫ってから5年 徳川家慶は死に 次の将軍 家定は 人間的にもかなり問題のある人であり。
阿部老中も安政4年6月17日江戸城内で執務中に 39歳で急逝。阿部の後を引き継いだのは堀田正睦ですが、彼は6月23日辞任。後を引き継いだのが大老・井伊直弼です
 家定は将軍のまま安政5年7月4日34歳で死んでいます。
このような 状況で 井伊に 大老になれと命令できた人物はいたのでしょうか?

A 回答 (4件)

 大老井伊直弼誕生には首席老中堀田正睦の次席となった老中、松平忠固が大奥に裏工作した結果によるものと考えられております。


 史実によれば、松平忠固は慶喜を推す阿部正弘・水戸斉昭らの一橋派に対抗する南紀派に属しており、同派の紀州藩家老水野忠央と姻戚関係にある薬師寺元真が、大老就任の前日に直弼のもとに打診しています。
 結局、阿部正弘病死後、大奥と結んだ南紀派が家定に対して「一橋派は家定を幽閉するつもりだ。」と脅かしたため、井伊直弼が誕生したとの結論です。

参考URL:http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/rekishi/bakuma …
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この回答へのお礼

老中、松平忠固が大奥に裏工作した結果によるもの

なるほど ありがとうございました 納得いたしました。松平忠固ですか ほとんど 歴史上には 名をとどめていませんね 初めて聞く名前です。

お礼日時:2004/05/30 19:25

下の方の答えた将軍家定というのはあながち間違いではありません。



その経緯を簡単に書けば、堀田正睦は通商条約の締結にあたり、条約締結の反対者をおさえるために朝廷の勅許を得れば良いとして、京都に上って朝廷に対して裏工作を行いますが失敗します。この為、江戸に戻って将軍家定に不首尾を報告し辞任するにあたり、自分の後任に松平春嶽を推薦します。この時、いつもは自分の意見など滅多に言わない将軍家定は「家柄といい、人物といい彦根を差し置き越前を大老にするなどもってのほかである。井伊直弼を大老にせよ。」と発言します。

まあ、その背景には老中松平忠固(信州・上田藩)と紀州藩の家老水野忠央(みずのただなか)が紀州系の人物を家定の後継将軍としようとしての裏工作(家定への助言)があります。つまり、井伊直弼は将軍後継問題については紀州派であったこと、また、彦根藩の大老は代々形だけの場合が多く実権をふるうことがなかったので、松平忠固が井伊直弼をトップに据えて自分が実権を握ろうとしたとも言われています。

というような経緯から井伊直弼の大老就任の決定打は将軍家定の発言であったようです。

この回答への補足

家定 は「家柄といい、人物といい彦根を差し置き越前を大老にするなどもってのほかである。井伊直弼を大老にせよ。」  このような 発言が 出来る事が 出来たのですか 驚きました。 全くの 精神薄弱者と言うわけでは なかったのですね。

補足日時:2004/05/30 19:25
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先に回答しました際の参考URLは、以下のとおりです。


URLを二つ添付する方法がわかりませんでした。

参考URL:http://www6.plala.or.jp/bakumatu/han/bakufu/baku …
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家定

この回答への補足

形式的な 認証者 を お尋ねしているのではなくて
誰が推挙して 誰が議論して 誰が決定したかを お尋ねしました 家定には とても このような 能力はなかったと考えております

補足日時:2004/05/30 12:55
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