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9/11の讀賣新聞1面に次の記載がありました。
・戦前、天皇は統帥権の「総攬者」とされ、陸海軍の最高司令官「大元帥」でもあった。だが、1931年の満州事変以降、軍部は「天皇は陸海軍ヲ総帥ス」とする明治憲法第11条の規定を盾に取り、内閣のチェックは統帥権には及ばないとして暴走。30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれた。
これに関して2つの質問があります。
(1)内閣のチェックは統帥権には及ばないとは?
  陸海軍は天皇が統帥するので、内閣は陸海軍には口出しできないという意味ですか?
(2)30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれたとは?
  昭和天皇は、当時30歳代と若かったので大元帥であるのに、軍部の暴走を抑えられなかったという意味ですか?以上、よろしくお願いします。

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A 回答 (9件)

まず前提を書きます。

君主と政府と軍の関係についてです。

君主国であれば、軍は「王様の軍隊」であり、王に忠誠を誓い王の命令でどこにでも行きます。君主国なら、政府も王がすべてを決める権限がありますので、議会や長老会議などの諮問機関があっても王様が決めれたことが政府の政策になります。

このような君主国であれば総帥権(指揮権)は当然王に属しており、王様が命令する、ことに誰も口出しできません。

逆に民主国(共和国)においては、軍隊は「国民の軍隊」です。政府も国民が主体となって運営します。このような場合、武器を持っている軍隊が暴走しないように、文民統制が敷かれます。
古代なら、軍隊は首都に武器を持ったまま入ることができない決まりを作って、クーデターを未然に防いでいましたし、現代なら、アメリカなどは軍隊が軍事行動を始めたことを24時間以内に大統領や議会長に知らせる(敵から攻撃があれば応戦するしかない、と言うときです)、と共にその軍事行動について議会の承認が得られなければ60日以内に撤退する、と決められています。

共和国では民主的に選ばれた議会や大統領が軍隊を指揮できように、文民のほうが軍隊よりも偉い、というつくりになっているのです。

で、戦前の日本の総帥権です。
(1)内閣のチェックは統帥権には及ばないとは?
  陸海軍は天皇が統帥するので、内閣は陸海軍には口出しできないという意味ですか?

はい、憲法を解釈するとそうなっていました。明治憲法では、軍隊の指揮権は「天皇の大権」のひとつと明記されていて、その点では君主国のシステムになっていたのです。
ですから、議会や内閣などは「天皇がお決めになったことだ」と軍部に言われると、それ以上なにもできなかったのです。

(2)30歳代だった昭和天皇は、大元帥でありながらそれを抑えられない立場に置かれたとは?
  昭和天皇は、当時30歳代と若かったので大元帥であるのに、軍部の暴走を抑えられなかったという意味ですか?

違います。明治憲法は「立憲君主制」であり、天皇は立憲君主として行動を制御していたからです。
そして、この狭間を解釈によって突き、暴走したのが軍部の悪知恵だったといえます。

立憲君主制は、現代の日本やイギリスのように「君主」はいるけど、国の運営は民主主義に任せる方式です。「君主が居る」という以外は共和国と同じで文民統制も当然にあります。

しかし明治憲法は文民統制規定が明確になっておらず、立憲君主制における天皇の責任も明確に書かれていなかったため、軍部がそこを突いて暴走を始めたのです。

つまり軍部の解釈では「政府としての機能は、たしかに立憲君主制なのだろうが、軍事指揮権(総帥権)は天皇の大権であって、政府がそこに口をだすことは総帥権干犯であり、天皇陛下に対して不忠である」

だから、軍隊は天皇の指示しかきかない、ということだったのですが、当の昭和天皇が「立憲君主として、(軍隊を含めた)政治のすべては臣民に任す」と、口出しすることを嫌ったので、軍部が暴走してしまったのです。

またそのために軍部は「帷幄上奏権(本来は戦争の前線で指揮官に状況説明する権利)」を盾に、文民統制を迂回する形で、天皇に上奏し「このような状況ですから、こうします」と勝手に決めて、当の天皇は立憲君主制を守るつもりですから「うむ、分かった」とか答えなかったために、どんどん暴走していったのです。

天皇が「立憲君主」的な君主であることをやめて、直接指示をしたのは、たったの2回だけだったといわれています。
1回は2.26事件を収拾すること(激怒したといわれている)、もうひとつはポツダム電源の受諾です。

日本の政治畝居システムが「解釈」ひとつで、いくらでも変更できてしまう怖い事例だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>軍事指揮権(総帥権)は天皇の大権であって
当時、「軍部の考え≠昭和天皇の考え」ではないか?という疑問・主張は言えない時代背景であったのでしょうか?

お礼日時:2014/09/14 09:11

「全文」に訂正しようとしたのに、コピペとクリックの操作を慌ててしまいました…。


もぅ、何がなんだか…トホホな投稿になりました。 (T T)
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この回答へのお礼

お気になさらないでください。

お礼日時:2014/09/15 06:57

(1)内閣と軍部は並立で、天皇に直結。


   お互いに干渉はできないので、口出しできませんでした。

   日露戦争の頃は、お互いが理解し合って、協力して引き分けに持ち込む事ができました。
   昭和陸軍は、鼻息が荒く、お互いが歩み寄る事がきませんでした。

(2)若さは、関係ないと思います。

   忠実に『君臨すれども統治せず』を守りました。

   天皇は、自分の意志で国家の行動を指示できる立場になく、
   部下の内閣、軍部の上奏を裁可する事が仕事でした。     
   不満が、あるときには、裁可しないだけでした。

   陸軍の人事案に不満があった時、無言で書類をデスクに伏せて置いた事は有名です。
   終戦の時も、議長の鈴木貫太郎が、異例にも天皇の意志をもって結論とする事に、成功したから終戦できたのです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/14 15:28

1.


議会や内閣っていうのは、様々な人の思惑が絡みますよね。で、例えば内閣が変わる度に「陸軍はあっちいけ」「いややっぱり行くな」なんてやられると軍人さんたちも困るし、そんなんじゃ戦争に負けてしまいますよね。だから、だいたいどこの国でも軍隊の指揮権というのは誰かに集中させています。
アメリカでも、軍隊の指揮権に関しては大統領が絶大な権力を持っているのです。有名なのはあのキューバ危機のとき、周囲がキューバの核ミサイルに対する空襲を強く迫ったのにケネディ大統領は頑として首を縦に振りませんでした。その「弱気な態度」が後に暗殺事件を招いたなんて声もありますよね。
また、軍隊というのは活動すれば当然お金がかかります。軍艦が動くなら石油が必要で、燃料代もかかるわけです。もし「海軍を派遣するからこれだけ予算が必要」と議会に提出して(国家予算だから当然議会のチェックが必要ですよね)、それが否決されてしまったらお金が出ないから軍艦も動けなくなります。そうすると、まあ国益を損なってしまうことだってあるわけですわ。
そうならないために、まあどこの国でもある程度「勝手に軍隊が動けるように」してあるのです。

2.
日本においては、「下が頑張る。上は黙って見ている」という文化がありますよね。だいたいどこの会社でも一番働いているのは課長や部長クラスで、取締役や社長は彼らが提出した書類にハンコを押すのが仕事って感じですよね。
幕末の毛利藩の藩主毛利敬親は家臣からなにをいわれても「そうせい」といったので、「そうせい公」といわれていたという話は有名ですが、日本人の感覚ではそれはむしろ「良い上司」って扱いですよね。部下の報告にちまちま介入したりああだこうだいうのは「日本においては」嫌われます。
イギリス留学の経験がある昭和天皇は、そのへんは意外に欧米的なところがありましてね。あの二二六事件のときは激高して「朕みずから兵を率い鎮圧せん」とまでいって周囲が大慌てしたのです。実は陸軍中枢なんかは青年将校に同情的というか、上手いこと利用しようというのがあったんですね。「確かに彼らのやったことはマズいですがァ、志は純粋でございますんで」とかなんとかいって昭和天皇から「確かに忠心からやったことだからなァ」みたいな言質を引き出そうとしたのです。だけど、当の本人が「俺があいつらをぶっ潰したるわ!」と激怒してるので「あかん。こりゃあかん」となったのです。

昭和天皇についてはまた別のエピソードがありましてね。戦前の日本では重要な国の決定は天皇が出席する「御前会議」の了承を得て正式決定となったのです。逆にいうと、御前会議でハネられると先に進まないってことになります。
昭和天皇は日米戦争に対して一貫して反対していて、ずーっと「安易に戦争に走らず、外交交渉でなんとかするように」と口が酸っぱくなるほどいっていたのです。ところが、結局「いやー、やっぱ開戦しかねえっすわ」となったんですね。
それが内心どうしても納得できない昭和天皇は、「(日米開戦を議題とする)御前会議で発言する」って侍従長に言い出して、周囲が大慌てしたのです。実は御前会議では天皇は「うむ」以外の選択肢がないのです。それを聞いた首相やら海軍陸軍大臣やらも大慌てになって「いや、陛下。御前会議で天皇が発言するって『前例』がございませんので」とかいって必死に説得するんですね。それで結局御前会議での発言はできなくなってしまいました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/14 15:27

要するに軍部が統帥大権と帷幄上奏の制度を足掛かりとして、憲法上の立憲君主制の隙間を穿って(悪用して、陸海軍の大臣を出さないとか)政府の発言と指導の権能を殺いでいったのですね。


そして英国などの立憲君主制の思考にある昭和天皇の、総攬者としての権能の控え(専制君主とならないようにするという控え)もそういう軍部の権限踰越の温床になったという事情ですね。
30歳云々は、そういう控えをしながらも多少ともご年齢がいっていれば、将軍たちやマスコミに対する重みや含みのあるおことばを出すことができたでしょう。という意味ではないですか。
ご解答のみなさん、ご知見が豊富でたくさんのことを仰せですが、結論はそういう事で共通ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
纏めていただき分かりやすいです。

お礼日時:2014/09/14 10:24

誤 (2)大日本帝国憲法を前文読まれたことがありますか?



正 (2)大日本帝国憲法を前文読まれたことがありますか?

変換ミスしていました。お詫びして訂正します。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/09/14 09:14

(1)統帥権は大日本帝国憲法によって定められたものではなく、明治維新以来の慣例で残っていたものです。

靖国神社が皇軍の英霊を祀るという程度の発想で、天皇陛下が軍の作戦を指揮することなどありえません。軍隊に対する命令は、専門家である軍人が行うことなのです。政治家は法律を作ったり、予算を編成するのが仕事なので、軍事費の増減は政治家が決定することになります。ここで、軍人と政治家が独立して、自分の職責を果たすことになるのです。

ロンドン海軍軍縮会議で浜口内閣は削減に同意して調印しますが、それは海軍の意思とはくい違うものだったのです。ここで、海軍が「天皇の統帥権を侵犯した」と、言いがかりをつけたのが、この問題の発端でした。ちなみに軍縮条約に調印するということは、鳩山首相がCO2削減を公表し、得意になっていたのと同じ情況だったようです。軍縮に向かう国など、世界のどこにもなかったのです。外交での見識のなさを海軍に指摘されてしまったのです。


(2)大日本帝国憲法を前文読まれたことがありますか?戦後は悪魔の憲法であったかのように酷評されますが、天皇の権限は憲法によって大きな制限がかれられています。現行の憲法と比較しても、言葉遣いが古めかしいだけで、内容には問題はありません。普通の憲法です。

五箇条の御誓文にある「広く会議を興し、万機公論に徹すべし」とのお言葉は、決して飾りごとではなく、憲法によって民主政治の実現を図ろうとなさっています。つまり、天皇は国会の決議には容喙しないのが、その当時のルールだったのです。今と大きく違う点は、総理大臣が憲法で定められていなかったことです。総理大臣も、他の大臣と横並びの権限しかありませんでした。つまり総理には大臣の任命や罷免の権限がなかったのです。内閣が全員連帯して責任を負ったので、大臣が一人でも辞任したり、任命を拒否したら、大臣全員が辞職しなければならなかったのです。

軍縮会議の結果に不満を持つ海軍大臣は、即座に辞表を提出します。すると内閣が総辞職になり、総理を決めるところから組閣をやり直さないといけなくなります。人選に対して一人でも不満を持つ者がいれば、再度やり直し…。こんなことが続くと政治に空白ができるので、総理は渋々ながら海軍や陸軍の言いなりになってしまうのです。これが軍部の独走を許した原因になっているのです。天皇には戦争責任はありません。憲法の欠陥につけ込まれた結果です。

統帥権干犯問題が浮上する以前は、元老といって、伊藤博文、山県有朋など明治維新の立役者が、政治や外交の面で適切な判断を下していました。問題が起こりそうになると、「わがままを言うな」と一喝して、不満が出ないようにしたのです。天皇陛下の前で内閣が分裂するなど、畏れ多くてできなかったのです。

しかし元老がいなくなると、目の上のたんこぶが取れたかのように、未熟な政治家が日本を誤った路線に導いたのです。結果が敗戦でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
分かりやすいご説明です。

お礼日時:2014/09/14 09:14

taka1012さん、こんばんは。



確か統帥権干犯問題ですね。ご存じのとおり大日本帝国憲法は明治藩閥政府時代に成立した憲法なので、政党政治下では党利党略の道具の一つにならないように独立させていたということです。コントロールに関しては明治の元勲というわれる人たちが行うので明治期にはそうは問題になりませんでした。
(1)軍令権、軍隊の指揮権に内閣は関与できないということです。軍政面、特に予算面に関しては内閣の承認が必要です。

(2)戦前でも日本は憲法を持つ立憲君主国でした。でも、その政治体制は憲法の規定もあって議会や政党の力は弱く、逆に軍部の力はかなり大きなものでした。昭和天皇は憲法上大元帥でしたが、英国への訪問なども機会もあって英国流の「君臨すれども統治せず」を基本方針にしていたといわれます。ただ、張作霖爆殺事件や2.26事件などでは感情的になったり、自分の意見を言っていたと思われますが2.26事件以降、「終戦」の聖断まで自分の意見を言わなくなります。こういった事件で自分の意見を言うことは専制君主のやることで自分の目指していることと違うと感じたからだと思います。憲法の規定では国務大臣や他の輔弼機関からの承認に対してこばむことはできないことになっていました。専制君主ではないので私情で変更はできないということです。

詳細は下記のURLを参照ください。


昭和天皇
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C% …


統帥権

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5% …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
明治憲法の統帥権と立憲君主制における昭和天皇の関係は、矛盾があったようですね。

お礼日時:2014/09/14 08:59

(1)


そう言う意味です。

(2)
君臨すれども統治せずというスタンスだったから
「御用掛日記」という書籍に記載がある、※詳しい内容は忘れた

張作霖事件か何かで田中義一内閣が倒れたのは、天皇の逆鱗に触れた事が原因
このことがあってから、天皇の個人的な意思を直截に表して時の政権の生殺与奪を握ってしまう事を恐れたと言われている
建前上は立憲君主制なので、天皇の気持ち一つで首相の首をすげ替えるのは不適当だと考えたのであろう

軍というのは指揮命令系統が確立されている組織なのに、大元帥が系統を無視しては示しが付かない
侍従武官や軍令軍政のトップには間接的には意思を表しているが、それ以外の人間に直接アレコレ命令は行わないことになっている
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>建前上は立憲君主制なので、
この「建前上は」というのがポイントのようですね。

お礼日時:2014/09/14 08:42

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Q昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

軍幹部や閣僚、枢密院の事実上の強制である「助言」に逆らえなかったのはなぜなのでしょうか?
天皇は、軍部を最終的に指揮・統括する統帥権を持っていたのですよね。
様々な事由で軍や政治家の意見を聞き入れなければならない状況もあったと思います。しかしミッドウェー以後の戦況を正確に知っていたなら、最早戦況は絶望的で、このまま戦いを続けたなら軍人のみならず、多くの国民の命が失われることは火を見るより明らかであったことは知っていたはずです。
軍・政治家の「助言」は飽くまで助言であり、例えそれに反したものであっても、最終の決断を下す権限を当時の天皇は持っていたのですよね。そしてそれは、何人たりとも妨げることはできなかったのですよね?
にもかわらず「本当の」統帥権を発動できなかったのは一体なぜなのでしょうか?

Aベストアンサー

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答されていらっしゃるように、昭和天皇が自身を「立憲君主」として律していた根拠でもあります。
つまり、統帥権を含め国務は輔弼の臣の輔弼行為に依拠し、天皇は積極的な国政への関与を控えていたと言うことです。皆さんがおっしゃているように田中首相への叱責、二二六事件、終戦の決断以外には判断を下していません。終戦についても最高戦争指導会議構成員会議および閣議が意見の一致をみないために、最高戦争指導会議に枢密院議長を入れ、御前会議の形式をとり、天皇の判断を仰いだために天皇が決断したのであって、昭和天皇も決断を求められるのは本来の形でないと思っていらしたようです。
ですから、戦争がいかに不利になろうとも、国務・統帥の輔弼がない限り停戦・休戦・終戦にならなかったのではないでしょうか。また、統帥部の輔弼がない限り、終戦への統帥権の発動もなかったと思います。
このように輔弼を受けることにより、責任は輔弼の臣が取るべきもので、天皇自身には及ばない体制が成立しています。西園寺が天皇に田中首相叱責で注意したのはこの点であり、長い伝統を持つ公家社会(天皇を含め)の伝統的方策(生き残るための知恵)にも合致していたからです。

以上、参考まで。

>昭和天皇はなぜ軍部の暴走を止められなかったのでしょうか?

大日本帝国憲法の第4条には、「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ」とありますが、続いて「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とあり、55条に、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責任ニ任ス」、同2には「凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」とされています。天皇は憲法上「統治権の総攬者」ではありますが、輔弼と副署と言う制限された存在でもありました。これが「天皇機関説」の根拠ともなりますし、NO7の方が回答さ...続きを読む

Qなぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

なぜ戦前の日本軍は暴走してしまったのですか?

関東軍の暴走や、5.15事件、2.26事件…。
真珠湾攻撃の前には既に南方で勝手に戦端が開かれていたとか。
それから、敗戦時にも玉音放送を中止させようと陸軍のクーデターが起こるなど、なぜ戦前の日本では、軍事がコントロール不能になってしまったのですか?

当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?

※これはド素人の質問ですので、質問文中に認識違いなどがあった場合は遠慮なく指摘して頂いて結構です。その際はどうぞお手柔らかに…

Aベストアンサー

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良かったのでしょう。
内閣・国務大臣も戊辰戦争を戦ってきた人々でしたからね。

時代が進むにつれて、「統帥権」の変容したのが、軍部の暴走した要因だと思います。
大日本帝国陸海軍には行政組織の陸軍省と海軍省が有り、それぞれに大臣がおりました。
これらは内閣の一員の行政組織で、人事権、徴兵などを行政事務を行ないます。
それとは別に海軍には軍令部、陸軍には参謀部があり、軍令部総長・参謀総長がおりました。
実際の作戦立案、実行を一手に握っていました。

最初は海軍省>軍令部、陸軍省>参謀部の関係でした。
現役の軍人とはいえ、官僚ですのである程度の常識を持ちイケイケの軍人を抑えていたのですが
それに不満を持つ軍人が「天皇は陸海軍を統帥す」の文言を盾にとり、統帥権の独立を画策し始めました。
次第に省令等を改定し、海軍省<軍令部、陸軍省<参謀部の力関係になりました。
つまり、軍人の文が弱まり、武が強くなってきました。
国会議員が異議や反対意見を述べたりすると「統帥権干犯」を持ち出し、反対意見を封殺していきました。
つまり、建前上、天皇のみしか軍隊を指揮命令する事が許されない
神聖にしてだれも犯す事の出来ない武力集団に仕立て上げたのです。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/tousuikennnokannpann.htm

しかるに、昭和天皇は皇太子時代、大英帝国を訪問し、英国の立憲君主制に触れ、それを模範にするお考えが有りました。

国王・皇帝が独裁的に指揮・指示・命令をするのではなく、それを輔弼する内閣・国務大臣の政策を承認する形を取りました。
それで、天皇の名の下に、自分の都合よく相手国に武力行使を独断専行で行い、全て事後承諾で戦争へと進んだのです。
結局は、降伏か戦争継続かで意見が分かれ、収集が付かなくなり、昭和天皇のご聖断となった訳です。

>当時の米国や英国ではそうならかったということは、戦前の日本の政治体制や統治機構に何か根本的な誤りがあったのですか?
一言で言えば大日本憲法の条文にある「統帥権」でしょうね。
米国・英国の軍隊は文民統制(シビリアンコントロール)が為されていました。
大日本帝国軍の指揮系統は建前上、天皇の命令だけしか聞き入れない制度になっていました。
これを「統帥権」と呼びます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%B1%E5%B8%A5%E6%A8%A9
明治天皇のように、自から指揮、命令していた時代はそれで良か...続きを読む

Q過去に女性天皇がいても万世一系なの?

「万世一系」の意味を教えてください。

高校日本史の授業では、推古帝など女性が天皇に就いた例や、本来の皇位継承者をさしおいて別の人間が即位した例もあった、と習いました。ぱっと見た感じ、「万世一系」とは違う気がします。どうなんでしょうか?

Aベストアンサー

現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してきましたが、全てが直系という訳ではありません。
例えば26代の継体天皇は近江に生まれ、越前で育った豪族ですが、前代の武烈天皇が子孫が無く亡くなった為に応神天皇の5世の孫という血統をかわれ、武烈天皇の姉の手白香皇女と結婚し皇統を継ぎました。
この場合も継体天皇自身は応神天皇の血を受けてますから男系になります。
ただ一説では天皇家とは無関係の他人で、武力クーデターで皇位を簒奪したのではないかとも言われています。
これは天武天皇もそういった説があることを付け加えておきます。
この説では中大兄皇子(天智天皇)は大海皇子(天武天皇)は実の兄弟とされているが、実は異父兄弟(或いは他人)で、正当な皇太子の大友皇子(弘文天皇)を殺して皇位を簒奪したのではないか・・・、という説も。
いずれにせよ「万世一系」というロマンがある以上、今の時代にそれを壊すことが正しいことかどうか、私は疑問をもっております。

現在問題になっているのは「女系天皇」であって、女性天皇ではないことをまずご理解ください。
愛子さまが即位された場合、父親は現皇太子さまですから「男系の女帝」になり、これは過去に数人みえます。
しかしながら父親が皇族ではない天皇は前例が無く、愛子さまが皇族の血を引かない一般庶民と結婚され、その子供が次代の天皇になられた場合、男女に関わらず史上初の「女系天皇」となり、遺伝子学者や伝統を重んじる方々から反対を受けています。
系図上は初代の神武天皇以来男系の子孫が皇位を継承してき...続きを読む

Q本日天気晴朗ナレドモ波高シ……は何故名文なのか?

東郷平八郎が丁字戦法を使ってバルチック艦隊を破った時、
秋山参謀という人が東京にこんな打電をしたそうです。

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、
本日天気晴朗ナレドモ波高シ」

高木彬光先生の歴史小説の中で「名文中の名文」と謳われていましたが、
どうもしっくりきません。

だって、単なる指令と天候を伝える平叙文じゃないですか。
これだけシャープに必要なことをまとめた、ということが
賞賛されているのでしょうか?

教えてください。

Aベストアンサー

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連合艦隊は予定どおり、故障艦も脱落艦もなく、直ちに出撃し敵を撃滅することを前文で伝えています。後半の天気の文章も海軍の現場の人にはいろいろな情報を伝えています。即ち、本日は天気に恵まれ海上の見通しは非常に良い。砲撃戦に理想の天気である。しかし、海上には高波が見られるので、魚雷艇などを使った細かな作戦を実行するには難がある。本日の戦いは砲撃で決着がつくだろう。

ようやく近代国家の仲間入りをしたばかりの日本の存亡を賭けた戦いを前にして、七、五調の短い電文でこれだけの情報を送れるのは名文でなければ出来ません。しかし、これが決意表明ではなく作戦の変更や指示を仰ぐ電文であれば、決して名文とはいえないでしょう。読む人によって理解が異なるような文章は戦時に使用すべきではないでしょう。やはり戦争に勝ったということと決意表明の電文だったからこそ後世まで語り継がれたのでしょう。

この電文はロシアの大艦隊を迎え撃つ前に打電されたものです。大国ロシアを相手に小国日本が寄せ集めの軍艦で海戦を挑む直前の決意を示したものです。

名文として後に有名になったのは
1.先ず海戦に勝ったこと。(負けたら名文も残らない)しかも世界が驚く一方的といってもいいくらいの勝利をおさめた。
2.これから出撃します。と短く報告すると同時に海の実戦経験者だけに分かる短い言葉で、これから起こる戦闘がどのようなものになるかをうまく伝えているからです。

つまり、兼ねて準備していた連...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q明治憲法は、立憲君主制を規定した憲法ですか?

明治天皇も、昭和天皇も、みずから、主体的に、
立憲君主として振る舞われた感じがありますが、

果たして、大日本帝国憲法は、正確には、
立憲君主制を規定した憲法と言えるのでしょうか?

Aベストアンサー

A No1です。

天皇大権は
6・9条で立法。
(法律を作る権利。9条は特に独立命令大権と呼ばれ、法律以外の"命令"が可能です)
7・34・42・43・44条で議会(召集や解散など。今の天皇に近いものです)
8・70条で緊急勅令。(戒厳令などの緊急時の対応です。)
31条で非常大権(戦争時に臣民のすべての権利を停止できます。)
15・16条で栄誉・恩赦(勲章あげたり、罪を許したりできます。)
73条で憲法改正
そして11条で統帥大権が規定されています。


他にも天皇が有する権利は第一章に多く書かれています。
義務教育の中学校あたりで配られる副読本でも読めば書いてあるはずです。






結局のところ、質問者さんの本当の質問は「天皇って戦争とめる権利あったの?」
ということですよね。これは帝国憲法11条にあるように「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」ので、
天皇の許可無く軍を動かすことができないのですから、「お前等!戦争するな~!!!!」
といえば、天皇は戦争を止めることができました。








ところが、昭和帝はそれをしませんでした。
最近公表された侍従長の記録によると、本心では必ずしも快く思っていない人たちの
意見も受け入れているのです。これは何故か?
話は少し飛びますが、天皇機関説という憲法解釈理論があります。
平たく言うと、天皇とは単なるシステム上の存在だよ、と言い切ったものです。

当然、これを主張した人々は不忠であるとの評価を受けることとなりました。
一方でこの学者を擁護した昭和帝の言葉に以下のようなものが残されています。
「一體日本のやうな君國同一の國ならばどうでもよいぢやないか。」





まさに王!何を言っているのかというと「俺が国だ!」と言っています。
単に文字だけを見るとすごい傲慢じゃん・・・
と思われるかもしれませんが、そういうことですらなく「俺が国だ」というのは
天皇は個人ですらなく、究極的には「国事の責任は俺にある」
ということを言っているのです。








そもそも責任者とはなんであるのか。
部下の行動を諌めるのももちろんですが、決断を行い、部下のミスを
「自分の責任である」と言い切れる人のことです。
つまり昭和帝こそまさに国の責任者であり、戦争を起こした責任を持つのです。



もちろん、臣下が身を挺してその責任を負った、という事は評価に値することです。
しかしながら、彼に崇高な「戦争責任」を負わせなかったことは、犯すべからずとされた
絶対の神聖を汚し、天皇を「国」ではなく「人間」とした契機だったのではないでしょうか。





先の侍従長記録は私的発言集みたいなもので、少し人間ぽい発言も書かれているんですが
少なくとも公の場で、昭和帝はその類の泣き言や押し付けを口にしたことは無いです。

A No1です。

天皇大権は
6・9条で立法。
(法律を作る権利。9条は特に独立命令大権と呼ばれ、法律以外の"命令"が可能です)
7・34・42・43・44条で議会(召集や解散など。今の天皇に近いものです)
8・70条で緊急勅令。(戒厳令などの緊急時の対応です。)
31条で非常大権(戦争時に臣民のすべての権利を停止できます。)
15・16条で栄誉・恩赦(勲章あげたり、罪を許したりできます。)
73条で憲法改正
そして11条で統帥大権が規定されています。


他にも天皇が有する権利は第一章に多く書かれて...続きを読む

Q軍部の暴走を止められなかった理由

戦前の軍部はなぜ暴走したのですか?
張作霖爆殺は、なぜ軍の指揮権を持つ天皇に許可無く行われましたか?
そして、その実行犯を天皇が罰しろと言ったのに、罰せられませんでしたか?
柳条湖事件、満州事変、盧溝橋事件、日中戦争と、軍部と天皇との関係も教えてください。

Aベストアンサー

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に対する恐れから、戦前の日本では本来過渡的な体制であったはずの明治体制の抜本的な変革は、さしずめ戦後日本における改憲のごとく、タブー視されるようになってしまいました。
しかしながら元老のカリスマ性に頼った体制が長持ちするはずが無い事は自明の理であり、このために大正期は「軍の統帥権とはあくまでも純粋な作戦面に限定される」という言わば「解釈改憲」でこの問題を乗り切っていたのです。
しかしながら抜本的な改革が行われなかった結果、軍と政府の分立状態は次第に亀裂が大きくなり、張作霖爆殺事件でも真相究明ではなく田中義一内閣総辞職で幕を引く結果となりました。
そしてロンドン軍縮条約調印時、野党であった政友会は政府を攻撃するために「海軍軍令部の同意の無い軍縮条約の調印は統帥権の干犯である」と非難し、軍の統帥権を一気に拡大解釈してしまいました。
この結果、これ以降に政府や議会が軍の行動を統制しようとすると「統帥権の干犯だ」と揚げ足を取られる事になってしまいました。
(当時の書籍を読むと現役の軍人でも「統帥権の独立は時代遅れであり、国家の将来に禍根を残す」と激しく非難している例もあります)

そしてもう一つ重要なのは、当時の日本では中国大陸に有していた利権(いわゆる「特殊権益」)は「日露戦争で多大な犠牲の末に獲得したものであり、絶対に手放してはならない」という、これまた戦後の日本における一時期の憲法九条のように、その是非を論じる事の出来ない不可侵の存在であるかのように評価されており、その利権の保持を目的とした武力行使は世論やマスコミの強い支持があったのです。
この為に満州事変では軍中央の意向に逆らって占領地を拡大し、現地軍が勝手に満州国建国を行った事をマスコミがこぞって支持し、軍中央も政府も暴走を追認してしまいます。
当然ながらこの結果として「軍中央や政府を無視しても戦果さえ挙げれば認められる」という「下克上」の風潮が生まれ、その後の日中戦争においてズルズルと占領地を拡大する現地軍を止めることが出来なくなってしまいます。

総じて言えば本来、過渡的な体制であった筈の明治維新体制が、皮肉にもその成功故にこそ維持され、時代に合わなくなった状態で行われた普通選挙による民主化が、党利党略しか考えない近視眼的な政治家を生んでその問題を拡大し、また政府及び軍中央が武力行使を支持する世論に阿って誰もが責任を取ることを回避していった結果だと言えるでしょう。

もともと戦前の日本の軍制は政治と軍の統帥を明確に分離するものでした。
これは明治政府の権力基盤が不安定であったことから、反政府勢力と軍が結びつくのを恐れた結果です。
当然ながらこのような軍事と政治を分離した体制は、対外戦争において非効率的なものですが、日清・日露戦争では伊藤博文や山形有朋などの元老が言わば超法規的に軍と政府の意思統一を図ったため、問題は表面化しませんでした。
ですが皮肉にも日清・日露戦争の勝利はこの体制の「正しさの証明」となってしまい、加えて共産主義革命に...続きを読む

Qイギリスの国王はどの程度の権力を持っているのか?

イギリスの国王(女王かも?)は、どの程度の権力を持っているのでしょうか?(日本の天皇は象徴ですよね?それよりは権力がありそうですけど。私のイメージです。)

また、現在絶対王政は無いかもしれませんが、立憲君主制の国はありますか?ほとんどの人が知っているようなメジャーな国でお願いします。

カテ違いでしたらすみません。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

いつの時代かを言っていただけないと捉えようがないのですが・・・まあ、天皇が象徴と言うことは、現代のこととして答えさせていただきますね。ざっと流れは説明しますが。

立憲君主制を取っています。立憲君主制の最大の特徴は、王が一番上ではなく、法(憲法)が一番上にあるということです。
結局、天皇と一緒です。つまりマスコットです。

13世紀前半、ジョン王の時代ですが、イギリスはフランスにボコボコに負け、大陸領土を全部失った上に、更なる出兵をジョンは企て、課税を強化します。これに怒った諸侯(議会)は、反乱をおこしました。その結果生み出されたのがマグナ・カルタ。これは、王権を制限するものです。その後、ずっと、絶対王政の元であっても議会は機能し続けます。
しかし、エリザベス1世が没すると、彼女には夫はおろか子供もいませんでした。そこで、彼女の遠縁から王をもってきたのですが、これが、スチュアート朝と呼ばれるスコットランド王室です。
王となったのはジェームズ一世。そしてそのあとを継いだのがチャールズ一世。
しかし、スコットランドに数百年の重みを持つ伝統的な議会政治はありませんでした。そのため、彼らは専制政治を行い、革命を勃発させてしまいます。これが清教徒革命です。その結果チャールズは処刑されます。その後しばらくクロムウェル時代が続き、王政復古となるわけですが・・・
その後、名誉革命をへだてて、王家はハノーヴァー朝になります。で、このジョージ一世、ドイツの生まれで旅行好き、そのため世界中をふらふらしている上にドイツにいることが多く、そもそも英語がまるっきり話せない。しかも国内の政治に興味が無い。息子のジョージ二世も同様でした。そのため議会は大いに栄えます。

で、1721年、ロバート・ウォルポール首相の下、責任内閣制(議員内閣制)が成立します。これは、現在の日本と基本システムはなんらかわりません。議会で優勢な勢力が内閣を作り、議会に対して責任を持つ、というものです。今と同じですね。で、この時の原則が「国王は君臨すれども統治せず」です。

で、これが今現在まで続いているのがイギリス。基本的に権力はありません。

昭和天皇が「好きなテレビチャンネルは?」と言う問いにこう答えました。「最近、民法の競争が激しくなっているので、私個人の意見をいうのは差し控えたい」と言う返答をしました。政治に関与しないというのはこういうことでもあるのです。
イギリスも同様なのです。まあ、日本の天皇よりは、オープンですがね。

なお、立憲王政国家は山ほどあります。絶対王政国家は、現在世界では一応5国のみ存在していますサウジアラビア、スワジランド、UAE、オマーン、ブータンの5つです。しかし、他には北朝鮮も君主独裁の絶対君主制に近い状態ですし、王権がのこっている立憲君主国家も存在しているため、一概には言えません

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/絶対君主制

いつの時代かを言っていただけないと捉えようがないのですが・・・まあ、天皇が象徴と言うことは、現代のこととして答えさせていただきますね。ざっと流れは説明しますが。

立憲君主制を取っています。立憲君主制の最大の特徴は、王が一番上ではなく、法(憲法)が一番上にあるということです。
結局、天皇と一緒です。つまりマスコットです。

13世紀前半、ジョン王の時代ですが、イギリスはフランスにボコボコに負け、大陸領土を全部失った上に、更なる出兵をジョンは企て、課税を強化します。これに怒っ...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む

Q戦前の日本は民主主義国家ではなかったのですか?

戦前の日本は民主主義でないということを言う人がいます。確かに男子のみの普通選挙であり、最後は軍国主義一色になっている感がありますが、欧米諸国も男子のみの普通選挙というのは普通であり、日本が特に遅れているわけではありませんでした(戦時中も議会が機能していました)。
また、戦時中は国民の多くが戦争を支持していたこともあり、民主主義が機能していなかったから戦争に突入したというわけでもありませんでした(アメリカは民主主義国家ですが、戦後に何度も戦争を仕掛けています)。
まあ、アメリカと戦争すると必ず負ける(当時の日本も勝てるとは思っておらず、最初に戦局を有利に進めて講和に持ち込む考えでいたようですが)ので無謀な戦争だったと後から見れば言えますが、戦争に負けたからといって戦前の日本が大国であった事実・民主主義国家であった事実まで矮小化するのはどうかと考える次第です。

Aベストアンサー

No8です。
私の回答の補足をさせていただきます。

このような質問では、いわゆる「統帥権干犯問題」が語られるようですが、それすら政党政治が原因になっています。

統帥権とは「軍隊の最高指揮権」であり、帝国憲法では以下のように定められています。

第十一條:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二條:天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム


「統帥権干犯問題」ですが、元々は軍隊が言い出したのではありません。

ロンドン軍縮会議で日本政府が条約を調印したことについて、野党の「政友会」が前述の11条と12条を理由に天皇の統帥権を干犯していると問題化しました。

↑に対して、浜口首相は以下の答弁で退けています。

【最終権限は天皇にあるが、責任内閣制度なので内閣が条約を結んでもかまわない。
これが統帥権干犯なら、外務大臣が外交をするのは外交権干犯になる。】

しかし、この後に浜口首相は暗殺され、以後も軍部は内閣にこの天皇の憲法上の権限によって圧力をかけました。
マスコミや大衆も支持した為に、議会政治の機能が低下してしまいました。

↑の結果、議会で軍の発言力が大きくなったのは事実ですが、それも国民の指示を背景にした議会政治の中での事態であり、民主主義の範囲での事だと思います。


更に「軍部」の定義も問題になります。
陸海軍の総称なのか、陸軍(もしくはその一部)なのか等の他にも、
当時の陸海軍は対立しており政治的主張が一致した皆無です。
その上、両軍内での派閥もありました。
以上から「軍部」の方も独裁など、したくても不可能でした。

確かに軍は「軍部大臣現役武官制」を行使して何度も内閣に圧力をかけてはいます。
(軍部大臣現役武官制:扱いは文官だが武官しかなれない役職。)
これは、軍が軍部大臣を出さなければ組閣ができない&後任が決まらない ということです。

しかし、それによって軍主導の内閣を創っても、他の閣僚との対立による閣内不統一や、官庁の協力を得られないことによる辞職に追い込まれています。

このような状況によって、戦前の政権は短命でした。
敗戦までの8年間に総理7人と9の内閣が生まれています。
(戦時の東条内閣も国務大臣の造反で総辞職しています。)

https://www.youtube.com/watch?v=PA-dNAa8hi0

以上から、当時の日本は ダメな民主主義 ではありましたが、複数の政党が存在しており何度も政権が交代していることから、ナチスのような「ファシズム」ではないと思います。

本当に軍国主義だったら、このようなグダグダにはならなかったと思います。

No8です。
私の回答の補足をさせていただきます。

このような質問では、いわゆる「統帥権干犯問題」が語られるようですが、それすら政党政治が原因になっています。

統帥権とは「軍隊の最高指揮権」であり、帝国憲法では以下のように定められています。

第十一條:天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第十二條:天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム


「統帥権干犯問題」ですが、元々は軍隊が言い出したのではありません。

ロンドン軍縮会議で日本政府が条約を調印したことについて、野党の「政友会」が前述の11条と1...続きを読む


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