《穢(けが)れ》について質問いたします。

 1 穢れとは何か?
 2 死は穢れなのか? であるならば、その理由は?
 3 死穢(しえ)は禊(みそ)ぎ、水によって流せるのか? 流せるとすれば、その理由は?
 4 なぜ、神社で神を拝む前に禊ぎをしなければならないのか?
 5 穢れは伝染するのか?
 6 こうした《穢れ》観の背景にあるものは何か、その理論的根拠は?


質問項目はすこし多いのですけれども、
《穢れ》がどのようなものであるのかを私が理解するためにどうしても欠かすことのできない項目なので、あえてそのまま列挙いたしました。

私の身勝手な希望としましては、6項目すべてに答えていただきたいのですけれども、
1項目でも構いません。


よろしくお願いします。

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A 回答 (53件中1~10件)

こんばんは ねむ猫さん



「柳緑花紅」日本人には心地の良いことばです(笑い)

この回答への補足

お寄せいただいた回答は、どれも様々な論点からこの問題に鋭く切り込んだもので、また同時に非常に示唆に富んだものばかりでしたので、
わたしにはその軽重をつけることができません。
ですから、
今回はベストアンサーをつけずにこの質問を閉じることにします。


そして、
わたしの拙い質問に回答をお寄せいただいた回答者の皆さんに、ここに深い感謝の念を表します。

皆さん、ありがとうございました。
今回も非常に勉強になりました。

補足日時:2014/09/30 16:44
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この回答へのお礼

柳緑花紅(りゅうりょくかこう)という和菓子もあるようです。

http://www.kaho-fukuoka.co.jp/saijiki/2003-03/ry …


美しくて食べるのがもったいない!!(笑い)


この言葉のもとになったのは
 蘇東坡 『柳緑花紅真面目』
という漢詩。


ネットで現代語訳を見つけましたので
http://kokoro-kotoba.seesaa.net/article/22779519 …


いい詩ですね。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/30 14:38

 これは 侮辱だと受け取りました。

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 こんばんは。




 ☆☆ (回答No.48) ~~~~~~~~~~~~~~~
 ところが:

  すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。

 というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これが 論点です。密教や道教にありますか? です。


 自然法爾≒無為自然 だとしても これは 論点にはなりません。
 天地の初めが 混沌であろうがどうであろうが 論点にはしていません。
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この回答へのお礼

☆すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。
◇道教はともかく、
老荘思想、特に『荘子』には、
超越者による救済という考えすらありません。

~~~~~
 子祀(しし)、子輿(しよ)、子犂(しり)、子来(しらい)の四人が話し合った。「無を頭、生が背骨、死が尻である人間、死と生、存と亡が一体であると悟った人間はいるだろうか、いれば喜んで友だちになりたいのだが」誰が言うとなく出たことばだが、皆は顔を合わせて笑い意気投合し、親友となった。
 そのご、子輿が病気になった。見舞いに訪れた子祀に子輿が「造物者は偉大なものだな。見ろよ、俺の体をこのようにひん曲げてしまったよ」。
 見ればひどい姿だ。背中は折れ曲がり、五臓は上に上がり、顎はへそよりも低く、肩は頭より高く、髪のもとどりは天を指している。「これは陰陽の気が乱れたんだ」そういう子輿はいかにも静かで動揺がない。
 井戸端に出て水に姿を映し「なんとまあ、ひどくひん曲げたことだ」とつぶやく。「君もさすがにこれは嫌だろう」と子祀が言うと「嫌だろうって、とんでもない。この左腕が鶏のようになるなら、私は明け時を告げる係りにしてもらおう。右腕が弓のようになったら、ふくろうでも撃って焼鳥にしようではないか。尻が車輪のようになり、心が馬にでもなったら、それで馬車を仕立てよう。そうすれば馬車を雇う必要がなくなる。
 生まれるべき時が来たら生まれ、死ぬべき時が来たら死ぬ。この定めに順応して従っておれば、喜怒哀楽の情も入り込む余地がない。これが古人の言った県解(けんかい・束縛を離れる)の境地だよ。人間がとかく自分を解放できないのは、生への執着で束縛されているからだ。外界の事物が自然の道理に勝てないのは昔からのことで、俺が嫌がることではないだろう」

 程なく今度は子来が病気で危篤になった。苦しげにあえぎ、今にも死にそうな子来を囲んで妻子がなき悲しんでいるところへ子犂がやってきた。子犂は「静かに、離れなさい。死ぬ人を驚かせてはならない」といって妻子を遠ざけ、病床の子来に話しかけた。
 「たいしたものだな、造物者は。今度は一体君をなににしようというのだろう。ねずみの肝か、虫の足か」。すると瀕死の子来が答えた「親の命令であれば、人は東西南北どこへでも行くじゃないか、ましてや天の命令はそれ以上のものだ。天が私を死なせようとしているのに、私がそれに従わないのはいけない。人間として五体を受けて生まれ、生を負うて苦しみ、老いを迎えて安らぎ、死を待って憩いにつく、これが人間の一生であるからには、生を善しとして認めるのと同じく、死をも善しとして認めなければならない。
 たとえば鋳物師が銅を溶かして剣を作っているとき、銅があがいて「俺はどうしても鏌鋣の剣(ばくやのけん・伝説の名剣)に成りたい」とわめいてごらん、鋳物師はきっと「けしからぬ金属だ」と思うに違いない。
 同じく人が「生まれ変わるにしても人間以外にはなりたくない」といえば、造物者は「けしからん人間だ」と腹を立てるに違いない。天地は大きな炉、造物者は鋳物師なのだ。どんな形に鋳なおされようと結構じゃないか」。子来はそのまま整然として眠り、大往生を遂げた。


http://www4.tokai.or.jp/kyuguan/rousi_syaka/17_1 …
~~~~~~

お礼日時:2014/09/29 22:34

 こんにちは。



 ◇ (No.48お礼欄) ~~~~~~~~~~~
 親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。
 そして、
 神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。


 老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この認識がただしいとしましょう。
 言いかえると 次のような認識のことです。:

 ▽ (中国仏教が老荘思想の文脈での漢訳仏典の誤読の歴史とするならば)
 http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/518090 …

 中国仏教らしい中国仏教が成立した天台智顗大師による天台宗の開宗から、華厳宗、浄土宗、禅宗を含めて、まったく仏教らしくない自称「仏教」の浄土真宗まで、東アジアの漢字文化圏の「仏教」は、すべて、本質は老荘思想で、それらはすべて「淮南子」の可能な解釈の試みである

 親鸞聖人の思想と実践は、単に、東アジア特有の「淮南子」の一つの解釈の試みにすぎないとすれば、親鸞聖人の思想と実践にも、東洋思想の一翼を担う資格が当然に与えられる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ もしそうだとしますと この老荘思想を展開した(応用した?)のは 親鸞しかいなかった。となります。日本でほかにおらず 中国でも出なかった。

 それでいいですよ。



 玉にきずは 《淮南子》の思想内容を例示し得ていないところです。



 コロンブスの卵です。いえ 本心は  タオイズムがなんのそのです。推論がとぼしいので 議論につかれました。これが 正直な心です。
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この回答へのお礼

中国語原典でよければ『淮南子』は、
http://ctext.org/huainanzi/zh
で読むことができます。

それで
俶真訓の
 天地未剖,陰陽未判
が日本書紀の
 古天地未剖、陰陽不分、
と同じだと。
陰陽ですから、中国の気の思想の影響を強く受けている。

日本書紀の創世神話は『淮南子』のパクリだと(ポリポリ)。


ですが、日本書紀の最初の話での注目は
 狀如葦牙。便化爲神。號國常立尊。
ですね。
アシカビの神と思しき神がクニノトコタチのミコトで、原初の神となっている。

お礼日時:2014/09/29 19:59

 ◇ ~~~~~~~~~~~~


 この歌は
 「大君は神だから、
 雷の上の雲(宮中のたとえ)にいるんだなぁ~」
 という天皇と御所をヨイショする歌だと思いますよ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ヨーニソ・マナシカ-ラで行きましょう。
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 ◇ (No.44補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~


 《己身弥陀》とか《己心弥陀》とか何たらかんたら言っておりまして、
 「この世界こそが密厳浄土だ」みたいなことを言っていたんじゃないかな。


  覚鑁の文章で有名なのは『密厳院発露懺悔文』ですかね。
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る

  慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《入我我入》ですよね。このとき たとえば:

 ▲ (アウグスティヌス:慈悲の問題) ~~~~~~~~
  かの全能者は 
  最初の人(アダムとエワ)からであれ 
  その後に加えられたわたしたちの意志からであれ 
  わたしたちに起こっている悪を
  その満ちあふれる恩恵によって
  滅ぼしている。
  (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳
   cf. エペソ書2:1-10))
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という議論をも聞くことが出来ます。問題はいま こういうふうにふつうは《罪・悪の消滅》をめぐって慈悲がうたわれます。ところが:

  すくわれるとか何とか そんなことはどうでもよい。

 というのが 親鸞です。これが 神ながらの道だ。と大拙は言おうとしているようです。

 仏教を縁として現われた日本的霊性の自己表現であるというわけです。仏教による影響から自由な立ち場なのです。
 神仏習合 ちゃんちゃらおかしい。という意味です。どっちを《本》とするかその両方向の本地垂迹説も 及びではありません。

 イリ歴史知性の真骨頂です。




 《けがれ》についてなら とうぜん屁の河童です。

 ですから 神ながらの道にあって ケガレは ハレのことか それともケなる生活日常に立ち戻るための或る種のハレ としてのたとえば休みを取りなさいと語っている病いなる状態か。これらを意味するのみであるはずです。
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この回答へのお礼

親鸞のこうした考え方の源流、根底にあるのは、老荘ですよ。


http://crf.flib.u-fukui.ac.jp/dspace/bitstream/1 …

http://blog.livedoor.jp/h7bb6xg3/archives/518090 …

http://ameblo.jp/sonosuji/entry-11473895103.html


そして、
神道が道教(老荘)を母胎の一つとして生まれたことに帰着します。


老荘を日本的霊性とは呼べないでしょう。

お礼日時:2014/09/29 18:08

   おほきみは神にしませば


   あまくものいかづちのうへに
   いほ(盧)らせるかも 
    (柿本人麻呂 万葉集 巻三・235番)

 国家が 二階建ての構造としていよいよいわゆる中央集権制として国家たらんとして成ろうとするときに 詠まれたものです。その後 《現人神》といった思想も出ました。
 さてこのうたは 何と言っているか?
 
 人麻呂にしてみれば 世の中の空気は 神が人となって現われているのだということになってしまっている と見たようです。けれども そうだとしてもまづ問題になるのは そう(神)でない人である市民スサノヲらも この神となって現われているアマテラス(その子孫)とは じつは・じつに じつの姉と弟であるわけです。従って 人麻呂の心としては 

  なるほど神であれば いかづち山の上に住まいを持っておられる。
  そうかな。そうかもね。

 とうたっているだけです。その後の国文学などの定説においても これを大君讃歌と言い慣わしていますが どうしてどうして。ただ現実に立脚して 現実を見ている。それを認識している。のみです。


 世の中のクウキにしたがって表現するところに おのれの批判精神をも織り込んだ。

 《神ながらの道》 これは間違った使用に対して批判を自動的に発動する言い回しとして 使ってもかまわないのです。
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この回答へのお礼

☆いほ(盧)らせるかも
◇この「かも」は、《詠嘆・感動》をあらわす終助詞の「かも」だと思います。

この歌は
「大君は神だから、
雷の上の雲(宮中のたとえ)にいるんだなぁ~」
という天皇と御所をヨイショする歌だと思いますよ。

お礼日時:2014/09/29 17:44

 こんばんは。



 それでは わたしからも《かむながらのみち》についてです。

 《みち》をつけるのは おそらく変な感じなのでしょうね。でも 知性についてそのレベルで 《ひとのみち》と言うとすれば 霊性と言いますか信仰と言いますか あるいはつまり たましひのレベルでは 《かむながらのみち》になるのでしょうね。

 どういういきさつで出来たかを一たん振り払って そういったかたちで中立の意味において用いる。ことは出来ると考えます。いま現在からの造語としてでもです。


 ▲ (万葉 一・38) やすみしし 我が大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして ・・・(以下略) (幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)
 ▲ (一・39) 山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも(幸于吉野宮之時柿本朝臣人麻呂作歌)反歌
 ☆ これらは すめらみこと(天皇)としては出ておらず 《おほきみ》ですが たしかにそういう社会の情況に成るには いったん国家の成立といった事件があったことを前提としなければなりませんから この《神ながら》を安易に何にでも用いるのは いちおう注意が必要であるかと考えます。


 けれども 次のように用いるときには 中立のかたちに(つまり 政治的な歴史の経緯から中立に)捉えてもよいのではないでしょうか?

 ▲ (十三・3253) ~~~~~~~~~~
 葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国
 しかれども 言挙げぞ我がする

  言幸く ま幸くませと
  障みなく 幸くいまさば
  荒礒波 ありても見むと
  百重波 千重波しきに
  言挙げす 我れは
  (柿本朝臣人麻呂歌集歌曰)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 神のまにまに言挙げせぬ国柄だけれど 友よ 達者で! と言うのだと。

 ▲ (十七・4004)立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ(敬和立山賦一首并二絶)




 あとは 人の道という言い回しにならって 神ながらの道と規定する。とすれば 問題ないと考えます。 
 オニ・ソワ・キ・マリ・パンス。
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この回答へのお礼

こんにちは。


「神ながら」が使われている人麻呂のこの歌はまずいんじゃないですか。
この「神ながら」の意味は、「神を本質としている」、もしくは「神として」の意味です。
神道などでいわれる「かむながら(の道)」と意味が違います。

また、まさしく人麻呂の活躍した時期に「天皇の神格化」が行われたのであって、それが反映されたものと考えられます。

穿った見方をするならば、中国の皇帝は「天の子」であるので、これにならって、あるいはその対抗意識から「日の御子」なる言葉が生まれた可能性があります。
さらに、秀吉などはみずからの出自の卑しさを隠すために「日輪の子」とすら言い放ち、自身の神格化を図ろうとしました。

そもそも、天皇が(現人)神であるならば、「神として(神ながら)」振る舞う必要がない。「神さぶ(神らしくなる)」必要すらありません。

この歌では駄目だと考えますが、如何がでしょう。

お礼日時:2014/09/29 14:48

くたびれたので、外野からの観戦のままでいますが、「神ながら」に関して、もしかして興味がおありかと思われる資料を見つけたので、お送りしておきます。



津田左右吉 「日本歴史の研究に於ける科学的態度」

 これに似たことは、孝徳紀の詔勅に見える「惟神我子応治故寄」の「惟神」の語を「神ながら」と訓み、それによって「神ながらの道」というものが建国のはじめから我が国にあったというように説かれていることである。「惟神」は一つの語ではなく、「惟」は意義のない発語であり、「神」は「我が子しらさむとことよさしき」の語の主格となっているものであるのを、いつのころからか、こういう誤った訓みかたがせられている。もっとも「惟神」の二字は「神ながら」の語にあてられたのではないが「神ながら」という語は上代に用いられていて、天皇についていう場合には、それはこの政治的君主が現神(あきつかみ)といわれていることを示すものであった。しかし「神ながらの道」ということは、どの古典にも見えていない。「神ながら」はもともと道とすべきことではないから、これは実は意義をなさぬ語である。かかる語がエド時代の末期から世に現われたので、それは多分アツタネによってはじめていい出されたものらしい。(このことについては『上代日本の社会及び思想』と『日本の神道に於ける支那思想の要素』とに詳しく考えておいた。)もともと上代人の思想になかったことであるから、その意義として説かれることは一定せず、アツタネ及びその後の神道者・国学者によって思い思いの解釈が恣に加えられて来たが、近年に至って、この語が著しく神秘化せられると共に、世界に類のない日本特有の道であり、日本人はその道を世界に実現させねばならぬ、というようにさえいわれていたらしい。神秘化せられたのは、意義のない語を深い意義のあるもののごとく宣伝しようとするために、その意義が明かに説き得られないからでもあったろう。そこにこういうことを主張した宣伝者の態度が見える。
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この回答へのお礼

No.46の回答に書いたお礼で、
奇しくも、
Tastenkastenさんを応援するような形になってしまいました(ポリポリ)。



回答、ありがとうございました。

お礼日時:2014/09/29 14:54

 こんばんは。



 わたしのこれまでの神と信仰についての説明が あやまった解釈を生むことがあるというように感じました。

 非思考の庭に《非知》なる神を受け容れるというとき もともとそこに《神の霊(ルーアハ)≒アートマン≒ブッダター》が宿るということを想定しているとも言って来ました。

 マチガイではないはずですが これだけでは あやまちへと導くことがありうると気づきました。



 まづ 次のように述べられた内容は 基本的に言って 見解を同じくするところです。それを確認したあとに 問題点をあつかいます。:

 ◇ (No.41お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  ☆☆ 仏教をきっかけとして イリ知性としての神道が みづからを現わしたと言っているようです。
  ◇《入我我入》というわけで、密教はまさしくイリ知性でございます。
  密教の行者にとって、自身の身体は、神仏のヨリシロです。
  そして何より、
  親鸞は、高野山とともに密教が盛んであった叡山で仏教を学んだという事実を忘れている。

 ▼ (kotobank :入我我入) ~~~~~~~~~
  http://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E6%88%91%E6%88 …

 大辞林 第三版の解説
 【にゅうががにゅう】
 〘仏〙 密教の観法で,如来の身・口・意の三つのはたらきが自分の中にはいりこむと同時に,自分の身・口・意のはたらきが如来の中にはいり込み,両者が一体となること。また,そのように観ずること。三平等観。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ おおよそ《自性清浄心》を内容とする梵我一如のかたちとして 信仰の普遍的な類型であると言って来たところです。




 ところが 親鸞の場合には  そういった《かたち》に落ち着くと見てもいるのですが それと同時にさらにとうとばれてしかるべき独自性があります。

 ▼ (鈴木大拙:親鸞の独自性〔前掲文章・第三段落〕) ~~~~
 どの点がそうかというに 親鸞は罪業からの解脱を説かぬ すなわち因果の繋縛からの自由を説かぬ。

 それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして 弥陀の絶対的本願力のはたらきにいっさいをまかせるというのである。そうしてここに弥陀なる絶対者と親鸞一人との関係を体認するのである。

 絶対者の大悲は 善悪是非を超越するのであるから こっちからの小さき思量 小さき善悪の行為などでは それに到達すべくもないのである。

 ただこの身の所有と考えられるあらゆるものを 捨てようとも 留保しようとも思わず 自然法爾にして大悲の光被を受けるのである。

 これが日本的霊性の上における神ながらの自覚にほかならぬのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あるいはつまり:

 ▲ (歎異抄) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。
 ☆ このあと 自分は法然のおおせに従うということと それが如来の本願に拠って支えられているゆえ 空しくはなかろうと言っていますが 《総じてもって存知せざるなり》と言い切っています。こう言い切って生きる信仰の中身です。

 つまり ブッダターが宿るとか自性清浄心なのだとか そんな《うつくしいこと 耳に聞こえのよいこと》は自分は知らないと言ってあゆむ信仰動態なのです。

 これが 言ってみれば――インド・中国そして日本のどの・誰の説にもなかったところの 言ってみれば――《日本的霊性》がやっと初めて 自己表現を取ったものではないか? と大拙は言いたいのだと思います。

 ミマキイリヒコおよびオホタタネコの《ネコ‐ヒコ》連関なる《イリ歴史知性》が 三百年ごろ それ以前の三世紀における卑弥呼や台与の鬼道ないしヨリ原始心性を卒業するようにしてともかく顔を表わしたそのあとやっと初めて こんどは自己表現を取ったのだと。千年弱の年月が経っていました。

 《世界‐内‐存在》が姿を現わしたとも言えましょうし 《実存》の思想が完成したとも言えましょう。
 アートマンをその自然本性の内にやどすといった《本質》(または本質論)に 《実存》は先立つのだと言っているはずです。その本質論がマチガイだというわけではないとしてもです。


 《密教》が これをよく表現しえたでしょうか? いろんな説や派があるでしょうから 知らないものがあるかも知れませんが。


 この点 よろしくどうぞ。

この回答への補足

密教ですと、覚鑁(興教大師)がおりますかね。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E9%91%81

ウィキペディアの最後に
 宮坂宥勝は「鎌倉仏教全てを包摂した」としている。
と書いておりますが、たぶん、そうなんでしょう。
一般の知名度は低いですが、すごい大物ですよ、覚鑁は。

鎌倉仏教の祖師たちの文章とは異なり、真言の学僧の書く文章は超難解で───思うに空海以来の伝統ではなかろうか───、専門家じゃないと、そこに何が書いてあるか、分からない(ポリポリ)。

《己身弥陀》とか《己心弥陀》とか何たらかんたら言っておりまして、
「この世界こそが密厳浄土だ」みたいなことを言っていたんじゃないかな。


覚鑁の文章で有名なのは『密厳院発露懺悔文』ですかね。
~~~~~~
行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る

慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%86%E5%8E%B3% …
~~~~~~

補足日時:2014/09/29 16:12
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この回答へのお礼

仏教でいう「如理作意(yoniso manasikara)」を、
親鸞は「弥陀仏の御誓ひ」と言っているにすぎないと考えます。

お礼日時:2014/09/29 15:07

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Q祝詞

私の家は、神道です。

祝詞をあげる時に神主さんが「おおかみたち云々~」と
何度も言っているように聞こえるのですが
その意味とはなんでしょうか?

また、素人にも簡単に分かる
祝詞を解説した本を教えていただけないでしょうか?

Aベストアンサー

家も神道です。
しかし、祖母は熱心でしたが私たちは関心がなかったので
神社にほとんどいかなかったのですが、その祖母が亡くなり
お葬式をあげて、神道って全然違うってことにあらためて
気づきました。

先日は春のお彼岸にも神社に行ってみました。
祝詞集をみつけたので、参考までに。

参考URL:http://www21.big.or.jp/~tetsuki/shinto/norito/

Q《罪》とは何か? 《赦される》とはどういうことか?

 ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだりを載せています。

 ▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
 36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。

 37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
 38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

 39: イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、

    「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
   どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」

 と思った。
 40: そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
 41: イエスはお話しになった。

    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百
   デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
 42: 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳
   消しにしてやった。
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 43: シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
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    「この人を見ないか。
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    あなたは足を洗う水もくれなかったが、
    この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
 45:  あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
    この人はわたしが入って来てから、
    わたしの足に接吻してやまなかった。
 46:  あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
    この人は足に香油を塗ってくれた。
 47:  だから、言っておく。
     この人が多くの罪を赦されたことは、
     わたしに示した愛の大きさで分かる。
     赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 48: そして、イエスは女に、

     「あなたの罪は赦された」

   と言われた。
 49: 同席の人たちは、

     「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」

   と考え始めた。
 50: イエスは女に、

     「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

   と言われた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

 2. 罪とは 何でしょう。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3

 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう?

 5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう?

 6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか?

 7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。

 8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか?
  それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか?

 10.  ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか?

 ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだりを載せています。

 ▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
 36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。

 37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
 38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足...続きを読む

Aベストアンサー

これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

  A.イエスが女の罪を赦した。

 2. 罪とは 何でしょう。

  A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% …

  A.不明。

 4. 《姦淫》とは どういうマチガイでしょう?

  A.一般的には結婚しない(するつもりのない)男女の性的交わり。邪淫。

 5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・何を赦したのでしょう?

  A.キリスト教的解釈では、罪は元々ない。なので正確には罪もないから赦すも赦さないもないんだけど、勝手に罪を犯したと思っているので、赦す、という表現にした。

 6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言もしゃべらなかったようだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいにしたりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか?

  A.預言者であるイエスさんが来る、と聞いたので、自分の罪を赦してもらおうと思い、そういう行動をしたのではないか。愛のある行動を実際にしたので、イエスは「もういいんだよ」という意味でいったのだと思う。

 7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実となった。のだろうか。

  A.大筋その通りでしょう

 8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう行為の中身がそうなのか?
  それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
  A.前出ですが、聖書では・・・アダムが深い眠りに入った・・・その後の記述で目覚めたと書かれていないので、すべて夢の中のお話。アダムが見た夢の中で起きた出来事は神様は知る芳もない。何が起ころうと夢である。だからどんなことをしてもある意味罪じゃない。(だからって何をしても良いってわけじゃない)赦すもなにもない。神は寝ているアダムの夢の中身を知らない。できるのは「ゆっくり起こすこと」だけ。

  
 9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・その主観の内ですべてが起こっているかに見える。すべては 自作自演の物語なのであろうか。そう見てよいのか?

  A.そういう見方もある。

 10.  ひとは ほかの人とカカワリを持っているのか いないのか。マジワリなどは ないのか? この罪にしろすべては 主観の内なる自己完結することに終わる夢物語であるのか?

  A.そういう見方もある。非常に的を突いた良いクエスチヨン。

これでひとつの完結した話だと思われます。
 さて 問いです。

 1. ここで何が起こったのでしょう?

  A.イエスが女の罪を赦した。

 2. 罪とは 何でしょう。

  A.人間の思考の産物。決まりを造れば従えない者が出る。

 3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
   ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のことだ解かれています。
 ⇒○ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE% …

  A.不明。

 4. 《姦淫》とは ...続きを読む

Q上棟式の祝詞

来週、兄の上棟式があります。
父が棟梁代わりとして祝詞を読み上げる予定でいますが、その祝詞の内容がわかりません。
祝詞がわかる方、もしくは祝詞が書いているサイトを教えて下さい。

追伸・うちと兄の嫁さんの父はともに建築関係者です。
(建具屋、大工)

Aベストアンサー

地鎮(ぢちん)方除(ほうよけ)祝詞(のりと)でいいのかな?

参考URL:http://www.h3.dion.ne.jp/~tsutaya/newpage13.htm

Q《第二の死》と呼ばれる《顔無し》状態はあるか?

1. 《第二の死》とは?――《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

2. 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有り
として 死ぬものである。死が死ぬものである。 

3. わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして死である。
これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

4. このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在に
とって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還ると
き 死なしめられる。

5. つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。
《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。





6. あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 

7. それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空
間が 相対的な経験存在であるそのままのかたちを映して 実際に《果て》
によって限られて来るからである。

8. 物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によっ
てわが存在の歴史として《果て》が限られることは 経験事実じょう 実際
の死によって限られることだからである。

9. あやまちは 心を失くし《われ無し》となる死である。ただし われ
に還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。




10. われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入
りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生き
る。巡礼の旅路である。

11. ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?





12. かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。

13. 《われ有り》の状態に復帰することがなくなるときである。
心にさからう《われ無し》の状態が・つまり第一の死が 固まってしまうと
きである。

14. そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
15. 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。





 
16. 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。
のではないか? 

17. ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認し
たとき。

18. ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸
入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。

19. ほんとうにそうか?

20. それだけで 第二の死が起こるか?

21. いやそもそも・果たして 第二の死は あるのか?


22. ただし のっぺらぼうの顔無しの状態にある文体が散見されなくも
ないのではないでしょうか。

23. だとしたら 死者はすみやかにほうむらねばなりません。死臭がた
だよいます。




☆ ふるってご見解をお示しください。

1. 《第二の死》とは?――《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

2. 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有り
として 死ぬものである。死が死ぬものである。 

3. わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして死である。
これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

4. このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在に
とって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還ると
き 死なしめられる。

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Aベストアンサー

善の欠如が悪

悪は存在しない

悪魔的絶望

精神的無

神からの恩寵

救済



こうして考えると
仮現説のような気がするので、
問題があるような気がします。

Q祝詞について質問です。 私は、日頃神棚に祝詞を奏上し参拝しています。 そして井戸にも神様が奉られて

祝詞について質問です。
私は、日頃神棚に祝詞を奏上し参拝しています。

そして井戸にも神様が奉られており、また、邸内社もお祀りしています。

ですが、神様の名前が分かずどうすれば良いか分からないのでご教授ください。

祝詞

掛介麻久母畏伎○○大神

補足
○○に入るのは神様のお名前だが神様のお名前が不明

名字を入れることも考えている

その場合

掛介麻久母畏伎○○家大神

Aベストアンサー

普通はここに神の名が入ります。神の名は「天照大神」から始まって「八百万(やおよろず)の」神の名があります。古事記以後の史書に登場した神(人物が神となったものもあります)の名が記された木札(お札)とご神体が入っているのですが、長い間に失われてしまうこともあります。「○○家の神」のような言い方は聞いたことがありません。

Q《人の色》と言い《人それぞれの色》と言うのなら 《言葉そのものに色は むしろ無い》。

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける。

――という一つのまとめが得られるはずだ。





《ことば》は 包丁や野球のバットと同じようにその使いようによって 凶器
に成り得るが 初めから《剣》であったり《武器》であったりするのではない。
むしろ 無色の状態において持たれ 大いに――人それぞれにおいて色づけさ
れつつ――用いられて行く。

ということではないか。




展開をこの趣旨説明では広げないが 言葉について言葉は諸刃の剣だというの
は 精確ではない。ということ。

そして それが人を斬りつけると見られそう言われている《言動におけるクセ
としての人の色》は だったら 互いに自由にその思想の中身を取り上げ 万
機公論に決すべしというほどに批判しあって行けばよい。

そのつとめは 哲学よりほかにない。はずでは? ほかの分野では ゆるキャ
ラであってよい。

したがって 言葉を 凶器だと言いあたかも魔女狩りの対象とするのは じん
るいの痴呆化を策略するアクマであり 権力の犬である。いかに?

ひとには その考えや振る舞いに独自のクセ(エートス)があり その意味で
あたかもみづからの《顔》に《色》が付いて回っている。

とするならば その《人の色》は 《人それぞれの色》ということであり
《人によって 色は違う》ことになる。

人が思惟や行動につける《色》は 一般にその言動の道具としての《言葉》に
つけられる。と考えられる。

と言うのであれば 人がそれを用いるときにおのれの色をつけるという《言葉》
には むしろもともと色は無い。

色の無い言葉に 人がそれぞれの...続きを読む

Aベストアンサー

「色の無い言葉に 人がそれぞれのクセとして色をつける」
→そうだと思います。
つまり、言葉は人間の便利で優れたツールであるが、それにも増して人間そのものがコミュニケーションの原点でしょう。

Q伊勢内宮神前祝詞について教えてください

ネットで伊勢神宮関連を探すと、伊勢内宮神前祝詞と言うのが見つかります。
伊勢内宮を参拝の折に唱えるらしいですが、伊勢神宮のサイトとかでは、見つかりません。伊勢神宮の公式な物ではないのでしょうか。どのようないわれの祝詞なのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

祝詞というのは神職が神に奉る文言を言います。お経と違って、本来私達が唱えるものではありません。
私達が拝殿前で唱える祝詞は基本的に神拝詞だけです。

古来宮中では(中国も同じですけれど)私達が直接帝に話しかけることなど出来ませんでしたし、帝のお言葉も直接聞こえても係りの貴族を通して伺わなければなりませんでした。
この形式に倣ったのが参拝であり、拝殿に上がり、神職の手を通して私たちの思いを神に奏上する作法があります。祝詞にも祝詞を奏上するための作法があります。
これが寺の読経と違うところです。

祝詞は本来そのつど神職が考える物ですが、先人の優れた祝詞はそのまま定着して神職が奏上します。
伊勢内宮前祝詞、外宮前祝詞もそういった定着した祝詞です。
いつの作かは手元に資料がありませんのでわかりません。

大雑把に言えばご挨拶の言葉で、褒め称え、恵みを感謝し、神代の繁栄を願うものです。

参考文献「神道概説」他。

Q《第二の死》と呼ばれる《顔無し》状態はあるか?

 《第二の死》とは?

 《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。 

 わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還るとき 死なしめられる。

 つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。
 《第二の死》とは この第一の死が死ななくなることである。





 あやまちをなぜ《第一の死》と言うか? 

 それは わが心にさからうあやまちの一瞬に わが存在としての時空間が 相対的な経験存在であるそのままのかたちを映して 実際に《果て》によって限られて来るからである。

 物ごころのつく前のわが広大な宇宙が 時間を見出しこの時間によってわが存在の歴史として《果て》が限られることは 実際の死によって限られることだからである。

 あやまちは 心を失くし《われ無し》となる死である。ただし われに還るとき われ有りとして この死は死ぬ。ゆえに 第一の死と言う。




 われわれは 人生において 第一の死に突っ込むようにして落ち入りそこから這い上がり再生するという死と生の循環のごとき繰り返しを生きる。巡礼の旅路である。

 ところが この第一の死が死ななくなると言う。如何にか?





 かんたんである。われに還ることがなくなるときである。
 あやまちに気づいても それを認めなくなるときである。

 《われ有り》の状態に復帰することがなくなるときである。
 心にさからう《われ無し》の状態が・つまり第一の死が 固まってしまうときである。

 そのときには ひとは第一の死から再生しなくなる。
 
 第一の死が死なない。第一の死が 固定する。という第二の死。





 
 基本的に言って それは 心のたかぶりによって起こると思われる。
 のではないか? 

 ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。
 ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。

 ほんとうにそうか?

 それだけで 第二の死が起こるか?

 いやそもそも・果たして 第二の死は あるのか?




 みなさんのご見解についてその方向性やそもそも中身について 予測がつきません。
 この主題について いろんな角度からいろんな見方が得られればと思います。
 ふるってご見解をお示しください。

 《第二の死》とは?

 《死が死ななくなった状態》を言うらしい。

 死は われあやまつならそのあやまちに気づきわれに還り われ有りとして 死ぬものである。 

 わが心に背きわれを離れあやまてるわれは われ無しとして 死である。
 これがわれに還れば われ有りとして 死が死ぬ。

 このあやまちとしての死は 人間の経験的・相対的で限りある存在にとって なおまだ相対的にして変わり得る。その死が われがわれに還るとき 死なしめられる。

 つまり 《第一の死》は 死ぬことが出来る。
...続きを読む

Aベストアンサー

こんばんは。

人生哲学でしょうか?
>ひとつに みづからの考えに無謬性の神話を醸し出しこれを自認したとき。
>ひとつに みづからの思想を外へ発信はするが 外からの受信も輸入もしないという蛸壺哲学に落ち入ったとき。
人は 自己の思想の正しさは認識できないし 他人と対話しないことなどあり得ないので 自殺しなければ 誰でも復活するでしょうね。^^

山登りと同じようなもので 険しい山程一瞬の喜びは大きいけれど 下山出来ない時が死と云うものらしいですが。幸せだとか不幸だとか人間の判断が鈍った時(安心した時)神のお迎えはくるようですよ。
永遠に苦しみ(何事も自分の思うようにならないからしなければいけないことがたくさんある)こそが生きる糧の人は 神のお迎えは それはそれは遅いような気がします。^^

まぁ 「人を生(活)かしたければ無理難題を問い続けろ」=「貴方は必要とされているよ」と云うことかもしれません。
ブラジュロンヌさんのおっしゃっている対話による記憶かな?(笑)

Q「祝詞大成」の販売書店について

「祝詞大成」という本の販売している書店を探しています。
内容は神職の祝詞集であり、著者は「菟田俊彦」、出版社は「以学堂」、定価「50,000円」です。
近所の書店を通し購入しようとしましたが、「以学堂」との取引がないとのことで購入することができませんでした。
新書でも古書でも構いません。どなたか、ご存じの方がおられましたら教えてください。

Aベストアンサー

『祝詞大成』は、国立国会図書館の蔵書で調べると、1975年刊行の本です。30年も前の本なので、古本でないものを購入することは、たぶん不可能だと思います。
大手取次「日販」のサイト「本やタウン」で調べたところ、出版社である「以学堂」とは取引がありそうです。ただ、「以学堂」で検索をかけたところ、出てきたのは以下の2冊だけでしたし、現在、注文不可のようです。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?author=%93%70%93%63%8F%72%95%46

その他、goo検索などで「以学堂」を検索してみましたがホームページなどはないようですし、もしかしたら「以学堂」という出版社はもう存在しないのかも知れません(まだあったらすみません(>_<))。

古本の場合ですが、下記のサイトで検索しましたら、1点ヒットしました。そのほかの古本サイトでも検索すれば出てくるかも知れません。

http://www.kosho.or.jp/servlet/bookselect.Kihon

Q《罪》とは何なのか? 《赦される》とはいったい どういうことか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分
の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。

39: イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、

    「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、
    どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」

  と思った。
40: そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」
と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
41: イエスはお話しになった。

    「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百
    デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。
42:   二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳
    消しにしてやった。
     二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

43: シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。
   イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
44: そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。

    「この人を見ないか。
    わたしがあなたの家に入ったとき、
    あなたは足を洗う水もくれなかったが、
    この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。
45:  あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、
    この人はわたしが入って来てから、
    わたしの足に接吻してやまなかった。
46:  あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、
    この人は足に香油を塗ってくれた。
47:  だから、言っておく。
     この人が多くの罪を赦されたことは、
     わたしに示した愛の大きさで分かる。
     赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

48: そして、イエスは女に、

     「あなたの罪は赦された」

   と言われた。
49: 同席の人たちは、

     「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」

   と考え始めた。
50: イエスは女に、

     「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」

   と言われた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

これでひとつの完結した話だと思われます。
さて 問いです。

1. ここで何が起こったのでしょう?

2. 罪とは 何でしょう。

3. 具体的にどんな罪なのでしょう。
ヰキぺによると 《性的不品行にむすびつけられ・・・姦通の女・姦淫の女》のこと
だ解かれています。
△ ヰキぺ:罪の女 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BD%AA%E3%81%AE%E5%A5%B3

4. 《姦淫》とは どういうマチガヒでしょう?

5. もし罪だとしてそれが赦されたとしますと あらためて だれが・どのように・
何を赦したのでしょう?

6. ひょっとしてここでは この《罪深い女》は イエスに向き合い話こそひと言も
しゃべらなかったようなのだが 旅人をもてなすようにその足を香油を塗ってきれいに
したりした。そのおこないをつうじて 心のわだかまりは 解けていくことが出来た。
――という経過が 起こったことのすべてなのだろうか? と ふと思う。

7. あるいはつまり その女は すでにその自己のへそ曲がり具合いとの――おのが
心における――和解をひととおり得ていて そのことが イエスとの出会いで 現実と
なった。のだろうか。

8. そうだとしても けれども 罪とは何か? 何に対して・誰に対して どういう
行為の中身がそうなのか?
それが赦されるとは どういうことか? 誰によって・どのように?
  
9. 何が問題なのか? つまり考えるに どうもすべては ひとりの人間のその心・
その主観の内ですべてが起こっているようにも見える。すべては 自作自演の物語なの
であろうかとさえ。知らず知らずのうちの自作自演・・・そう見てよいのか?

10. ひとは ほかの人とカカハリを持っているのか いないのか。マジハリなどは 
ないのか? この罪にしろ何にしろすべては 主観の内にあってあたかも自己完結する
ことに終わる夢物語であるのか?

ルカによる福音は 《罪深い女を赦す 》という表題をつけられるに到ったひとくだり
の話を載せています。

▼ (ルカ福音7:36-50) ~~~~~~~~~~~~
36: さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエ
スはその家に入って食事の席に着かれた。

37: この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事
の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、
38: 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらそ...続きを読む

Aベストアンサー

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦されたのは、自分の従うべき道=キリストを発見したからであり、あつく香油を塗りたくったのもキリストという存在がこの世にあることに感謝したのである。ただしこの女も完全に罪を許されたわけではない。自己が人間でありかぎり罪深いものであり、金貸しに多大な借金を作っていることに変わりないのである。
 この場合、自己への無知=道を知らぬこと=罪であると解釈するのがもっとも適当だろう。
 ただし、この女は聡明である。罪を多く背負うというのは、つまりは自己への無知をよりつよく意識しているということだからである。この世には、肉欲だけを心得て暴利をむさぼる豚のようなものも多い。彼らは罪を意識しない。自分がなぜ生まれてきたのか考えもしない。ゆえに、罪を感じることはない。
 一方、キリストという名の道を見つけて、自己の借金を帳消しにした(された)女は、自己の借財を事前に理解していたと解釈することができる。これはえらいことだ。あなたは他者とのかかわりを云々されているが、それは二の次である。自己だけで道を発見できればそれでもいい、他者が必要であるのならばそれでもいい、どちらにせよ、信仰という生活を見つけだし、おのれの生きる道を見つけ出したこの女は、偉大である。ゆえに赦されているのである。ただ赦されているという安心感は慢心を呼び起こすのだが。無限否定。

人間とは「なぜ生まれてきたのか」分からないまま現世に放りだされた孤児である。このような苦しげな状況にあるのはきっと自分のせいだ、きっとそうに違いないと思った結果、こころに芽を吹いたのがつまり罪である。
 ゆえに罪とは「道=生きてゆく理由、生まれた理由」を知らないことである。
 道を知らないかぎりは罪は許されることはない。ただに自己だけを恃みにしたところで、おのれへの不信感は生涯消えることはなかろう。人間キリストも、人間である以上は罪を背負っていたはずである。
 いやしき女が赦...続きを読む


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