ビデオ「名将たちの戦場13マッカーサー対山下大将」の中で次のことがいわれていました。

1.米軍がマニラに迫ったとき、山下奉文は部下を守り、かつマニラの大規模な破壊を防ぐため、機を見てすぐに撤退をするように命じた。しかし守備隊司令官は命にそむいて、2万名を率いてマニラに踏みとどまった。
2.その結果マニラは戦場となり、10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。
3.米軍は当初重要な建物の砲弾攻撃を避けていたが、立てこもる日本兵のためそれもかなわなくなり、最終的にはほとんどの建物が破壊された。

 上官の命令にそむくことは重大な軍規違反となるのに、何故あえてそむいたのでしょうか?
 日本兵がマニラ市民を虐待したの理由はなにでしょうか?市民がゲリラとなって立ち向かってきたのでしょうか。
 そもそもマニラ市民はどうして疎開しなかったのでしょう?戦いは1ケ月続いたので時間はあったはず。
 映像では建物を破壊しているのは米軍のように見えます。米軍によって殺害された市民も多かったのではないでしょうか?
 太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はありますか?

 

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A 回答 (5件)

それぞれの質問についてお答えします。



1.守備隊司令官は命にそむいたのは何故か
 
 人間だからです、質問者さんは、納得できなくても上司の命令ならば、絶対に従いますか?それに、この時期は戦争末期で軍隊の規律は、随分と乱れていました。守備隊司令官は撤退する事を潔しとしなかったのでしょう。

2.10万人を超す市民が犠牲となった。そのほとんどは日本兵の虐待によるものだった。

これは、正直、言ってアメリカ側の視点ですよね。何か問題が起きたときは、責任者(悪者)を決めなければなりません。当時の日本軍は補給も途絶え米軍とまともな戦闘ができる状態では、ありませんでした。日本軍は自分の命を守るのに精一杯で、とても市民の防衛にまで手が回らないというのが実情でした。実際は戦闘中に巻き添えを受けて被害を受けたというのが本当の事です。

3.最終的にはほとんどの建物が破壊された。

市街戦では当たり前の事です。現代のイラク戦争でも多くの建物が破壊されて、1年以上経った今でも、電気、水道が使えず信号も点かないという地域が多数あります。イラク人のせいですか?微妙ですよね

当時のマニラ(フィリピン)は日本が占領する前まではアメリカが統治していました。当時のアメリカは裕福で、厳しいのですが、自由でした。(お金持ちはお金持ちの事しか考えず、普通の人がお金持ちになるのは、今よりずっと奇跡でした。)物がある事が幸せとは限りませんが、物とお金を使い、フィリピンをそれまでとは、まったく違う国に変えてしまっていました。それをフィリピンの人は素直に受け入れて喜んでいました。
ところがいきなり戦争が始まり日本軍が乗り込んできました。貧乏国の日本はフィリピンに対して行ったのは、学校教育を日本式にして八紘一宇の精神を教え、日本風の神社を作り、戦争に必要な資源を得るため、本来フィリピンの風土に合わない作物を栽培させました。そうです、貧乏な日本は、物資は何も与えられませんでした。そのくせ徴用といって食料等を現地の人から、むりやり取り上げました。
この事が、アメリカ=豊かな生活、日本=カツアゲというイメージを与える事になりました。どうして疎開をしなかったのか当時の日本の占領軍はフィリピンに対する知識を殆ど持っていませんでした。(アメリカと戦争する事すらまともに考えては居ませんでした。日本の敵は中国とソ連だったのです。)ですのでまともな統治はできずに、恐らく疎開の支持も出来なかったのだと思います。

太平洋戦争、日中戦争でマニラに匹敵するような激しい市街戦が行われた場所はスターリングラードヤレニングラードにくらべれば遥かに規模は小さいのですが、中国の南京、上海、沖縄などでしょうか
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この回答へのお礼

詳細なご回答ありがとうございます。
1の件。
 軍隊では「上司の命令=朕の命令」で絶対服従が常識と思っていました。すでに敗戦を意識して死に場所を探していたのでしょうか。
2、3の件。
 虐殺にせよ、巻き添えにせよ、犠牲者10万人は多すぎますね。いずれにせよ「戦争中のこと」で片付けられてしまうのは悲しいことです。
 日本本土の都市であれば、このような市街戦は避けたと思われます。
 下記URLでは、日本兵が虐殺したとありました。
http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/phillipin9.html

 フィリピンはキリスト教だったのでアメリカの統治は比較的うまくいっていたようです。キリスト教から神道へ変わるのは難しそうです。ちなみに戦乱ですべての教会が破壊されたそうです。

お礼日時:2004/06/01 13:37

再びです。

質問者さんはかなり詳しい知識をお持ちのようですので補足をさせて頂きます。1941年12月22日に日本軍がフィリピンに上陸した時点でマッカーサーは、コレヒドール島の要塞にたてこもります。米軍は、市街戦を避けたのではなく要塞があった島に逃げたというのが正しい認識でしょう。事実1942年2月23日にルーズベルト大統領からミンダナオ島を経由してオーストラリアのメルボルンに向かうようにとの指示がきた時点でも要塞は持ちこたえていました。3月17日メルボルンに向かう途中のアデレードであの有名な「私は必ず帰る」演説をおこなったのはご存知のとおりです。

時は過ぎて1944年9月中旬フィリピンに米軍が上陸してくる事が確実になった時点で第14軍を第14方面軍に格上げして満州にいたマレーの英雄、山下大将を指揮官にします。ですがマニラに着任したのは、10月6日、米軍がレイテ島に上陸する迄、わずか12日の時間しかありませんでした。満足に考慮する時間もない上に、本来、フィリピン防衛の拠点はルソン島だったのが台湾沖航空戦の幻の戦果のせいでレイテ島に主力の第一師団、第二十六師団、独立混成師団を回す事になってしまいました。しかしレイテ沖海戦の結果、制空権、制海権を失ったしまいました。武器も食料も無く別の島に渡り戦闘をするという事の、結果は悲惨の一語でした。残された戦力でのまともに立ち向かっても勝機は無いと判断した。山下大将はマニラを”無防備都市”にするためバギオに司令部を移します。ですが、海軍部隊は居残ってマニラ防衛戦を行い、マニラは廃墟。約2万名の日本軍は玉砕。米軍の無差別砲爆撃で多くのマニラ市民が死亡しました。マッカーサーはこのマニラが廃墟になりマニラ市民が多数死亡したことを取り上げ、日本海軍部隊の責任を山下大将にかぶせました。更には末端の日本兵の残虐行為の責任もかぶせたのですが、長期持久戦を狙って山の中にいる山下大将の指示でなかった事は、明白です。その事よりこの様な絶望的な状態になっても戦い続け、終戦までフィリピン全土占領を許さなかった。事実に尊敬の念すら、おぼえます。
マッカーサーの山下大将に対する憎悪の念は激烈で米国の官選弁護人も米・英・豪の特派員も反対の意思を表明するほどの因縁のつけ方でした。結局マッカーサーの”復讐裁判”で昭和26年2月23日、午前3時2分、軍人としてではなく単なる”犯罪者”として捕虜の作業服のまま絞首刑に処されました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
日本軍は準備不足だったのですね。
「台湾沖航空戦の幻の戦果」はつい先日NHKビデオでみて、開いた口がふさがりませんでした。
それがマニラ戦にまで影響していたのですね。
マニラに居残った海軍部隊は最初から玉砕覚悟だったのかもしれません。
それとも勝機はあると信じて最後まで戦ったのでしょうか。
日本軍人はせっかちなので長期戦は苦手だったと聞きます。(すぐ突撃する傾向にある)
唯一硫黄島の戦いのときだけ最初から長期戦という作戦で戦ったそうです。
武士道から受け継いだ美学なのでしょうね。
いずれにせよ、悲惨なことです。

お礼日時:2004/06/08 00:12

1.大きな都市では市民の犠牲が多くなるため撤兵する暗黙の了解があり、アメリカはマニラを放棄しました。

山下はそれを踏襲しようとしたことと、山中でのゲリラ戦で戦争の長期化を図ったのです。でも日本の陸軍が許可するはずはありませんので結果として守備隊は日本からの指令に従い、山下は山へ退避しました。
退避時機が遅くなり、食料兵器等も少ないため兵隊は大変な苦労をし餓死、病死しました。
(大陸から1個師団(と記憶していますが旅団かも?)の兵隊だけマニラへ上陸した直後輸送船が爆撃され、荷物が全て失われた軍もあり、兵器も不足状態でした)
沖縄戦でもアメリカ軍上陸前は徹底抗戦のため反撃しないことに本土と守備隊とで合意していましたが、そのうち本土から反撃しろと指令され、多くのムダな死者、弾薬の浪費で抗戦力が減少しました。
レイテ島の戦いで反撃は難しいことを山下は知っていたのに日本の司令部では戦場を見ず、失敗を反省しないため徹底抗戦の指示を出したのです。
どちらかというと山下が軍規違反です。
しかし後から俺も続くと言って多くの特攻隊を出撃させた富永恭次は危なくなると台湾へ脱出し(明確な敵前逃亡)、軍法裁判にはかけられましたが東郷にかわいがられていたため数ヶ月の謹慎処分で軍務に復帰しています。
軍規違反も下には厳しく、上には甘いです。
(特に海軍の乙号事件は典型的です)

2,3.市民の犠牲は日本の守備隊が抗戦したために市民が巻き添えとなったこともあるでしょう。建物も破壊されました。日本軍の虐殺で10万人も犠牲が出たかどうかわかりませんが、原因は市街戦に持ち込んだ日本軍です。
日本軍は日本国民も避難できない状態で、マニラ市民を避難させることはしません。アメリカの統治時代のほうがよかったことも原因でゲリラ活動も多かったです。アメリカ軍も無差別に爆撃、砲撃したので市民の犠牲も多かったのではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
山下大将の方が軍規違反とは意外でした。
日本軍にしろアメリカ軍にしろ、他国の土地なので無茶な作戦をしたのでしょう。

お礼日時:2004/06/01 21:55

正確に調べたことはないので「自信なし」ですが、


日本側の守備隊は、岩淵三次「海軍」少将の指揮下にありました。
帝国陸海軍の間の指揮命令系統の複雑さが影響した可能性もあるかと思います。

また、岩淵少将は、これ以前に戦艦「霧島」艦長としてガダルカナルで米海軍と戦い、乗艦を撃沈されるも救助され、生還した経歴があります。
軍艦の艦長としては、艦と運命をともにしなかったことはむしろ不名誉なこととされていた時代ですから、
「今度は最後まで戦って死んでやる」と思ったとしても不思議ではありません。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
陸軍と海軍の間で指揮命令が乱れていたのですね。
死に際はきれいにゆきたいものです。
「岩淵三次」で検索してみると次のサイトがありました。
http://www.jiyuu-shikan.org/goiken/00/12/gmain.h …
 ここによれば、次の3要素が市民の犠牲を大きくしたそうです。
1.日本軍は軍需資材の搬出を容易にするため、マニラ市民が脱出しないよう指導していた。
2.フィリピン人ゲリラとの間に、日本軍の残留資材の争奪戦があった。
2.後半戦から始まったアメリカ軍の無差別砲撃。

お礼日時:2004/06/01 15:51

比島戦は、日本陸軍と米軍の本格的な部隊同士の戦闘が行われました。

(それまでの各島での戦闘は比較的小規模の部隊による戦闘でした)近衛師団まで投入している事からも、陸軍が本気だった事が伺えます。が!、大規模な部隊を投入したにもかかわらず、十分な食料を用意しなかったので現地で強制的に食料を調達しました、その為、比島全土で極端な食料不足になり、全島民の2/3が餓死する凄惨で悲惨な状況を引き起こしてしまいました。この様な状況下は、時間が経つにつれ悪くなり、各地で食料を調達する為に虐殺略奪行為が横行してしまい、兵を残して台湾に逃げ帰ってしまった将官が出て後で処罰されたりと、むちゃくちゃな状態になってしまいました。大規模な部隊は、撤退しようにも、撤退できず山間部に入って戦おうにも食料は無く、ばらばらに行動すれば、恨みに燃える現地ゲリラになぶり殺しにされる、結局、都市部に固まって戦うしか無かったのです、しかしながら、都市部で戦って死ねたのはましかもしれません、山間部に投入された部隊の末路はそれはそれは悲惨な最期でしたから・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>全島民の2/3が餓死する凄惨で悲惨な状況

 豊かな南の島で餓死とは思い至りませんでした。虐殺略奪行為も行われていたのですね。最終的に日本軍ほぼ全滅という悲劇に終わったわけですが、もう少し市民に迷惑をかけない戦闘方法がなかったのかと思います。

お礼日時:2004/06/01 13:15

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Q太平洋戦争末期にマニラのサント・トマスで民間人を人質にとって米軍の包囲を脱出した日本兵士は偉かった?

1945年2月に始まるフィリピンのマニラ防衛戦で、米軍に包囲された日本軍がサント・トマスにある連合軍側・民間人収容者、約200人を人質にとって立てこもり、米軍と交渉して、日本軍兵士47人が人質解放とひきかえにマニラ郊外に脱出したという話を読みました。
最初は、なんと卑怯なことをして、と思ったのです。

しかし、こうも考えたのです。
日本軍兵士は国家公務員だと思います。 
つまり税金で行動しているわけです。
ということは、米軍に包囲されたからといって、すぐさま降伏したんじゃ税金ドロボーになってしまうと思うんです。 
もっと粘り強く戦ってほしい。
さらに、サント・トマスにいた収容者は連合軍側の民間人であり、いわば敵。
それを人質にとるのは、全く無関係な人を人質にするのとは訳がちがう。
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質問は↓の件のことでしょうか。
(考察の結果としての回答を求めるなら、質問の根拠となる資料は出していただきたいものですね)

セント・トーマス・ドミニカ大学に米英民間人三千五百二十一人が抑留されていた。
日本軍の林中佐は、その中の二百二十一人を人質とした形で、「所長以下の全員(六十五名)を武装のまま完全に振武主陣地に送り届ける条件下の捕虜移譲」を折衝して了解され、五日朝米軍の護衛の下に出発して小林兵団右地区に入った。

質問文では
【日本軍がサント・トマスにある連合軍側・民間人収容者、約200人を人質にとって立てこもり】
と仰っていますが、これはマニラにある「聖トマス大学」であり、「サント・トマス」という土地はないと思います。(それから人に対して「~にある」という表現はしません)



質問の主旨は↓でしょうか。(「サント・トマスの件への評価」ではない。)

>サント・トマスの件を外国人に突っ込まれたときに、日本人として、どう反論すればいいのでしょうか?

どう突っ込まれたのかが不明なので回答不能ですが、
【「数万人のフィリピン人」を巻き添えにするのは何とも思わないくせに、白人は200人程度で騒ぐんだな】
とか言うかもしれません。

【だって、降伏して国際法通りの待遇してくれるとは限らねーじゃん。そもそも↓の状況下で抑留者を解放すれば逃がしてくれるとでも?】とかも言うかもしれません。
https://www.youtube.com/watch?v=4nxOqeW4nCo

とかも言うかもしれません。

マニラでの戦闘についても、市民への被害を無視した連合国の無差別な攻撃を、日本軍の行為にすり替えています。

【ひとめでわかるGHQの日本人洗脳計画の真実】
https://books.google.co.jp/books?id=LbA3CgAAQBAJ&pg=RA1-PA55&lpg=RA1-PA55&dq=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D&source=bl&ots=KMkoHwuhNW&sig=xe_jSCRkw6xcuiF6u__mtrWVLLc&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjot-rGsvDLAhVF6KYKHei0ABkQ6AEIPzAG#v=onepage&q=%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%80%80%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D&f=false


↑で 「サント・トマス 日本軍」 で検索

(日本軍の罪にすり替える
「朝日新聞」の記者は、日本軍が市街戦でマニラを破壊し尽くしたと「悪い夢」を見ているようですが、それは朝日新聞が台本作成に加担した「眞相箱」で次のように放送した以降の影響力が大きいからなのです。)

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日本軍の林中佐は、その中の二百二十一人を人質とした形で、「所長以下の全員(六十五名)を武装のまま完全に振武主陣地に送り届ける条件下の捕虜移譲」を折衝して了解され、五日朝米軍の護衛の下に出発して小林兵団右地区に入った。

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Q米軍が日本兵に玉砕を強いたことはあったのですか?

書籍”日本人が知らない最先端の「世界史」”によると、
ーー
米軍が日本兵に投降を許さず「玉砕」しいたことにまで言及している。
ーー
とあります。

そういうことは本当にあったのでしょうか?
証拠立てる資料があれば助かります。

Aベストアンサー

>書籍”日本人が知らない最先端の「世界史」”によると、
>米軍が日本兵に投降を許さず「玉砕」しいたことにまで言及している。
>とあります。

文章がおかしい。
その【日本人が知らない最先端の「世界史」】が「~にまで言及している。」と語っているのは、他のどの本なんでしょうか。


このような質問は、過去に何度も出ています。
回答には、軍人訓を(故意に?)歪曲して語っているものがよくありました。
しかし、日本政府も軍司令部も虜になることを禁止してはいません。
(これは質問の主旨「アメリカが玉砕を強いたのか?」から外れるので、説明はしません。)



>そういうことは本当にあったのでしょうか?

何を以て「強いた」とするのかは不明ですが、玉砕した方がより苦しまずに死ねたらしいです。
https://www.youtube.com/watch?v=4nxOqeW4nCo
(4:55 火から逃れ出ようとする老人や子供を、周囲の敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中に突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばしては火の中に投げ込んでいる。
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【「アンブロークン」どころではない、言語に絶する連合軍による日本人戦犯への虐待】(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=WWYTvmrcCNI
(3:00 またある海軍中佐は生爪をペンチで剥がされ、別の海軍中尉は草刈りの際に首に縄をかけられて引きづり回された。
8:40 この種の虐待は長らく続き、英国兵らは、「訓練と称して素足のままガラスの破片、ブリキの破片を捨てた穴の中を行進せしめ足を切るのを眺めては快哉を叫んでいた」のである。


【米軍は親切だったのか ~ 沖縄戦】
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110616/1308234135
《 投降した人は戦闘員と非戦闘員にわけられ、それぞれの捕虜収容所に送られました。収容所は一定地域に有刺鉄線を張っただけで、テントやバラックを建て、砂の地面に寝る生活でした。そこでは伝染病が蔓延し、昭和21年(1946年)にはマラリア患者が17万人にものぼり、死者は毎年1,000人を超え、本島北部の住民は戦死者よりもマラリアによる死者のほうが多いくらいでした。食事も軍用携帯食糧で、収容所によっては食糧飢饉になって草の根やネズミまで食べつくし、栄養失調で次々死んでいった収容所もあります。》


【アーロン収容所】(中公文庫 会田雄次)
《「英軍はひどいことをします。私たちは、イワラジ河のずっと河下の方に一時いました。その中州に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰麺(たいめん)国境でイギリス人捕虜を虐待して多数を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうか知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。

狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。

私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。ああ、あなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこは毛ガニがたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。

あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。

あの中州は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。

そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。

みんな生のままたべました。

英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも食べては危険なことは知っていたでしょう。

でも食べないではいられなかったのです。

そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中へうつぶして死ぬ。あの例の死に方です。

看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。

全部死んだのを見とどけて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを補食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」と上司に報告したそうです。》



一方で、日本の国際法の遵守や捕虜の扱いは非常に厳格で人道的なものでした。
日本人が戦陣訓のように 捕虜=恥 と考えていたとしたら、外国人の捕虜をそのように扱うとは思えません。

【「アンブロークン」のイメージとかけ離れた捕虜の食糧事情】(動画)
https://www.youtube.com/watch?v=pDUzoFz8-Ik
(8:50 僕達は最近悪い食料は貰っていないし、なかなか良い。今の所はムール貝で忙しい。
9:20 実際、『アンブロークン』の中には、日本の捕虜収容所で終戦時に撮影された写真が載せられているが、捕虜たちは、とても飢餓状態にあるようには見えない。)



シナ兵に捕まった場合でも同様だったようです。

【広辞苑の嘘】(谷沢永一 渡部昇一 光文社)
(シナで捕虜になった日本兵は徹底して残虐な殺され方をしたからです。
それは局部を抜かれたり、全身切り刻まれるなど惨憺たる殺され方をする場合が多かった。)

【通州事件の真実 01 Sさんの体験談】(動画 中国人による日本人の虐殺)
https://www.youtube.com/watch?v=U7vJtEzXo_g

>書籍”日本人が知らない最先端の「世界史」”によると、
>米軍が日本兵に投降を許さず「玉砕」しいたことにまで言及している。
>とあります。

文章がおかしい。
その【日本人が知らない最先端の「世界史」】が「~にまで言及している。」と語っているのは、他のどの本なんでしょうか。


このような質問は、過去に何度も出ています。
回答には、軍人訓を(故意に?)歪曲して語っているものがよくありました。
しかし、日本政府も軍司令部も虜になることを禁止してはいません。
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Qフィリピンのマニラ市街戦で市民の死者が10万人も出たとはどうしてですか?

第二次世界大戦中、フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人だそうです。
どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。
この場合、アメリカ側に逃げればよいわけで、逃げ遅れたにしても10万人は多すぎます。(東京大空襲と同じ)
逃げることのできない理由があったのでしょうか?
スターリングラードの戦いの場合は、ソ連軍が市民が逃げることを禁じていたと記憶しています。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破壊するなどとよもや市民たちは思いもよらなかったので、疎開しなかったのでした。
 
 さらに、マニラ防衛の日本軍は、陸海軍とも寄せ集めの兵と歩兵火器中心の武装でしたから、よもや頑強に抵抗するようにもみえなかったでしょう。当初日本軍も、一定の抵抗をしたのちに東部の山中へ退却する予定でしたから、一方から歯磨きのチューブのように押し出せばどちらの側にも多くの犠牲者が出なかった可能性があります。しかし、実際には米軍は包囲作戦を採ったため、日本軍の退路は限られてしまい、また、日本軍自ら橋梁を破壊してしまったため孤立化したので多くの市民を巻き込んでしまった、というのが実情でした。

 大岡昇平は『レイテ戦記・下』(中公文庫版)にこう記しています。

 彼(註・マッカーサー)はフィリピン解放を十分に果たした。~軍事的拠点の徹底的砲爆撃という戦闘方式の結果、フィリピン人は家を焼かれ、多くの非戦闘員が死傷した。~マニラは徹底的に破壊された。~ニミッツによれば、彼は自分の赴くところ、常に激戦地にならなければ気がすまなかった男だ。この処置には、日本軍に強要された形式的なものであるとはいえ、対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒の意味が含まれていよう。~そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった。破壊と放火はこれらの日本の部隊が行なったものだ、ということになっている。そのため実際には責任がなかった山下大将が、不法な手続きによって絞首刑になったのだが、これは実際は米軍の行なったマニラ破壊を日本軍に転嫁するするためであった。(同書308・309頁

 昨年8月、NHKBSで『ハイビジョン特集 証言記録 マニラ市街戦』という長編ドキュメンタリーが放映されましたが、この中で赤十字のマークを掲げた病院を米軍が爆撃して多くの市民が殺されたとか、米軍がガソリンを流し込んだため地下に潜んだ市民が焼き殺されたという生存者の証言でも明らかです。

 日本軍によるマニラ市民殺害について。基本的に軍事基地の所在をシビリアンが敵軍に通報するのはスパイ行為に当たり、これは処刑の対象となります。米軍のフィリピン攻略は、殆どのフィリピン人の協力があったので、マッカーサーは「これほど楽な戦いはない」といったそうですが、マニラにおいても、住民が日本兵の潜むのを見付けるとすぐに米軍に知らせ、すぐに猛烈な砲撃が始まり、日本兵は逃げ場もなく物陰に隠れるだけだった、と当時の日本陸戦隊将校が回想しています。(峰尾静彦「マニラ海軍防衛部隊の悲劇」による)

 さきに回答のなかに「日本軍がマニラ市民を攻撃した」という表現がありますが、陸戦隊将校の回想を見る限り、市街戦で圧倒されるなか、個別の例はあっても組織的な余裕はなかったようです。こういう追い詰められた状況にあって、日本兵は市民の誰もが通敵者に見えたというのも無理がない部分があります。しかし、それで市民殺害が正当化されるわけではありませんが。

 日本兵の戦死が約1万6千に対して米兵はわずかに千名。市民が10万名。その数字を見ると米軍に協力して日本兵に殺され、米軍の無差別攻撃に殺され、また何の関係もない無辜のマニラ市民がさまざまな理不尽な理由で殺された、というのが事実に近い、と思います。
 


 

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破...続きを読む

Q「市民革命」で言う「市民」の定義と市民革命の定義

高校生です。学校では「市民とは、都市(=壁、burg)に住むもの。つまり商工業者(ブルジョワジー)を指す。そいつらが財産権の保証やらを求めて絶対王政を打倒したのが市民革命だ」というようなことを習いました。
そして主要な市民革命はイギリス革命・フランス革命・アメリカ独立革命など、ということですが
・アメリカ独立革命の頃のイギリスは絶対王政でない
から上の定義には当てはまらない気がします。権力者ならばなんでもいいのでしょうか。
つまりある程度産業が発達している国での商工業者の利権が多少とも感じられる革命はみんな市民革命ですか?

Aベストアンサー

普通、市民革命というとブルジョワ革命のことです。
ここでいう市民はブルジョワ、能動的市民のことで、
受動的市民つまり労働者は含みません。
ブルジョワジーは、通常、市民階級と訳します。
市民というと、市内に住む人と思い勝ちですが、
歴史用語の市民、特にここでいう市民とは、
ブルジョワのこと、資本家をさしています。
ブルジョワ革命とは、単なる民主化ではなくて、
能動的市民と定義された、簡単に言えば、裕福な市民にだけ
権利を与えようという革命のことです。
アメリカでは財産制限はなかったものの、選挙登録が必要なため、
事実上は無学者・貧困者を遠ざける仕組みになってます。

絶対主義的とは、要するに適用者に異議を挟む権利がなく、
治世者には制限がないということです。
植民地が議会に代表を送ってもおらず、
イギリス本国で認められる権利章典の恩恵がえられない。
参政権と課税権が一体とされていたのでこれは大問題で、
植民地のおいては絶対王政の時代と変わらない統治がおこなわれていたことが
独立戦争が起こった原因です。
重商主義は通商政策に関する考え方で、絶対主義は国家主権に関する考え方です。
視点がイギリスからかアメリカからかで、変わってくるだけです。
イギリスの市民から考えれば、アメリカの市民の権利が認められないことが
場合によっては利益になるわけで、重商主義的なものの見方ができ、
アメリカの市民から考えれば、イギリスの国王の植民地支配は、
議会参加を認めらていないので、絶対主義的な典型的な支配体制であるといえます。
アメリカの植民地は、名目上、国王ジョージ3世の私有地であって、王の土地で、
独立前は王が君臨していました。
植民地では王権の強化が行われ、それが反発を生んだ。

普通、市民革命というとブルジョワ革命のことです。
ここでいう市民はブルジョワ、能動的市民のことで、
受動的市民つまり労働者は含みません。
ブルジョワジーは、通常、市民階級と訳します。
市民というと、市内に住む人と思い勝ちですが、
歴史用語の市民、特にここでいう市民とは、
ブルジョワのこと、資本家をさしています。
ブルジョワ革命とは、単なる民主化ではなくて、
能動的市民と定義された、簡単に言えば、裕福な市民にだけ
権利を与えようという革命のことです。
アメリカでは財産制限は...続きを読む

Qベトナム戦争の黒人兵、貧困兵

ベトナム戦争中に、黒人や貧困人が多く兵隊にかり出されたのは何故ですか?また、戦争を終えた兵士の心理状態などの資料は(できればネット上で)ありませんか?どなたか至急お願いいたします!!!!急いでます

Aベストアンサー

まず、No.3さんも書かれているのですが、当時は徴兵制でした。ですから、白人黒人問わずアメリカ国民はみな兵隊にとられました。
しかし誰だって死にたくありません。白人、特に裕福な白人の息子はイギリスや西ドイツの駐屯部隊に派遣されたりして最前線に送られないようにされました。
一方、黒人や貧困層(といっても黒人が多いのですが)は危険な最前線に送られる可能性は決して低くはなかったようです。また、現在でもアメリカでは兵役につくと移民に市民権が与えられますが、市民権を得ようと兵役についた移民の多くも最前線に送られました。まあ、アメリカ人の立場からすれば「よそから来て俺たちと同じ権利をもらいたいなら嫌がる仕事くらい、やれ」というところでしょう。当時アメリカの占領下にあった沖縄の青年の多くがアメリカへの移民を望み、そのために兵役につきました。もちろん戦死者も出ています。

この時代、兵役にまつわる話で有名なのがエルビス・プレスリーとモハメド・アリ(カシアス・クレイ)です。超人気歌手で白人だったプレスリーは兵役につきましたが国内勤務でした。もし彼が危険な任務についたら多くのアメリカ娘がぶったおれてしまいます。
一方、黒人でしかも黒人差別撤廃を求める政治的発言をしていたアリは保守的な白人から憎まれていたので(いやがらせで)ベトナムの最前線に送られる可能性はとても高かったのです。ですから、アリは兵役につくことを拒否してベルトを剥奪されてしまいました。

現在の米軍は志願制ですが、兵役につく代わりに奨学金がもらえる制度があります。現在、この奨学金の利用者が多くイラクやアフガニスタンに派遣されています。奨学金を求める人はやはり貧困層が多いのです。また、イラクの危険な任務の多くが「民間人材会社の傭兵」によって行われています(民間会社の死亡者は戦死者にはカウントされないため)。この傭兵の多くがブルーカラーの貧困層です。他に仕事がないので仕方なく短期間で高額の給与がもらえる傭兵をするのです。しかし、恐ろしいことにこの傭兵は人材会社との契約で負傷や戦死しても一切お金は出ないのです。「イラクで大怪我を負ったが治療費で給与以上かかってしまった」という人が実際にいます。これがイラク戦争の現実なのです。
(註・現在はこの危険な任務はアメリカから外国の人材派遣会社にシフトしつつあるそうです。南アフリカの派遣会社に頼むと「イラク人の車に爆弾が仕掛けられていないか」というめまいがするほど危険な任務をなんと一日一万円程度でやってくれるそうです。深刻な失業率にある南アフリカではこの安月給でも応募者が殺到しているそうです)

まず、No.3さんも書かれているのですが、当時は徴兵制でした。ですから、白人黒人問わずアメリカ国民はみな兵隊にとられました。
しかし誰だって死にたくありません。白人、特に裕福な白人の息子はイギリスや西ドイツの駐屯部隊に派遣されたりして最前線に送られないようにされました。
一方、黒人や貧困層(といっても黒人が多いのですが)は危険な最前線に送られる可能性は決して低くはなかったようです。また、現在でもアメリカでは兵役につくと移民に市民権が与えられますが、市民権を得ようと兵役についた...続きを読む


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