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「連帯責任」って何の利点があるの?

高校野球などで誰かが不祥事起こしたら、他の人も連帯責任で大会には出場停止だ! とかやっているけど、これって何か意味ある?

なぜ他人と責任を連帯しないといけないの?

同じ組織に所属しているから?利害が一致するから?

連帯責任を強いておけば、不祥事を防ぐ抑止力になるとでも思っているのかな。

本当に連帯責任が抑止力になるなら、何でも連帯責任にしておけばいいじゃん。

政治家が裏金受け取ってたら、その党は全員議員辞職。教師がわいせつなことして捕まったら、校長以下全員懲戒処分。 ベネッセみたいな顧客情報流出した会社は連帯責任として全てのグループ会社営業停止。

こうやればいいのに。

本当に連帯責任に不祥事の抑止力があるのならね。


連帯責任っていう制度ってどういう利点があって、何のためにあるの?

A 回答 (4件)

日本の社会の特徴は「手続き主義」にあると思います。

手続きとは、日本の社会が決めたルールに従うと言う手続きです。

何かしら、守らなければならないルールがあって、そのルールを守れる要件を満たしているか?と言うことを証明する「手続き」をあらゆる場面で求められます。この得体の知れないルールを「世間」と言ったりもしますね。

日本の社会では、この守らなければならないルール、世間や社会が個人に要請して来るルールが、一体何の為に必要なのかを個人が知ることに要点が置かれていません。それを知りたければ、それは個人の勝手。と言うことになります。

日本の社会は、「責任」と言う言葉の理解が個人によって様々で、共通の理解によって「責任」と言う言葉が理解されていない問題を抱えていると感じます。それは「個人」と言う概念が未だ未成熟である為でしょう。あるときは一人に責めを負わせて、あるときは連帯として組織に責めを負わせるという「あいまいさ」はそうして保たれるのだと思います。

あいまいさは、責めを逃れる逃げ口を生みだします。これは先人が編み出した生きる知恵でもあるんでしょうね。責めを負う所在が明確では無いことは、誰かにとっては都合が良いものなのでしょう。

全ての問題の根源は、やはり手続き主義にあって、手続きにさえ従っていればとりあえずは社会を構成する一員を成すことが出来ます。これは、個人としての成熟を社会から要請されていないとも言えることなのでしょうね。
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「連帯責任」って何の利点があるの?


   ↑
対内的には、団結心を強めます。
対外的には不祥事を抑制する効果が
あります。


”なぜ他人と責任を連帯しないといけないの?”
    ↑
理論的には、次の条件を満たす場合に認められます。
1,強烈な主観的共同連帯感が存在すること。
2,客観的な協同連帯の強い利害などが存在すること。

このような条件を満たす場合には、連帯責任が
肯定されます。
従って、連帯責任が認められる集団は小規模な集団に
限定されるのが通常です。
例えば内閣がそうで、連帯責任が憲法によって規定
されています。


”本当に連帯責任が抑止力になるなら、何でも連帯責任にしておけばいいじゃん。”
    ↑
前述したように、連帯責任が認められるためには
条件がありますから、何でもという訳には行きません。


”政治家が裏金受け取ってたら、その党は全員議員辞職。
 教師がわいせつなことして捕まったら、校長以下全員懲戒処分。
 ベネッセみたいな顧客情報流出した会社は連帯責任
 として全てのグループ会社営業停止。”
    ↑
政党や学校、企業は人数が多いのが通常で、高校野球の
クラブのような強烈な共同主観の意思が認められるか
疑問だからです。


”こうやればいいのに。”
   ↑
質問者さんの理屈は粗雑に過ぎます。
死刑にすれば犯罪が減るのなら、どんな小さな犯罪でも
死刑にしてしまえ、というのと同じ理屈です。
右側通行を守らなかったので死刑ですか。
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時代的に古いと思われている部分があります。




とはいえ、

その使い方が全く知られていないとなると、少し補足が必要に思えました。


結論から言うと、

「連帯責任は仲間を罰するためにあるのではなく、

 競争者に脅威を与えるための宣言である」

つまりは試行している組織のメンバ全体が上のような意味であると知り、

本気で仲間を罰するようなことをしないのが前提です。

必ず、統率するリーダーを設置し、

メンバが本気にしないように気をつけていかないといけません。

そうしないと、メンバーがこっそりと私刑(リンチ)をし、

連帯責任にならないように、個人を排除しようとするからです。



ルールは他の競争者と戦うときにも役に立ちます。

団体戦ではとくに、相手の集団の意思をくじかないと、

いつまでも長く戦いを続けることになるでしょう。


そこで、

「あそこはあんなルールを強いて、みんな協力的。

 勝てるわけ無いよ」

と言う感覚を、相手のメンバの心に植えつける必要があります。

このためにやっているわけです。

総じて仲間意識も生まれますし、相互監視も働きます。

演出としての役割であると理解し、

人を罰するための道具として活用することを防がないといけません。




ところが、

他と戦う意識が弱く、組織内の富を分配することだけを楽しみにしている

人も多いのです。

こういう方々が、上の様なルールを悪用して、

規律や忠誠を御旗にして、

自分の政敵を排除しようとしたり、

権威を確立しようとするわけです。

全ての人が組織全体に貢献しているわけではありません。

組織全体を考えて、

公平に分配し、長く心地よく生きようとするのが合理的ですが、

嫌になったら組織を捨てて、別の組織に取り入ることが出来ると考えてしまえば、

組織に所属した後は、富の分配のみに興味が集中してしまいます。

こういう方の衝動に対して、無防備であれば、

その方個人の意図を、組織全体意思と勘違いしてしまいますよね?

その被害にあわれた方が、

連帯責任とか全体主義とか言うものに対してトラウマを持っており、

このやり方自体を否定しているのだと思います。



少し調べると、

反対派は、質問者さんの様な意見が多く、

賛成派は、皆で協調して生きていくのが大事と説いています。


連帯責任とは法律ではないので、ある種の感覚だと思います。

この感覚と申しましたのは、

「効能を理解して運用する必要がある不完全なものである」

ということです。


責任とは、誰かに何かを任されて、それを全うする覚悟のことを指します。

ですのでこれもやはり感覚です。

子供のうちは、

「責任を全うしないと罰せられる」

と教えられます。

しかし大人になると、

「責任を全うしないと、次の仕事を任されない」

と言う論理に転換されます。

非常にあたりまえですが、責任を放棄する人に大切なものを任せられません。

更に言うならば、責任を持つと命がけになる人もいます。

この二人を第三者として私たちは観察しているわけです。

社交辞令で日常会話をしたとしても、

前者の人に仕事を頼む人はマゾです。


今の時代は多くの組織論があり、ルール化がされていて精緻です。

しかし、

原始の時代に成立した組織では、

そこにある原初的な罰とはなんだったのでしょう?

「村八分」

ですね。

つまり仲間はずれ。


人は罰する労力すら惜しむのが普通です。

「誰にも相手にされなくなる」

と言う自然な罰があります。これが本当は一番厳しい。

自分以外の誰もが自分を空気のように扱えば、

人としての自覚を持つことが出来ず、生きていることを辛いと感じるでしょう。

しかもこれには刑期がなく、永遠に続きます。


罰として人を牢屋に入れる仕組みがありますが、

「社会から隔離されることが辛い」

と言うことを前提にした罰ですよね?

しかしこれには刑期があります。

自分という性質からは逃れられませんから、

この性質が原因で、皆が自分を避けるようになってしまうと、

働き口もありません。

たとえ生活に困らなくても、引き篭もってしまえば、

自宅供出型の終身刑であると言えます。

つらいのは当然です。

現実問題、刑務所に拘束されているほうが、多くの人と接するでしょう。

自ら独房に入り、その経費を私財でまかない、自らを終身刑に処するのは、

人として最も重い罪を犯したのと同じ罰に相当します。


しかし、

いきなりそうなるわけではなく、

徐々に自然にそこに導かれていくわけです。


ところが、

企業を円満に退職したあとも、

何故か人が集まり、次の仕事を任される人がいます。


こうした対比が生まれてしまえば、

その命運を握る自分の行動や言動、そしてそれを支える思想は大事です。

これを制御する責任があり、これを誤れば自然淘汰という罰を受けるわけです。


これ以上に合理的な仕組みがありませんから、

本来であれば、「責任を明確にする」「罰を決める」

必要は無いのです。

しかし、自然淘汰に任せれば、

「服装センスが無い」「臭い」「醜い」

などの理由で他の人を排除する人もいるでしょう。

これではその人個人の嗜好が社会全体の益を損ないます。


特に、責任感の強い人を、間違って排除してしまうと、

仕事を頼める人が減ってしまいます。

ズルや悪巧みをする人しか残らなくなりますよね?

こうした組織では、人を頼ることが常に危険であり、緊張感が持続します。

つまり、こういう罰をメンバ全体で受けていることになります。

これも合理的な仕組みであるといえますね。


子供時代には、責任と罪と罰は大人が与える物として認知しています。

大人になれば、責任ある状態が正常な状態であり、

これを逸することで、淘汰と言う緩やかな罰を受けると認知します。

責任と淘汰しかないということですね。


法律で禁じられているとか、組織がルールとして定めている部分とか、

分かりやすい罰ばかりをチェックしていますと、

自らの競争者である他の個人が、

もっと大きな責任を担おうとしていることが見えてきません。

相対的な評価により、淘汰されてしまい、

自宅供出型の終身刑と断食の刑を自らに処してしまうわけです。


責任とは法律やルールではありません。

しかし、

罰の強さは同じであるということです。

しかも、その人を擁護する弁護士もおりません。


淘汰と言う辛い状況に押し込められると、これよりマシなものを求めます。

犯罪です。


淘汰間際のその人にとっては、突然、社会が自分を相手にするわけです。

分かりやすい罪を償えば良いと教えてくれます。


犯罪者は悪を嗜好する人だけではなく、

自然に淘汰された人が、地獄から救われたくて変化する場合もある。

と私は思っています。



では連帯責任とは何でしょうか?

良い例では会社の賞与や給与制度です。

その会社の貢献度合いで、個人の所得が変わります。

これ以上に分かり易い原理は無く、既に連帯責任を担っています。

言葉化すると、苦しくなり、曖昧にすると苦しさを忘れられる。

そういうモノの一つでしょう。


引き篭もっているだけと自分に言い聞かせれば気持ちが楽になりますが、

実際は独房で終身刑を受けているのと同じだと悟らないと、

自分の苦しさの正体が分かりませんよね?


連帯責任とは言葉でいうところの概念でしかなく、

公言しなくとも、多くの人が既に担っています。



責任とか連帯責任とは、

あえて言葉にすることで、競争者に脅威を与えるという効能があり、

それだけであるわけです。



嫌だとしても既に担っております。

しかも淘汰と言う原理に属する仕組みであるため、

世界中の誰もが廃止することが出来ません。


しかし、

個人として「責任」という言葉に過剰に反応し、

それを嫌がる性質であるとアピールすることはできます。

これは何も変えれませんし、損をする行為だと思います。

言葉としての違いがありますが、

「責任」に対して「給与」が支払われるものを「仕事」と言います。

連帯責任とは、「連帯仕事」とも翻訳できますから、

社員であるという段階で既に担っておりますし、実践しています。

責任と仕事は同義ですから、

「仕事も嫌がるんだろう」と言う印象を周囲に与えてしまいます。


深い理由も無く、単に余計なことを言っただけ。

しかし緊張を緩めたとき、ふと口に出るものです。

緊張を緩めたとき、ふと(嘘でも)責任感ある言動が飛び出すには練習が必要です。

多くの人は、この練習をしているのであり、

本気で語っていると受け取るのは、いささか初心であると思います。


そのため、

普段から自らの思想に責任をもち、

これの制御をしないと、淘汰されるわけです。


間違っても、

本気で言っているのか確かめようとして相手を試さないことです。

この段階で、

「こいつとは付き合いたくない」と思われて、淘汰が始まります。

これも思想の一つとして不利に働くわけです。


言葉にすると苦しいですが、既に担っているものが沢山あります。

それでさほど不満が無いのなら、アピールしないのが無難。

他に生きている全ての人は、淘汰の仕組みの前では競争者です。

自らの言動には確かに責任があります。

以上、ご参考に成れば。
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この回答へのお礼

処分される側にとかげの尻尾きりや、首の挿げ替えをさせる余裕を与えない。


処分する側が、正確な犯人探しなどをしなくてすむからラク


これらが連帯責任という制度を導入する利点でしょうか?

お礼日時:2014/10/05 17:51

社会で生きていく上でのルールを知るいい切っ掛けにはなりそう。


ただ人から恨まれるであろう事による抑止力はあると思うけど、組織で隠蔽する力も出そうで怖い。
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この回答へのお礼

処分される側にとかげの尻尾きりや、首の挿げ替えをさせる余裕を与えない。


処分する側が、正確な犯人探しなどをしなくてすむからラク


これらが連帯責任という制度を導入する利点でしょうか?

お礼日時:2014/10/05 17:50

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