例によりまして、ふと、私の頭に浮かんだ素朴な疑問について質問いたします。
偶然って何ですか?
必然(性)とは何ですか?
Wikipediaを見たところ、必然性の欠如をもって偶然と呼ぶ、といったような記述がありました。
ネットにある辞書によりますと
─────────
偶然
[名・形動]何の因果関係もなく、予期しないことが起こること。また、そのさま。「―の一致」「―に見つける」⇔必然。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/60444/m0u/
─────────
─────────
ひつ‐ぜん 【必然】
[名・形動]必ずそうなること。それよりほかになりようのないこと。また、そのさま。「―の帰結」「なまけたのだから不合格は―だ」⇔蓋然(がいぜん)/偶然。
http://kotobank.jp/word/%E5%BF%85%E7%84%B6
─────────
─────────
がい‐ぜん 【蓋然】
たぶんそうであろうと考えられること。ある程度確実であること。⇔必然。
http://kotobank.jp/word/%E8%93%8B%E7%84%B6?dic=d …
─────────
とありました。
論理学的な必然(性)はひとまず置いておきまして、
どうやら、必然と偶然を分けるものは、
1 因果関係の有る無し
2 予測可能か、いなか
の2点にあるようです。
で、更に私の疑問は深まります。
この世に因果関係と無縁に存在するものはあるのだろうか?
ある現象が発生するための因果関係があまりに複雑で、また、同時に、我々の得られる情報があまりに少なく、その現象の発生を予見できないものを、
単に偶然と呼んでいるのに過ぎないのではないか?
もちろん、私たちは量子力学や不確定原理を知っていますので、ラプラスの悪魔が存在しないことは知っています。
ですが、我々の感覚器官は精度の悪い観測器のようなもので、量子レベルの不確定さは検出できません。
また、私たちが実際に生きている世界はマクロ系であり、この世界は古典物理学が支配する決定論的世界です。
───ここでいう決定論的は100%の精度の意味ではなく、99.9・・・%と、9が有限桁続く精度の予見可能性の世界、程度の意味。この精度は99.9%でも構わない───
この様に考えるならば、
人間が実際に五感で感じ、生きる世界の現象に偶然などありうるのだろうか?
ただ、我々の知識と情報の欠如のために、そして、計算能力の低さのために、偶然と感じるだけなのではないか?
皆さんのお考えを教えてください。
─────────
ラプラスの魔【Laplace's demon】
自然界のあらゆる力と宇宙全体のある時点における状態を完全に把握することができ,かつ,これらの素材を完璧に解析する能力をもった仮想的な知的存在.このような魔(demon)にとっては宇宙の中に何一つとして不確実なものはなく,未来のことを完璧な形で予見することが可能となる.
https://kotobank.jp/word/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%8 …
─────────
No.40
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.39
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.38
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
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「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
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☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
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☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
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No.37
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◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
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「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
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☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.36
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◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
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「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
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☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.35
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◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
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とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.34
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◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
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もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.33
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.32
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
No.31
- 回答日時:
No.30を承けます。
◇ 親鸞の「義なきを義とす」の本来の意味は、 / bragelonneさんの考えとは違うのではないですか?
▼ (ヰキダルマ:義なきを義とす) ~~~~~~~~~ http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%BE%A9%E …
本願他力に対しては、行者のはからいをまじえないことを本義とするという意。
前の「義」は、「宜」と同意で、行者が自分の考えでよろしきように判断する「はからい」のこと。後の「義」は本義のことである。
また「行者のはからいをまじえないのが、そのまま如来のはからいである」「行者のはからいを捨てるのが、往生におけるよいはからいである」などと解する説もある。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ここから《本来の意味》を わたしはみちびいています。
この説明では まだ《ハカラヒ》について それがあるのかどうか 交えるのかどうか さっぱり分からないはずです。
なぜなら 《行者のはからいをまじえないことを本義とする》というときの《行者のはからいをまじえないこと》は 行者のハカラヒになるからです。《まじえないようにする意志行為》が交ざって来ますから。
親鸞は 《非知》に到達した。これは 潜在可能性としてでも言える。と考えます。
この非知を 道教・老荘思想が言っているか?
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『荘子』内篇 万物齋同に
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「先生は万物に共通する普遍的真理をご存知ですね」
「そんなものは知らぬ」
「では、わからないということだけはご存知なのですね」
「それもわからぬ」
「すると、いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
岸陽子 『荘子』 徳間書店
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
とありますよ。
bragelonneさんの《非知》の定義に一致しているのではないですか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ どうでしょう?
▽ ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ 既知と未知とが 自分の自覚において実際には不確かなものだ。とは言っているのでしょうね。
それとも:
▽ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
・・・いっさいは不可知であると判断なさるわけですか」
「それもわからぬ。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この問答の中に 非知は潜んでいましょうか どうでしょうか?
不可知は あくまでも経験事象のことです。知り得ないと知ったものごとですから。
《いっさいは不可知であると判断するのか》――《それも分からない》。
この問答は何を語っているか?
いっさいが不可知であるわけはありません。はっきりしています。自覚にマチガイがあるにしても 既知と未知とはありますから。ぢゃあ あとは 何か? 非知のことをほのめかしていましょうか どうでしょうか?
もしほのめかしていたのなら 早くはっきり言いたまえ。と言ってやりたい。
潜在可能性として・含みとして語っているか?
好意的に受け留めるなら イエスと言いたいところですが でもそのあとに:
▽ だが、おまえはばかに判断にこだわっているようだから、ことばでは説明しかねるが、まあ、話してみよう。だいたい、人間の判断は、相対的なものだ。われわれが知っていると思いこんでいることが、実は知らないことであるかもしれず、知らないと決めていることが、実は知っていることであるかもしれぬ」
☆ と つないでいるのですよね。非知のナゾについては この説明部分には欠けらもないと見ざるを得ないと思うのですが どうでしょう。
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