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先日大学の授業で「日常生活は多元的である」ということをやりました。
が、いまいち理解できませんでした。

やった内容を少し加えると・・・
(1)私たちは日常生活において無限の選択肢を持っている。
(2)現実は捉える人間の知識によって、変化する。

みたいな事をやりました。

・・・やっぱり「日常生活=多元的」、よくわかりません。どういうことでしょうか?
あまり難しくなく教えていただけたら幸いです。

A 回答 (4件)

多元的、なんて


日常的に使わない言葉を使うからイケナイんだよね。
多分、これは哲学・思想にまつわる講義で
だからこんな分かりにくい言い回しをするんだと思うのですが
違うかしら?

日常生活とはおそらく私たちにとって最も身近なもので
そこで行われているコトに大して私たちは普段、特に疑問を持たない、つまり
日常生活なんて「当たり前」だと思っているのではないでしょうか?

しかし、私たちの日常生活と
例えば北朝鮮の日常生活はかなり違いますよね。
日本人と北朝鮮人のルーツはかなり近い筈であるにも関わらず
現在のそれぞれの国民の日常生活はかなり違うわけです。
しかし、それは別に神の定めでも宇宙の真理でも何でもなく
ただ、私たちの先祖たちが
「日常生活において無限の選択肢を持って」いて
様々な選択を繰り返してきた結果
今日、ある人は北朝鮮の日常を生きており
あなたや私は日本の日常を生きているわけです。
つまり、現在の事実/現実とは「唯一の真実」ではなく
過去の様々な選択が生んだ偶然の産物に過ぎないということです。

そして、今日起こったある事件
例えば拉致被害者の問題に関しても
北朝鮮の日常を生きている人と
日本の日常を生きている人とでは
意味や解釈が違ってくる、すなわち「現実は捉える人間の知識によって
変化する」わけです。

今、北朝鮮と日本という極端な例を挙げましたが
あなたと私の間でも同じような違い=多元性があるわけです。
つまり「日常生活が多元的」とは
「あなたにとっての『当たり前』は
他人にとっては『当たり前』じゃないかもしれない
だから『当たり前』を疑ってみよう」という一種の戒めだと思うのです。

多元的の反対は「一元的」です。
一元的とは「一つの中心によって全体が統一されているさま(大辞林 )」です。
中心ってのが分かりにくいと思うんで、言い換えると
「ひとつの原理によって全体が支配されているさま」で
例えばアメリカはキリスト原理主義(プロテスタント)の国であり
キリスト以外の原理を認めません。
だから今、イスラム原理主義の人たちと戦争していたりするわけです。

数度の世界大戦を経て
20世紀以降の哲学・思想は「一元的な世界観」がいかに危険か?
そして、一元的世界を支える原理に、いかに「根拠がない」か?
を説いてきました。
その趣旨を簡単に書くと
(1)私たちは日常生活において無限の選択肢を持っている。
(2)現実は捉える人間の知識によって、変化する。
ということなんです。
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この回答へのお礼

色々な具体例を出していただき、とてもわかりやすかったです。ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/02 20:38

「日常生活が多様である可能性をもつ」ということを「多元性」と呼べば、そういう表現になるのでしょうが・・・・、まさにそういう表現は日常的でないですね。



ひとりよがりの言葉を使うと、わかりにくいですのにねえ。
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この回答へのお礼

確かに・・・使わないですよね(笑)

お礼日時:2004/06/02 20:38

こういう質問好きです。


多元論は哲学、現象学、社会学なんかで微妙に意味がちがうし提唱者によってもいろいろでしょうが、究極的に言えば
「人はどのようにも生きられる」
ということだと思います。

毎日会社・学校に行くか休むか、嫌いな人を殺すか殺さないか、全て本人しだいです。((1)のことですね。)
そんなのあたりまえのことをなぜ言わなければならないのか?
#1の方もおっしゃっていますが、逆に考えるとわかります。
私達は無限の選択肢があっても、毎日会社・学校に行きますし、嫌いだからといって人を殺しません。
無限の選択肢を自身の知識、意思、実存によって制限するのです。((2)のことです。)
しかしこの制限していることすら意識しない日常生活では一元的になってしまいがちです。
ですから、日常生活=多元的という捉え方をすることで本来、私達はいかようにも生きられるということを再認識する必要があるのでしょう。
昔、実存哲学にはまっていたので、そっちよりの解釈が強いですが、授業内容と違っていたらごめんなさい。
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この回答へのお礼

授業で講師が言っていたのと同じことを言われていますね。再認識させられました。
ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/02 20:37

反対に考えてみます。

「日常生活は一元的(ひとつの物事から成り立っている)である」とした場合です。日常は、いろいろなことが起きるので一元的とは言えないと思います。日常には、さまざまな情報が溢れかえっていて、それをどう捉えるかは、受け取った本人次第です。

勉強もそのひとつだと思います。昨日まで、分からなかったことが、今日新たな知識を得て解決でき、それは、次の問題を解くための布石になることかもしれません。

ここの回答もそうだと思います。いろいろな人の見方があって、それを拾い上げる無限の選択肢が質問者の方に与えられています。いろいろな知識を積み重ねていくと、ものごとを多元的に、いろいろな角度から捉えることができるので、日常生活=多元的なのだと思います。

哲学を真に理解しているわけではないただの主婦の回答ですので、私の回答は聞き流して、他の方の回答をお待ちください。
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この回答へのお礼

逆の角度からとらえる・・・これも多元的なことなのですね。なるほどです。ありがとうございました。

お礼日時:2004/06/02 20:35

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