プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

葛藤をふっきる方法、またはそれができたという方の経験談を教えてください。

たとえばAとBの選択で悩んでいる場合。どちらも自分にとってはよくないことだとします。
いずれかを選択すると、いずれかに依存している自分も捨てなければならない。
こういう状況におかれたとき、どのような思考や思想、方法論でAもBも捨てることができるのでしょうか?

A 回答 (14件中1~10件)

ご両親の声から離れられないのは、


とても辛いですね。

あなたはとても頭がいいので、
深く考えて物事を理解するタイプ
のように感じます。

ただ、その分きっと負担も大きい。

あまり軽々しく言ってはいけませんが、
カウンセラーの力を借りてはどうですか。
あなたのその思考の深さを受け止めて
もらえますよ。少しは楽になるかも。


一度行ってみて、人柄や雰囲気が
合わなければ、別の人に変えてもいいし、
通うこと自体を止めてもよいのです。
あなたは自分の意思で選べます。


小さい頃にやってみたかったことは
ありますか。特にご両親に反対されて
できなかったことです。
絵を描く、音楽を習う。

危ないこと以外は何でもいいから、
やってみるといいですよ。
気持ちが満たされるかもしれません。


お礼コメントはけっこうですよ。
気が向いたら書いてもらえらば。
クローズしてしまってもいいのだし。

自分の時間を大切にしてほしいです。

私はあなたを応援できれば、
それでいい。

あなたは自分の生き方を
自分の意思で選べます。


今まで使っていなかった筋肉を
動かすのに違和感があるのですよ。
筋肉を動かすよりは
大変かもしれないですが、
少しずつ、少しずつ、です。
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この回答へのお礼

温かいお言葉、本当に本当にありがとうございます。涙がでてきました…

>あなたは自分の生き方を自分の意思で選べます。

やっと最近そう思えるようになりました。
でも私にはやはり誰かの助けが必要です。
そう思えるようになってきたことも、最近です。
(カウンセラーにはかかってみようと思います。以前未熟なカウンセラーに嫌な思いをしたものですが、今では私も見る目はあると思っています)

肉親に愛されなかったことによって、自分を愛せず、自分をいかに痛めつけてきたかを知ることも、親と私は違う人間だということに改めて気付いたことも本当に長い年月をかけました。

相変わらず生きづらいものですが、あなた様のような方がいるということはとても大きな励みになります。

動ける筋肉を動かさないで死ぬのはもったいない(笑)
記憶がある限り、葛藤やトラウマと戦い続けることになると思いますが、それでもこれからは「本当の自分」を生きてみます。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/10 21:24

私の親も毒親でしたよ(笑)



自分が自由に生きることに罪悪感がありました。
日常の些細な事柄ですが、意識的、無意識的に、
親の望む選択肢を選ぶことが最良と思っていました。
でも、これを続けていると疲れてしまうんですよね。

私は体調を崩したことがきっかけで、
かなり戦いましたね(笑)
私のやり方はおすすめできませんが☆


可能であれば、一人暮らしをするなど、
物理的に距離を置くといいですよ。
親も子離れできないんです。


一般的な感覚の人であれば、
時間をかけて納得してというか、諦めてというか、
自然と離れていくと思いますよ。


経済的な事情で、急に実家を離れられなければ、
生活時間帯をずらすのも手です。もし家を出ないことで、
経済的に自立していないなどと主張し、
ご両親があなたを自由にしてくれないのであれば、
いくらでもいいので、家にお金を入れることです。
携帯代、食費などでしょうか。


[1か月あたりの食費]
300円/1食×2回/1日×30日=18,000円


1人になりたいときは、ビジネスホテルがおすすめです。
昼寝用のスペースを貸すサービスもあるようですよ。
週末だけでもリラックスできると思います。


詳細が不明ですが、ご参考になれば (^^)
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この回答へのお礼

そうですか…
知らず知らずのうちにいわゆる「いい子」になっていました。
同時に反発していたからこそ、正常な部分も守られてきたと思います。
その正常さとは、親とは違う人間になったということです。

だからこれは力説したいのですが、反発しないと、子は人格が親と生き写しになってしまいます。これこそが親のもくろみですが。ちなみに妹は親のコピーのように人格面ではそっくりです。また感情はあまりにも抑圧してはいけません。心身ともに必ず支障をきたしますから…私も今戦っています。たぶんこれはどちらかが死ぬまで続くでしょう。でも自分を取り戻すために、まだ親とはしばらく対峙しなくてはならないと思います。

>これを続けていると疲れてしまうんですよね。

本当の自分は必ずもう一人の自分がわかってますからね。
本当の自分を抑圧すると、自分の望まない人格が生じます。それこそ親が望んだ彼らのエゴの化身であるかのような自分が…。
私の場合の葛藤は、親が足を引っ張っている感覚です。
親が勝手に決め、私の意思も自由も否定しかされてきませんでしたから、自分で何かを決めるときに不安になるのではないかと。それが葛藤という形で訴えかけられているのではないかと考えられるようになってきましたのはつい最近です。

>物理的に距離を置くといいですよ。

逆でした。
昔一度一人暮らしをしたのですが、驚いたことに、今そこにいないはずの母親の声が聞こえてくるのです。もちろん心の中ですが。逆に実際の声よりも大きく響くのです。あれしてはだめ、これをしてはだめだと。一緒にいた時分には雑音としてしか聞こえなかったのですが、一人になってから「心の中の干渉の声」にさいなまされるようになったのです。
物理的に離れたことで、親の(身勝手な)声が内在化されているのだと知ったときは衝撃でした。今でもその感覚は鮮明に覚えてます。

>一般的な感覚の人であれば

その意味では親は「一般的な人」ではありません(笑)なかなかあきらめてくれません。彼らも心の病人なのでしょう。ですがそれも認めません。あきらめさせるのは無理だといえます。ならば私の方で彼らをあきらめることが先なのでしょう。

また彼らは私を引きとめる理由として経済的なことで脅してきました。それは今も変わりません。確かに経済的にも私が自立すれば、彼らは何も言えません。私は反抗した「悪い子」のままで、しかし彼らと違う人間になることが彼らにとって不愉快ならば、私はそうしたままで彼らに復讐すればよいのだと思います。

できることから少しづつやっていこうと思います。

お礼日時:2014/11/10 14:59

 ご質問の時から,やや時間が経過しましたが,何かの参考になればと思います。



 まず,結論は,「どちらであれ,価値の基準を決めることにより,何を解決すべきなのかを明らかにしやすくなる」というものです。
 (また,一般に人間は「バイアス」が入りやすいですから,因果関係,目的と手段の関係の妥当性,などを偏りなく推論しているかを確かめると良いと思います。)

 「価値基準」とは,自分が検討対象としている事柄に関して,何をもって「価値がある,正しい,妥当だ」とするかということです。
 もちろん,「法律,社会の要請」「自分の欲求,願望」「良心」など,すでに「基準」たり得るものが存在するわけですが,人は自分の価値観で判断して行動し,必要を満たしたり責任を果たしてゆくわけですから,やはり,その人の「価値基準」または「価値観」は決定的ではないでしょうか。

 拝見しますと,いくつかの「価値観」が混在しているようにうけとれます。たとえば,(1)「どちらも自分にとってはよくないこと」,(2)「いずれかに依存している自分も捨てなければならない」,(3)「AもBも捨て(られればいい)」などの価値観です。それで,要するに,(1)の価値観を採用して行動したいが,(2)の価値観があるからそれはできない,でもやはり,(1)の価値観どおりに,なんとかできないだろうか,そういうことではないのでしょうか。

 そうすると,(1)と(2)の内容を検討することが,納得できる結論に至る助けになるのではないでしょうか。それらは「矛盾」または「相反」するものですか,あるいは,正当に両立できるものですか。その根拠は何でしょうか。

 以上,十分ではないかもしれませんが,こんな感じで,「何を解決すべきなのか」を考えるヒントくらいにはしていただければ幸いです。
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この回答へのお礼

新しい投稿に先日気づきましたので、お返事が遅くなりました。

>価値の基準

葛藤そのものにふりまわされている中で、価値基準というものが私にはあるのかないのかすらわかりませんでした。
しかし明確に「ある」ということは分かっていたのです。
また、「価値基準の正しさ」ということについても頑固なほど自信もあったのです。

しかしその自信をゆるがすのが葛藤でした。しかし今では葛藤そのものは悪いものではなく、むしろ本当の自分の道しるべになるものだと思っています。基準についての価値を改めて考えさせられるものです。こう思えたことは大きな「気づき」でした。しかしあまりにも葛藤が激しければ心の病にもなるし、その基準を実現することはできません。

>(1)「どちらも自分にとってはよくないこと」

これは「どちらも自分にとってはよいこと」
という正と正の葛藤もあります。いずれにしろ、基準を満たせないということなのです。


>(2)「いずれかに依存している自分も捨てなければならない」

この依存とは、誰かに決めてほしい、そうして葛藤を解消したいということだと思ってきました。

選択肢があればいずれかに決める=基準を満たそうとすることを阻むものは、これまでの経験(成長や自立を阻むもの、たとえば親から教師などから根拠もなしに否定されてきた言葉や行動、また、それが要因となった自信のなさ)からの雑音です。
激しい反発がありながら同時に依存もしてきたのです。そのため葛藤のあらゆるタイプ(正と正、負と負、正と負)から逃げられず、葛藤が重く、拮抗状態にあって動けないという心の状態(人生)だったと思います。

(3)「AもBも捨て(られればいい)」

それができないのなら、AかBを選ばなければなりません。としたら葛藤自体を捨てなければならない。でも最近葛藤が少なくなってきたのです。ささいなことが対象ですが、葛藤せずに目的を遂行するということの解放感を体験しました。

葛藤しないで行うということに罪悪感を感じる必要がないと思えたのがよかったのかもしれません。

私は葛藤が強い人でありながら、反面、結果を考慮せず、なんでも衝動的にやってしまう場合もあります。むしろこちらのほうが多いです。
でも「慎重」と「葛藤」は違いますよね。慎重にならざるをえないときに衝動的になり、どうでもよいようなことに葛藤する。たとえばラーメンとパスタ、どちらにするかすごく迷います。どっちかの方がおいしければすごく引きずります(笑)。これは正と正の葛藤ですが、このようなレベルでの葛藤は、先ほど述べたように軽くなってきたということなのです。しかし人生を左右するようなことは衝動的になってしまっていたのです。衝動を起こしたものが何か、ということは長年の考察でわかってきましたが…。

>「矛盾」または「相反」するものですか

私が今抱えている問題は、プラスの結果になるという側面からは矛盾しませんが、「捨てる」ということの怖さ、その結果による将来のことからの不安はあります。ですから感情面でいえば捨てることによるネガティブな感情ということから「正当に両立」はできません。
それが「>根拠」であるかもしれません。

お礼日時:2014/11/10 14:39

心理学を勉強されたのですか。


日常の悩みを哲学的に考察したというのも
合点がいきました。私も昔、興味を持って
本を読んだことがあります。


葛藤の克服とは話がズレますが、もし自分の
潜在的な不安に気づくことができたら、
自分自身にこう問いかけてみてはどうか、
と考えました。


・今もその不安の原因が自分を
脅かしているのか。
・その不安は本当に不安であったのか。
・今の自分はそれを克服できないのか。あるいは、
もうすでに克服しているのではないか。


特に、2つ目はについては、
トラウマになる出来事が幼児期に起きた場合、
コミュニティが自分の家族しかなく、
(大げさに言えば)
そこから外れれば一人では生きていけないので
不安が増幅すると思います。


しかし、成長すれば、
両親も完璧でないと理解できますし、
自分で伴侶を選ぶこともできるわけです。
過剰に不安に思う必要はありません。


それを踏まえて、
傷ついた自分を労りながら、
自分はトラウマを乗り越えられると、
信じることが大切だと思います。


葛藤の克服については、
自分の選択が正しかったと思えるかどうかは、
後になってから分かることかもしれません。
また、どういう結果であれ、
いつかそれを前向きに受け止められる自分で
ありたいものです。


ご質問から少し時間が経過しましたが、
その後いかがでしょうか。
お悩みが早く解消されるよう、
お祈り申し上げます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
今日新しい投稿があったことに気付きましたので、お返事が遅くなりました。

>心理学を勉強されたのですか。

はい。

>日常の悩みを哲学的に考察したというのも合点がいきました。

あらゆる学問は密接につながっています。心理学はもっとも哲学を取り入れなければならないと思ってます。

ところで

>トラウマになる出来事が幼児期に起きた場合~そこから外れれば一人では生きていけないので不安が増幅すると思います。

このご意見を読んで、心情的に新しい展開がありました。
また、葛藤の理由も幼少期のトラウマというところも該当しています。

「選択する」ということは「自立」そのものですが、それを阻まれてきたので、選択した結果に対する責任をとることのプレッシャーよりも、選択するという行為そのものに対して(これは想像ですが)「罪悪感」があり、自由に選択できないこと自体が葛藤というものであるのではないか?と思いました。

>両親も完璧でないと理解できますし

完璧どころか「毒親」です。

しかし、やっと彼らの呪縛から解放されるときがきたと思ってます。
まずは傷ついた自分を労わるところから始めてみます。

温かいお言葉、ありがとうございます。

お礼日時:2014/11/09 15:42

私の場合の『Cの選択肢』について、


今日、新たな気づきがありました。

自分が追い求める幸せだけが、唯一の幸せではない、
ということに気が付くことが大切なのかもしれません。

私のポリシーに反していたため、
Cを選ばなかったというのも嘘ではないのですが、やはり、
それを捨てきれなかった自分がいたような気がします。


自分自身を深く探っていくと、
自分の顕在意識が求めているものは、
潜在意識に潜む不安が原因かもしれないと考えています。


つまり、本当に求めているものではない、
不安から逃げるために、仮想の幸せ(≒辛い現実)を
選んでいるかもしれない、ということです。


私のようにAかBを選択して、痛みを伴いながら
『自分の知らなかった自分』に気が付くこともありますし、
素直にCを選んで、ゆっくりと長い人生の中で、
悟りの境地に辿り着くということもあるのかもしれません。
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この回答へのお礼

>今日、新たな気づきがありました。

おお…!ぜひ伺いたいです。

>自分の顕在意識が求めているものは、潜在意識に潜む不安が原因かもしれない

私は少々心理学をかじってますが、すべての心の病はこれだと思うのです。
不安。それに対する抑圧。
(だから心の病は薬はごまかしであって、根本的な治療にならない。というよりも身体にとって有害にしかならないと思ってます)

それに気づき、不安に対処し、そして意識化して行動に移し、自分の意識を変えるとさらに潜在意識にフィードバックされる。
だから私は思考が人生活動においてもっとも大切なことだと思っております。
考えを尽くし、行動を尽くせば潜在意識に隠されていたことの気づきが生じる。
思考停止状態は、欺瞞につながり、世界をだめにします(欺瞞こそ不幸の源だと私は人生経験から悟りましたが)。

>不安から逃げるために、仮想の幸せ(≒辛い現実)を選んでいるかもしれない

まったくそのとおりだと思います。それが欺瞞です。
つまり自分に嘘をつくこと。嘘をついていることにさえも気がつかなければそれは不安となって自分の無意識に訴えかける。それを無視していれば、気がつかないふりをしてれば必ず支障がきます。それは他者への投影となり他者を傷つけ不幸にする。それって選択した結果がたとえ間違っていたということよりも罪深いことです。

だから常に自分と対峙ですね。自分は人の、人は自分の鏡(投影)ですからね。自分を発見することは人のことも発見できるということです。
だからその「>痛み」って人への思いやりだと思うのですね。

お礼日時:2014/10/23 17:38

補足請求ありがとうございます。



>それの理論、できればぜひぜひ教えてください。実践してみたいです。

お伝えしましたように
>ちょろっと書いて、ちょろっとできるようになるものではないですけどね。
と言うことです。

ご自身で対応出来るよになりたいと思えば、然るべき所を探し
系統的に学んでください。
ご自身で困っている所だけなた、系統的に学んでやれるようになった方から
フォローを受けてください。

人の心を扱うので、残念ながら簡単に説明出来るものでは無いのですよ。
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この回答へのお礼

理論の名前だけでも…と思ったのですが…
わかりました。系統的に学ぶのは望むところですのでやってみます。

お礼日時:2014/10/20 19:48

追加請求ありがとうございます。



>よく「手放す」と言われますが、これが難しい…
>感情を手放すことなのか?そうではなく、感情はそのままでも、それを作る考え方を手放せばよいのか?そうではないのか。

拘りや過剰もしくは歪んだ欲求を手放せば、苦しくないと思います。


>ということは、他の国の文化や宗教では手放す考えや方法を示唆しているのでしょうか。気になります。

心理学に手法として数多く存在しますが、日本ではほとんど知られていないし
使われるてるのもごく一部の間だけに思えます。


たとえば、人を許すと言うことを手に入れれば
固執していた恨みも憎しみも手放せます。

手に入れるものから手放すことは始まりますが
それさえも日本人のほとんどの人が知らないように思います。
ちょろっと書いて、ちょろっとできるようになるものではないですけどね。

ゆっくりでも手に入れていけば、内部バランスは徐々に取れるようになります。
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この回答へのお礼

>使われるてるのもごく一部の間

それの理論、できればぜひぜひ教えてください。実践してみたいです。

お礼日時:2014/10/20 09:44

>でも葛藤は自分を知るということにもなりますよね。



確かにそうです。
手放せば、その後はずっと楽なんですけどね。

日本では、手放し方が広まっていないのが残念です。
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この回答へのお礼

よく「手放す」と言われますが、これが難しい…

感情を手放すことなのか?そうではなく、感情はそのままでも、それを作る考え方を手放せばよいのか?そうではないのか。

>日本では、手放し方が広まっていないのが残念です。

ということは、他の国の文化や宗教では手放す考えや方法を示唆しているのでしょうか。気になります。

お礼日時:2014/10/19 10:38

質問者様のお悩みが分かりませんが、


私は最近、人間関係で自分の取るべき行動を
選択しなければなりませんでした。


私にはAとBというオプションが与えられていました。
でも、自分の悩みやこだわりを手放せば、Cという
新たな選択肢が生まれるということも分かりました。


ちなみに、私は、熟慮の末、Aを選ぶことにしました。
わずかでしたが、自分にとって良い結果を得る可能性が
あったからです。


Bはとても辛いもので、我慢することができませんでした。
Cは自分にとっては、いちばん負担の少ないものでしたが、
いつも自分の目で確かめるというのが私のポリシーで、
Cは、そのポリシーに反していました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

具体的な悩みを述べてしまえば、こうした葛藤の形における共通項というものが探れなくなってしまうと思い、あえて書きませんでした。哲学として考えてみました。

ご回答者様はCが負担が少なかったということですね。私の場合はCが確実に自分にとってとるべき道だということは分かっているのですが、なかなか葛藤のもとが捨てられないのです。

私も熟慮してみることは「道」を歩む時の前提だと思うのです。>自分の目

>Cは、そのポリシーに反していました。

ということはCも選択肢のうち、ということだったのですね。
このような選択の道筋というのあるのだと、参考になりました。

また、A、Bそれぞれ自身が変わるのであれば、葛藤も生じませんし消えると思いますが、今のところ、やはりどうしてもA、Bを捨てざるをえません。

お礼日時:2014/10/19 10:35

(未完成の)ピラミッドがあって、


出来れば上を積みたいが、下を疎かにも出来ない。

・・・下を、確固たるものにすることでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>出来れば上を積みたいが、下を疎かにも出来ない。

まさに「負と負のコンフリクト」とはこのようなイメージです。

>下を、確固たるものにすることでしょう。

それが「アイデンティティの確立」ということですね。

お礼日時:2014/10/18 19:17

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