出産前後の痔にはご注意!

先週の大河ドラマで秀吉の明制圧に対して、黒田官兵衛、千利休も大反対でしたが、本当でしょうか? その様な記録はあるのでしょうか?
いつも秀吉の思いつきの様に描かれていますが、これも事実なのでしょうか?

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A 回答 (11件中1~10件)

大河ドラマは、所詮ドラマです。


商人の千利休、菅兵衛は朝鮮征伐で軍監として大役を任されていることからも、賛成の立場だったのではないかと思います。


秀吉の思いつきというよりも、鎌倉時代末より続いた数百年の戦乱の時代が終わることに対する対策が朝鮮征伐であったと思います。有り余っている兵力の消費と、戦乱終結による不況対策と見るべきでしょう。

しかし、さすがの秀吉も、朝鮮という地が、さしたる自然災害がないにも関わらず毎年餓死者を出すような不毛の土地とは想像していなかったのではないかと思います。


ちなみに戦いは、終始日本が圧倒していました。
慶長の役にいたっては、明朝鮮は、日本の輸送船の襲撃すらまともに出来ない有様になります。
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長々と書かれた回答に対しては、スペインに対してそのような面もあったかもしれないが、ならばフィリピンを攻めろよって話になるわけです。



まぁキリシタン26名の話も、殺してくれなどと言ったりはしていないわけで、それだけでも回答者の妄想話であることが伺えるところです。

で、ご質問の回答としては、結局は秀吉のアイデンティティーの問題だったのだろうと私は(私も、かな)思います。自分が成り上がったモノを自ら否定できなかったのでしょう。
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秀吉が朝鮮に攻め込んだのはいくつか理由がある


・国内に与えられる土地が無くなった為海外に活路を見出そうとした(徳川幕府の様な藩体制は思いつかなかった模様)
・信長の世界制服の野望を受け継ごうとした

など
もちろん家臣・大名はみな反対でしたよ?
しかし当時の秀吉は絶対権力者 たとえ反対でも周りは言えないでしょ
家康に限っては呆れてたようですが 笑
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こんなサイトもあります



日本を侵略から守れ!豊臣秀吉 VS スペイン大帝国: かつて日本は ...
jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/08/vs-a562.html

-歴史紀行- ―朝鮮通信使への道を拓く-
www.jyofukuji.com/11-tyosen/tyosen.htm

所説芬々ですね~

黒田官兵衛や千利休にしたら、明を征圧するなどと言うことは到底成功するとは思えなかったでしょう。
戦後時代といいますのは、今日想像する以上に海外とくに東アジアの情勢に関する情報は豊富にもたらされていました。
現在の長崎県の一帯には、沢山の中国商人が来航して暮らしていました。
そもそも、火縄銃に必要な黒色火薬に硝石は不可欠ですが、ほぼ全量が輸入品です。
中国船が運んできたのを博多商人や境商人がドンパチやっていた武将連中に売りさばいていました。
現在の総合商社と同じように、これ等の商人にとって情報は貴重なものでおそらく積極的に聞き取っていたでしょう。
千利休のような知識人へは博多商人や境商人がいろいろ教えてくれていたでしょう。
茶人とは言え利休クラスの知識人であれば、明との戦など無謀なものに見えたでしょう。

官兵衛のように策略の才の持ち主というのは情報を非常に大切にします。
官兵衛も当然何らかの形で東アジアの情勢は掴んではいたでしょう。
それよりもむしろ、広大な中国大陸で戦をすることを考えれば到底兵員も兵站も足りないことは軍師としては理解できます。
負け戦をしないのが軍師の仕事です。
勝てそうもない戦は当然反対したでしょう。

何分にも秀吉の場合には、信長の信長公記のように、その実績を書き残して伝えるような人がいませんでした。
本来であれば千利休や石田三成当たりが適任ですが、書き残す間もなく死んでしまいました。
残ったのは太閤記のような歴史小説まがいのものばかりです。
結局、当時秀吉が決断に至った経緯が正確に分かりません。
周辺状況や断片的な史料から、秀吉が置かれていた状況や得ていた情報、判断基準などを推測することになってしまいます。

長崎県一帯の半島地帯は当時は耕作地が少なく中小の在地大名にとってはポルトガルやスペイン、中国との交易が最大の収益でした。
イエズス会の宣教師を味方に引き入れるのに血眼でした。
大友純忠などは、長崎港一帯をイエズス会に寄進するということまでやってのけていました。
極端な話、長崎港一帯はかつての香港のように外国に割譲されてしまっていたことになります。
九州平定の後で秀吉は気が付きました。
秀吉はバテレン追放令は出してはいますが、キリスト教そのものは禁止していません。
交易も禁止してはいません。

明の原則は、交易はあくまでも明への朝貢交易です。
倭寇の跳梁を防ぐために、かつては勘合貿易という形でなんとか公的な交易が続けられていましたが、しばらく途絶えていました。
この間の中国船は明に言わせれば密貿易船です。
秀吉はこれをなんとか公的な交易にして収益を安定させたいと考えていたようです。
明に使者も送っています。
これに対して明からは冊封体制下に入れという書状が舞い込んでいました。

玄界灘の先の対馬の宋氏は歴史的にも朝鮮王朝とは昵懇でした。
米は朝鮮王朝からわけてもらっていました。
朝鮮王朝が明の冊封下にあることは周知の事実です。

尾張出身の秀吉にとっては九州一帯のこのような複雑な関係を座視することはできなかったでしょう。
全員オレの言うことを聞け!嫌なら戦だ!ということになっても無理はないでしょう。

ともかく戦国時代と言いますのは首尾一貫した正確な史料が残っていません。
伝聞や我田引水のような資料が氾濫している時代です。
歴史学の先生方も苦労されています。
歴史小説を書くような訳にはいきません。
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歴史上の人物なんて信じられませんから、脚本家の思い通りです。



昭和天皇を第2次世界大戦の戦犯者と歴史に刻むか。
第2次世界大戦を終結させた英雄と歴史に刻むか。

後世の方々には、どこまで真実が伝わるんでしょうね・・・
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>いつも秀吉の思いつきの様に描かれていますが、これも事実なのでしょうか?



それはないです。ドラマだから、視聴者に分かりやすくしないといけないからそうしているだけです。
なぜ秀吉は朝鮮出兵を命じたのか。それには諸説ありますが、単独の理由はなく、複合的な理由が合わさって政治的妥協の末にそうなったのが実情だと思います。

ひとつは、豊臣カンパニーというのは成長し続けないといけない宿命にあったというのがあると思います。
かつてホリエモンに率いられていた頃のライブドアは「株価時価総額世界一を目指す」と公言していました。そのためにやっていたことは、株式を分割して発行することで株式市場で資金を得て、そのお金でどこかの企業を買収してライブドアグループを大きくしてそれで株価を上昇させ、その株式を分割して・・・というやり方でした。
しかしこの手法には2つの大きな問題があります。ひとつは「株価が上昇し続けてくれないといけないこと」、もうひとつは「いつまでもこの方法を続けないといけないこと」です。ライブドアはずーっと株主無配当で、時々株主から配当金を出すように求められていたのですが、ホリエモンは常に「株価が上昇しているから配当と同じことだ」といって突っぱねていました。
ホリエモンのライブドアは東京地検による捜査を受けて政治的な思惑によって潰されました。ちょっと話が横道にそれますが、それによってかえってホリエモンは社会的地位が守られたと思います。というのも、ライブドア事件の後にあのリーマンショックが起きています。リーマンショックで株価が暴落すればライブドアのビジネスモデルは破綻するのは明らかで、そうなれば彼は明らかに自滅していたでしょう。「国に潰された」という名目を得て、彼は名誉を守ったのではないかと思います。

話しが横道にそれてしまいました。豊臣政権というのも、このライブドアのように「成長し続けて、家臣に土地を与え続けないといけない」という宿命がありました。あの当時のライブドアが名目上でも成長し続けないと株価が維持できないシステムになっていたように、豊臣政権も成長し続けないと家臣や大名たちの支持を維持できないという宿命がありました。それは日本史上空前絶後の成り上がり者で、血族も譜代の家臣団も持たない「カリスマ会長頼み」の哀しさでもあったと思います。秀吉の不幸は一族にロクなやつがいなかったことです。みんな農民出身の田舎のヤンキーみたいな人たちばかりで、弟の秀長だけが突出して優秀でした。ブレーンが秀長頼みだったのです。だから秀長が死去すると豊臣政権はガタガタになります。福島正則や加藤清正らの武断派と石田三成らの文治派の対立はのっぴきならないものになるし、秀次事件や利休の粛清などが起きて、豊臣政権は自滅への道を歩み始めます。

また、当時は戦場で一時雇用されるような武士が大勢いました。なんていうのかな、フリーター武士ですね。合戦のときだけ雇われる人たちです。映画「七人の侍」に出てくる武士たちだといえば分かりやすいですかね。
どこの大名も合戦のときだけそういう武士を大量に雇ったのです。だけど、平和に天下統一となるとそのフリーター武士たちが大量失業してしまいます。困ったことに、彼らは武器を持ってるだけじゃなくて戦いの大ベテランです。元傭兵がそこらじゅうに銃を肩に担いだままウロチョロされたら大変ですよね。失業したやつがテロでも起こしたら収拾がつかなくなります。

これは後の徳川政権も直面した問題で、徳川政権はこれをどうやって解決したのかというと、ひとつは大阪の陣で、失業フリーター武士、つまり浪人が豊臣方に大量に雇われ、敗北したことによってかなり数は減らされました。この中には例の真田幸村のようなスター級も混じっていました。
もうひとつが、島原の乱でした。島原でキリシタンが蜂起するという噂を聞いて、失業武士つまり浪人が続々と島原に集まったんですね。で、江戸幕府はあえてそれを止めようとしなかったのです。元傭兵の不満分子ですから、できればそれは一網打尽にしたい。あえて彼らを島原に集結させて一気に片付けようとしたんですね。
しかし彼らは戦場の大ベテランですから、幕府軍は大変に苦戦を強いられることになりました。
この大阪の陣と島原の乱でほぼ失業フリーター武士問題は解決しましたが、それでもその後に由井正雪の乱なんかが起きていたわけで、この由井正雪の乱も失業武士たちによる蜂起計画で、その中の丸橋忠弥なんてのは「俺ァ元薩摩藩主の長宗我部盛親の息子だ。世が世ならお殿様でェ」なんて名乗っていた、なんて説もあるわけです。それだけ失業武士問題は深刻だったんですね。

ひとつまた話がそれますが、それは明治維新のときも同じで、明治維新のときは幕藩体制を辞めましたから大量の失業武士が出て、彼らが盛んに各地で蜂起したのです。その最大の蜂起が西南戦争で、西南戦争は明治政府にとって「絶対に負けられない戦い」だったんです。田原坂の戦いで政府軍は戦力の逐次投入という悪手をしているのですが、田原坂を突破されたら全国の不満武士が一斉蜂起する可能性があり、政府としては悪手だろうがなんだろうが一時的だったとしても失うことは政治的に許されなかったのです。この戦いには元新撰組隊士なんかも参加していて(しかも政府軍)、もう「なんでもあり」ですよね。

いずれ生まれるであろう「大量の失業武士問題」の解決方法のひとつとして「朝鮮に出兵して兵員が消耗したらどうだろうか」という面はあったのではないかと思います。

なお、人様の回答にけちをつけるのは規約違反ではありますが、フィリピンてスペインの植民地じゃなかったっけ?と申し上げる次第です。アルマダの海戦が1588年、秀吉死去が1598年です。アルマダの海戦以降にスペインがアジアに大艦隊(=大軍)を派遣することは現実的に不可能だったと思います。ただ、「政治的にそういう面もあった」というのはあると思います。
もちろん、私の「武士の失業問題説」も「国内問題のひとつに過ぎない」という指摘もあると思います。どちらにしても、政権の重大な政策というのは単一の思惑だけでは決まるものではない(様々な立場の人の様々な思惑が絡んでくる)、というのがご理解頂ければと思います。ご静聴、ありがとうございました。
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日本は過去3回朝鮮半島に出兵しています。

第1回は後に天智天皇になる中大兄皇子によるものです。百済との連合軍ですが、新羅・唐の連合軍に破れます。第2回目が秀吉による朝鮮征伐です。第3回目は明治政府による朝鮮併合です。
これらは歴史的必然性があります。いずれも混乱期の日本を統一した後に行なわれているのです。秀吉の単なる思い付きではありません。中大兄皇子軍と秀吉軍はともに海軍力が弱く失敗しています。
元寇の時に御家人武士が恩賞が無いことに不満を言うと執権の北条時宗は元を打ち払った後は朝鮮に攻め入りその領土を与えると言って武士を鼓舞しています。
日本にとっても中国にとっても朝鮮半島は草刈場なのです。またいずれも外国からの脅威に曝されていた時期です。
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〇続きの続きです。



もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてスペインの支配地となることが、いかなる意味を持つのか。
そのことは、南米の様子が、見事にまで現代に伝えています。

いま、南米に南米人の純粋種は存在しません。
白人種との混血種だけです。

アルゼンチンやウルグアイでは、先住民族がほぼ完ぺきに抹殺されてしまいました。このエリアの女性たちは、手当たりしだい強姦されたあげく、子を産む前に殺戮されたのです。ですから、いま住んでいるのは、ほぼ白人種です。

ブラジル、エクアドル、ペルー、ボリビアは、全員が、先住民族との混血です。
純血腫はいません。
強姦され、放置され、子を産み、いまに至っています。

日本も支那も朝鮮も、それぞれに純血種を保ちながら、いまに至っています。
なぜそうなったかといえば、秀吉たちが、スペインと真っ向から戦う姿勢を明確に見せたためです。

ちなみに、慶長の役は、秀吉の死去にともなって、中止となり、日本は朝鮮半島から撤収しました。
だから、これは秀吉の気まぐれでおきた戦争だというのは、大きな間違いです。
半島に出兵した大名たちは、それぞれに真剣に戦ったのです。

ではなぜ日本が撤収したか。
こたえは簡単です。

スペイン自体が、英国やオランダに押されて、国力を低下させ、もはや東亜に構っていられなくなったのです。

わたしたちは、いま、スペインという世界最強の大帝国に対し、一歩も退かず、むしろ臣従せよと迫った秀吉の壮大な気宇と誇りを、いまこそ見習うべきときにきているのではないでしょうか。

この回答への補足

大変明確な回答ありがとうございます。
あと信長も同じような事を考えて国内統一を急いだのではないのでしょうか?
スペインから攻められる前に国内を統一することを。

補足日時:2014/10/19 11:09
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〇続きです。



何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。

最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手渡します。

世界を制する大帝国のスペインに対し、真正面から堂々と「頭を下げて臣下の礼をとって入貢せよ」などとやったのは、おそらく、世界広しといえども、日本くらいなものです。
まさに、気宇壮大というべきです。

対するスペイン総督府にしてみると、これはきわめて腹立たしいことだけれど、すでに無敵艦隊が消滅し、海軍力を大幅に低下させている現状にあっては、日本に対して報復的処置をとれるだけの力はありません。
悔しいけれど、放置するしかない。

すると秀吉は、その翌年に、朝鮮出兵を開始するのです。

驚いたのはルソンのスペイン総督府です。
日本が、朝鮮、明国を征すれば、その国力たるや、東亜最大の政治的、軍事的圧力となることは目に見えています。

しかも、海を渡った朝鮮出兵ということは、いつ、ルソン島のスペイン総督府に日本が攻めて来てもおかしくない。
慌てたスペイン総督府は、当時ルソンに住んでいた日本人たちを、マニラ市内のディオラ地区に、集団で強制移住させています。
これがマニラの日本人町の始まりです。

さらにスペイン総督府は、同年7月には、ドミニコ会士の宣教師、フアン・コポスを日本に派遣し、秀吉に友好関係を樹立したいとする書信を届けています。
このとき、膨大な贈物も持参している。
いかにスペインが日本をおそれていたか、ということです。

けれど秀吉は、そんな贈り物くらいで騙されません。
重ねてスペインの日本に対する入貢の催促の書簡を手渡します。
その内容がすさまじいです。
スペイン国王は、日本と友好関係を打ち立て、マニラにあるスペイン総督府は、日本に臣下としての礼をとれ、というのです。
そして、それがお嫌なら、日本はマニラに攻めこむぞ、このことをスペイン国王にちゃんと伝えろ、というのです。

この秀吉の書簡を受け取ったコポスは、帰路、遭難します。
本当に海難事故で遭難したのか、返書の内容が100%スペイン国王の激怒を買うことがわかって、故意に遭難したことにしたのかは、いまとなっては不明です。
けれどおそらくこれは後者ではないかと私は見ています。

さて、コポスの遭難のおかげで、秀吉の書簡は、スペイン総督府には届かなかったわけですが、当然のことながら、スペイン総督府からの返書もありません。

けれど、返書がないからと、放置するほど甘い秀吉ではありません。
秀吉は、10月には、原田喜右衛門をマニラに派遣し、確実に書簡を総督府に届けさせたのです。

文禄2(1592)年4月、原田喜右衛門は、マニラに到着しました。
そしてこのとき、たまたま在マニラの支那人約2000人(明国から派遣された正規兵だったといわれています)が一斉蜂起して、スペインの総督府を襲ったのです。

スペイン兵は、応戦しますが、多勢に無勢です。
これを見た原田喜右衛門は、手勢を率いてスペイン側に加勢し、またたく間に支那兵を殲滅してしまいます。

日本強し。
原田喜右衛門らの圧倒的な強さを目の当たりにしたスペインのゴメス総督は、日本の強さに恐怖します。

けれど、ゴメスは、スペイン大帝国から派遣されている総督です。
世界を制する大帝国王に、日本に臣下としての礼をとらせるなど、とてもじゃないが報告できることではありません。

ゴメスは、なんとか時間をかせごうとします。
そして、翌文禄3(1594)年4月に、新たにフランシスコ会士のペドロ・バウチスタ・ベラスケスを特使に任命し、日本派遣します。
要するに、特使の派遣を繰り返す中で、少しでも時間稼ぎをしようしたのです。

名護屋でペドロと会見した秀吉の前で、ペドロは、スペイン王国が、いまや世界を制する大帝国であること、日本とはあくまでも「対等な」関係を築きたいと申し述べます。
普通に考えれば、世界を制する大帝国のスペイン国王が、日本という東洋の小国と「対等な関係」というだけでも、ものすごい譲歩です。

けれど、秀吉は聞く耳を持たない。
ペドロに対し、重ねてスペイン国王の日本への服従と入貢を要請します。

なぜ秀吉は、ここまでスペインに対して強硬だったのでしょうか。
理由があります。

第一に、国際関係において、対等な関係というものは存在しないのです。
この時代における国際関係というのは、やるかやられるか、つまり上下の関係しかありません。
たとえ日本が小国であったとしても、大帝国のスペインに日本を攻めさせないためには、日本が圧倒的な強国であることを、思い知らせるしかなかったのです。

第二に、もし、秀吉が中途半端に「対等な関係」の構築を図ろうとするならば、スペインは当然のごとく平和特使と称して宣教師を日本に派遣します。
そして宣教師たちは、日本の内部から切り崩し工作(まさにいま支那や韓国によって行なわれている日本解体工作と同じ)を行なう。
現に、世界のあらゆる国家が、その方法でスペインの植民地にされていたのです。

ですから、日本がスペインの驚異から逃れる道は、ただひとつ。
あくまでスペインに対して、強硬な姿勢を崩さないこと。
これしかなかったのです。

第三に、秀吉が目指したのは、あくまでも「戦のない世の中」であったということです。
並みいる敵は、圧倒的な武力で制圧する。
その上で、武力そのものも奪ってしまう。
つまり「刀狩り」を行い、そうすることで秀吉は、「戦のない世の中」を実現しようとしています。

けれど、同時に刀狩りをして日本人から武力を奪うことは、一方において日本人を弱化させることを意味します。
ならば、日本国内に武器を持たない平和な国を実現するためには、国際的な武力衝突の危険を日本から出来る限り遠ざける必要がある。

名護屋におけるペドロ・バウチスタ・ベラスケスとの会見も、平行線となったスペインのゴメス提督は、日本との軟弱な外交姿勢を咎められ、スペイン国王によって更迭されてしまいます。

そして後任の提督としてやってきたのが、ルイス・ダスマリニャスです。
ルイス・ダスマリニャスは、アウグステイン・ロドリゲスを使者として日本に派遣し、回答の引き延ばしを図るとともに、日本の戦力を冷静に分析します。

そして、ゴメスの分析通り、もし日本とスペインが、東亜で正面から衝突すれば、むしろスペイン側に勝ち目がないことを知ります。
そこでルイスは、秀吉との直接交渉は避け、ひとり、またひとりと、宣教師を日本に派遣するという戦略をとる。
つまり、時間を稼ぎ、その間に、当初の戦略通り、日本に宣教をしていこうとしたのです。

文禄3(1594)年には、ルイス提督の意向を受けて、ヘロニモ・デ・ヘスス以下のフランシスコ会修道士4人が、日本に派遣され、日本での布教を再開しました。
秀吉も、これは認めています。

ところが、慶長元(1596)年のことです。
スペインの貨物船、サン・フェリーペ号が、荷物を満載したまま遭難し、土佐の浦戸に漂着したのです。

救助した船員たちを、秀吉の五奉行の一人である増田長盛が取り調べにあたりました。
そこで驚くべき事実があきらかになります。
なんとサン・フェリーペ号の水先案内人が、増田長盛に世界地図を見せ、
「スペイン国王は、まず宣教師を派遣し、キリシタンが増えると、次は軍隊を送り、信者に内応させて、その伝道地の国土を征服するから、世界中にわたって領土を占領できたのだ」と証言したのです。

報告を受けた秀吉は、即座にキリシタン26人を逮捕しました。
そして彼らを長崎に送りました。
キリシタンを続けたいなら、外国へ出て行け。
日本に残りたいなら、改宗しろ、というわけです。

迷う26名に対し、長崎のイエズス会は、この26名の死罪を長崎奉行に申し出ます。
磷付にして、晒してほしいと、申し入れたのです。

イエスズ会の腹はこうです。
26名の信者を、イエスの十字架になぞらえて見せ物にし、間違いなく天国に行くことができたと宣伝する。
こうすることで、キリスト教徒としての栄光に輝く姿を印象づけ、侵攻による団結心をたかめる。

まあ、このあたりの話は、本題からかなりそれるので、また今度詳しく書くこととして、要するに秀吉の朝鮮出兵は、スペインによる東洋の支配に対して、統一国家をやっと形成した日本が、いかに国を護るかを考えた上での決断であった、ということです。

このことは、単に日本や朝鮮の国内事情だけを見ても、まったくわかりません。
当時の世界情勢、東亜諸国の情勢をみなければ、秀吉がなぜ朝鮮出兵を決意したのか、そして多くの大名たちが、なぜその秀吉に従い、兵を出し、勇猛果敢に他国に出て戦ったのかが、理解できない。

もっというなら、日本が明治という統一国家を形成してから朝鮮半島を領有するまでの動きと、秀吉の朝鮮出兵当時の世界の動きは、スペインがロシアと変わっただけで、まったく同じことが歴史上、繰り返された、ということなのです。

もし、秀吉が朝鮮出兵を行なわず、日本の国力をスペインに見せつけなければ、どうなっていたか。
スペインは、当然のことながら、明国を植民地としての支配下に置いたことでしょうし、当然のことながら、朝鮮半島も、スペインの支配地となったことでしょう。

そしてス
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では、回答させて頂きます。

長文ですが、ご容赦ください。
尚、真実は下記と通りです。

戦国時代や秀吉を描いた歴史小説においても、そもそも秀吉の朝鮮出兵が「なぜ行なわれたか」について、きちんと踏み込んで書いているものはたいへん少ない。

おおかたは、秀吉の朝鮮出兵は、
◆秀吉が耄碌していたために起こした戦いだった、
◆秀吉の成長主義がひき起した身勝手な朝鮮征服の戦いであった、
◆戦いを好む戦国武士団を朝鮮、支那に追い払い殺して数を減らすための戦いだった
などと、ほとんど意味不明の解説がなされているようです。
まさに、木を見て森を見ず、です。

そもそも、仮に秀吉が耄碌爺であったとしても、当時の日本は、江戸日本も含めて、各藩がそれぞれ独立した国家を営んでいたのです。
耄碌ジジイの世迷い事で、大枚をはたいて朝鮮までノコノコ出ていくおバカな大名は、全国どこにもいません。

秀吉の成長志向が招いたという解説にしても、信長から秀吉と続く体制は、農業重視というよりも流通指向がかなり強かった体制であり、領地がもらえなくても、それぞれの大名は、商業による貨幣経済によってかなりの富が蓄積できたわけです。
金持ち喧嘩せずとはよく言ったもので、食うに困らない、生活に困らない豊かな生活を満喫できているのに、あえて、戦争など、誰も好き好んで行うものではありません。

では、なぜ秀吉は朝鮮出兵を行ない、世の大名たちも、これに追従したのかが問題となります。

実は、このことを考えるには、日本国内だけの事情をいくら考えても答えはでてきません。
そもそもなぜ、秀吉の時代に日本が一国にまとまったのか、そして朝鮮出兵をするに至った背景には何があったのか。

実はそこには、当時のアジア情勢という国際政治が大きく影響していたのです。
そしてそういう国の内外の事情を理解したからこそ、東北の大名たちまでもが、秀吉の朝鮮出兵に前向きに協力し、兵を出しているのです。

そもそも、二度にわたる秀吉の朝鮮出兵(文禄、慶長の役)というのは、16世紀における東アジアでの最大の戦いです。
日本からは約16万の大軍が朝鮮半島に送り込まれたし、朝鮮と明国の連合軍は、戦力25万の大軍です。
天下分け目の戦いといわれる関ヶ原の戦いにしても、東軍7万、西軍8万の激突ですから、いかに朝鮮出兵の規模が大きかったかがわかります。

この時代、世界全体を見渡せば、まさにスペイン国王が、世界を制した時代です。
世界の8割は、スペインの植民地となっていました。

そのスペインは、東亜地域では、ルソン(いまのフィリピン)に、東アジア地域全体の戦略統合本郡である総督府を置いていました。

そして信長、秀吉の時代、スペインによってまだ征服されていなかったのは、東亜では、明国と日本だけとなっていたのです。

そのスペインが、日本に最初にやってきたのは、天文18(1549)年のことです。
日本では、宣教師のフランシスコザビエルの来日として歴史に記録されています。

当時のスペイン宣教師というのは、表向きの役割はキリスト教の伝道ですが、裏では立派な軍事組織を持つ、僧兵軍団です。
実際のキリスト教の伝導とは異なり、それぞれの国民に受け入れられやすそうな調子の良いことを言って改宗させ、頃合いを見計らって、軍隊を送り込み、人民の殺戮や財宝の強奪、ひいては植民地占領をしていたのです。

日本が内乱に明け暮れていた時代の戦国大名たちは、最初は、宣教師たちについても、ただのものめずらしさしかありません。
ザビエルは、あちこちの大名に招かれ、大名たちもキリスト教の信者になったりもして、伝道師たちを快く受け入れていました。

ところが唯一、日本が他の国々と違っていたのは、彼らが持ち込んだ鉄砲という武器を、日本人はまたたくまにコピーし、それを量産してしまったことです。
気がつけば、日本の鉄砲所持数は、なんと、世界全体の半数を占める莫大な数になってしまいました。

宣教師たちも、さすがにこれには驚いた様子で、イエズス会のドン・ロドリゴ、フランシスコ会のフライ・ルイス・ソテロらが、スペイン国王に送った上書にも、このことについては明確な記述があります。

~~~~~~~~
スペイン国王陛下、陛下を日本の君主とすることは望ましいことですが、日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難です。
よって福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向けるしかありません。
~~~~~~~~

住民数を言うなら、南米やインドの方がはるかに住民数が多いわけで、城塞の堅固さも、日本の平城は、アジア、ヨーロッパの城塞には敵いません。
にもかかわらず、彼らが「日本は住民が多く、城郭も堅固で、軍隊の力による侵入は困難」と書いているのは、単純に、鉄砲の数が圧倒的で、とても軍事力で日本には敵わない、ということです。
だから、「福音を宣伝する方策をもって、日本人が陛下に悦んで臣事するように仕向ける」というのです。

こうしてスペインは、日本での布教活動に、まず注力していきます。

一方、あたりまえのことですが、スペインの狙いは日本だけではありません。
お隣の明国も、スペインは植民地化を狙っています。
こちらは、鉄砲をコピーするような能力はなく、単に人海戦術、つまり人の数が多いだけです。
ただ、大陸は広く、その調略には手間がかかる。

ちなみに当時のスペインにとって、朝鮮半島は対象外です。
朝鮮半島は、明国の支配下だったわけですから、明が落ちれば朝鮮半島は、自動的に手に入る。
それだけのことです。

さてそのスペインですが、明国を攻略するにあたり、当時、世界最大の武力(火力)を持っていた日本に、一緒に明国を奪わないか、と持ちかけています。

ところが日本には、まるでそんなことに関心がない。
そもそも信長、秀吉と続く戦国の戦いは、日本国内の戦国の世をいかに終わらせ、国内に治安を回復するかにあったのです。

信長は、比叡山を攻めたり、本願寺を攻めたりと、まるで第六天の魔王であるかのように描かれることが多いですが、実際には、次々と行なった信長の戦いの目的は、一日も早く戦乱の世を終わらせることに尽きた。
だからこそ、多くの人々が信長に従ったということが、最近になって発見された各種文書から、次第にあきらかにされてきています。

このことは秀吉も同様で、なぜ秀吉が人気があったかといえば、百姓の代表だから百姓の気持ちがわかる。
戦乱によって農地が荒されることを多くの民衆が嫌っていることを、ちゃんとわかってくれている人物だったからこそ、秀吉人気はあったのです。

要するに、当時の日本の施政者にとっては、日本国内統一と治安の回復こそが政治使命だったわけで、わざわざ明まで出かけて行く理由はひとつもない。

ところが、日本が秀吉によって統一され、なんとかその治安と太平を回復すると、今度は、対明国への対策が大きな課題となってきます。

どういうことかというと、スペインが日本に攻めて来たとしても、彼らは海を渡ってやってきます。
スペインとの直接対決ならば、海を渡ってやって来るスペイン人は、数のうえからいえば少数であり、火力、武力ともに日本の方が圧倒的に上位です。
従って、日本がスペインに攻略される心配はまるでない。

ところが、スペインが明国を植民地として支配下におさめると、様子が違ってきます。
いかに数多くの鉄砲を日本が持っているとはいえ、スペインに支配された明国兵が、数の力にモノを言わせて日本に攻め込んできたら、これはたいへんなことになる。
元寇の再来です。
これは驚異です。

となれば、その驚異を取り除くには、スペインよりも先に明国を日本の支配下に置くしかない。
火力、武力に優れた日本には、それは十分可能なことだし、万一明国まで攻め込むことができなかったとしても、地政学的に朝鮮半島を日本と明の緩衝地帯としておくことで、日本への侵入、侵略を防ぐことができる。

このことは、ロシアの南下政策を防ぐために、明治日本が行なった政策と、当時の状況が酷似していることをあらわします。

さらにいえば、秀吉は、すでにこの時点でスペインの誇る無敵艦隊が、英国との戦争に破れスペイン自体が海軍力を大幅に低下させていることを知っています。
ですから、スペインが海軍力で日本と戦端を交える可能性は、まずありません。

一方、長く続く戦乱の世を終わらせようとする秀吉は、全国で刀狩りを実施し、日本の庶民から武力を奪っています。
これはつまり、日本に太平の世を築くために必要なことであったわけですが、同時にこのことは、もし日本が他国侵逼の難にあったときは、日本の戦力を大きく削ぐことにもつながってしまうのです。

ならば、武力がまだ豊富なうちに、余剰戦力を用いて、朝鮮出兵を行ない、朝鮮から明国までを日本の支配下に置いてしまうこと。
これは我が国の安全保障上、必要なこと、であったわけです。

こうして秀吉は、文禄の役(1592~1593)、慶長の役(1597~1598)と二度にわたる朝鮮出兵を行なうのですが、同時に秀吉は、スペインとも果敢な政治的交渉を行なっています。

何をしたかというと、スペインに対して、日本に臣下としての礼をとれ!と申し出たのです。

最初にこれを行なったのが、文禄の役に先立つ1年前、天正18(1591)年9月のことです。
秀吉はスペインの東亜地域の拠点であるルソン(フィリピン)総督府に、原田孫七郎を派遣し、「スペインのルソン総督府は、日本に入貢せよ」との国書を手

この回答への補足

ありがとうございます、昨日の大河ドラマでも暴君と化した秀吉として脚色されていました。残念です。

補足日時:2014/11/03 09:40
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