電球を取り換えるだけで家族を見守る

身体は健康にもかかわらず、人は自ら苦しみを抱えてノーコン状態になることがあります。
そんな不安や苦しみが起こる仕組みと解決について、です。

例えば失恋がきっかけのような苦しさ、訪れてもいない将来の離婚や孤独死などを心配して苦しむ、ありもしない噂を気にして心病む、人と比較して劣等感で苦しむ、過ぎた過去をいつまでも悔やむ、など要は妄想的な苦しみなんですが、これらは自らの意識思考から発しておきながら、なぜ自らの意識思考では消滅させることが出来ないのか、という現象について。

こういうのは通俗心理系になるのかもしれませんが、意識的な思考や深層にある感情とは別に、無意識下に身体的な感情のようなものがあり、それら双方のバランスの状態で、精神的快楽や苦痛が自分の意図とは関係なく発生して、感情や気分を左右しているんじゃないかと、ある日気がつきました。

そこでやはり問題となってくるのが、負のノーコントロール状態の感情、気分が落ち込んで意識しても改善しない状態、うっ屈した気分からの脱出はなぜ強く意識しても解決せず、何かの精神的上書きが起こるのを待つしかないなど他力本願的なのか、ということです。
こじらせればうつ病へと発展していくこともあります。

脳の働きには様々な守備領域があり、もしかすると無意識部分の身体感情があるなら、というかあるようですが、これと意識思考のバランスが乱れている状態、それは意識部分が実現不可能な欲求を持っている時、身体側はそれを身体的なピンチと捉えて意識部分にも分かるように信号を送り(苦しみの脳内ホルモン分泌)、何か対策をしましょうねという仕組みで、苦しみを発生させているんじゃないかと。

しかしこれらは複雑ではなく、その身体側の感情のようなものと意識側の思考状態が食い違えば当然痛みが起こり、逆に意識側が身体側と仲良く歩調を合わせて協力し合えば、精神的には安定するという実にシンプルな現象なんだなと思いました。

既にこの手の苦しみの積極的な解決方法としては、精神カウンセリングのフォーカシングという手法や座禅瞑想などで、意識部分を無にして身体の状態に耳を澄ますと心の縛りが解きほぐされますよ、というのがあります。
そして昔からピンチの時は「大丈夫、心配ない」とか、「ま、いいか、何とかなる」 と自分に言い聞かせよと言います。

が、さらに身体側の感情のようなものを現実的に理解できれば、それに積極的に働きかけることで心の疲労はさらに軽減されるのではないか、と思いました。

無意識部分の身体感情のようなものに積極的に働きかけ、歩調を合わせることで、苦しみの脳内ホルモンの分泌を抑えられればノーコン状態に陥らずに済みますし、陥った後でも早期回復が可能ではないかと思います。 

そこでこの、「無意識部分の身体感情のようなもの」って、学問的にはどう解釈されているのだろうか、ということや、このイメージをもっと具体的、積極的に活用したスキルはあるのか? です。

このような現象について、より専門的なご意見やそれ系の書籍があれば、そのご紹介などをと思いましての質問です。
ちなみに、アン著「やさしいフォーカシング」は読みました。

(スピチュアル系は少々苦手ですが、現実的、具体的で分かりやすければ良いかな、と思います。)

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A 回答 (12件中1~10件)

無意識と有意識の積極的バランスコントロールで解決?と云う事は、出来るなら可能と言う意味になりますが、出来ない相談と思います。



その理由はその二つの意識は『没交渉』の間柄だからです。お互いに毎秒毎秒連絡を取り合っていながら『お互いに知らない間柄』と言う意味です。

この関係性を科学的に或は論理的に説明する事は、今現在での脳科学の文献から、容易に説明する事は可能ですが、貴方に教える事は出来ません。禅的な言い方をするなら『貴方が分った時教えてやる事が出来る。』と言う言い方しか出来ません。

この意味は『知的理解』と本当の意味での『分った=体得とか、体認』は違うと言う意味になります。

知的理解とは『頭の中で理解した』と言う意味ですが、頭の中での理解だけでは実際の仕事の役に立たない事で理解し易いと思います、或は水泳の練習を畳の上で練習している状態でしかないと言う意味になるからです。

仕事のコツを知的理解だけで理解(体現)出来ないという意味です。

貴方の質問には大変有意義な問題が含まれています。この意味は人間としての全ての疑問が含まれているからです。

人間が抱え込んでいる苦しみ、或は魂の救済という問題がこの中に凝縮されているからです。人間の苦しみは全て、苦しんでいる『本人の頭の中で作られている。』と言う実態があるからです。

同じ環境の中でストレスにする人と、ストレスにしない人の違いです、同じ出来事でも同じ環境からのメッセージ(情報)でも、本人の受け取り方や感じ方がストレス源になっている事実があるからです。

こう云った感じ方や物事に対しての向き合い方で、人間は苦しんだり悩みを抱える事になっているからです。

如何いった理由でこうなってしまうのかを先に書いて、その原因を次に書いて、最後に解決するべき問題点を書いてみます。

如何いった理由でこうなってしまうのか、と云う事は『人間の心の構造上の問題からです。』人間は悩む様に出来ているからです、この事が分る事を道に至ると言い表します。詰まり自分自身を知るといった意味です。

人間の心の構造を説明したいと思います。人間の心は二つの機能から成り立っています。

一つは考えたり感じている『心』=自我意識です。この心が自分の全てと思っている事から、悩みや苦しみが始まりながら、解消する事が出来ないジレンマが始まっています。顕在意識と表現している心です。

是に対してもう一つ心が在ります。『今現在の情報の全てを受け止めて、自我意識に伝えている機能です。』この心のままで生きた場合には『真実の世界』で生きていると表現出来ます。今この場所での置かれた情報を全て処理する機能です。

恐い時には怖いと教えている機能です。安心出来るところでは安心出来ると教えてくれている機能です。身体的の苦しさも伝えている機能です。感じ方や考え方を『無視した存在としての機能です。』

この機能は『無意識の自分を司っている者です。』自我意識に『感情や考えを湧き上がらせてる者』としての機能です。

赤ん坊が、何も学ぶ以前から『全てを兼ね備えて、働いている機能』を働かせている者の事です。言葉にするなら『命を働かせている働き』と言う機能です。

脳の機能分化で説明する事が可能です。ウイキペデアからです。

『”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

こう云った脳の機能を脳卒中の為に、自分の体験として死の淵にまで行ってしまって、九死に一生を得て生還して語っている動画をご紹介します。


もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

URL:


この博士の体験を、宗教体験、或は神秘体験と呼んでいると思います。キリスト教的な表現なら『神と和解している最中』と言う意味です。仏教系なら『自分自身の仏性(命の働き)と出会っているところ』見性成仏中と言う意味です。


最後になりましたが、如何にしたら道に至る事が出来るのか?という問題です。悟りを開く体験はどうやったら可能か?と言う点に付いてです。

いろいろな観点から書いてみます、神経症で苦しんでいる場合や、心の病で苦しんでいる場合や、自律神経失調症や過敏性腸症候群などの心身症で苦しんでいる場合では、心の矛盾を苦しんでいると言う意味があります。

この場合では『症状を受け入れる事』で全て解消します。症状は全て自分の頭の中で作り上げた妄想と成っていますので、元々無かったものと分るからです。自分の意識する力で作り上げていただけだった事が『身体で分るからです。』是以後心の矛盾で苦しむ事がなくなります。心の矛盾が解消するからです。

健常者の場合では『強く願う事』が一つの条件になります。絶えず願う事が大事です。『意識的に願う事です。』ですが願う事を忘れてしまう場合があります。この時『願っていた事を忘れていた事』に気が付く場合があります。

この時『無意識の自分から、自我意識に戻る時』自分の意識が発生する瞬間に立ち会う場合があります。この時の体験を見性と言っています。

感想としては、元々分っていた事と感じます。母親のおなかの中にいた時の事とか、おなかから出た瞬間の心持が分かったと言った心持です。

神経症などでは『症状などは無くならなくとも良かった』くらいの感じです。健常者の場合では『悟りなど何処にも無かった』くらいの感じになっています。


何故かと言うなら、元々備わっていた事を『無くしてしまった』と勘違いしていただけだからです。目の前の事実をそのままに認める事だけが全てだったからです。


『嗚呼このままで全てが整っていた事』を実感するだけだからです。在るがままの世界に居た事を体感するだけだからです。

学ぶ本があるなら、鈴木大拙博士の著作したものをお勧めしたいと思います。博士の場合26歳で見性して、生涯を禅仏教の研究に費やしているからです。

体得してから書いていますので、その書き方には親切心が丸出しになっています。必要なところとか、強調したいところが書いてあるからです。無駄な表現が無いことが特徴だからです。

博士の本を読んで32歳の時に『無意識の意識に出合った事があるからです。』
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この回答へのお礼

>貴方の質問には大変有意義な問題が含まれています。この意味は人間としての全ての疑問が含まれているからです。


A. でしょ?


>人間が抱え込んでいる苦しみ、或は魂の救済という問題がこの中に凝縮されているからです。人間の苦しみは全て、苦しんでいる『本人の頭の中で作られている。』と言う実態があるからです。


A. やっぱり。(゜-゜)♪


こういう現象に気付いてからというもの、ムダな欲による雑念を意図的に一掃し、至って平常を保てるように、そして無意識または深層で欲しているであろう刺激も、叶えられない時にはその調整もできるようになりつつあるかと。

しかし世間にある様々な現象は非常に複雑で、もちろん全てをうまくやろうなんて思っていませんが、自分に出来る範囲で、要は言葉にすれば複雑なことも、感覚としてシンプルに捉えることで、少しは良い方向へ変われると感じています。

あまりに深く追求するにはとても難しいテーマですし、はっきりとした答えのない分野です。
今の私なりに思うのは、深く難しく追求し、これが正解なんだと主張するのも、また欲深い煩悩の表れではと薄々感じてしまいますので、今のところはそこまで至る必要はないな、と思っています。

しかし、ここに質問して様々なご意見を頂き、書籍を紹介して頂いて、おかげで少し進歩できました。

瞑想して自らの心と書く「息」に集中し、無心を目指すと穏やかになれるとか、「しなければいけない」からの解放を唱え自分へ暗示をかけることを勧めるセラピスト、過去の出来事が今の苦しみを生みだしているとかいないとかの心理学、ニューロンは分かっても意識を説明することはできない脳科学など、言葉や表現は違えども目指すところのイメージがちょっと見えてきた気がします。

詳細なご回答およびご紹介、有難うございます。

お礼日時:2014/11/06 15:23

No.9です。

 補足? 追加?の質問などに対して

☆そうなんです。これが在るのか無いのか、に疑問を持っての質問です。
⇒ 「なにやらあるらしい」という段階では、「意識的な思考や深層にある感情とは別にある無意識下に身体的な感情のようなもの」とは限定できないでしょう。《意識的な思考や深層にある感情とは別》といくつかの例でもきちんと判定できないと、《意識的な思考や深層にある感情とは別》と説明するのは不適切です。通常の用語では感情は喜怒哀楽・快不快・不安恐怖・ハイテンションなどの心的状態を示します。かゆい・こそばゆい・ひりひり・ちくちく・重い・体が軽い・きびきび・鈍重・熱っぽい・まぶしいなどの身体的な感覚に関わるものは、通常の用語では感情の熟語は使いません。《無意識下に身体的な感情のようなもの》を何かの言葉や文章で表現し、10人中3,4人はその内容・概念を共有できるものでないと、《無意識下に身体的な感情のようなもの》があるらしいとも言えないでしょう。

☆目的論的に、価値の観点 の意味をもう少し分かりやすく砕いて説明してもらえると助かるのですが。(生理現象や病理現象、あるいは認知機能を、目的論的に、価値の観点で考察することから離れた方がイイ)
⇒ 「○○するために△△のことがおきる」のように、△△の発生を○○の実現や達成、○○への寄与を述べることで、△△の存在や発生を説明し、納得しようとする方法を目的論的にと表現しました。 「◇◇はとても重要だから、△△のことがおきる」のように述べるのを、価値の観点で考察すると表現しました。 汗をかくのは体温が上がらないようにするため、低温下では体表や四肢、筋肉系への血液供給が減るのは、体温低下を防止し脳血流を確保するため、というような理解の仕方を止めた方がイイという意味です。そのような理解の仕方をしていると、その説明では辻褄が合わない現象に遭遇したとき根本から破綻します。 (省エネルギー的な、短時間処理が可能な)ヒューリスティックな説明や解釈はとても便利ですが、何かを深く調べよう、考察しようとするときには、ヒューリスティックな解釈を利用するとしても、最終的にはそこから離れて、きちんと立証できる考察にしないとマズイと思います。
 
☆全体像が無いということは漠然としすぎている、ということですね?(広く共通理解されている全体像はない)
⇒ ポイントは「広く共通理解されている概念そのものがない・広く共有された共通概念がない」ということです。全体像と表現したのは、《無意識部分の身体感情のようなもの》が単純な一つの限定されたイメージではなく、一種の群・グループのような概念イメージで、その下位概念としていくつもの異なる内容のものや感覚、感情のようなものを含んでいるらしい言葉遣いをされていると感じたからです。

☆2)での幅広くというのは分かりますが、全部を書けばさらに長文になりますので省いています。 ………が、幅広く全体像で理解したほうが良いということですね。
⇒ 長文になるのかもしれませんが、全部を書き出さなくても、異なる内容になるものを具体的にいくつか挙げて、その個々の内容についてきちんと検討していく必要があると思います。 内容が不鮮明で他人と共通認識出来ない状態の事柄や現象では、先に検討が進まないと思います。 また私が「2)」の段落で書いたのは、気分や心的状況は、落ち込む方向のことばかりではないのだから、活動的・発散的な方向のことについても考えることが大事だろう、とにかく感情的にことを受取り思考や行動も感情的になるケースもあるけれど、とにかく冷静・客観的・傍人的・理性的に受取り分析的に思考しその結果でコントロールするようなケースもあるので、色々のタイプについても検討しないと、一つ方向でのみ検討して造り上げたものは、検討や検証が不十分で間違いを内包する危険が高くなると思います。
 
* 学問として捉えるなら、立証や裏付けや専門的な知識が必要、よって嗜好の範疇を超えないほうが良い、という事が分かりました。 健康な人の間で交わすくらいにしておきます。
⇒ おしゃべりとか、感想の述べ合い、意見を戦わすというのは、スポーツ観戦、映画鑑賞、役者の演技の好悪、小説のレベルのことでも、あるいは社会問題・政治問題でも、天文、生物、物理化学の問題でも、歴史上のことがらにでも、さらには会社員が上層部や上司に関して仲間内で言い立てるのも、結構楽しくて、人生を有意義な感覚にしてくれます。 病人同士でも、病気や治療、薬について談義したりしているのは、じーっと黙りこくっているよりも心が晴れるし、楽しいときを過ごすことにもなります。 ですから、健康な人の間で交わすとは限定する必要はないと思います。 
ポイントは、それが科学的に検証に耐えるものでも、通説に沿ったものでも、真に近づく確実な方法でもなくて、人生を楽しく充実させる手段の一つであって、人間関係を親密にするやり方だとわきまえておくことだと思います。 そうした内容の(素人)談義を楽しめる間柄でやることは、良いのじゃないかと思います。 大事なのは、専門的あるいは公的に通用させるような内容でもないし、そうした目的を持った検討や思考をしているのではないと、きちんとわきまえておくことだと思います。

この回答への補足

無視されっぱですがそれは良しとして、皆さんから教えて頂いた本を早速数種斜め読みしましたところ、自分の無知さ加減に赤面しないでもなかったです(笑

科学的に立証とかとなると、あーでもないこうでもないという言葉の羅列で余計ややこしくなっている感がありますね。 

結果、「不明」、「らしい」 ということを知ることができましたが、大勢で共有するためにはこういう手順で証明しなければいけないんだな、というのが分かりました。
しかし挙句、その意見は違うとか論争にまで発展する様は、むしろ滑稽にも見えます。

証明されてもいなくても、私たちは実際感じることが出来ます。

そこで思うのが、やはり、
「これらは複雑ではなく、身体側と意識側の状態が食い違えば当然痛みが起こり、逆に意識側が身体側と歩調を合わせて協力し合えば、精神的には安定するという実にシンプルな現象。」
というのは間違いなく在ると思います。

たったこれだけの事実を理解すれば、余計な心労は軽減されると思います。
しかし、そこにたどり着くまでの、様々なスキルが必要ではあるんですが。
(つぶやき五郎)

補足日時:2014/10/25 11:18
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この回答へのお礼

空想的な思い付きは、理論的な裏付けや適切な言葉で表現することで、ただの空想から実際に検討すべき価値の有無が分かってくる、ということですね。
そんな感じで考え直してみたところ 意識を内面に集中することで身体の微弱な違和感を感じ取り、それを認め解きほぐす。
私の疑問はどうやらフォーカシングの技法をもう少し詳しく知ることかなと思えてきました。

もう少し絡んで頂きたいのですが、とりあえず「きちんとわきまえられない段階」で、もう一度問わせて頂きたいと思います。

今、問題視している負のノーコン状態、気分が落ち込んで意識してもどうにも改善しない状態、そんなうっ屈した気分からの脱出はなぜ強く意識しても解決せず、何かの精神的上書きが起こるのを待つしかないなど他力本願的なのか。
例えば失恋がきっかけのような苦しさ、訪れてもいない将来の離婚や孤独死などを心配して苦しむ、ありもしない噂を気にして心病む、人と比較して劣等感で苦しむ、過ぎた過去をいつまでも悔やむ、孤独感の苦しみ、などは叶えられない欲求のために発生していると思うのですが、これらの苦しみは受け身のようでありながら、実は自らの意識思考から発されていて、にもかかわらずなぜ自らの意識思考では簡単に消滅させることが出来ないのか、という現象について。

既にこの手の苦しみの積極的な解決方法としては、精神カウンセリングのフォーカシングという手法や座禅瞑想などで、意識部分を無にして身体の状態に耳を澄ますと心の縛りが解きほぐされますよ、というのがあります。
そして昔からピンチの時は「大丈夫、心配ない」とか、「ま、いいか、何とかなる」 と自分に言い聞かせよと言います。

これらは何を感じ何に言い聞かせているのでしょうか?

通俗的でも良いので人助けと言う目線で、思われるところをコメントを頂ければ助かります。

お礼日時:2014/10/22 11:03

#8です。


コメントありがとうございます。

>しかし、あまり深くは入らないほうが良さそうだな、とも・・

そうですね。
だから、健康な人の範疇と、医療的な対応や治療を要するレベルと、区別して考えることができれば良いと思います。

対処できるように病気のことを深く学ぶべきと言いたかったのでなくて、健康な人とそうでない人の違いがあるということを知っておくべきだと思ったのです。
区別を付けられないのが危険。

むしろ難しいことは専門家にお任せしたほうがいい。


誰かを治してやろう、でなくて、「自分のため」とか、「心の土台が健康な人がより良くなるための方法」として考えるならば、あまり心配ないと思いますよ。

肉体に例えたら、健康増進のための運動とリハビリは違いますよね。
腰痛持ちの人は一応、腰に気をつけながら運動したほうがいいでしょう。
そんな感じで。
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この回答へのお礼

度々のご回答を有難うございます^^

お礼日時:2014/10/23 14:37

2つの回答


1)意識的な思考や深層にある感情とは別に、無意識下に身体的な感情のようなものがあり、それら双方のバランスの状態で、精神的快楽や苦痛が自分の意図とは関係なく発生して、感情や気分を左右しているんじゃないかと、ある日気がつきました。
☆ しばしば、同時にあるいは短時間内に、いくつかのことを進め行動し、聴き取り、思い出し、思考したりします。歩行中でも、野球観戦中でも、授業で講義を受けているときや仲間と話し合っている最中でも、ひとつことしかしないのはむしろ希です。酒やタバコを楽しみながら、テレビでちらりゴルフの中継を眺め、そして3人の友人と歓談し、このあとどうしようかなとも思っていたり、昨日の楽しかったことを思い出したり、あすの発表はうまくできるかを気にしたりもする。ああそういえば最近腰がすこし痛い、いまも妙な感じがする。 また3人の中の一人とはあの件を打ち合わせ役割のすりあわせをしなくちゃとも思ったりする。 酒がまわってきたし、テレビのゴルファーの出来をみて、楽しさが増してきた感じもする。(お気に入りのチームや選手が悪い戦績だと不機嫌になるひともいるようです) ということは、2つの要因のバランスだけでどうこうというほど単純ではないのが、気分や感情だということでしょう。 双極性障害(躁鬱病)の方が躁状態になったらどうにもならないことがあり、大うつ病の最盛期にはまた別の意味でどうにもならないことも多いです。 これらは、比較的に単純で脳内の機能異常が起きているので、他の要因をいろいろかえてもどうにもならない状態になります。 尿管結石やガンなどでひどい痛みがある場合は、それだけですべての状態が支配されたかのように思考もほとんどはたらかなくなります。いわゆる感情も痛い苦しい以外はなくなってしまいます。 ということは、複雑に要因が絡んでとばかりは言い切れないということでもあります。
《意識部分が実現不可能な欲求を持っている時、身体側はそれを身体的なピンチと捉えて意識部分にも分かるように信号を送り(苦しみの脳内ホルモン分泌)、何か対策をしましょうねという仕組みで、苦しみを発生させているんじゃないか》
そう言う簡単単純な理解ができる場合もないことはないと思いますが、多くのケースで同様の理解が可能だとはならないと思います。
2つの要因だけでも分析検討の対象にできないものかと考えるのは良い方法だと思いますが、その場合その2つの要因はしっかりと独立して調べる対象に出来る条件を備えていることが大事です。内容がはっきりしない、調べようがないものを要因の一つとしてしまうと、空虚な思索が堂々巡りします。 《意識的な思考や深層にある感情とは別にある無意識下に身体的な感情のようなもの》を明確にする手法を検討しないと、それを現実的に理解し、それに積極的に働きかけることは出来ません。
また、《意識部分にも分かるように、信号を送り、何か対策をしましょうねという仕組み》という目的論的な説明はわかりやすいのかもしれませんが、何か対策をしましょうという信号を受け取って何か出来るという条件やメカニズムがあることが立証できなければ、信号伝達の目的論的説明は元が破綻しているとみなしても良いのではないかと思います。 
生理現象や病理現象、あるいは認知機能を、目的論的に、価値の観点で考察することから離れた方がイイと思います。
《無意識部分の身体感情のようなもの》ということで広く共通理解されている全体像はないのだと思います。

2)苦しい、辛い、悔やむ、悲しい、落ち込む、意欲が湧かない、積極的興味が起きない、欲そのものが消失しているというような方向での問題ばかりを気にされているようですが、楽しい、やる気が湧く、はち切れんばかり、活動したくて、やりたくて、強い興奮状態や没頭状態からなかなか脱却出来ないということもあるのです。 少なくともその両方向を検討するか、あるいはもっと様々な状態を検討しないと、脳の働き、気分や感情、身体や環境との関係などは見えてこないだろうと思います。 臨床心理、セラピスト、医療関係者あるいは障害を抱えた人の周囲の人がメンタルで悩むことについて考えるのならば、方手落ちの検討でも済むのでしょうが、深く広くちゃんと理解することを目的にするのであれば、逆方向や異なる方向の状態も検討の対象に積極的に入れた方がイイと思います。メンタルでうつ的な状態になるのを避けるという視点から調べ始めるのは避けた方がイイと思います。

3)目的が うつ的な状況に陥らないように普通の状態であるときにやっておくとよい健康維持方法の追求・実践の手引きということならば、その手の本は本屋に行けば山ほどあると思います。
専門書にそのような目的のものを探すのは見当違いだと思います。
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%84%E3%81%84%E3%81 …
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この回答へのお礼

実に専門的なご意見を有難うございます。

前半の
>《意識的な思考や深層にある感情とは別にある無意識下に身体的な感情のようなもの》を明確にする手法を検討しないと、それを現実的に理解し、それに積極的に働きかけることは出来ません。

>何か対策をしましょうという信号を受け取って何か出来るという条件やメカニズムがあることが立証できなければ、

☆そうなんです。これが在るのか無いのか、に疑問を持っての質問です。


>生理現象や病理現象、あるいは認知機能を、目的論的に、価値の観点で考察することから離れた方がイイと思います。

☆目的論的に、価値の観点 の意味をもう少し分かりやすく砕いて説明してもらえると助かるのですが。


>《無意識部分の身体感情のようなもの》ということで広く共通理解されている全体像はないのだと思います。

☆全体像が無いということは漠然としすぎている、ということですね?
 
☆2)での幅広くというのは分かりますが、全部を書けばさらに長文になりますので省いています。
が、幅広く全体像で理解したほうが良いということですね。

☆3)なるほど、専門的になるとさすがに複雑すぎますね。

素人考えでは曖昧で漠然とし過ぎている、という事が何となくわかりました。
かといって学問として捉えるなら、立証や裏付けや専門的な知識が必要、よって嗜好の範疇を超えないほうが良い、という事が分かりました。
健康な人の間で交わすくらいにしておきます。

お礼日時:2014/10/21 14:52

まず無意識についての一般的な説を読んでみてはいかがでしょうか。

ロングセラーです。

「無意識の構造」 河合隼雄、中公文庫
http://www.chuko.co.jp/shinsho/1977/09/100481.html

でももしかしたら、同じ著者の「コンプレックス」(岩波新書)のほうが分かりやすいかもしれない・・・。


>気分からの脱出はなぜ強く意識しても解決せず、

普通の憂鬱や怒りでなくて病的なものもあります。考え方や性格が大きく影響するものと、脳内物質のアンバランスが大きく影響するものとあると思います。
また、脳という臓器の強さや弱さ(頑丈か敏感か)にも個人差があると言われています。

気が弱いとかでなくて、脳内物質のバランスが乱れやすいかどうか。
血圧がもともと高い・低いとか、生まれつき関節が硬いとか、体質的にどうとか、そういう感じの機能的な意味での強・弱です。
それでも「脆弱性」なんて言われるのは嬉しくありませんが。

http://www.lab.oho-u.ac.jp/med/omori/mentalhealt …

精神的な病気について、医療の観点から書かれた本をお読みになってみると良いと思います。

それから各種のアプローチ方法の本を読むほうが良いと思います。
NLP、ゲシュタルト療法などいろいろありますが、やたらとやると危険な場合もあります。
考え方自体は大変興味深いし、役立つ部分もあるのですが、合わない人や病気の人にやったら大変です。悪化させかねません。

http://counselornotubuyaki.blog.fc2.com/blog-ent …

http://kokorowith.seesaa.net/article/356117765.h …
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この回答へのお礼

著作のご紹介など有難うございます。

なるほどこういうことにも個人差があって、デリケートな扱いを必要とするんですね。
深く学ばないと見えてこないことが多いようです。

しかし、あまり深くは入らないほうが良さそうだな、とも・・

お礼日時:2014/10/21 14:58

心理学ではないですが、脳の神経細胞は、傷付いたり殴られると破壊されます。


そうすると、修復に時間がかかります。
また、マイナス思考を続けると、マイナスな感情の脳神経が作られます。

http://www.amazon.co.jp/「幸せ脳」は自分でつくる-講談社+α新書-久恒-辰博/dp/4062722143

自論は、自分に正直に生きる事。
嫌な事はその場で言い、引きずらない。
自分の欲から出た物か、相手の嫉妬による策略か自分自身の見たくない面、信じたくない出来事に目をむけ事実に向き合う。

そして、最後は、人を許すこと。
それから、相手の嫉妬や
陰謀に気付いたら、他の人も書いてましたが負の人に近づかない。関わらないことです。
逆に、誤解され、悪くとられたら、最後まで釈明することです。

何か心に永遠に残る出来事はそれが解決されてないから。
ただ歴史上の人物と同じ過去の出来事は、どんな小さな事もその瞬間の歴史で今の自分と別人と思うこと。
今、どうあるかを悩んだ方が建設的だ
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この回答へのお礼

早速注文しました(笑
ラストの2行はちょっと理解できませんでしたが、それ以外は納得です。
マイナス思考を続けると、マイナスな感情の脳神経が作られる、という話もどっかのうつ病の話で聞いたことがあるのを思い出しました。

ご回答有難うございます。

お礼日時:2014/10/20 19:15

親切に回答していただきましてありがとうございました。


精神錯乱に陥った子猫です。子猫だからということは救われることです。
期待していた未知のサンプルではありませんでした。
人は心なのです。いい加減にしなさい。馬鹿はそのサンプルに合うものを見て喜ぶ。
あたわない人がいることを拒否する。
あなたがその馬鹿加減生きているようにまじめな人は芸術を行っている。
馬鹿にはそれが見えない。一つは馬鹿には分からない。知恵がないから。
一つは馬鹿には分からない。その人が少ないから。

馬鹿に見えるものは(将来の)馬鹿の像である。馬鹿にはそれがいかに醜いものかわからない。
あなたの自由ですから、私は知らないよ。

この回答への補足

なるほど、とても凡人には分からないような飛んだ世界観をお持ちなんですね・・・
凡庸だからもがいているんじゃないでしょうか?、私も含め多くの人が。
適切な回答が出来ないにもかかわらず、書き込まずにはおれなかったんですね・・・。
ということは、この大したことのないテーマに引き込まれた訳で、興味を持って頂きその点ではどうも有難うございました。
あっとそれから・・このQ&Aで良く(馬鹿)という単語を連発する人がいますが、それを連発する本人がその単語と同一に見えてくる現象、というのは実際あると感じています(笑 

補足日時:2014/10/20 10:16
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ちょっと文が長くなっているので、断片的に見ていきますね。



〉なぜ、意識化されたトラウマ的なエピソード記憶を意識の力で抑圧できないか?
これは、先天的・後天的な要素のいずれも影響してますね。人は、ロボットと違って簡単に脳を初期化できません。記憶喪失なる現象もありますが、まー、不要な記憶を意識して記憶喪失できるなら日本人がここまで鬱に苦しむことも無かったでしょうに。
さて、本題ですが、まず先天的な要素として人間の記憶には、意志の力を共わない記憶と意志の力が伴う記憶があります。
そして、各々の記憶にはバックアップが必要です。毎日、定期的にバックアップしとかないと今日の自分と昨日の自分が別人になってしまいますからね。各々の脳細胞が自律して興奮し、記憶を保持してるんですよ。
で、重要なのがここからで約85パーセントはネガティブなイメージなんです。人類は進化の過程で、多くの危機があり、そのたびに過去の記憶を想起させて、常に不安でいることが身を守る手段でした。
猿から進化しても、その手の防衛反応はそのままで、鬱病は、ネガティブイメージの自分のバックアップ作業がもたらした結果であるわけです。
で、解決方法ですが、過去も含めてありのままの自分を認める。自分のライフスタイルを幸せに向かって前進させる。自分の周りの人たちを幸せにする。最後に自分にとってマイナスになりそうな人と一線を引くですね。
大体はミラーニューロンが影響してます。
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この回答へのお礼

非常に参考になります。

まとめるとやはり脳にはそういう性質がある、という事でしょうが、ネガティブ85%というのが面白いですね。
(果汁じゃなくポジティブでもなく・・・失礼^^;)
脳が不安をストックすることで、身を守る機能として働いているのも、リアルに理解できます。
85%ということは、もともとネガティブ感情になりやすい、と理解するだけでも効果がありそうです。

原始人脳のまま現代を生きているという話は、下園氏著の強烈なタイトルの本にも書いてありました。
その著書で印象に残ったのがフォーカシングのくだりですが、自己コントロール法としてのそういうスキルがあることを知りました。

解決方法につきましては、そのような他者貢献や慈悲の意識、前向きな活動というのも重要で効果的というのも良く分かります。

私が今、(妄想的に?)考えているのは、活動を行う前または行えない時、油断している時のような無抵抗状態で入ってくる余計な感情を防ぐ、または軽減するという事になるようです。

ちょうど夕べ変な書き込みがあり、それを読み取った瞬間、脳は一瞬で反論イコール敵意と感じその信号を身体側へ反射的に送り、身体が反応したのが分かりました。
身体にわずかながら緊張を感じました。

そこで素早く、意識的に「イヤイヤ大丈夫、何も心配ない。今こうして安全な場所にいるよ。」と身体に語りかけると、緊張がほぐれ余計な妄想や執着に発展することはありませんでした。
(あえて細かく書いています)

クドいようですが、今の社会ではSNSなどが原因の妄想も多いと思います。
身体は健康で安全な場所にいるのに、妄想で暗い気持ちを引きずることは無駄なことだと思います。

ご回答有難うございました。

お礼日時:2014/10/20 10:12

あなたはすこぶる賢い。

として、
もう少し、込み入ったお話をしていただきたい。
サンプルとして頂戴します。
興味深い。

この回答への補足

様々な惑わしが多い現代の人社会の中では、健やかに安心して暮らすためのスキルが多少なり必要だと考えています。 

何でも手軽になってしまった現代では、何もしなければ我欲の為すがままで自ら破滅しかねません。

ネットが普及し過ぎた社会では、大多数の人が惑わされやすく、どこか病みやすい。
そうでなくても、個人主義で孤独感を持て余している人も増えています。
情報があふれすぎて何が正しくて何が誤りか、盲目的な人が蔓延している気がします。
(もちろんそうでない素晴らしい人達もたくさんいらっしゃいますよ)

で、様々なジャンルの本を読んで行くうちに、人の精神状態を健やかな方向へ導いてくれるものには共通の法則があるなぁと、ジャンルを超えて共通している様々なことが見えてきました。
んで、この質問もそのひとつです。

(あ、喋りすぎた)

補足日時:2014/10/19 19:37
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テンパッて本人が楽しんでいるからです。


いや、ほかに仕様がないからです。

この回答への補足

(アサイ・・・・・・)

補足日時:2014/10/19 14:26
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Qパニック発作を引き起こした原因について

パニック障害になる前に
人と話すのが得意ではないのに、がんばって話して脳が停止するような感覚が何日かあったのですが
ストレスになってたんですかね?

Aベストアンサー

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分の身体を攻撃する現象』ですが、このメカニズムと同じメカニズムが働いています。

花粉症の場合では、免疫機能が『アレルゲンと認められたものが、(実際にはアレルゲンではないものに対してまで)体内に存在すると感知した場合に発動します。』そのアレルゲンを体内から排出するための防衛機構が働く事を意味します。又この間違ったアレルギーにならないものにまで過剰反応して暴走してしまうものが花粉症のメカニズムです。

『心や行動や感情』に対しても人間には『危険回避』と言った花粉症に対する身体の反応と同じ様に反応する、防衛機能が存在しています。パニック障害とは今書いた『自己防衛機能』が暴走をしてしまう現象です。

始めに暴走する原因を書いて、後で暴走しない方法とか考え方を書いてみますので参考にして下さい。

パニック障害が起きる背景を始めに説明をして置きます。分り難い事を書きますので分らなくとも良いですので、兎に角読んで置いて下さい。私の云う事が腑に落ちた時貴方はパニック障害から抜け出していると思います。只理解するには時間が掛かるかも知れません。

身体にはアレルゲンと判断する機能が存在するように、心にもそう云った判断する機能が存在しています。是を説明する為には脳の構造を説明する必要が在ります、或いは脳の機能と言ったほうが分りやすいかも知れません。

是は誰にでも備わっている機能ですが、簡単に説明します。生まれたばかりの赤ん坊を想像して下さい、生まれたばかりで何も教え込まれていない『白紙状態の脳』を想像して下さい。学問を学ぶと言う意味では『赤ん坊の脳は白紙』の状態であって、何も知らないでいると考えられますが、実際では『全てを知っています。』

その証拠は、見たものに対して安心出来るものか?、恐怖に値するものか?は教えてもらう必要がない事で証明出来ると思います。又自身の生命維持をする機能という意味に置いても、自分の生命を維持する機能を働かせる事は既に知っています。

此処で問題にしたいのは、『見たものに対して安心出来るのか?、恐怖に値するものか?』という問題です。是は母親の懐にいる時には『”安心して”すやすやと眠っている状態』を言いますが、『”安心”させている者が存在しているからです。』

言い換えるなら『自分の心=自我意識』に『外界からの情報を安心出来るのか?、恐怖に値するのか?』を教える機能が存在している事を意味します。

この教えられた情報によって『赤ん坊が安心したり、恐怖に陥ったりしています。』是がパニック障害に於けるストレスになります。心地良いものは当然ストレス源にはなりません。心地悪いものが問題になってストレス源になります。

此処まで書いて貴方の問題に触れて置きたいと思います、貴方の嗜好に対する問題点です。貴方は好き嫌いが激しい部分があるという問題です。人として生きて行く場合では、良い事も悪い事も誰にでも大体は、等しく襲ってくると考えられます。良い事ばかりに恵まれる人などいないという意味です。

処が貴方の願いは、良い事ばかりを願っていて、厭な事を嫌い過ぎている点が問題になっています。

自分が感じた『五感から得た情報をストレスとして感じるのか如何か?』が問題になっています。

話を変えて”ストレス”の意味を考察します、誰でも同じ環境の中で生きていますが、パニック障害になる人と平然としている人に大別されます、その違いは『同じ環境』の中にストレス源を作り出している人がパニック障害で苦しんでいる事実があります。

言い換えるなら、他の人がストレスにしないものをストレスとして感じている、という意味です。強い言い方をするなら『本人が頭の中にストレスを作り出している部分がある。』という意味です。

もう一つ付け加えるなら、ストレスの意味ですが、それは『受容れたくないもの全般』をストレスと表現します。ですので貴方にパニック障害の症状が出る場面では『受容れたくない情報』が貴方の心に送られている事が原因で貴方はパニック障害としての症状が出ています。

此処が大事なところです、この情報が貴方にとってのパニック障害の原因です。貴方が『受け取りたくない』と感じてしまう情報が、花粉症における『免疫機能を発動させるきっかけになっている事です。』

この情報で、貴方は防衛機制を自分の心に掛けています。つまり『逃げ出したいとか、危険回避をしよう』がパニック障害の原因と結果になっている事です。

したがって貴方がパニック障害から解放されるという意味は、『今までストレスとして受け入れる事が出来なかった事柄を、ストレスにしない、人間性への変貌が求められている事を意味します。』

難しい事を書いていますが、決して難しい事ではありません。今までのように『好き嫌い』の激しかった部分に少し、学びの部分を積み上げるだけで良いのです。

私の云う事を実践して下さい、それは『良い事に遇った場合では”喜び過ぎないでいる事、厭な事に遭った場合では落ち込み過ぎないでいる事』たった是だけです。

今の貴方とパニック障害から抜け出した貴方の違いとは、感じた事柄に対して『向きになって感情に走ってしまっているのか?或いは感情的にならずに冷静でいられるのか?』たった是だけの違いで、パニックになるかならないのかに分かれているからです。

貴方が完全にパニック障害から抜け出した暁には、『湧き上る感情(雑念)に右往左往するのか?或いは”雑念は雑念”としてそのままにして置けるのか?』の違いをマスターしています。

パニック障害とは、『只の雑念に右往左往しているに過ぎないからです。』

パニックになるような事が起きたとしても『泰然自若』としていられる事を学ぶ場として貴方に『パニック障害』という学びの場が与えられています。

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分...続きを読む

Qパニック障害の克服

2か月前位にパニック障害(不安神経症)に陥り、病院にも行き気持ちの切り替え、森田療法など行って少しずつですが、症状がでなくなってきて症状が出ても軽めで済むようになってきました。
ですが、昨日症状が出てしまい、しかも症状が重く最近良くなりだしていたのにショックで、冷や汗ともう治らないんだと思い込み出して本当に落ち込み、そういう時に限って悪い方向ばっかりに考えてしまい、もうワケわからなくなってしまいました。こうした心(脳?)の病は症状が出ても自分は治るんだといつも思って付き合って行けば治るんでしょうか?もうショックで仕方ありません…

Aベストアンサー

パニック障害はあなたも書かれているように、以前は不安神経症と言われていた症状だと言って良いと思います。

あなたは病院に行き、気持ちの切り替え、森田療法などを行なったとのことですが、森田療法の場合には神経質性格の特徴を持っていることが必要になると思います。

つまり、心配症や自己内省性の強さ、負けず嫌いといった神経質性格の特徴を持っている場合には森田療法の学習により不安神経症を克服していくことも出来ると思います。

しかし、こういう神経質性格の特徴を持っていない場合は思うような効果は出てこないと思います。

ただ、神経質性格を持っていたとしても、神経症は良くなったり後戻りしたりを繰り返しながら、少しずつ良くなっていくものだと言われています。

また、森田療法では不安神経症は心や脳の病気ではないと言っていると思います。

ですから、もしあなたが、不安神経症を心や脳の病気だと考えているとしたら、この時点で森田療法の考え方は身についていないということになると思います。

不安神経症は「死の恐怖」に対する「とらわれ」が出来た状態であり、うつ病や統合失調症などの心の病気とは全く異なるものだと言われているのです。

そして、だからこそ、森田療法の学習をしていく中で、この「とらわれ」が薄らいでくると症状を克服していけるのだと思います。

ですから、もし、あなたが神経質性格の特徴を持っているのであれば、森田療法の考え方をきちんと身に付けていけば、充分、不安神経症を治していけると思います。

ただ、今は森田療法を掲げている病院でも、きちんとした森田療法の指導を行なっている所は少ないように思います。

ですから、むしろ、あなた自身で森田療法の学習をしていった方が良いのではないかと思います。

パニック障害はあなたも書かれているように、以前は不安神経症と言われていた症状だと言って良いと思います。

あなたは病院に行き、気持ちの切り替え、森田療法などを行なったとのことですが、森田療法の場合には神経質性格の特徴を持っていることが必要になると思います。

つまり、心配症や自己内省性の強さ、負けず嫌いといった神経質性格の特徴を持っている場合には森田療法の学習により不安神経症を克服していくことも出来ると思います。

しかし、こういう神経質性格の特徴を持っていない場合は思うような...続きを読む

Qトラウマなのか?どうしたら改善はできるのか?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く付き合い、同棲し、結婚も考えた経験もあります。とても癒され、一度治ったと思っていましたが、それから15年くらい経ちました。彼も心が寛大で包容力のある方で、私に優しく対応してくれますが、やはり、無意識に同じ過ちをしてしまいます・・・。

どなたかアドバイスをいただけるとうれしいです。

■彼にしてしまう過ちとは
 (1) 仕事、学歴、趣味等の達成度を、彼に評価してもらい、自分の存在をさらに認めてもらおうとすること。
 (2) 自分がストーカーや変質者に嫌な目に会うと、彼に被害者意識で相談し、彼の気を引こうとすること。

■生い立ち=原因なのか??
 (1) 中学を卒業して、家を出るまで、アルコール中毒の父親が、自宅の壁にビール瓶やガラスのコップを投げつけ、恐ろしくて、男性恐怖症になっていました。女子高に入りました。(→彼が大好きで安心するのに、彼と室内にいると何を話してよいのかわからなくなる)

 (2) 父親から安心して抱擁された経験がなく、いつも愛されたいと思って育つ。(→彼にもっと愛されたいと努力してしまう)

 (3) どのようにしたら父親が振り向いてくれるのか、父の顔色ばかり伺って考え言動してきた。(→彼の顔色ばかり伺って考え言動してしまう)

 (4) 父や機嫌の良い時に、テレビと会話している内容から、高学歴のタレントが好きだと知りました。
   父と会話が成立した記憶はありません。
   勉強して、よい大学に入ったり、資格をとれば、私を認めてもらえて、愛してくれると思って生きてきた。(→彼に学歴、趣味等の達成度を、認めてもうらおうする)

 (5) それとも、上記(1)~(4)のような育った環境と関連性はなく、私の単たる弱さでしょうか・・・?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く...続きを読む

Aベストアンサー

> やってみました。

お疲れ様です。

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

ではそれを父親に面と向かって言うのがよいです。頭の中で。


あとは、彼氏と会う時も頭の中でそう言ったらいいと思います。

言っているうちに慣れてくる。

価値があるのですから、彼に対して何かを証明する必要はないし、
彼の前で幸せでいればいいです。

もちろん、仕事で成功して嬉しければ一緒に喜んでもらえばいいですし、
嫌なことがあったら話を聞いてもらってスッキリすればいいです。

自然体ですよ。
自然体の自分になじむまで、誰の前でも、彼の前でも

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

と思ったらいいです。

Q対面で食事をした時、緊張で頭が震える症状って何?

真剣に悩んでいます。よろしくお願いします!

私は会社員(一応管理職)、40歳女性です。
症状はここ5年ほどでひどくなったような気がします。

あれ?と症状を意識し始めたのはここ5~10年ほどでしょうか・・・。


「対面すること」に対してとても緊張してしまいます。
※緊張するときとしない時があるので困ってしまうのですが・・・

一番は、対面で食事をする事です。

気にしなければいいと思うのですが
食事している様子を見られているような気がして目が見れません。
食事を口に運ぶ瞬間、ブルブルっと手と頭が震えてしまいます。
まさに地獄で味などわかりません・・・。

口に入れてしまえば平気なのですが
口に入れる瞬間が病的にまずい気がします・・・。

会社の上司と仕事で外出をした際
対面で食事をしたのですが、途中で食べられなくなってしまいました。
食べ物に箸まではつけられるのですが、「口」に持っていくとブルブルしてしまいます。

それに似たのが
・対面でタバコを吸う
・対面で字を書く(字は対面じゃなくても見られているだけでブルブルです)

そうですね、じっと見られることに苦手なのかもしれません。
隣同士で食事をするのは全然平気です。

ちなみに不安感があって2年ほど前から病院に通ってお薬は飲んでいます。
※薬では症状はよくなっていないです。

先生からは、そういう事がある前に飲む「頓服」を支給されましたが
あまりよくはなく、事前に対面することがわからない場合も多いので
できれば訓練か何かをして直したいと思っているのですが
いい方法はないでしょうか・・・。

病院ではカウンセリングを勧められましたが
カウンセリング料が高くて手が出せません・・・。

どうにか個人で訓練するいい方法があれば教えて下さい!
よろしくお願いいたします!

真剣に悩んでいます。よろしくお願いします!

私は会社員(一応管理職)、40歳女性です。
症状はここ5年ほどでひどくなったような気がします。

あれ?と症状を意識し始めたのはここ5~10年ほどでしょうか・・・。


「対面すること」に対してとても緊張してしまいます。
※緊張するときとしない時があるので困ってしまうのですが・・・

一番は、対面で食事をする事です。

気にしなければいいと思うのですが
食事している様子を見られているような気がして目が見れません。
食事を口に運ぶ瞬間、ブルブルっと手...続きを読む

Aベストアンサー

訓練する事は逆効果になると思います、学ぶなら『神経症』の原因と解消方法と思います。そう言っている私の場合では、14歳から発症をして18年間の悪戦苦闘の末に完治した経験があります。

この経験をした中から貴方にアドバイスをしたいと思います。

神経症のメカニズムを知る事は、貴方にとって直接的な効果はないと思います、という意味は『頭では分っていながら身体が付いてこない事』が神経症にとってのジレンマだからです。

さりとて、原因がわからない事で、尚更落ち込みが激しくなるということもあると思いますので、一応そのジレンマである矛盾という意味からもそのメカニズムを説明して置きます。

神経症の原因は『心の矛盾』が原因です。この意味は『意識している貴方』VS『意識していない貴方』が意識の根底で『出番争いをしている事』が原因です。

誰にでもある普通の事です。此処のところが分る時、貴方は神経症に置いての、症状に悩む事が止みます。

人間は進化の過程で、脳が発達して来ました、この脳の進化によって神経症や自律神経失調症や、うつなどといったノイローゼの状態が生まれています。

これは簡単な言い方をするなら、意識していない時には出来ていた事が『意識した途端に出来なくなる』という現象です。

『無意識で(意識していない時)、出来ていた事が』意識する事によって出来難くなる、という意味です。

訓練するなら『意識性を学ぶ事』ですが、こう言った事を学ばせてくれるところを余り知りませんが『森田療法』を学ぶ中や『禅』を学ぶ中に、あると思いますが、兎に角時間が掛かり過ぎるという欠点があります。

即効性がありながら、確実性が在る方法がありますので書いて置きます。それは逆説的指向という方法です。

意識する事によって『意識した内容』が出来難くなる事を、逆手に取る方法です。貴方の場合では『食事している様子を見られているような気がして目が見れません。食事を口に運ぶ瞬間、ブルブルっと手と頭が震えてしまいます。』

という場合に『もっと(意識的に)ブルブルっと手と頭を振るわせてやろう』とする方法です。震えが止まらないようなら、もっと意識的に震わせるようにする方法です。

貴方の手や頭の振るいは『貴方の意志の力では止める事も、とめないようにする事も出来ない事』が分ります。震えさせようとした途端に震えは止まります。

身体と意志は通じない事が分ります。


『・対面でタバコを吸う・対面で字を書く(字は対面じゃなくても見られているだけでブルブルです)』という場合も同じです。貴方が意識的に『震えさせてやろう』とした瞬間から震えさせる事が出来なくなります。

神経症の場合『意識性を悩んでいる事』を意味しますが、キーワードは『症状を受け入れる事』が、治るきっかけになります。何故なら『症状として意識する事が、症状にしているからです。』

誰でもが感じている、誰にでもある事を『本人の性格的なものや、本人の感じ方や考え方』が拒否反応をして、受け入れないようにする事がきっかけになって症状として顕れているからです。

不安感にしても同じです、誰でもが何時でも感じている事ですが、不安感を追い出そうとした時から不安感は大きくなり始めています。是が不安障害のきっかけになって不安傷害が確定します。

この不安感から特に強く逃れようとした時『パニック障害』にまで発展する場合もあります。こう云った事をきっかけにしないようにするキーワードが『受容=受容れる』です。

何を受容するのかというと『雑念』です、誰にでもが絶えず湧き上がっているものが『雑面』です。

こう云った雑念にいちいち取り合って『問題にする事が』神経症の症状になっています。

貴方が神経症の外に出た場合を書いて置きますので、参考にして下さい。

今迄は沸き上がる雑念の内『「対面すること」に対してとても緊張してしまいます。食事している様子を見られているような気がして目が見れません。食事を口に運ぶ瞬間、ブルブルっと手と頭が震えてしまいます。

それに似たのが
・対面でタバコを吸う
・対面で字を書く(字は対面じゃなくても見られているだけでブルブルです)』

といった事柄が特に気になっていましたが、神経症的な考え方の対処を出来るようになってからは、『沸き上がる雑念』を問題にしなくて良くなりました。

沸き上がる『雑念』は一過性のものであって、特に問題にしないでいると『湧き上がっては消えてゆく性質がある事が分かります。』この為に、不安などいろいろな『雑念』が湧き上がってきたとしても取り立てて問題にしなくなっています。

雑念の相手をしないでいる時、症状と感じていた事柄は全て『自分が頭の中に作り出していた幻』であったことが分ります。

現実にはなかった事柄を『受容れたくない一心で』頭の中で症状にして、現実の世界であるものと錯覚をしていた事が分ります。

沸き上がる『雑念』に過敏に、或は過剰に反応する事がなくなって『安楽な心持が持てる様になっています。』

症状としていた事柄は、『在ってよし、無くともよし、もうそんな事よりも』楽しくおいしく食事をする事に夢中になっています。仕事も忙しくなってなって、そう云った事に構っている事の方がもったいない感じになっています。

毎日毎日有り難いという忙しさで満たされています。となります。

訓練する事は逆効果になると思います、学ぶなら『神経症』の原因と解消方法と思います。そう言っている私の場合では、14歳から発症をして18年間の悪戦苦闘の末に完治した経験があります。

この経験をした中から貴方にアドバイスをしたいと思います。

神経症のメカニズムを知る事は、貴方にとって直接的な効果はないと思います、という意味は『頭では分っていながら身体が付いてこない事』が神経症にとってのジレンマだからです。

さりとて、原因がわからない事で、尚更落ち込みが激しくなるということもあると...続きを読む

Q仏教の教えの矛盾?

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべき...続きを読む

Aベストアンサー

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫)

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うな...続きを読む

Q人生何歳からでもやり直せるという風潮が死ぬほど嫌い

薬剤師になりたいのですが
40歳から薬学部に進学したら卒業するのは46歳ですよね。
現実的にいく意味があるのでしょうか?(就職とか)
薬学や人体に興味があり、やりがいもありそうだと思ったので
進学したいのですが・・あと給料もボチボチ良さそう・・
(お金よりはやりがいや興味が優先)
無事に卒業しても50前のじじいを雇ってくれる病院や薬局はあるのでしょうか?
あと働きながら昼間の大学に通ってるのは新聞奨学生くらいですよね?
現実と照らし合わせると難しいか・・
もうじき38歳になる独身おっさんで貯金0の日雇い労働者の質問です。

Aベストアンサー

意味があるかどうかは、自分が決めること…

現実はどんな年齢でも目の前にある…

やり直せるかどうかとはあんまり関係ない。
やる人はやる。その事実があるんだからしょうがない。

Q禅の自覚の本質

禅の自覚の本質を、難しい仏教用語をなるべく廃し、回答者様の言葉で15行位で書き込んで頂ければ幸いです。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

人生の少しの間、禅寺にいたのですが、
そこで聞いた体験からの言葉は、禅の自覚を本領とする京都学派の哲学よりも面白いものでした。
そして、本質は同じことを言っていました。
座禅や問答をとおして、痛みや苦しみや悩みが、もはやわけがわからなくなり、
自分が痛いのか床が痛いのかがおぼろげになって、認識ではない悟性のようなところが研ぎ澄まされてくると。
強度として在るがままに在るものが、ただ在るだけと。
わたしは、若冲の絵を思い浮かべました。
夥しい集積でひしめきあうように成っている世界が、空漠の世界とも見える。
点ただひとつが、無限の時空間をはらみ、それらの在るか、無しかは、わたしたちの自と他によりかかる浅い認識に触れているのみと。

Q自分と向き合うには

生きるのに疲れ果てました。未来にも希望を持てず、ただ一日一日を無意味に過ごしています。希望を持ちたい。自分と向き合い前を見て生きたいと思いますが、人と比べても何もかも劣り馬鹿にされ挫折ばかりの人生です。家庭をもったこともありますが、長くは続かず、何もかも中途半端になってしまいます。生存欲はあるのですが、やる気も何も失せてしまっています。お金もありません。自分を見つめて自分と向き合うとはどういうことをすれば良いのでしょうか?

Aベストアンサー

志を立てましょうよ
本気になって、真剣に志をたてましょうよ
生命をかけるほどの思いで志を立てましょうよ

志を立てるのに、老いも若きもありません
そして志があるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのです

文面を読むかぎり
今までのさまざまな道において、いくたびか道を見失い
また挫折したこともあったでしょうが
道がひらけないというのは、あなたの志になお弱きものがあったからではないでしょうか

何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではないでしょうか

過ぎ去ったことは、終わったことです
かえらぬ月日に愚痴をもらしてはいけません

今までに人に頼り
他をあてにする心があったとしたならば、いさぎよくその気持ちを捨ててください

大事なことは、みずからの志です、みずからの態度です
人と比べる必要なんてないんです

自分をみつめ自分と向き合うとは
己の欠点をしり、己の態度を知ったのなら
己に対する自分自身への素直な問いかけなんです

道がひらけぬということはけっしてありません

志をたてましょうよ
他人のためにも
そして何よりも自分のためにも

頑張ってください

志を立てましょうよ
本気になって、真剣に志をたてましょうよ
生命をかけるほどの思いで志を立てましょうよ

志を立てるのに、老いも若きもありません
そして志があるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのです

文面を読むかぎり
今までのさまざまな道において、いくたびか道を見失い
また挫折したこともあったでしょうが
道がひらけないというのは、あなたの志になお弱きものがあったからではないでしょうか

何か事をなしたいというその思いに、いま一つ欠けるところがあったからではないでしょ...続きを読む

Q離人症

離人症を克服したという方いらっしゃればどのように克服したのか教えていただきたいです。
(自律訓練法が役立つ・・・etc)


あとやはり自分は離人症だから…と考えたり、離人症のことを思い出すということはよくないことなんでしょうか?
こういうことをとらわれているというのでしょうか?



回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

具体的な質問を頂きましたので、具体的にお答えしたいと思います。

『私は離人症になってからいつも離人症のことが気になってしまい、最近は「時間とは何でできている?」とか「自分という存在(魂)とは何でできている?」とか哲学的なことを考えてしまいます。
このこともやはり離人症によるものなのでしょうか。』

と言う質問の答えは、貴方の性格によっていると思います。そもそもそういう性格の中に『離人症』と言うものが育っています。貴方の性格は『自分自身に敏感』と言う特徴があります、ことばを替えて言うなら『疑問を抱きやすい、或は不安を抱きやすい性格です。』

こういう不安になり易い性格が、離人症に変化しています。それは『心の奥底での、自己防衛機制』が働くと言う意味です。受容れたく無いものを、『心から追い出そうと言う機制です。』

もう一つの質問です『また離人症、神経質体質な人は日常生活をどのような心構えで送っていけばいいのでしょうか。』と言う質問の答えが、神経症を解決する答えになりますが、今の貴方には信じがたい事と思いますが、よく読んで置いて下さい。

その解決する道筋は、決して難しい事では在りません、只私の言葉を信じられるのか或は、貴方が自分自身の考え方を信じられるのかの違いです。

神経症の症状は、離人症の他にも沢山存在しますが、その症状は『意識した事柄全てが、症状になるる可能性を秘めています。何故なら意識した内容を嫌っているだけだからです、

嫌っている感情の『虜にならないように、意識してその意識している感情を追い出そうと規制を掛けている事が、症状の発生となって、更なる厳しい規制の掛け方が、しっかりとその感情を固定させています。

その機制の対象が貴方の場合では『離人感』と云う事です。

その症状が、離人症であっても、対人恐怖症であっても、強迫行為であっても『湧き上がる自身の感情を意識した内容として嫌っている事』は神経症では共通項となっています。

と言う事で、神経症の治し方を書いてみます。是は飽く迄も神経症の治し方を書いていますので、『貴方が願う、離人感の治し方とは、全く別です。』

離人症は治そうとすればするほど、離人感が強くなってゆきます。離人症は治そうとしなければ治っています。離人感を無くそうとする事が『反って、離人感を生じさせて、その感情を打ち消そうと言う心の働きが、固定させています。』

神経症の正しい治し方は存在していますので、この事をもう少し詳しく書いてみます。

神経症とは『湧き上がる自分の感情を、打ち消したくなってしまう現象です。』神経症が一生治らないでしまう場合では、一生湧き上がる自分の感情を打ち消そうとし続ける場合です。

神経症が治る場合では『湧き上がる自分の感情に、優劣や、良し悪しを付けなくなる場合です。』

離人感に襲われた時でも、良いとか悪いとかを言う必要がなくなった場合には『離人感』は消滅しています。此処まで来た時に完治したといいます。

離人感など、有っても無くとも良いや、と言う態度です。それは『離人感』を受け入れる事が出来た時です。

今の貴方は『湧き上がる自分の感情の中で、離人感のみを嫌っているだけだからです。』湧き上がる自分の感情には逆らう事など出来ない、と言う諦めが必要です。

神経症の完治を望むなら、『症状などの相手をしない人間性を確保する事が有効です。』

今の精神医学の方向性は間違っています。症状の改善を望まなくなるという人間性が確保出来た時点で『症状が消滅する事=完治する事』を知らないで、闇雲に『症状の改善のみが図られています。』

是では治らないように、治らないようにしている事を意味するからです。

『また離人症、神経質体質な人は日常生活をどのような心構えで送っていけばいいのでしょうか。?』

と云う事をもっと具体的に書いてみます。

『心の使い方を学ぶ事です。』

何も考えずに生きる事をやめて、『丁度のところを学ぶ事が有効です。』この意味は、例えば挨拶一つでも、『心を砕いて使う事です。』挨拶する相手の距離をどのくらいが丁度良いのかや、声の大きさはどのくらいが丁度良いのかと言う風にして、全身全霊で『丁度のところを探る事です。』

意識を集中させる事の意味は『意識を分散させていながらなおかつ、目の前に意識を集中させる事です。』

歩く場合では『靴の底の減り方を、気にしながら歩く事です。』この意味は、靴の底が平らに減る様な工夫をしながら歩く事を意味します。

自分の一挙手一投足に付いても『全身全霊で対処する事』を学ぶ事です。

又今度にします、聞きたい事には答えたいと思います。

具体的な質問を頂きましたので、具体的にお答えしたいと思います。

『私は離人症になってからいつも離人症のことが気になってしまい、最近は「時間とは何でできている?」とか「自分という存在(魂)とは何でできている?」とか哲学的なことを考えてしまいます。
このこともやはり離人症によるものなのでしょうか。』

と言う質問の答えは、貴方の性格によっていると思います。そもそもそういう性格の中に『離人症』と言うものが育っています。貴方の性格は『自分自身に敏感』と言う特徴があります、ことばを替え...続きを読む

Qうつ病と精神バランスを崩すの違いとは?

タイトル通りの質問なんですが、うつ病と精神バランスを崩すの違いってなんですか?

Aベストアンサー

うつ病は『自分の心を正常に戻そうとしている場合の事です。』

精神バランスを崩すとは、『自分の心を正常に戻そうとしていないながらも、おかしいと思っている状態』と思います。

処が『自分の心の正常さ』と言う課題は、何処を探したところで、そんなものは何処にもありません。こう云った無いものを探す行動や心理ですので、治り難くなっています。

人間の心の最上な状態とは『自分を忘れている時の事です。』最高な表現で言うならば、人間が天国にいる状態と表現するならわかり易いと思います。

聖書によるならば、天国に一番近い存在は『幼子』です。仏教的に表現するなら『嬰児』です。この理由を書いて見たいと思います。

幼子や嬰児が天国に一番近い存在と言う理由は『自分の心を正常に戻そうとしていない』処にあります。正常が何か?異常が何か?にさえも気が付かないからです。

自分の心に頓着する事が無いからです。この理由は『自我意識』と普通の大人が言っている意味での『自我意識』が未だ芽生えていないからです。自我が芽生えていないと言う意味は『心が一つの者として働いている状態』を指しています。

この事が崩れる事を『失楽園』と聖書は表現していますが、その理由は『自我の目覚め』にあります。自我が目覚めた場合にだけ『自分は何者か?とか、人生とは何ぞや?』と言った疑問がわきあがる様になります。

こう云った疑問が湧き上がる事を『知恵が付いた』と表現しています。その理由は『心が二つの者として働き始めたからです。

幼子の時は、人生は何ぞや?とか自分は何者か?と思考する事はありません。そう云った知恵が無い状態を天国と表現しています。

この意味は『自分の心が一つの者として働いているからです。』簡単な表現で示すなら『見ている自分』だけしか心の中に存在していないからです。その為に自分の裸を見られても『恥ずかしい』とさえも思わないことが多いと言う意味です。

それに対して、人間が成長するに伴って身体と脳が成熟して来ます。主に脳の成長におっていると思いますが、『心が二つに分かれて来ます。』このために恥ずかしいとか、疑問とかの、感情が沸き上がる様になってきます。

簡単に表現するなら、『見ている自分』の他にもう一人の自分が加わってくる事になります。新しい自分とは『見られている自分』です。

見られている自分が『自我が目覚めた姿です。』詰まり『自意識』という事になります。

こう云った関係性に気が付く人の事を『不安に成りやすいとか、神経質な人』と表現しているようです。詰まり自分自身に敏感と言う意味です。

こういった関係性を知らないで、闇雲に不安が多い場合を仏教では『無明』と表現しています。自分が自分を怖がらせている事に気が付かないでいる、と言う意味です。

是は無理も無い事だと思います、誰もこういった関係性を教えてくれる人も学校もないからです。

うつを治す医師免許を持った専門家でさえも『内因性の精神病の本態が、今日まで分っていないのは精神医学の恥辱である』と言っています、1,950年代の話です。

その後でも同じです。医師の自殺率で最も高いのは精神科医という報告もあります。心の苦しさを救うための知識を持つ筈の精神科医が『自分の心の苦しさに対処できる知恵を持たずに』他人の心の苦しさに立ち向かっているのが実情です。

そういう原因があってうつには完治とか根治が存在していないように見受けられています。

心を病むと言う意味は『自分自身の心同士が争っていたり矛盾を起したり』している事です。

人間の心の正体を科学的な証拠で示したいと思います。それは脳です、ウイキペデアからのコピーです。


『”ロジャースペリー 分離脳』
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”』

この場合での右脳の役割と左脳の役割を脳卒中の為に『体験的に体感した脳科学者の動画を載せて置きます。

URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM
もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

今のコピーでお分かりと思いますが、一人の人間には『人格が二人存在しています。』この二つの意識の間の食い違いを人間は悩みとか苦しみとして受け取っています。

詰まり欲しいとしている願望が手に入らないもどかしさが、悩みや苦しみや疑問になっている事です。


此処で話の結論に入ります。うつ病と精神バランスを崩すの違いとは?と言う問いの答えは、始めに書いたとおりです。

うつ病は『自分の心を正常に戻そうとしている場合の事です。』

精神バランスを崩すとは、『自分の心を正常に戻そうとしていないながらも、おかしいと思っている状態』と思います。


人間の心が正常に働いている状態とは『正常さを求めていない時だけです。』


精神バランスを崩すとは、『自分の心を正常に戻そうとしていないながらも、おかしいと思っている状態』と思います。

分った様で分かり難い話をしていますので、切り口を替えて説明します。

人間の心は二つの機能から成り立っています、一つは『意識している自分の意識=自我意識』ですがもう一つの意識とは『自分が無意識の状態の時の無意識の意識』です。

無意識の意識とは聖書では『神』、仏教では『仏性』と呼ばれているものです。動画で説明されている通りです。

もう少しかいつまんで説明するなら、自我意識という心を働かせている意識です。人間を内発的に突き動かしている張本人です。

恋愛と言う関係性で説明するとわかり易いと思います、この人と一緒になったら幸福に成れるのかという場面では『自我の特質である、欲とか得とか見栄が入り込まないでいた時にだけ真実の姿が見えています。』

明日のことさえ分らないのに『この人と一緒にいたい』とお互いに思えた時『二人の間で赤い糸が見えています。』自我の働きを無くして見えた時です。

逆に自我が強く働いた時『こんなはずではなかった』と時間が経つほど思うようになります。

人間は大抵の場合『自我』が出ているのか『無意識の自分の意識』が出ているのかを知る事は出来ません。何故ならお互いの関係性は『没交渉』になっているからです。

女史のような事は稀なケースと思います。ですが毎日毎日『脳梁の中では』お互いに出番争いをしています。

うつ病の場合では『自我意識』の出番が多くなってしまって、心が苦しくなっています『自意識過剰』の状態です。無意識からの交替要請が『罪悪感』に代表されるような『何処から押し寄せているのか分らない心的な圧迫感です。』

この圧迫感のゆえに尚更『自意識過剰』が続いています。出番争いに置いて『自意識が勝っている時、逆な言い方をするなら、無意識の出番が無い時』をうつの状態と言います。

心的な圧迫感による不安が強いために、不安感がますます強くなっています。

悪い状態を書いてきましたので、良くなった状態を書いてみます。

心の安定を捜し求めて来て、ついに得る事が出来ないと諦めた場合です、自我意識の万策が尽きて全てを諦めた時、右脳の意識『神』の出番が来る事になります。動画に有るとおりです。自分の身体も心も無意識の意識が占領する事になります。

心の矛盾が解消する瞬間がやって来ます、動画で語られている内容です。この体験の後では二度と『出番争いをする事がなくなります。』

この出番争いをしなくなった状態を『神の僕になる』と表現しています。

神とは右脳の意識の事です。他の言葉で表現するなら、赤ん坊が生まれる前から生命維持活動をしている働きと、生まれてから『何も学ぶ事無く、不安でも安心でも恐怖をする事さえも知っている”働き”』です。

脳梁の中での出会いを『悟る』と表現しています。是以後『自我意識』はでしゃばることが無くなるからです。見ている自分と見られている自分が合体して、『見させているう者に従う』と言う意味になります。

死が目の前に迫ったとしても、幸福感に包まれて死んでゆく事を意味します。誰にも奪う事が出来無い幸福感にです。無意識の自分=神は既に永遠からやって来て、又永遠に戻ってゆく事が分っているからです。うつが治った時には、現世的な欲とか得、地位とか名誉などや見栄などの価値観が転換する時があります。

ただ悪戯な毎日に見えていた日常が、光り輝きだして、”ありがとう”の言葉の中にさえも『幸福の種が隠れていた事が分かる様になります。

幸福を探していた事が間違いで、ただひたすらな毎日の中に幸福がいっぱい詰まっていた事を発見します。心の安定を求める事が『不安の元になっていた事』不安を受容れた時にこそ、安心が隠れていた事が分かる様になります。言い換えるなら『安心を求めない時にだけ、安心が在る』と言う事実に気付く事です。


うつ病は、探しても何処にもあるはずも無いものを求めていた事を意味します。『心を正常にしようとしない時にだけ、心は安定している事』うつの苦しみは『現実には存在していな苦しみです。』頭の中に自分の良し悪しをする心が作り出した幻でしかありません

目の前の真実の世界と『頭の中の架空の世界』のせめぎあいを、うつとして悩んでいる事を意味します

うつ病は『自分の心を正常に戻そうとしている場合の事です。』

精神バランスを崩すとは、『自分の心を正常に戻そうとしていないながらも、おかしいと思っている状態』と思います。

処が『自分の心の正常さ』と言う課題は、何処を探したところで、そんなものは何処にもありません。こう云った無いものを探す行動や心理ですので、治り難くなっています。

人間の心の最上な状態とは『自分を忘れている時の事です。』最高な表現で言うならば、人間が天国にいる状態と表現するならわかり易いと思います。

聖書によ...続きを読む


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