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西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。

私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。
雨が降れば傘を差し、日々の勤めに精をだし、飯も食い、そして一日一日また歳をとっていく。

頭の中の悩みを消し去ったというのは一つの功績として立派ですし、静かな思索が可能になったというのも大きなことです。

風邪を引くとか、怪我をするとか、そういったことは回避できませんが、心は軽くなったように思います。

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A 回答 (7件)

お礼ありがとうございます。



リンゴは自分の中にあるという認識の世界において
誰しもが別の世界に生きているのは、ご存知のことかと思います。

その認識で観察し得たものである訳ですから
その世界で体験した者しか、その世界は存在しないと考えています。

現象は、起きる条件が揃わないと起きることがないので
それは、人によって違いというものがあるかと思います。

観察からでも、観察し得るのは自分の事のみです。

それを「環世界」と言う、つまりネーミングがある事を
つい先日知りました。

それぞれの言動の違いは、「間違いではなく違いにある」と言うのは
そこから来るのかなと思います。


ここで大切なのは、a_honaさんの純粋経験によって
誰もデメリットを負わないと言うことであり
何一つ新たな問題が起きる訳ではないという言うこと。

a_honaさんが、少し軽くなり少しでも気分良く過ごせて
少しでも笑顔が増えれば、a_honaさんの周りの人も
少しだけハッピーになれると言うことだと思います。

徐々にでも自由を広げられたらと願います。
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この回答へのお礼

やさしい気遣いのお言葉ありがとうございます。
私の経験が誰をも害さず、しかも自分の心を軽くしたのなら、それは素晴らしいことだと思えました。
案外指摘されるまではわからないものでした。
自分の経験から来る発言が、ともすれば混乱を生じやしないかと危惧するのは、杞憂であったのでしょう。
これからは慎んでものを言いたいと思いました。
ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/22 21:00

西田哲学の基本をなしているものは、禅問答における『答え』を指しています。

学友であった鈴木大拙博士と共に鎌倉の円覚寺で禅の修業をしていたようです。

鈴木大拙博士は25歳で、見性体験をしていますが、西田幾太郎も見性体験をしています。見性という意味は『自性を徹見する』という意味です。

禅での教えで言うなら、人間の抱えている苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問と言う問題に出会う時、その大元は自分自身の中に存在していて、その存在性の大本に出会う時『全ての問題はその根本から根こそぎ解消する。』と言うほどの意味があります。

その為に禅には教える経典も教えるべき何ものも存在しない、と教えています。それでいながら師匠が質問を受ける時には『では何故お前はそう思うのか?』と逆襲をする事になります。

自分に沸き上がる、苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問は『自分自身が自分自身から受けている事柄』と言う意味があります。

他から受けている事柄がストレスになっている場合があると思われがちですが、そう云った自分が感じているストレスとは、自分自身から内発的に沸き上がる自分自身からの情報と言う意味になります。

従って、苦しみ、或は深刻な悩み、或は深い疑問を感じている場合では、そういったものが沸き上がる前段階にまで辿りついた時、全ての原因が分る事によって、全て解消すると言う性質があります。

もっと判りやすい表現をするなら、『意識する自分』と『意識していない自分=無意識状態の自分』とが切り替わる段階の一刹那、雷が光るよりも短い、瞬間、詰まり『意識が発生する瞬間』この二つの意識が出合う場合に『立ち会う』

神が世界を創造する瞬間に立ち会う、と言う意味があります。

一つの動画をご紹介したいと思います。この中で語られている体験が、いわゆる神秘体験と思います、詰まり宗教体験ですが、禅問答の『父母未生以前本来の面目』を身体で体験する場面と思います。この体験を西田幾太郎氏は、純粋経験や主客未分の体験として語っています。


URL:


この体験以後、神経症も過敏性腸症候群や自律神経失調症や難治性の心身症や、心を病むという場合での『身体の検査でも脳の検査でも異常無し』とされる場合では、完治するという意味になります。

何故ならこう云った機能的な異常が無い場合では、自分の心の矛盾を、妄想として症状としているだけ、と言う原因に突き当たっているからです。

そう云った症状の起きる原因が自分だと分かる体験だからです。意識地獄の原因が『自分の無意識』との仲違いだと分るからです。無意識の自分との仲違いが解ける事を、自性を徹見すると表現しているからです。

心がもう二度と争う事がなくなる、涅槃という意味が体感出来るからです。簡単な言い方をするなら『意識のし過ぎ』が意識地獄を作り出していた事を知ると言う意味になります。

無意識の自分と一体になる時、大人の嬰児が出来上がると言う意味です。無我、或は没我、或は『我が無い状態』事を意味します。
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この回答へのお礼

とても丁寧なご回答恐れ入ります。
禅体験についての詳しい描写をしていただき、禅方面からの理解が深まりました。
リンクは後ほどゆっくり拝見したく思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/24 17:42

>西田幾多郎の純粋経験や主客未分といったものは、現代ではどのように評価され、また解釈されているのでしょうか。


⇒学生時代を振り返りながら、個人的経験から申しあげます。

 「最も単純素朴な“主客〈いまだ〉未分”の意識と、最高の最も具体的な“主客〈すでに〉未分”の意識とが相隔絶しながら、しかも同一とする思想」と聞いたときは、まだ学生時代でしたが、「これ、まさに禅問答」と思いました。早い話が、何も分かりませんでした。友人らと議論も交しましたが、彼らも大同小異の状況のようでした。
 そこで私は、一工夫を考えました。つまり、長径側を左右に置いた菱形を描いて、その左対角点をX“主客〈いまだ〉未分”の意識、右対角点をY“主客〈すでに〉未分”の意識、と想定して考えたのでした。時間はX⇒Y方向に流れる。短径側の左右対角点をそれぞれA(物体)、B(精神)とすれば、西欧の哲学はこのABから出発する(すなわち、対立を前提する)のに対し、西田は「純粋経験」によって、それ以前のXの存在を想定する。しかし、私はこれはABまたはY地点に立った場合の「思弁の産物」に他ならず、まさに形而上学の特質を見た思いでした。
 さて、ABを出た動きは、Yに至って弁証法的にABを“隔絶し、差異を有しながらも同一”に至ると見る。しかし、本来の弁証法は、ABを擦り合わせ、止揚して新しい提言(ジンテーゼ)Cに到達するための手順なので、これとはだいぶ違う印象を持ったものです。この意味で、確かに『善の研究』は「禅の」研究でもあり、ある種「仏教説話」に通じる、あるいはそれに過ぎないのではないか、という印象を抱いていました。

 このように言うと、いかにも西田哲学を否定的にのみ見ていたように写るかも知れませんが、私個人としては、特に内面的には、多大の恩恵を受けたように思います。少し本題からそれるかも知れませんが、それを列挙します。
(1)「純粋経験」「主客未分」「主観と客観」などを考えることによって、「思索の喜び」のようなものを実感することができました。
(2)「色即是空」や「無」などの仏教思想にも接して、ある種のカタルシスをもらったように感じることもありました。
(3)哲学(philosophy)の原義である「愛知」を知り、日常的に、文字どおり「哲学する」ことの意義を尊重し、実践する習慣が身についたように思います。
(4)西欧の哲学や宗教の元になった、(ということはつまり、西田哲学の前提ともなった)ヘレニズムやヘブライズムに関心を持つ糸口になりました。
(5)「普遍性」や「絶対性」を探求する心性を得て、常に「より上級の審理」を求める姿勢を培ってもらったような気がします。

 以上、経験からのご回答まで。
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この回答へのお礼

自らのご経験を交えた回答、ありがとうございます。絵を見ながら説明を受ければもっと面白かったのになと惜しい思いをしています。
西田哲学に触発されて、哲学の扉を開いたとのこと、西田哲学との出会いが良きものであったのだなと察します。
独自の考えを示していただきありがとうございます。勉強になりますを

お礼日時:2014/10/22 20:56

~~~~~~~~~~~~~~~~



・・・あらゆる偉大な事物は、自己自身によって、自己止揚のはたらきによって没落する。生の法則が、生の本質にひそむ必然的な<自己超克>の法則が、これを欲するのだ。
――「汝自身の制定したる法に服せよ」という叫びは、ついにはいつも立法者自身に向けられるのだ。かくして教義としてのキリスト教は、おのれ自身の道徳によって没落した。かくして今や道徳としてのキリスト教もまた没落せざるをえない、――この出来事の閾にわれわれは立っているのだ。キリスト教的誠実性は、一つ一つ結論を引きだしていったのち、最後にはその最強の結論を、すなわち自己自身に反対する結論を引き出すのだ。が、このことが起こるのは、その誠実性が「あらゆる真理への意志は何を意味するか?」という問いを発するそのときである。


ニーチェ全集11 信太正三 =訳
善悪の彼岸 道徳の系譜

ちくま学芸文庫

581~582ページ

道徳の系譜
第三論文 禁欲主義的理想は何を意味するか?

~~~~~~~~~~~~~~~


… Alle grossen Dinge gehen durch sich selbst zu Grunde, durch einen Akt der Selbstaufhebung: so will es das Gesetz des Lebens, das Gesetz der nothwendigen „Selbstüberwindung“ im Wesen des Lebens, — immer ergeht zuletzt an den Gesetzgeber selbst der Ruf: „patere legem, quam ipse tulisti.“ Dergestalt gieng das Christenthum als Dogma zu Grunde, an seiner eignen Moral; dergestalt muss nun auch das Christenthum als Moral noch zu Grunde gehn,— wir stehen an der Schwelle dieses Ereignisses. Nachdem die christliche Wahrhaftigkeit einen Schluss nach dem andern gezogen hat, zieht sie am Ende ihren stärksten Schluss, ihren Schluss gegen sich selbst; dies aber geschieht, wenn sie die Frage stellt „was bedeutet aller Wille zur Wahrheit?“


Zur Genealogie der Moral.

Eine Streitschrift.

Von
Friedrich Nietzsche.

27.


http://www.nietzschesource.org/#eKGWB/GM


~~~~~~~~~~~~~~~

西田幾多郎を知らないし、読んだこともないし、読む気もないけれど、
善の研究とか、絶対矛盾的自己同一とか気になった。
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この回答へのお礼

西田哲学に現れる言葉は印象的ですよね。回答者さんが気になるのも無理は無いと思います。
ニーチェを引用されたのにはわけがあるとは思いますが、ゆっくり読んでそれを汲み取れたらと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/22 21:03

西田幾多郎の「善の研究[でいう純粋経験はウィリアム・ジェームズの「純粋経験の哲学」を直接の桃源とし、ベルグソンの「差異の哲学」を間接的に意識して書かれたものです。


ベルグソンによれば、主観・客観の二元的分離の以前に主客未分の「差異」があり、その差異の分化として主観・客観がある。
ベルグソンはその「差異」を「運動」とか、「純粋持続」とか言いました。

西田の場合は日本的なアニミズムの思想、人間と自然を一体と考える日本的な発想から、主と客が別れる前の純粋経験があり、その純粋経験が分化して主客分離の二元論が始まると考えました。
その背景には西田の禅の体験があると思います。
西田は盟友の鈴木大拙の紹介で、相国寺で禅を学び、その考えを哲学に取り入れたと言われます。
禅宗は主と客を二元的に分離して考えません。
心身不二、つまり心と身体は一体のもの、分離できない。
修証不二、つまり修行が悟りであって、修業とは別に悟りがあるわけではない。

西欧の哲学はすべてを対立的に考えるけど、東洋、あるいは日本はすべてを一体のものと考える。
その禅の体験から学んだ禅の思想が結晶したものが、西田の純粋経験です。

だけど、そんなものが本当にあるのか私は疑問です。
主客未分というのは、主客分離の、後から考えたものなのではないか?
西田は順序をひっくり返したんだと思います。
ベルグソンもそうだと思います。
純粋持続が最初にあって、それが分化して主と客が生じたと言っているけど、逆ではないか?
純粋持続は主と客が先にあって、その統一として根底にあるものと考えられたものではないか?

だから私は西田の純粋経験は、決して純粋ではなく、二次的なもの、不純なもの、合成されたものだと思っています。
そんなものは、無い。
ただの夢、まぼろし。
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この回答へのお礼

哲学史的なご回答で、とてもわかりやすかったです。キーワードのみを紐解けば、禅的解釈のみにとどまってしまって居たところを、ジェームスやベルクソンなどを挙げていただき、滞っていた理解が進みました。
私は、主客未分とか、純粋経験とか言われるところのものは、忘我の境地かと思っています。忘我ですから、その状態が夢幻といえばそうかもしれません。しかしながらそれが体験である以上、そういうものがないとも言えないのです。世界の事物は様々に名称され、名称を伴わないとするならそれを現象と呼び、様々に解釈されてきましたが、そういう人為的枠組みを超えたところに、西田の言う純粋経験があるのだと思っています。それは、世界と自身の境界が空じられたような感覚であり、ものの三十秒ほどで霧散してしまうのですが、鮮烈な、かつて無い感覚を与えるものです。
それが、脳機能的な異変であると言えばそれらと区別はつかないのですが、それを大事に見て、見性と称される場合もあります。

名称が発生するためには分別がなければなりません。もし、無分別なるものが、たとえ分別から派生し、想定された様相だとしても、それを言語化して表現することは難しい。従って不立文字とか言われたりするのだろうと推測します。
これに関しては、無分別、主客未分とか、純粋経験とか言われるものが、体験として存在してしまうところに、齟齬が生じる元があるのだと思います。

以上、誤った言葉の用法もあったかもしれませんが、私の見解です。

お礼日時:2014/10/22 02:21

西田幾多郎氏は知りませんでしたが、内部で起きている現象としては


自己統一に向かう時、内部で起きる現象の事ですよね。

固執・拘り・執着などからの自己矛盾が一部消失し
その分だけ心は軽くなります。

その時、諦めるのではない形で固執を自然に手放せることになり
自己が抱えた執着から解放され、今までより自由を手にすることができる。

それは洋の東西を問わず、また哲学・心理学を問わず
それぞれの言い方(言葉)を持って、その人がしっくりくるネーミングが付けられます。

内部だけで起きるから、純粋経験である訳ですし
自己統一性を主客未分と言い表すのは
日本人としてはしっくりきますね。


私には、とても興味を沸かせる質問でした。
いい情報をありがとうございます。

そして、軽くなったことにお祝いを(^ ^)
パターンを掴んでいけば、そのパターンのものは軽くなれます。
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この回答へのお礼

純粋経験を広義に捉えてのご回答感謝します。お祝いの言葉までいただいて、。
あれを自己統一と呼ぶあたりが、カントアイさんらしいなと思いました。私は忘我と呼ぶでしょうか。
共感に基づいたお話ができて嬉しく思います。

お礼日時:2014/10/22 02:01

 こんにちは。




 ★ 純粋経験や主客未分
 ☆ ということは そのような状態にあったということをそこから抜け出たあとで認識するわけです。

 すなわち
 ★ 私の見解では、多くの観念的な悩みが純粋経験によって消失しますが、現実は一つも変わりません。
 ☆ ということですよね。
 
 つまり その状態から抜け出たあとでは 《悩みも消失していない》ということではないでしょうか?


 これが すべてだと思います。

 すなわちその意味は この現実を全体としておのが精神の胃袋で飲み込めば その純粋経験という状態をもすでに顕現させていることが出来ます。

 言いかえると 悩みや苦しみをまづ引き受けるということ。ではないでしょうか。

 これが 現実的な《主客未分》なる状態にあるはずです。主も客も認識し得ている状態にありつづけるのですが。

 悩みや苦しみが解決できない問題であるならば それもそれとしてそのように認識することから始まります。飲み込み引き受けるという状態も そのまま続きます。

 西田幾太郎は われわれはその思想を乗り越えるべきでしょう。
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この回答へのお礼

悩みや苦しみを引き受けてこそ現れる人間像というのは、確かにあると思います。
そういう人間像をあるべき姿として捉えるのか、清澄な精神状態が可能なものとして、それを目標にするのか。前者は現実主義で、後者は一種のロマン主義かなと思いました。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/20 16:11

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Qパニック障害の克服

2か月前位にパニック障害(不安神経症)に陥り、病院にも行き気持ちの切り替え、森田療法など行って少しずつですが、症状がでなくなってきて症状が出ても軽めで済むようになってきました。
ですが、昨日症状が出てしまい、しかも症状が重く最近良くなりだしていたのにショックで、冷や汗ともう治らないんだと思い込み出して本当に落ち込み、そういう時に限って悪い方向ばっかりに考えてしまい、もうワケわからなくなってしまいました。こうした心(脳?)の病は症状が出ても自分は治るんだといつも思って付き合って行けば治るんでしょうか?もうショックで仕方ありません…

Aベストアンサー

パニック障害はあなたも書かれているように、以前は不安神経症と言われていた症状だと言って良いと思います。

あなたは病院に行き、気持ちの切り替え、森田療法などを行なったとのことですが、森田療法の場合には神経質性格の特徴を持っていることが必要になると思います。

つまり、心配症や自己内省性の強さ、負けず嫌いといった神経質性格の特徴を持っている場合には森田療法の学習により不安神経症を克服していくことも出来ると思います。

しかし、こういう神経質性格の特徴を持っていない場合は思うような効果は出てこないと思います。

ただ、神経質性格を持っていたとしても、神経症は良くなったり後戻りしたりを繰り返しながら、少しずつ良くなっていくものだと言われています。

また、森田療法では不安神経症は心や脳の病気ではないと言っていると思います。

ですから、もしあなたが、不安神経症を心や脳の病気だと考えているとしたら、この時点で森田療法の考え方は身についていないということになると思います。

不安神経症は「死の恐怖」に対する「とらわれ」が出来た状態であり、うつ病や統合失調症などの心の病気とは全く異なるものだと言われているのです。

そして、だからこそ、森田療法の学習をしていく中で、この「とらわれ」が薄らいでくると症状を克服していけるのだと思います。

ですから、もし、あなたが神経質性格の特徴を持っているのであれば、森田療法の考え方をきちんと身に付けていけば、充分、不安神経症を治していけると思います。

ただ、今は森田療法を掲げている病院でも、きちんとした森田療法の指導を行なっている所は少ないように思います。

ですから、むしろ、あなた自身で森田療法の学習をしていった方が良いのではないかと思います。

パニック障害はあなたも書かれているように、以前は不安神経症と言われていた症状だと言って良いと思います。

あなたは病院に行き、気持ちの切り替え、森田療法などを行なったとのことですが、森田療法の場合には神経質性格の特徴を持っていることが必要になると思います。

つまり、心配症や自己内省性の強さ、負けず嫌いといった神経質性格の特徴を持っている場合には森田療法の学習により不安神経症を克服していくことも出来ると思います。

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Q神が何かも分からず、神に祈ることはできない

 
神が何かも分からず、神に祈ることはできないはずである。
神が何かも分からず、その神に願うことは無意味である。
神が何かも分からず、その神を信じることは愚かである。
しかし神が何であるか分かれば、これらのことが全て無意味であることが同時に分かるのである。
神は祈るものではない、神は何かを願うためのものでもない、ましてや神は信じるものではないのである。
何故なら神は宇宙の法則だからである。

有瑠慶此即宇宙法則

そして宇宙の法則は永遠不変だからである。

有瑠慶此即恒常不変

なぜ宇宙の法則は永遠不変なのか。
それは宇宙の法則は完全無欠であり、正しいが故に変わる必要はないからである。
だから神に祈ること、神に願うことは一切無駄である。

有瑠慶非信非拝非願

神は信じるものではなく、感じるものである。

有瑠慶可能感可能解

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唯一つ真理の探求によってのみ神に近づくことが出来るのである。
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神が何かも分からず、その神に祈ることは無意味である。
それでもあなたがたは神に祈りますか。
 

 
神が何かも分からず、神に祈ることはできないはずである。
神が何かも分からず、その神に願うことは無意味である。
神が何かも分からず、その神を信じることは愚かである。
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…いずれにしても、アルキビアデス、昔のある詩人は知恵を持っていたと思えるよ。想像するとだね、彼には馬鹿な友人達がいて、彼らの利益にならないことをしたり祈ったりしているのを、その詩人は見たんだろう。そこで彼らの代わりに祈祷文をこしらえた。こんな言葉でね。


 神々の王ゼウスよ、
 われらに善いことを与えたまえ、
 われらが祈るとも祈らずとも。
 しかし、酷いことは、
 もしそれをわれらが祈ったとしても、
 どうか汝、避けたまえ


これは、プラトン『アルキビアデスII(祈願について)』からの引用です。ぼくの拙訳ですが。

http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.01.0176%3Atext%3DAlc.%202%3Apage%3D143



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>それでもあなたがたは神に祈りますか。

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…いずれにしても、アルキビアデス、昔のある詩人は知恵を持っていたと思えるよ。想像するとだね、彼には馬鹿な友人達がいて、彼らの利益にならないことをしたり祈ったりしているのを、その詩人は見たんだろう。そこで彼らの代わりに祈祷文をこしらえた。こんな言葉でね。


 神々の王ゼウスよ、
 われらに善いことを与えたまえ、
 われらが祈るとも祈らずとも。
 しかし、酷いことは、
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 どうか汝、避けたまえ


これは、プラトン『アルキビアデスII(祈願について)』...続きを読む

Q仏教の教えの矛盾?

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
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しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
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 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
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>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
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779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うな...続きを読む

Q宗教について調べるのは、もうやめるべきか?

要するに、中村元は間違っている、いうことでよろしいのでしょうか?
それならそれでいいです。

振り返ってみると、時間の無駄でした。
書き込むたびにわけのわからない人々から攻撃されるのもうんざりです。

私には私の人生があります。
一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。

病院へ行ったら?とか、カウンセラーの世話になったほうがいい、とアドバイスされていますから、
宗教よりも、そちらの世話になろうかと思います。

Aベストアンサー

こんにちは
>>振り返ってみると、時間の無駄でした。
一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。


私も自分なりにいろいろな宗教について20年以上調べたりしました
結局本当のことは分かりませんでしたし、悟りも開けませんでした

ダライ・ラマは自分は悟りを開いていないと言っています
また数年修行しただけで悟りを開いたという人を見ると、思わず吹き出しそうになると言っています

色々な仏教ーそれはもう釈迦の考え教えとは似ても似つかない物もあるかもしれませんし、中国人が作った偽経もあるそうで、何を本当に釈迦が言ったのか分かりませんね

多分死ぬまで考え続け、調べたり学んだりしても悟りは開けない気がします

私の場合人生において悟りを開くと人は幸福になるか?
宗教は人を幸せにするか?

この2つを知る目的が今回の人生にあったので(何故そう思うかについては詳しくは書けませんが)、そんなに無駄にはなってないのですが、確かにお金にもなんないので、今まで何をしてたんだろう?

こんなことなら経済の事をもっと知って、金儲けのことでも考えていたほうが良かったかなと思ったりもしました

もうそろそろ宗教について学ぶことは必要ではなくなって来たので、人生が違うことをやるようになってきてるのかもしれませんね

こんにちは
>>振り返ってみると、時間の無駄でした。
一円にもならない宗教の研究など人生を浪費するだけで無駄でした。


私も自分なりにいろいろな宗教について20年以上調べたりしました
結局本当のことは分かりませんでしたし、悟りも開けませんでした

ダライ・ラマは自分は悟りを開いていないと言っています
また数年修行しただけで悟りを開いたという人を見ると、思わず吹き出しそうになると言っています

色々な仏教ーそれはもう釈迦の考え教えとは似ても似つかない物もあるかもしれませんし、中国人が...続きを読む

Q人生何歳からでもやり直せるという風潮が死ぬほど嫌い

薬剤師になりたいのですが
40歳から薬学部に進学したら卒業するのは46歳ですよね。
現実的にいく意味があるのでしょうか?(就職とか)
薬学や人体に興味があり、やりがいもありそうだと思ったので
進学したいのですが・・あと給料もボチボチ良さそう・・
(お金よりはやりがいや興味が優先)
無事に卒業しても50前のじじいを雇ってくれる病院や薬局はあるのでしょうか?
あと働きながら昼間の大学に通ってるのは新聞奨学生くらいですよね?
現実と照らし合わせると難しいか・・
もうじき38歳になる独身おっさんで貯金0の日雇い労働者の質問です。

Aベストアンサー

意味があるかどうかは、自分が決めること…

現実はどんな年齢でも目の前にある…

やり直せるかどうかとはあんまり関係ない。
やる人はやる。その事実があるんだからしょうがない。

Q大人になってから自己肯定感を高めるには

自己肯定感が低く、引きこもりになりそうです。
小さい頃から自殺願望があり、騙し騙し生きて来ましたが、20代にして限界がきました。
大人になってから、自己肯定感を高めるにはどうしたらいいでしょうか?

ちなみに、理解者はいません。
友人には相談できなく、家族は精神的なものは全て甘えと考えています。
恋人は、自己肯定感の低さと、結婚への拒否感から、作っていません。
精神科に行くことも、当面はできません。

克服された方、克服方法をご存知の方、アドバイスをお願い致します。

Aベストアンサー

No.5の者です。
お返事を拝読しまして、補足です。

“何をやっても出来ない” というのは、客観的な感想などではなく、あなた自身が勝手に決めたことだと思います。
自分の中で決定してしまったことは、絶対に覆りません。
まず、出来るとか出来ないとか、なぜ決める必要があるのでしょうか。
人も、案外何も出来てませんよ。
出来ているように見えるだけです。
いい加減だし、好きなように生きて、勝手です。
つまり、上手いことやるのも、下手でも好きだったり、ヘマをして迷惑をかけるのも、自由です。

優しい性格と言われるのですよね。
それも、あなたの優しさに周りが甘えているのです。
そして、自分は優しい人間であることを期待されているのだ、と、あなたが無意識に真面目に取り組もうとした結果、あなたは限界を迎えようとしているわけですよね。

あなたのご家族は、いわゆる過干渉なのでしょう。
自分の知っている環境が常識のように思いがちですが(私もそうでした)、蓋を開けてみたら、意外と世間と大きくかけ離れていたりするものです。
親やきょうだいは、愛情があるがゆえに期待もし、激励もしたいでしょう。
でも、裏を返せば、あなたを自分の思い通りに操作したい、ということです。
勝手な欲です。
長い時間をかけて、あなたが出来ない人間だと決めつけて刷込んできたのは、誰でもない、あなたのご家族とあなた自身でしょう。
それに早く気付くべきです。
ありのままのあなたでなぜいけないのか、私には解りません。
あなたの場合、自信を持って持ちすぎることはないと思います。

それから、長期間悩んでじっとうつむいたりしていると、体の機能は低下しますし、結果、脳の血流が悪くなります。
鬱病などのほとんどは、ストレスからくる単なる血流障害ではないかと私は思います。
運動はいいですよ。
好きな音楽を聴きながらとか、外の空気を吸うためだけでもいいので、ちょっと散歩にでも出かけてみてはいかがでしょうか。
体調不良は、心の悩みのせいだと思いこみがちですが、運動で体調がよくなると、心が後からついてくることも多いです。

失礼な事を長々と書きましたが、他人とは思えないので・・
もちろん、少ない情報からなので、事実とは全く違うこともあるかもしれません。
ごめんなさいね。
でも、応援しています。

No.5の者です。
お返事を拝読しまして、補足です。

“何をやっても出来ない” というのは、客観的な感想などではなく、あなた自身が勝手に決めたことだと思います。
自分の中で決定してしまったことは、絶対に覆りません。
まず、出来るとか出来ないとか、なぜ決める必要があるのでしょうか。
人も、案外何も出来てませんよ。
出来ているように見えるだけです。
いい加減だし、好きなように生きて、勝手です。
つまり、上手いことやるのも、下手でも好きだったり、ヘマをして迷惑をかけるのも、自由です。

優しい...続きを読む

Qパニック発作を引き起こした原因について

パニック障害になる前に
人と話すのが得意ではないのに、がんばって話して脳が停止するような感覚が何日かあったのですが
ストレスになってたんですかね?

Aベストアンサー

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分の身体を攻撃する現象』ですが、このメカニズムと同じメカニズムが働いています。

花粉症の場合では、免疫機能が『アレルゲンと認められたものが、(実際にはアレルゲンではないものに対してまで)体内に存在すると感知した場合に発動します。』そのアレルゲンを体内から排出するための防衛機構が働く事を意味します。又この間違ったアレルギーにならないものにまで過剰反応して暴走してしまうものが花粉症のメカニズムです。

『心や行動や感情』に対しても人間には『危険回避』と言った花粉症に対する身体の反応と同じ様に反応する、防衛機能が存在しています。パニック障害とは今書いた『自己防衛機能』が暴走をしてしまう現象です。

始めに暴走する原因を書いて、後で暴走しない方法とか考え方を書いてみますので参考にして下さい。

パニック障害が起きる背景を始めに説明をして置きます。分り難い事を書きますので分らなくとも良いですので、兎に角読んで置いて下さい。私の云う事が腑に落ちた時貴方はパニック障害から抜け出していると思います。只理解するには時間が掛かるかも知れません。

身体にはアレルゲンと判断する機能が存在するように、心にもそう云った判断する機能が存在しています。是を説明する為には脳の構造を説明する必要が在ります、或いは脳の機能と言ったほうが分りやすいかも知れません。

是は誰にでも備わっている機能ですが、簡単に説明します。生まれたばかりの赤ん坊を想像して下さい、生まれたばかりで何も教え込まれていない『白紙状態の脳』を想像して下さい。学問を学ぶと言う意味では『赤ん坊の脳は白紙』の状態であって、何も知らないでいると考えられますが、実際では『全てを知っています。』

その証拠は、見たものに対して安心出来るものか?、恐怖に値するものか?は教えてもらう必要がない事で証明出来ると思います。又自身の生命維持をする機能という意味に置いても、自分の生命を維持する機能を働かせる事は既に知っています。

此処で問題にしたいのは、『見たものに対して安心出来るのか?、恐怖に値するものか?』という問題です。是は母親の懐にいる時には『”安心して”すやすやと眠っている状態』を言いますが、『”安心”させている者が存在しているからです。』

言い換えるなら『自分の心=自我意識』に『外界からの情報を安心出来るのか?、恐怖に値するのか?』を教える機能が存在している事を意味します。

この教えられた情報によって『赤ん坊が安心したり、恐怖に陥ったりしています。』是がパニック障害に於けるストレスになります。心地良いものは当然ストレス源にはなりません。心地悪いものが問題になってストレス源になります。

此処まで書いて貴方の問題に触れて置きたいと思います、貴方の嗜好に対する問題点です。貴方は好き嫌いが激しい部分があるという問題です。人として生きて行く場合では、良い事も悪い事も誰にでも大体は、等しく襲ってくると考えられます。良い事ばかりに恵まれる人などいないという意味です。

処が貴方の願いは、良い事ばかりを願っていて、厭な事を嫌い過ぎている点が問題になっています。

自分が感じた『五感から得た情報をストレスとして感じるのか如何か?』が問題になっています。

話を変えて”ストレス”の意味を考察します、誰でも同じ環境の中で生きていますが、パニック障害になる人と平然としている人に大別されます、その違いは『同じ環境』の中にストレス源を作り出している人がパニック障害で苦しんでいる事実があります。

言い換えるなら、他の人がストレスにしないものをストレスとして感じている、という意味です。強い言い方をするなら『本人が頭の中にストレスを作り出している部分がある。』という意味です。

もう一つ付け加えるなら、ストレスの意味ですが、それは『受容れたくないもの全般』をストレスと表現します。ですので貴方にパニック障害の症状が出る場面では『受容れたくない情報』が貴方の心に送られている事が原因で貴方はパニック障害としての症状が出ています。

此処が大事なところです、この情報が貴方にとってのパニック障害の原因です。貴方が『受け取りたくない』と感じてしまう情報が、花粉症における『免疫機能を発動させるきっかけになっている事です。』

この情報で、貴方は防衛機制を自分の心に掛けています。つまり『逃げ出したいとか、危険回避をしよう』がパニック障害の原因と結果になっている事です。

したがって貴方がパニック障害から解放されるという意味は、『今までストレスとして受け入れる事が出来なかった事柄を、ストレスにしない、人間性への変貌が求められている事を意味します。』

難しい事を書いていますが、決して難しい事ではありません。今までのように『好き嫌い』の激しかった部分に少し、学びの部分を積み上げるだけで良いのです。

私の云う事を実践して下さい、それは『良い事に遇った場合では”喜び過ぎないでいる事、厭な事に遭った場合では落ち込み過ぎないでいる事』たった是だけです。

今の貴方とパニック障害から抜け出した貴方の違いとは、感じた事柄に対して『向きになって感情に走ってしまっているのか?或いは感情的にならずに冷静でいられるのか?』たった是だけの違いで、パニックになるかならないのかに分かれているからです。

貴方が完全にパニック障害から抜け出した暁には、『湧き上る感情(雑念)に右往左往するのか?或いは”雑念は雑念”としてそのままにして置けるのか?』の違いをマスターしています。

パニック障害とは、『只の雑念に右往左往しているに過ぎないからです。』

パニックになるような事が起きたとしても『泰然自若』としていられる事を学ぶ場として貴方に『パニック障害』という学びの場が与えられています。

パニック障害の経験者で完治した経験があります。』ので、生半可な専門家よりも詳しく説明出来ます。


パニック障害の原因は、その障害を感じている人が、本人の頭の中に作り出している『幻』を、あたかも存在するものと思い込んでしまって、避けようともがいて返って身近なものにして、実感してしまう現象です。

自分で、”自分” から危機回避とか危険回避をしようとしていると言うものです。

もう一つの方面から説明します。それは、花粉症のメカニズムを使っての説明です。花粉症とは『自分の免疫機能が自分...続きを読む

Qトラウマなのか?どうしたら改善はできるのか?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く付き合い、同棲し、結婚も考えた経験もあります。とても癒され、一度治ったと思っていましたが、それから15年くらい経ちました。彼も心が寛大で包容力のある方で、私に優しく対応してくれますが、やはり、無意識に同じ過ちをしてしまいます・・・。

どなたかアドバイスをいただけるとうれしいです。

■彼にしてしまう過ちとは
 (1) 仕事、学歴、趣味等の達成度を、彼に評価してもらい、自分の存在をさらに認めてもらおうとすること。
 (2) 自分がストーカーや変質者に嫌な目に会うと、彼に被害者意識で相談し、彼の気を引こうとすること。

■生い立ち=原因なのか??
 (1) 中学を卒業して、家を出るまで、アルコール中毒の父親が、自宅の壁にビール瓶やガラスのコップを投げつけ、恐ろしくて、男性恐怖症になっていました。女子高に入りました。(→彼が大好きで安心するのに、彼と室内にいると何を話してよいのかわからなくなる)

 (2) 父親から安心して抱擁された経験がなく、いつも愛されたいと思って育つ。(→彼にもっと愛されたいと努力してしまう)

 (3) どのようにしたら父親が振り向いてくれるのか、父の顔色ばかり伺って考え言動してきた。(→彼の顔色ばかり伺って考え言動してしまう)

 (4) 父や機嫌の良い時に、テレビと会話している内容から、高学歴のタレントが好きだと知りました。
   父と会話が成立した記憶はありません。
   勉強して、よい大学に入ったり、資格をとれば、私を認めてもらえて、愛してくれると思って生きてきた。(→彼に学歴、趣味等の達成度を、認めてもうらおうする)

 (5) それとも、上記(1)~(4)のような育った環境と関連性はなく、私の単たる弱さでしょうか・・・?

私は、彼になった人にいつも同じ過ちをして相手に不快な思いをさせてしまいます。

簡単に言うと、原因は、(1)幼少時の寂しさが無意識に露出するのか。(2)単たる私の弱さか
と分析しています。

いつも無意識にしてしまうため、どのようにしたら自分を変えることがでしょうか?
もちろん、相手をを愛そうとすることが大事だとわかっています。しかし、愛の受け取り方や愛し方がわからず、愛しているつもりがいつも追いかけてばかりで、うんざりされてしまいます。

学生時代に、父親くらいの年の離れた男性と長く...続きを読む

Aベストアンサー

> やってみました。

お疲れ様です。

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

ではそれを父親に面と向かって言うのがよいです。頭の中で。


あとは、彼氏と会う時も頭の中でそう言ったらいいと思います。

言っているうちに慣れてくる。

価値があるのですから、彼に対して何かを証明する必要はないし、
彼の前で幸せでいればいいです。

もちろん、仕事で成功して嬉しければ一緒に喜んでもらえばいいですし、
嫌なことがあったら話を聞いてもらってスッキリすればいいです。

自然体ですよ。
自然体の自分になじむまで、誰の前でも、彼の前でも

> 1)自分には価値がある
> 2)自分は幸せでいていい
> 3)親にも自分にも罪はないと思います。

と思ったらいいです。


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