中小企業の働き方改革をサポート>>

秀吉が朝鮮出兵した時に明が属国契約していた朝鮮を助けた明の兵力が数万というのですが、この頃の明というのは既に弱体化していたのでしょうか?
中国というと、三国志のときは何十万という兵力でぶつかり合っていたというイメージがあるのですが、もうこの時代は多くの戦力は持たなかったのでしょうか?
また、馬に乗って槍や大きな剣で敵をなぎ倒し、弓矢もすごいという印象があるのですが、結局は鉄砲には勝てなかったということでしょうか?それとも、戦国時代に鍛え上げられた武士はそうとう強かったということなのでしょうか?
それなら、清の時代に欧米の列強にいいように食い物にされた理由も納得できるのですが。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

明の朝鮮に送った援軍は、文禄2年正月李如松の


率いた、4万人余りと知られています。
日本軍が撤退したあと、しばらく駐留していた
明軍は2万4千といわれていますから、総数5万
以下でしょう。

少な過ぎるようですが、下記を知ると理解出来ます。

明の軍制では全国の5都督合わせて319万人もの
大軍でしたが、この頃は明は経済的に疲弊しており
実際は60万人程度であったと推定されます。
数万の援軍でも400万両もの戦費を費やし、明は
さらに疲弊し戦後僅か40年後に滅亡し、清に代わり
ます。
(鄭和の大艦隊航海と朝鮮援軍、明を滅ぼす)

中国はもとより、朝鮮も日本も経済的にも大きい
損失を受け何とも不毛の戦でした。

  上垣外 憲一 「文禄慶長の役」 参照
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
当時の明にとってできる限りの援軍だったのですね。それで和平交渉ができた訳ですね。

お礼日時:2014/10/21 22:03

日本軍は海軍に負けて補給が途絶えたことが敗因です。

当初は鉄砲の圧倒的な数で破竹の進軍をするのです。
小西行長軍18000、加藤清正軍23000、黒田長政軍18000、島津義弘軍14000、福島正則軍25000、小早川隆景軍15000、毛利輝元軍30000、宇喜多秀家軍10000、細川忠興軍15000。総勢168000の大軍です。徳川、前田、伊達は名護屋城に布陣。

しかし明には大砲があったのです。この大砲を乗せた李舜臣率いる朝鮮水軍に日本水軍は大敗するのです。物資の補給を絶たれると食料難と弾薬不足に見舞われ鉄砲が使えなくなったのです。再征で盛り返すのだが。海軍の劣勢は挽回できず、秀吉の死をもって出兵は終る。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
個人的には、黒田官兵衛のような用意周到な軍師がいたのですから、孫子の兵法でも用間の活用が説かれ、事前に朝鮮に間者を放って食料調達に関して何故配慮できなかったのか疑問に残ります。
黒田官兵衛は朝鮮出兵に反対だったが日本人をみすみす殺すような策は取らなかったでしょうから。

お礼日時:2014/10/22 15:38

>三国志のときは何十万という兵力でぶつかり合っていたというイメージがあるのですが



まあそれが、「白髪三千丈」とか「万年筆」とかいうのと同じであるのですよ。
例えばあの赤壁の戦いで、曹操軍は100万、対する孫権・劉備連合軍は3万だった、なーんていわれています。しかしこの数字は「三国志演義」という「小説」で示された数字なんですね。「講釈師、見てきたように、ウソをいい」なんて言葉がありますが、「講釈というのは針小棒大を旨とする」なんだそうでございまして、そのへんは少々話を大きくした方が面白い。子供に「大金ていうといくら?」と聞くと「ひゃくまんえーん!」と答えが返ってくるように、人類にとって「100万」とは「すごく沢山」を象徴する数字なのかもしれません。

では実際の赤壁の戦いでの実数はどれくらいだったか。これはもうはるか昔の話しなのでどうにも実数は難しいです。Wikiでは曹操軍が20万くらい、対する孫権・劉備軍が2~3万くらいとありますが、当時の人口の推計から考えてもこれでも多くて、当時の推計人口などから頑張って計算した人がいまして、その人によると、「曹操軍がいいとこ2万から2万5千。孫権・劉備軍が2千かそんなもんだろう」ということでした。当時のテクノロジーを考えると、案外それが最も正解に近いのではないかと思います。

秀吉の朝鮮出兵に対して動員された明軍の実数については私もちゃんと資料を読んだことがないので通説程度にしか知りませんが、私は明軍にしては割と大軍を用意したなと思います。
そもそもいくら秀吉軍がどんどん攻め込んだところで本当に明を占領することなんて不可能です。50人のテロリストで日本全土を支配しようというようなものです。それは明も分かっているから、変な話ほっといてもいいのです。どうせあるところから先には行きたくても行けなくなりますからね。50人のテロリストが仮に東京を占領することに成功したとしても、そいつが大阪にも攻め込むとなったら人手が足りないでしょ。
しかしかりそめにも大中華帝国が異民族の侵入を受けて同盟国(属国)を見捨てたとなったら、政治的に非常にマズいことになりますので、そういう手前も軍は動員せざるをえなかったと思います。
自衛隊が中東あたりに派遣されて、イラク人や中東人のために最後の一人になるまで戦えと思うかというと、思わないじゃないですか。なぜ遠い外国人のために日本人が血を流さなければならないと思うのか。しかも、仮に戦いに勝ってもそこは日本領にはならないわけです。そこで必死に戦うバカはいないですよね。
それと同じで明軍も必死になっても(政治的な意味を除いて)何ひとつメリットはないので、そりゃ士気が上がらないのです。一方、日本軍からすると、戦いに勝てば占領した土地が領土としてゲットできるメリットがあるのでそれなりに真面目に戦う意義があるのです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
三国志時代にすごい戦力と思ったのですが、それは物語の上でのフィクションなのですね。

どういう土地か知らない当時の日本人にとって朝鮮の土地を手に入れるのは魅力だったんでしょうね。でも朝鮮半島なんて資源が全くない国なので、明にとっても見放しても良かったんですね。きっと。

お礼日時:2014/10/21 22:13

まず鉄道による食糧の大量輸送ができるようになるまで、軍隊の食糧調達は現地調達が大半です。


あまり数十万という過大な兵力を食糧生産が貧弱な朝鮮半島(朝鮮は米の生産量が少ない)に送り込むと、結局食糧調達が成立せず食糧欠乏で撤退になりますよ。
特に守る側は戦がどの程度続くかわからないので、過大な兵力を遠い僻地に送り込むのは禁物です。
次に明にとってはっきり言って朝鮮半島などどうでもいい地です。
「一般に戦力は、策源地からそこまでの距離の2乗に反比例して減衰する」という言葉があります。日本と戦うなら朝鮮半島は日本に近く明に遠い明にとって不利な地になります。

明としても朝鮮との関係上と朝鮮の戦力が活かせるならということで一定の兵力を派遣してるまでであって、もし明が全力戦闘を行うなら朝鮮など切り捨ててもっと明と近い地で戦うことになります。

なお日本の戦力に関して言えば、当時の日本は陸戦についてはあほみたいに強いです。
その理由は鉄砲の普及率です。当時日本の鉄砲の配備数は兵力の2割~3割にのぼるとみられていて、ろくに火器武装をしておらずもっていても銃の性能が低い明軍とは正直比較になりません。圧倒的な火力で近づいた途端一方的に打ちまくられるんですからとてもじゃないですが野戦では戦いにならないでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
先ずは地の利を考えの戦力だったのですね。これだけ銃を充実させた信長は凄かったということですね。

お礼日時:2014/10/21 22:06

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q韓国併合直前の韓国の軍事力

韓国の歴史を調べているのですが、韓国併合直前の韓国の軍事力がどの程度のものだったかが分かりません。
組織された軍隊はあったのでしょうか?また、戦闘機や軍艦などはあったのでしょうか?
どんなことでも構いませんので、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

韓国併合直前の軍事力ということですが、この場合大韓帝国は国としての歴史そのものがあまりにも浅く、またこの時点で日本の干渉を大きく受けていたこともあるので除外するとして、やはり日韓併合直前まで2世紀続いた李朝の軍事力と考えた方がいいかと思います。

ということで李朝末期の政府軍(官軍とも呼んでいます)の軍事力を述べますと、当時陸海空のうち陸軍と海軍がなんとか存在していました。何とかというのは当時の李朝は外からの侵略というものをまったく想定していない政府であり、また当時の宗主国であった清国の軍が各地に駐屯していたこともあって、見るべき軍事力はほとんどないというのが実情です。つまり国としての防衛力はほとんど清国に他力本願していたということです。これは李朝時代の政府官僚が軍事にまったく関心を持っていなかったことにも由来します。

とはいえ末期の李朝公式文書には軍事力について、その当時8つあった道(日本の県にあたります)にそれぞれ10万人前後の兵力を置いていたとあり、総計で100万弱の兵力が存在しているとあります。
これだけをみれば立派な軍事力なんですが、これには大きなからくりがあり、当時李朝は国民皆兵を基本としていて、両班(貴族のようなものですね)を除くすべての国民(といってもほとんどが農民ですが)を徴兵することになっていました。

しかし徴兵してもそれらを訓練したり、また食わせたりする財源が恒常的になかったため結局この国民皆兵制度は形骸化し、単に国威発揚のためと税金(人頭税)を取りこぼさないため、数字だけが一人歩きしたままになっていました。

海軍力については、これも海軍力としての艦艇や兵器には見るべきものはなく(というか存在していなかったと言う方が正確ですが)、単に海軍という制度だけがあっただけと考えてもいい程度です。ただ日本の海軍艦艇に砲台から砲撃をしてこれを撃退したという記述がある文献があるのですが、これが本当なら砲台の管轄が海軍だった可能性もありますが、正直に言えばこれの確証はありません。

陸軍は現在手に入れられる資料で言えば、当時1万人前後の兵力があったことだけは確かです。これはソウルに2個侍衛隊(連隊程度です)、各地に少数部隊の鎮衛隊を合計した数です。ただこれらのほとんどは対外用の兵力ではなく、国内治安用と近衛兵的な存在だと考えられます。
当時の伊藤博文が朝鮮併合時に朝鮮軍の解散を命じ、約9千人の兵士が追放されたとありますので、これに符合するかと思います。

位についてですが、李朝時代の軍人の階級はそれほどシステマティッ久なものではなく(他のすべてもそうなんですが(-_-;))、大将(テジャン・少々から大将までの将軍です)、兵使(ピョンサ・道を担当する軍の指揮官クラス)、営将(ヨンジャン・連隊長クラス)、中軍(チュングン・大尉)監牧官(カンモククヮン)、別将(ピョルチャン)と別れていましたが、大将・兵使などは官僚が兼任してしたことからも、軍事に重きを置いていないことが伺えると思います。

さらにその軍事力ですが、朝鮮半島最大の兵器庫がソウルにありましたが、そこには50門の中国製の旧式大砲と近代戦争にはとても使えない甲冑が数十着、それに若干の小銃があっただけでした。最大の兵器庫がこれですので後は想像しても無駄なほどの軍事力でしょうね。

とはいえ併合前には近代軍隊の必要性を感じ、清の在朝鮮駐屯軍から訓練を受けたこともありましたが、その規模は200人にも満たないものでした。またこれらの軍隊に関しての文献などがほとんど皆無であることを考えれば、どれほどのものだったのかが容易に想像できると思います。結論から言えば小銃と朝鮮刀で武装しただけの前近代的な武装集団ということだったと思っても間違いはないかと思います。


日韓併合後これに反対した国民が蜂起し、農民軍、両班・郷吏(地方役人)が組織した民堡軍(義兵とも呼ばれました)、各地方の警備兵によって組織された砲軍などがあり、その数は数十万を超えていましたが、これは正規軍ではないので参考にならないかもしれませんね。

韓国併合直前の軍事力ということですが、この場合大韓帝国は国としての歴史そのものがあまりにも浅く、またこの時点で日本の干渉を大きく受けていたこともあるので除外するとして、やはり日韓併合直前まで2世紀続いた李朝の軍事力と考えた方がいいかと思います。

ということで李朝末期の政府軍(官軍とも呼んでいます)の軍事力を述べますと、当時陸海空のうち陸軍と海軍がなんとか存在していました。何とかというのは当時の李朝は外からの侵略というものをまったく想定していない政府であり、また当時の宗主...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Q琉球の兵が薩摩に対抗できなかった理由 1609年

1609年に薩摩の兵3000が琉球に侵攻し4000の琉球の兵が破れて和睦のあと支配されることになった件で疑問があります。
帆船で長期航海を行い(激しい船酔いや士気の低下も想定される)、兵糧も十分ではなく土地勘もない薩摩の兵が、なぜ琉球を短期間で侵略出来たのでしょうか?琉球の方が交易も活発で薩摩よりも豊かであるような気がします。また薩摩は関ヶ原で直前に兵力を失っているとも思えます。
なぜ薩摩が琉球に侵略できたのでしょうか?琉球の兵力、軍備、他国との戦闘(琉球が他国を侵略したような事実もあれば)など付随する情報がありましたらお願いします。薩摩側の被害も教えてください。

Aベストアンサー

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で着き、次の沖縄本島にも1日で着いています。
島々での戦闘があったから薩摩から沖縄本島への到着は20日以上かかりましたが、航海日数だけで言えば必ずしも長くありません。これを長期航海と呼べるのか・・・私は疑問に思います。
また、薩摩は朝鮮出兵で水軍を出していますし、関が原の戦いにおい残存部隊が本国に戻る際には、海路であり黒田水軍と戦ってもいます。豊臣政権以降の薩摩の兵は海路を利用して派兵される事が多いので、船に慣れている者も多いと思います。

2.兵糧について・・・薩摩は琉球遠征にあたり五ヶ月分の兵糧を用意しました。3月4日に出航し4月初めには琉球は降伏しています。1ヶ月で戦いは終わっており、薩摩軍の兵糧が十分ではないというのは疑問です。

3.土地勘について・・・琉球を攻めるにあたり、水先案内人としてトカラ列島の七島衆が薩摩に味方しています。

4.豊かさについて・・・琉球が降伏した後、薩摩の検地では琉球は11万3千石と出ています。当時の島津は58万7千石ですから、琉球の石高は薩摩の五分の一です。石高から言うと、琉球が薩摩より豊かであったかについては疑問符が残ります。

5.兵について・・・諸説ありますが薩摩は関が原で1500の兵を動員し、三分の二を失ったと言われています。ただ、薩摩の石高から言えばもっと兵を動員する事は可能でした。例えば豊臣秀吉の朝鮮出兵では1万人の動員を命じられています。兵士の動員方式に百石三人制というのがありますが、これを薩摩に当てはめれば1万7千人は動員可能であり、しかもこれは限界の数値ではありません。関が原で薩摩が兵を失ったのは事実ですが、薩摩の動員能力から言うと、損害は少ないものでした。

6.薩摩の損害は100から200人ほどだそうです。

琉球軍の敗因・・・まず琉球王国の一角を占めていた奄美諸島では、薩摩の鉄砲にしてやられました。
奄美大島では島民3千人を集め砦を築いて薩摩軍に抵抗しようとしましたが、薩摩の鉄砲に敗退しました。
「棒の先から火が出る武器に驚いて逃げ去った」とか、徳之島でも「目にもとまらず棒の先から火が出て打ち倒した」とあり、どうやら奄美諸島の人達はあまり鉄砲の事を知らず、その威力の前に敗退したようです。
沖縄本島の場合は、作戦ミスです。
琉球軍は北部の良港である運天港を守るために千人の兵を今帰仁城に配置しましたが、まずここを薩摩軍に攻められ壊滅します。
薩摩軍はその後、読谷山の付近で海路、那覇港へ向かう部隊と、陸路、首里へ向かう部隊の二つに分かれ、二方向より進撃します。
琉球軍は薩摩軍が那覇港に来ると思い三千の兵をここに配置し守りを固めていました。薩摩の水軍はその那覇港の守りの堅さに一度は敗退しています。
しかし、琉球軍は陸路、進撃してくる薩摩軍の早期察知には失敗しており、気付いた時には手遅れで首里目前でこの薩摩軍を食い止めるには兵力が100人ほどしかなく、この部隊も結局薩摩軍に壊滅させられました。
そして首里に迫った薩摩軍に琉球の王は降伏を決断します。
つまり琉球軍は多いとは言えない貴重な防衛戦力を北部に派遣して各個撃破され、情報収集を疎かにして薩摩の進撃路を読み誤って陸路の防備を疎かにし、薩摩軍に敗北しました。
つまり琉球軍は情報と兵力の集中に誤りがあったための敗北です。
なお、沖縄本島の戦いでも薩摩の鉄砲に痛手を受けたようなので、薩摩の鉄砲にしてやられたという部分もあるかと思います。

薩摩が琉球を侵略できたのは、琉球軍の作戦が悪かったからです。

その前にまず・・・

1.薩摩軍の航海について・・・薩摩軍はまず琉球の支配下にある奄美諸島の攻略に行きます。島々を攻略しながら沖縄に近づいていきますが、島と島との間は短く、ほとんど1日から2日で到着しており、海上で何日も過ごすという事をしていません。
島々の制圧期間を除くと、薩摩の山川港から奄美大島までは途中の島で一泊しましたが、それを入れて2日で着いていますし、その次の徳之島へも1日で着き、その次の沖永良部島にも1日で...続きを読む

Q秀吉の死が5年遅ければ朝鮮出兵その後の行方結未は?

歴史にifは無意味とは存じますが・・・
昨今の日韓関係を見るに、秀吉が始め秀吉の死によって実質終わった「文禄の役」「慶長の役」が想起されます。
もしも、後5年の間、出兵と戦闘が続いていたら、朝鮮(バックに中国・明)での戦争の行方と結末は、どのように推移したでしょうか?

Aベストアンサー

結果的には同じだと思います。
 当時の日本の情勢からいって日本軍の兵力は20万前後です。
 対し朝鮮の史料『燃黎室記述』では両役を通しての明の動員数を221,500とあります

 日本の人口2200万に対し明の人口1億5000万人です
 武士の練度および軍備からいえば日本有利なのですがこの広大な大陸を全土占領には至らないでしょう。補給も十分にできないハズです。
 となると李氏朝鮮および満州の占領が限界になります。

 ただ問題は加藤清正の部隊が北方の女真族と交戦してます。
しかもその女真族の長はヌルハチ。あの清の建国者ですw
 明との戦闘で勝っても 広大な地平を占領するには補給と兵力が不十分
 しかも後ろからヌルハチ、結局泥沼の戦いになります
 秀吉の死が5年遅くとも結局は撤退したし、疲弊した明に対し女真族は侵略を開始したでしょう。無論明との戦争ですから日本を攻める余裕はヌルハチにはないでしょう

 ただ日本として少々違う点としては秀吉軍の主力が秀吉子飼いの部隊ばかりです
例えば『文禄の役』
一番隊
小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄(宇久純玄)ら計18700人
二番隊
加藤清正、鍋島直茂、相良頼房ら計22800人
三番隊
黒田長政、大友吉統(大友義統)ら計11000人
四番隊
毛利吉成(森吉成)、島津義弘、高橋元種、秋月種長、伊東祐兵、島津忠豊ら計14000人
五番隊
福島正則、戸田勝隆、長宗我部元親、蜂須賀家政、生駒親正、来島通之、来島通総ら計25000人
六番隊
小早川隆景、小早川秀包(毛利秀包)、立花統虎(立花宗茂)、高橋統増(立花直次)、筑紫広門、安国寺恵瓊ら15700人
七番隊
毛利輝元、兵30000人
八番隊
宇喜多秀家、兵10000人。対馬在陣
九番隊
豊臣秀勝、長岡忠興(細川忠興)ら計11500人

いわば関ヶ原の西軍がかなり多い。つまり、秀吉の死後軍備と人材を温存した家康に逆らえず、関ヶ原を行う事無く豊臣家は没落した可能性があります

結果的には同じだと思います。
 当時の日本の情勢からいって日本軍の兵力は20万前後です。
 対し朝鮮の史料『燃黎室記述』では両役を通しての明の動員数を221,500とあります

 日本の人口2200万に対し明の人口1億5000万人です
 武士の練度および軍備からいえば日本有利なのですがこの広大な大陸を全土占領には至らないでしょう。補給も十分にできないハズです。
 となると李氏朝鮮および満州の占領が限界になります。

 ただ問題は加藤清正の部隊が北方の女真族と交戦してます。
しかもその女真族の長はヌル...続きを読む

Q17世紀までの国力の差

日本には西洋至上主義で考えている人が多いですが、18世紀までの西洋、東洋の学問、文化、軍事力のレベルを比較すると、

17世紀の学問、文化水準
中国=イスラム>西洋=日本
17世紀の軍事力
トルコ=スペイン=イギリス>中国=日本=オランダ=ポルトガル=ロシア=フランス
くらいが妥当ではないのでしょうか?

また、18世紀の学問、文化水準については
中国=イスラム=西洋=日本
18世紀の軍事力
イギリス=ロシア>トルコ=オランダ=フランス≧中国=日本=スペイン
くらいになってきて、西洋が東洋に決定的な差をつけたのは19世紀になってからというのが実際のところではないでしょうか?

Aベストアンサー

15世紀~17世紀の世界歴の記載は、『貿易』がその経済的実態以上に大きくクロースアップされています。(今までなかった新しい事象が始まったことによる記載)
 その反面、18~19世紀の貿易量の急拡大については詳しく述べられることが少ないようです。

 ですから、15~17世紀において、海上交易を行った国の国力について、過大評価する錯覚を起こしやすい面があります。

 また、産業革命が起こるまでの第一次植民地時代の注意点として、
A.支配地が広く見えても・・・
1、実際に支配しているのは、拠点都市だけである。
2、その周りの広い土地は、独占交易できる勢力圏である。
B.金・銀の略奪地となっていたこと
 当時のスペイン・ポルトガル人が錯覚したように、現在の高校生も錯覚するのですが・・・
 『大量』の金・銀・財宝を手に入れると、金・銀・財宝の価値は下がってしまうことに注意。
 価格革命(南米産の銀が、スペインを通じて、ヨーロッパに大量供給されたため、銀の価値が暴落した。) ⇒ 財宝の本国への供給は、国力増強にはつながらなかった。
 
※高校の世界史教科書・参考書を参考にしてください。

<本題>
A.17世紀まで、ヨーロッパ諸国は、アジアの大国の足元にも及びませんでした。

17世紀まで、強国=人口の多い国という単純な図式で、オスマン=トルコ、ムガール帝国(インド)、清が三大強国で、人口もトルコ=1億、インド=2億、中国=3億レベルでしょうか。(人口についてきちんとした統計資料がなく、ざっくりした推定レベルですが・・・)
 
「一国の国力=生産力=人口」 であったわけです。この図式の中では、国土が広い≒人口が多いわけで、ヨーロッパ諸国に比べて広大な面積を支配する

 この三国の中ではもっとも人口が少なく、陸軍国であったトルコに対して、貿易立国が始まり海軍力が向上し始めたヨーロッパの海軍連合が、海賊主体で構成されたトルコ海軍に初めて大規模な勝利をしたのが、レパントの海戦(16です。

 海軍で勝利したとは言っても、人口による国力差がもろに出る陸軍では、依然としてヨーロッパは分が悪く、1683年にはオスマン=トルコによって、ウイーン包囲されています。
(この作戦が大失敗で、オスマン=トルコのヨーロッパにおける優位が崩れだします。)

17世紀における
国力は・・・・
 中国>インド>トルコ>日本(人口3000万人)=イギリス=フランス=ドイツ諸国連合=イタリア諸国連合≧スペイン>オランダ=ポルトガル
 といった感じでしょうか。

 ドイツ・イタリアは、全体としてはそれなりの潜在力があったものの、ドイツ諸国やイタリア諸国が完全に一致団結して対外行動を取ったことは、17世紀においてはありませんので、他国に対しては、分が悪くなっています。

 オランダは、17世紀初頭、対外貿易・工場制手工業の発達で、人口の割に国力を充実させましたが、イギリスに海上覇権を奪われ、国力を失っていきます。

 ムガール帝国のシャー・ジャハーン(在位1628 - 1658)が王妃を弔うために建てさせたタージ・マハルは、なんと「イタリア産の白い大理石」で作られています。

文化水準について・・・・
 幕末、日本に来たヨーロッパ人(=ヨーロッパ社会において文化レベルが高い人々)は、日本庶民が本を読んでいることに驚いています。
 日本の識字率は、当時世界最高レベルで、その国民的教育レベルの高さが、明治維新以後の経済発展の基礎になります。
 また、高等数学においても、ニュートンやライプニッツと同時期に、1674年、関考和が「発微算法」で、導関数の考え方を発見しています。

 17世紀の文化水準については、各地域の特色の違いはあるものの、各国毎に優劣をつけることができるだけの明確な差があるのかどうか。
 ⇒ 明確に回答するだけの知識を持ち合わせていませんので、疑義を呈するに留めます。

軍事力について・・・・
 国力があれば、軍事力は、短期間に拡充できます。また、実体として、平和国家であったり、海上戦力が極端に低かったり、また海上戦力が陸上戦力に比べて卓越していたりするので、世界的な強国かどうかの比較においては、軍事力での比較より、国力の比較のほうが適当と考えます。


B.18世紀になって
「一国の国力=生産力=人口」という図式が崩壊します。

・産業革命によって、「一国の国力=生産力 ≠ 人口」となったのです。
 産業革命以後の第二次植民地は、本国から供給される商品の消費地として、政治・経済を含めた支配を受けるようになります。

15世紀~17世紀の世界歴の記載は、『貿易』がその経済的実態以上に大きくクロースアップされています。(今までなかった新しい事象が始まったことによる記載)
 その反面、18~19世紀の貿易量の急拡大については詳しく述べられることが少ないようです。

 ですから、15~17世紀において、海上交易を行った国の国力について、過大評価する錯覚を起こしやすい面があります。

 また、産業革命が起こるまでの第一次植民地時代の注意点として、
A.支配地が広く見えても・・・
1、実際に支配...続きを読む

Qなぜ中国は人口が多いのですか?

数千年前に急激に増えたのでしょうか?
SEXの好きな民族だったのでしょうか?

Aベストアンサー

 
  基本的に幾つかの理由が輻輳しています。
 
  1)まず、中国は、黄河・揚子江を擁し、肥沃な大平野があり、古来より、麦・米の栽培による灌漑農耕があり、「四大文明」の一つだともされています。二千年乃至三千年以前から、肥沃な土地にあって農業を営み、養える人口が、他の地域よりも多く、結果的に、古代から人口過剰になっており、農耕地をどんどん拡大し、揚子江南岸の三国志時代の呉などの地域は、あまり農業生産性が高くなかったのですが、ここも農耕地に変え、食料生産能力を高度に上昇させました。そのため、古代、二千年とか辺りからすでに人口問題があり、周期的な大戦争や天災で、死んだり、餓死したりで、人口調整がなされていたとも云えます。つまり、昔から、中国は人口が多かったのです。人口密度も高かったのです。
 
  2)上の周期的な人口減少があるということは、それを回復するための努力や、また自然に回復する理由があったとも云えます。その理由の一つは、中国の社会が、農業文明であって、農業文明では、人口調整は自分たちでは行わないのです。つまり、生まれる数だけの子どもを育成しようという文化慣習があります。この結果、戦争・天災などで、減った人口はすぐに回復するということが繰り返され、また、このような経験を蓄積した文化として、「子どもはできるだけ多数造る」というのが、歴史を越えて、文化の基底習慣にもなってしまいました。
 
  3)もう一つの理由として、中国の社会の構造があります。中国は、大家族制社会で、もう一つ大結社的社会でもあるのですが、中国の歴史上の争い、戦争や政争などは、大家族・大結社の規模や、どれだけ、それらを糾合できるかで決まりました。従って、大家族は、人数が多いほどよいというので、農業文化の基本である、子どもは造れるだけ造るという原理以外にも、社会的競争の結果、大家族集団では、育てることのできない子どもは、力ある、大家族の別の家族が引き取り養うという形で、単に、農民家族が多くの子どもを育てるというだけではなく(これだと、個人家族の限界が出てきます)、大家族共同体が、そのなかで、多数の子どもを再生産するという、大共同体レベルで、多産多育成を可能とする社会機構があったので、そういう機構がない農業社会に較べ、多数の子どもが、成長し得たということで、人口増大がすぐ起こったのです。
 
  4)あまり説明が長くなるのも困りますから、もう少し簡単にしますが、次に、社会の「近代化」という問題があります。農業生産を基盤とする社会は、可能な上限まで人口を増やします。国連が食料を援助すると、その援助分だけ、人口が増えて行ったりします。しかし、先進近代国家は、人口減少へと現実的に向かっています。この理由は、高度文化社会となると、餓死の心配などはなくなり、国家の国民支援も、制度的に保証され、子どもをたくさん造って、家族や自分たちの「保険=保証」にしようという必要がなくなることがあります。また、高度文化においえ、義務教育他高等教育も普通となり、生活費用も高くなり、一人の子ども成人させるのにかかる費用が大きくなって行き、多くの子ども育てるということが、合理的でなくなってきます。不可能になるとも云えます。国民全体が、餓死などない、相応に豊かな生活水準になり、義務教育の普及が90%を越えて来ると、こういうことになり、人口増加は逆転して人口減少になります。これが先進国の実状です。
 
  5)現在の先進国も、1世紀前には、実は、人口増大していました。先進国はどこもかも、産業化の時点から較べて、数倍から十倍ぐらいの人口に増え、その後、増加は停止し、減少へと転じます。このパターンからすると、現在世界の後発国は、産業化をすすめ、教育の普及などを進めていますが、この結果としての人口増大があります。衛生思想や技術の普及で乳児死亡率が低下し、人口増大へと転化した国も多数あります。中国もそうであり、1世紀前に較べ、第二次世界大戦などを経過したにも拘わらず、産業化・先進化の歩みの途上の人口増加を経験していると云えます。
 
  インドやバングラデシュや、アフリカなどの人口増加はどうなるのかは、主に第五の理由が共通しています。その他には、インドには、また固有の事情があります。とまれ、中国は、先進国化してしまえば、人口増加は停止するはずですが、「先進国化」というのは、文明の展開で、最初に突破した少数の国々・地域だけに可能で、後発諸国は、そういう可能性はないのではないかという可能性もあります。つまり、中国が近代化・先進化する見込みはないという可能性が高いです。先進化への開始から、実現までのあいだに、日本・欧米で、数倍から十倍ぐらいの人口増加と言いましたが、その数字からすると、中国が近代化を進めて行く過程で、いまから、農業国であった理由での人口増大とは別の要因の人口増大が加わって、まだまだ、増えて行くと考えられます。
 

 
  基本的に幾つかの理由が輻輳しています。
 
  1)まず、中国は、黄河・揚子江を擁し、肥沃な大平野があり、古来より、麦・米の栽培による灌漑農耕があり、「四大文明」の一つだともされています。二千年乃至三千年以前から、肥沃な土地にあって農業を営み、養える人口が、他の地域よりも多く、結果的に、古代から人口過剰になっており、農耕地をどんどん拡大し、揚子江南岸の三国志時代の呉などの地域は、あまり農業生産性が高くなかったのですが、ここも農耕地に変え、食料生産能力を高度に上昇さ...続きを読む

Q水道の1リットルって一体、いくら位?

節約生活をしています。
水の無駄使いがない様にしていますが、一体、水1リットルいくらなんでしょうか?

100円ショップで、1.5リットルのミネラルウオーターが100円(税込み105円)で売られていますが、コレよりか安いのは分かっています。

見当がつかないです。だいたいでいいので教えて下さい。

Aベストアンサー

1m3が下水道代を含め約300円
基本料金+使った推量の従量制課金ですが、現在の水道口径、基本料金、毎月の使用総水量、地域によってことなります。
東京都の標準家庭で、0.33円/リッターと思えばいいと思います。0.3円が水代、0.03円が基本料金割り掛け分

http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/life/r_keisan.htm

Q朝鮮出兵が大河ドラマ(等の時代物)に取り上げられない理由

文禄・慶長の役に関する質問です。

天下統一を成し遂げた秀吉はその勢いで朝鮮半島に兵を送り、日本軍は連戦連勝で李氏朝鮮の首都漢城を陥落させるなど目覚ましい働きをしています。
派兵されたのは毛利、島津、加藤、宇喜田、黒田、小早川など戦国のヒーロー達で、明の大軍と日中韓三国入り乱れて戦う様子は戦国のオールスターが外国と戦う、エキサイティングでスリリングなもの(近世以前の戦争はありふれた政治手段なので近代以降のように”悲惨”という枠で捉えてはいけないと思います。そうなればチンギスハンは極悪人ということになってしまいます。)だったと思うのですが、ほとんどテレビで取り上げられたことはなく、高校の歴史教科書でも秀吉が朝鮮半島に出兵し秀吉の死とともに引き揚げたと書いてあるだけで、普通の人はあまり知識がないと思います。NHKの「その時歴史が動いた」にも取り上げられたことがありませんし。

この戦国の”夢のオールスター”文禄・慶長の役はなぜテレビで取り上げられてこなかったのでしょうか?(日本が中国・韓国に迷惑をかけたからだとしたら、日中戦争の方が遥かに生々しいのによく取り上げられています)

文禄・慶長の役に関する質問です。

天下統一を成し遂げた秀吉はその勢いで朝鮮半島に兵を送り、日本軍は連戦連勝で李氏朝鮮の首都漢城を陥落させるなど目覚ましい働きをしています。
派兵されたのは毛利、島津、加藤、宇喜田、黒田、小早川など戦国のヒーロー達で、明の大軍と日中韓三国入り乱れて戦う様子は戦国のオールスターが外国と戦う、エキサイティングでスリリングなもの(近世以前の戦争はありふれた政治手段なので近代以降のように”悲惨”という枠で捉えてはいけないと思います。そうなればチンギ...続きを読む

Aベストアンサー

個人的には、文禄・慶長の役の大河ドラマ化は、日韓関係で問題が多い今の情勢では難しいと思います。

大河ドラマの場合、作成するのはNHKです。
国民から視聴料を取る公共放送というのが建前ですが、外国から見れば日本政府の代弁者みたいなものです。
たとえエンターテイメント作品とはいえ、作品中で述べられた史観が日本政府もしくは日本国民の公式見解だと受け止められかねません。

元寇のように、歴史的な評価もかなり定まり(さすがに神風うんぬんは、戦後数十年経った今、一般国民は誰も信じなくなりました)、またクレームをつける国も無ければ別ですが、文禄・慶長の役についてはまだ隣の国から多くの文句が飛んできそうです。

しかし、かつての文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱)については、韓国側でも自国の問題点についてそれなりに問題点は認識してますし(基本的には国の政治・軍備に不備があり過ぎた)、日本でも豊臣秀吉の暴走という見方がそれなりに定着してますので、イデオロギー色の少ない識者を選抜すれば、割と客観的なドラマ作りは可能かと思っています。


余談ですが、嫌韓論の広まりからか、李舜臣について奇妙な評価が広まっているようです。
客観的に見れば、李舜臣は十分名将ですよ。
限られた兵力を有効に活用するには、ゲリラ戦をせざるを得ません。
李舜臣を批判する人は、同じくゲリラ戦を活用して奮戦した楠木正成も批判しなければ、公平とは言えないでしょう。
また、遠征軍の補給を絶つという戦い方は、戦略的に見ても非常に有効な手段です。(理解できない人は、ナポレオンのロシア遠征で、ロシア側がとった焦土戦術を勉強されたし)
参考:『焦土戦術』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A6%E5%9C%9F%E6%88%A6%E8%A1%93

さらに重要な会戦には、正面から挑んで戦術的な勝利を収めています。
(参考:『鳴梁海戦』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%B4%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6)

戦死した露梁海戦(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%B2%E6%A2%81%E6%B5%B7%E6%88%A6)についてはさすがに疑問を感じますが、仮に生き残ったとしても、宮廷の政争に巻き込まれて失脚するか死を賜ることになったでしょうから、討ち死にして名誉を残したことは、かえって本人にとって良かったかもしれません。

ついでに言えば、李舜臣が自国の国民から略奪したという史実は記憶にないのですが。(清野の計といって、李王朝が政策的にそうしたことは、知っています)


文禄・慶長の役は結果としては日本の負け戦ですけど、局地戦を見ればすごい戦いも幾つかあります。
特に『泗川の戦い』http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84は、「島津すんげーえっ!」の一言です。国内の戦いで、この時の島津軍以上の戦果を上げた戦いは、他には無いんじゃないかと思います。

今すぐは無理でしょうが、私も文禄・慶長の役の大河ドラマ化(もしくは四時間くらいの長さで映画化)を期待します。

個人的には、文禄・慶長の役の大河ドラマ化は、日韓関係で問題が多い今の情勢では難しいと思います。

大河ドラマの場合、作成するのはNHKです。
国民から視聴料を取る公共放送というのが建前ですが、外国から見れば日本政府の代弁者みたいなものです。
たとえエンターテイメント作品とはいえ、作品中で述べられた史観が日本政府もしくは日本国民の公式見解だと受け止められかねません。

元寇のように、歴史的な評価もかなり定まり(さすがに神風うんぬんは、戦後数十年経った今、一般国民は誰も信じな...続きを読む

Q古生代の酸素濃度

古生代の大気中の酸素濃度の変化について教えてください。
恐竜などの巨大生物が生息活動するには、非常に大きなエネルギーと新陳代謝が必要と考えられます。従って現在の大気中の酸素濃度より古生代の酸素濃度は高かったのではないか?と考えておりますが、調査結果などはあるのでしょうか?
また、生物が巨大化すると、どれくらいの酸素濃度が必要かについて調べた結果はありますか?

Aベストアンサー

こんにちは。

>従って現在の大気中の酸素濃度より古生代の酸素濃度は高かったのではないか?と考えておりますが、調査結果などはあるのでしょうか?

恐竜時代といいますのは「古生代」ではなく、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通した「中生代(2億5千万年~6千5百万年前)」の方ですよね。ちょっと面倒ですが、参考資料を一緒にご覧下さい(ページ中ほど、二番目のグラフです)。

http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/taikitokaiyonorekishi.htm

グラフをご覧頂ければひと目で分かります通り、恐竜たちが繁栄した中生代の酸素濃度は三畳紀末から上昇を始め、白亜紀・後期にはピークに達しています。ですから、これが恐竜の巨大化と何らかの関係があるのというのはほぼ間違いのないことだと思います。
その前の「古生代」には石炭紀に地球史を通して最も特異な酸素濃度の出欠大サービスがありますが、これは古代植物の大繁栄によるものであります。このときにはまだ恐竜は出現しておらず、二酸化炭素濃度の低下による寒冷化の時代でありますが、「古代トンボ」や「古代ムカデ」などの甲殻類が巨大化しています。そして、いよいよ「中生代・三畳紀」、即ち我らが恐竜の時代に突入しようというそのときには、植物が栄華を極めた古生代の終焉と共に大気中の酸素濃度は過去最低のレベルまで下がっています。
これがどういうことかと申しますと、恐竜といいますのは、このような「極端に酸素濃度の低い環境」に適応することができたために晴れて誕生が許されたということであります。ですから、恐竜というのはもともと酸素濃度が低くても十分に生きられるのですから、そのあと酸素がふんだんに使えるようになりますならば活動がどんどん楽になりますので、それが巨大化のひとつの要因になったというのは極めて理に適った筋書きということになります。
もちろん、古生代の終わりには気候が温暖化に転じたというのは、これは絶対条件です。ですが、恐竜たちは三畳紀の長い低酸素時代を実際に生き抜いているわけですし、巨大化はジュラ紀から始まり、白亜紀に掛けては留まることを知らない大繁栄を遂げたというのは概ねの事実であります。そして、極めつけに当たるのが白亜紀・後期の最終ピークと重なる「翼竜の巨大化」でありまして、多くの学者さんたちも、こればかりは酸素濃度の上昇という条件が揃わなければ実現しなかったであろうと指摘しています。果たして、如何に温暖な気候と高酸素濃度という条件が偶然にして重なったとはいいましても、挙句の果てには巨大生物が空を飛んでしまうなど、三十億年を越える地球の生物史上、これほど晴れがましい出来事はそう幾つもはなかったのではないでしょうか。
因みに大気中の酸素濃度といいますのは激しい運動を助けるためだけではなく、翼竜や古代トンボが空を飛ぶための「空気抵抗」にも関係していたのではないか考えられています。

>恐竜などの巨大生物が生息活動するには、非常に大きなエネルギーと新陳代謝が必要と考えられます。

そうですね、仰る通り、全くその通りではあるのですが、哺乳動物と恐竜では事情が違いますよね。
先に触れました通り、恐竜といいますのは三畳紀の「低酸素環境」に適応できたために後の繁栄を許されました。では、進化の過程で先手を取り、自らが絶滅するまでその生態的地位を譲らなかったのは、現存の爬虫類と比較しましても、恐竜というのは我々哺乳類とは異なる代謝構造を持ち、それを極めて有効に運用していたということなります。
申し上げるまでもなく、哺乳類といいますのは爬虫類よりも高等動物に当たります。ですがその弱点とは、少なくとも中生代・三畳紀の場合に限り、哺乳類といいますのは「内温性恒温」であるため、自分の体温を維持するためには常に大量の酸素を消費する必要があるということです。これに対しまして、初期の恐竜が「外温性変温」であったとしますならば、酸素消費量はたいへん少なくて済むわけです。しかも、酸素濃度は低いのですが、三畳紀には既に気候が温暖化していますので、「外温性」の恐竜は外気によって体温を獲得し、活発に行動をすることができたということになります。これにより恐竜は、三畳紀の低酸素環境において先手を取りました。ではその後、酸素濃度の上昇によって後続の高等動物である哺乳類に遅れを執らなかったのは、巨大化というのが必ずしも無尽蔵な代謝率の増加だけを招くものではなかったからです。

恐竜というのは恒温動物だったのではないかという説はだいぶ広く受け入れられていますが、実際のところは彼らに会ってみなければ分かりません。ですが、まず哺乳類のような「内温性恒温」であった場合は三畳紀の低酸素環境にきちんと適応できたかどうかが怪しくなります。では、現存の爬虫類はほとんどが「外温性変温」でありますが、これがある程度巨大化致しますと、今度は「慣性恒温」という極めてインスタントな機能を獲得することになります。
何処がインスタントで安直なのかと申しますと、「慣性恒温」といいますのは身体が大きくなればそれだけ蓄えられる熱の量が多くなり、ひとたび体温が上がれば何時までも冷めないので、結果的には恒温状態を維持することができるということなんです。もちろん、体重が増えれば身体を動かすためのエネルギーはその分だけ必要になります。ですが、恐竜の場合は哺乳類とは違い、体温を維持するための酸素消費量の上乗せはありませんので、巨大化をしましても、それがそのまま代謝率の悪化に繋がるというわけではありません。逆に恐竜は、中生代の温暖な環境においてこの慣性恒温を利用するために巨大化したと考えることもできます。

次に恐竜の呼吸方法なんですが、例えばティラノサウルスが満身の力を込めて獲物を倒したと致しまして、それでもって汗を流しながらハアハア、ゼイゼイと息を切らすなんていう光景がちょっと想像できますでしょうか。このような生理反応は言わば「酸欠」でありまして、どちらかと言いますならば、これは大量の酸素を消費する内温性恒温動物として「腹式呼吸」という手段を採用した我々哺乳動物の特徴であります。
多くの爬虫類といいますのは「胸式呼吸」であります。注意をして見ていれば分かるのですが、イヌやネコなど身近な哺乳動物とは違い、苦しそうな表情というものを見て取るということが中々できませんので、トカゲやヘビなどはあれだけちょこまかと動き回りながら汗ひとつもかかずに平然としているのが何とも不可解に思えて仕方がありません。ひとつの理由としましては、これも爬虫類の酸素消費量が基本的に少ないからなんですが、やはり友達にするならば哺乳類ですよね。
爬虫類の中でもワニといいますのは特別な構造を持っておりまして、哺乳類の「横隔膜」と同じ働きをする「横隔膜筋」によって他の爬虫類よりも効率の良い呼吸をすることができます。では、巨大化した恐竜にこのワニと同様の「横隔膜筋呼吸」ができたとしますならば、激しい運動にもある程度は耐えられたかも知れませんね。
ところが、ワニというのは「横隔膜筋呼吸」というたいへん効率の良い構造を持っているにも拘わらず、彼らは「水中のナマケモノ」といっていいほどにほとんど動きません。これは、ワニは長時間水の中に潜っているために運動量を目いっぱい抑え、酸素消費量をできる限り節約しているからです。激しい運動をするのは「いざ! 獲物だ」というときだけです
これがどういうことかと申しますと、哺乳類とは違い、酸素消費量の少ない爬虫類といいますのは必要なときに必要なだけ呼吸をすればそれで事が足りるということです。ですから、勇猛果敢なティラノサウルスが息も絶え絶えに懸命に獲物を追い掛けるなんていう余りにも情けない光景は、これは飽くまで私の希望でなんですが、できるものならば絶対にあってはならないことであります。

>また、生物が巨大化すると、どれくらいの酸素濃度が必要かについて調べた結果はありますか?

そうですね、白亜紀・後期の翼竜の巨大化が酸素濃度の上昇によるものであることが科学的に受け入れられていますならば、翼竜の運動能力を基にした酸素消費量というのは恐らく何らかの形で計算されているはずだと思います。ですが、念のため検索はしてみましたが、やはりそう簡単には調べが付くものではありませんね。仮に分かったとしましても、我々素人にはちょっこら理解できる内容であるとは思えません。
酸素濃度が高ければ生物が巨大化するというのは、これは恐竜を始め古生物の進化の歴史と比較しましても概ね間違いのないことだと思います。ですが、その巨大化が酸素濃度の上昇に対してある程度直接的な比例関係を表したのは「古代トンボ」のような甲殻類だけです。これがどういうことかと申しますと、古生代の寒冷化の時代に巨大化することができたということは、その主要因が酸素濃度の増加であったということです。これに対しまして、哺乳類や爬虫類などに関しましてはそれほど単純に線引きできるものではありませんし、恐竜の巨大化といいますのは温暖化という圧倒的な条件が揃わなければ、これはやりたくてもできたことではありません。
先にご説明致しました通り、酸素消費量だけで推し量りますならば、外温性爬虫類におきましては巨大化によって逆に代謝量が抑えられますが、哺乳動物の場合はある程度に達しましたならばそれ以上の巨大化は無理ということになります。ですが、現生動物の中で最も巨大化しているクジラ類といいますのは哺乳類でありながら酸素獲得にはたいへん不向きな海洋という環境で暮らしてします。このクジラが海の中を自由に泳ぎ回ることができますのは、それは細胞内に酸素を蓄えるためのミオグロビンの量が陸哺乳動物の十倍近くあり、心肺機能に対する酸素消費量の効率が極めて高いからです。
このように酸素消費量といいますのは、その動物の「運動量」「心肺機能」「代謝効率」によって大幅に変わってしまします。ですから、どの程度の酸素濃度であるならば巨大化が可能であるかということに一本で線引きをするというのは、これはどうやってもできないのではないかと思います。
恐竜といいますのはもともと低酸素環境に適応できる動物です。ですから、それが酸素濃度の上昇と共に巨大化をしたということは、それほどの高濃度ではなくとも、三畳紀の最低レベルを少しでも上回るならば、彼らはその分だけ活動を有利にすることができたのではないかと想像します。

参考URL:http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/taikitokaiyonorekishi.htm

こんにちは。

>従って現在の大気中の酸素濃度より古生代の酸素濃度は高かったのではないか?と考えておりますが、調査結果などはあるのでしょうか?

恐竜時代といいますのは「古生代」ではなく、三畳紀、ジュラ紀、白亜紀を通した「中生代(2億5千万年~6千5百万年前)」の方ですよね。ちょっと面倒ですが、参考資料を一緒にご覧下さい(ページ中ほど、二番目のグラフです)。

http://www.s-yamaga.jp/nanimono/chikyu/taikitokaiyonorekishi.htm

グラフをご覧頂ければひと目で分かります通り、...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報