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秀吉が朝鮮出兵した時に明が属国契約していた朝鮮を助けた明の兵力が数万というのですが、この頃の明というのは既に弱体化していたのでしょうか?
中国というと、三国志のときは何十万という兵力でぶつかり合っていたというイメージがあるのですが、もうこの時代は多くの戦力は持たなかったのでしょうか?
また、馬に乗って槍や大きな剣で敵をなぎ倒し、弓矢もすごいという印象があるのですが、結局は鉄砲には勝てなかったということでしょうか?それとも、戦国時代に鍛え上げられた武士はそうとう強かったということなのでしょうか?
それなら、清の時代に欧米の列強にいいように食い物にされた理由も納得できるのですが。

A 回答 (4件)

日本軍は海軍に負けて補給が途絶えたことが敗因です。

当初は鉄砲の圧倒的な数で破竹の進軍をするのです。
小西行長軍18000、加藤清正軍23000、黒田長政軍18000、島津義弘軍14000、福島正則軍25000、小早川隆景軍15000、毛利輝元軍30000、宇喜多秀家軍10000、細川忠興軍15000。総勢168000の大軍です。徳川、前田、伊達は名護屋城に布陣。

しかし明には大砲があったのです。この大砲を乗せた李舜臣率いる朝鮮水軍に日本水軍は大敗するのです。物資の補給を絶たれると食料難と弾薬不足に見舞われ鉄砲が使えなくなったのです。再征で盛り返すのだが。海軍の劣勢は挽回できず、秀吉の死をもって出兵は終る。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
個人的には、黒田官兵衛のような用意周到な軍師がいたのですから、孫子の兵法でも用間の活用が説かれ、事前に朝鮮に間者を放って食料調達に関して何故配慮できなかったのか疑問に残ります。
黒田官兵衛は朝鮮出兵に反対だったが日本人をみすみす殺すような策は取らなかったでしょうから。

お礼日時:2014/10/22 15:38

>三国志のときは何十万という兵力でぶつかり合っていたというイメージがあるのですが



まあそれが、「白髪三千丈」とか「万年筆」とかいうのと同じであるのですよ。
例えばあの赤壁の戦いで、曹操軍は100万、対する孫権・劉備連合軍は3万だった、なーんていわれています。しかしこの数字は「三国志演義」という「小説」で示された数字なんですね。「講釈師、見てきたように、ウソをいい」なんて言葉がありますが、「講釈というのは針小棒大を旨とする」なんだそうでございまして、そのへんは少々話を大きくした方が面白い。子供に「大金ていうといくら?」と聞くと「ひゃくまんえーん!」と答えが返ってくるように、人類にとって「100万」とは「すごく沢山」を象徴する数字なのかもしれません。

では実際の赤壁の戦いでの実数はどれくらいだったか。これはもうはるか昔の話しなのでどうにも実数は難しいです。Wikiでは曹操軍が20万くらい、対する孫権・劉備軍が2~3万くらいとありますが、当時の人口の推計から考えてもこれでも多くて、当時の推計人口などから頑張って計算した人がいまして、その人によると、「曹操軍がいいとこ2万から2万5千。孫権・劉備軍が2千かそんなもんだろう」ということでした。当時のテクノロジーを考えると、案外それが最も正解に近いのではないかと思います。

秀吉の朝鮮出兵に対して動員された明軍の実数については私もちゃんと資料を読んだことがないので通説程度にしか知りませんが、私は明軍にしては割と大軍を用意したなと思います。
そもそもいくら秀吉軍がどんどん攻め込んだところで本当に明を占領することなんて不可能です。50人のテロリストで日本全土を支配しようというようなものです。それは明も分かっているから、変な話ほっといてもいいのです。どうせあるところから先には行きたくても行けなくなりますからね。50人のテロリストが仮に東京を占領することに成功したとしても、そいつが大阪にも攻め込むとなったら人手が足りないでしょ。
しかしかりそめにも大中華帝国が異民族の侵入を受けて同盟国(属国)を見捨てたとなったら、政治的に非常にマズいことになりますので、そういう手前も軍は動員せざるをえなかったと思います。
自衛隊が中東あたりに派遣されて、イラク人や中東人のために最後の一人になるまで戦えと思うかというと、思わないじゃないですか。なぜ遠い外国人のために日本人が血を流さなければならないと思うのか。しかも、仮に戦いに勝ってもそこは日本領にはならないわけです。そこで必死に戦うバカはいないですよね。
それと同じで明軍も必死になっても(政治的な意味を除いて)何ひとつメリットはないので、そりゃ士気が上がらないのです。一方、日本軍からすると、戦いに勝てば占領した土地が領土としてゲットできるメリットがあるのでそれなりに真面目に戦う意義があるのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
三国志時代にすごい戦力と思ったのですが、それは物語の上でのフィクションなのですね。

どういう土地か知らない当時の日本人にとって朝鮮の土地を手に入れるのは魅力だったんでしょうね。でも朝鮮半島なんて資源が全くない国なので、明にとっても見放しても良かったんですね。きっと。

お礼日時:2014/10/21 22:13

まず鉄道による食糧の大量輸送ができるようになるまで、軍隊の食糧調達は現地調達が大半です。


あまり数十万という過大な兵力を食糧生産が貧弱な朝鮮半島(朝鮮は米の生産量が少ない)に送り込むと、結局食糧調達が成立せず食糧欠乏で撤退になりますよ。
特に守る側は戦がどの程度続くかわからないので、過大な兵力を遠い僻地に送り込むのは禁物です。
次に明にとってはっきり言って朝鮮半島などどうでもいい地です。
「一般に戦力は、策源地からそこまでの距離の2乗に反比例して減衰する」という言葉があります。日本と戦うなら朝鮮半島は日本に近く明に遠い明にとって不利な地になります。

明としても朝鮮との関係上と朝鮮の戦力が活かせるならということで一定の兵力を派遣してるまでであって、もし明が全力戦闘を行うなら朝鮮など切り捨ててもっと明と近い地で戦うことになります。

なお日本の戦力に関して言えば、当時の日本は陸戦についてはあほみたいに強いです。
その理由は鉄砲の普及率です。当時日本の鉄砲の配備数は兵力の2割~3割にのぼるとみられていて、ろくに火器武装をしておらずもっていても銃の性能が低い明軍とは正直比較になりません。圧倒的な火力で近づいた途端一方的に打ちまくられるんですからとてもじゃないですが野戦では戦いにならないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
先ずは地の利を考えの戦力だったのですね。これだけ銃を充実させた信長は凄かったということですね。

お礼日時:2014/10/21 22:06

明の朝鮮に送った援軍は、文禄2年正月李如松の


率いた、4万人余りと知られています。
日本軍が撤退したあと、しばらく駐留していた
明軍は2万4千といわれていますから、総数5万
以下でしょう。

少な過ぎるようですが、下記を知ると理解出来ます。

明の軍制では全国の5都督合わせて319万人もの
大軍でしたが、この頃は明は経済的に疲弊しており
実際は60万人程度であったと推定されます。
数万の援軍でも400万両もの戦費を費やし、明は
さらに疲弊し戦後僅か40年後に滅亡し、清に代わり
ます。
(鄭和の大艦隊航海と朝鮮援軍、明を滅ぼす)

中国はもとより、朝鮮も日本も経済的にも大きい
損失を受け何とも不毛の戦でした。

  上垣外 憲一 「文禄慶長の役」 参照
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
当時の明にとってできる限りの援軍だったのですね。それで和平交渉ができた訳ですね。

お礼日時:2014/10/21 22:03

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