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世襲の絶対権力者、例えば中国の皇帝や日本の将軍家などを見ていると、創業者は長命な場合が多いですが、3代目以降は30代や40代の比較的若いうちに亡くなることが多いです。昔は平均寿命が短かったでしょうが、それでも同時代で最も豊かな食生活を送り万全の医療看護を受けているはずです。加えて、統治機構が最も安定しているはずの王朝中期の世襲権力者が長生きできない理由として何が考えられるでしょうか?
家康以外の徳川将軍で例外的に長生きしたのは11代の家斉くらいで、それでも家康より短命でした。また、最後の慶喜も長生きしましたが、直系ではない御三家出身で、世襲とは言い難いです。
中国を見ても清の皇帝は割と長生きですが、明の皇帝なんか、30代でバタバタ死んでます。
そして北の3代目将軍様も、どうやらあまり長生きしなさそうです。

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A 回答 (9件)

該当する人間の死因と時代背景、特に天災と流行病を


全て確認してから投稿しましょう。現段階では思い込みを
落書きしただけに過ぎない。小保方と同じやでw

この回答への補足

徳川幕府の将軍のうち、最も長生きしたのは乱世に生きた創業者の家康です。
江戸中期の平和な時代の将軍はなぜ、家康より短命なのでしょうね?

補足日時:2014/10/21 21:30
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将軍家の子供は、その多くが乳幼児の時点で死んでいます。

乳幼児で
死亡してしまう率が高かったのは、母親に原因があります。将軍の
御台所や側室たちは皆、公家や高級武家育ちの華奢・脆弱な身体で
あったため、赤ちゃんが健康な体で生まれてくることが少なかったの
です。しかも、乳母が胸まで白粉を塗った乳房で授乳をしていたため、
乳児が鉛毒にかかったことも大きな要因といわれています。

ヨーロッパでも言えることですが、貴族は同じ身分同士で婚姻をする
ので遺伝的に虚弱体質になります。こうした遺伝的に虚弱体質な女性
ばかりを母親としていたのですから、将軍が総じて病弱となるのは当然
でしょう。尚、徳川ではオットセイ将軍以外にも暴れん坊将軍が長生き
しています(笑)。

中国では例外的に長生きをする皇帝が結構いて、70歳を超える皇帝が
10人以上もいました。特に清の乾隆帝は89歳という、とんでもない長寿
でした。中国の場合、侍医たちは医者の中でも特に優れた者たちである
だけでなく、始皇帝の不老不死の探求の伝説にも見られるように、二千
年以上に渡って皇帝が「食」によって長寿を保つための秘訣を探求し
続けた成果といえるのかもしれません。
尚、明代は漢民族の王朝であったため、家柄を重視した可能性が高く、
徳川家と似たような状況になったのではないかと考えられます。逆に
清朝は異民族の王朝ですから遺伝的健全さが保たれた可能性が高いです。

この回答への補足

吉宗は確か、紀州徳川家出身でしたね。家斉も直系ではなかったはずです。
将軍の子供に限ると、更に短命になりますね。

補足日時:2014/10/21 21:47
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/31 00:40

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …

http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/141.html

江戸時代後期には,成人した者の平均死亡年齢は男61歳,女60歳だったというから,
というのが普通だとすると

吉宗 68 長命
家重 51 短命
家治 50 短命
家斉 69 長命
家慶 61 平均
家定 35 極短命
家茂 21 極短命

長命 2
平均 1
短命 2
極短命2

家定がもともと病弱で、家茂が一種の病死(脚気だったらしい)ことを考えると、平均的な江戸後半の寿命です

家康と比較するのが、他の将軍にはかわいそう。
あれだけ長命だから天下をとれたわけですから。

秀吉没年61歳
75まで、つまり1612年まで生きていたら、秀頼は19歳です。
石田三成52歳

東軍
加藤清正 1611年没
田中吉政 1609年没
山内一豊 1605年没
本多忠勝 1610年没
生駒一正 1610年没
井伊直政 1602年没
松平忠吉 1607年没

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6% …

ここでの東軍武将 21名中7名 つまり 三人に一人が、もし秀吉が75まで生きていたら、先に死んでいる。
※ 井伊直政のように戦傷がもとという場合もありますが、7名というのは決して少ない数字ではない。
また、小早川秀秋も死んでいます。


信長が50ではなく、あと25年長生きしたらどうなっていたか?

要は、初代で天下を取るには、人並み外れた長命というのも重要な資質であるということです。
その長命な初代と比較されては、平均的な寿命の二代目以下が可愛そうです。


それでも同時代で最も豊かな食生活を送り万全の医療看護を受けているはずです。加えて、統治機構が最も安定しているはずの王朝中期の世襲権力者が長生きできない理由として何が考えられるでしょうか?

これに関しては、家茂の脚気は、いいものを食べ過ぎたためとも。
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この回答へのお礼

徳川将軍で60歳を越えたのは家康、綱吉、吉宗、家斉、家慶、慶喜の6人。
50歳以下で死んだのは家光、家綱、家継、家治、家定、家茂の6人。いい勝負ですね。
ただ、家斉の子供は50人以上いたにもかかわらず半数が夭逝し、50歳を越えたのは数えるほど。いくら昔だからといっても短命すぎますね。

お礼日時:2014/10/21 23:06

中国の皇帝に関して言えば、仙丹と呼ばれる水銀薬を不老不死の薬として愛用していたので、水銀中毒で死んだ皇帝が数多くいるらしいです。

軽くググッタだけですが、どうやら秦代から宋代まで続いたらしいですね。

この回答への補足

水銀は毒ですから、飲んだら大変です。
宋の後の明朝の皇帝も短命ですよ。

補足日時:2014/10/22 19:31
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8% …


宗門改帳を用いた江戸時代の数え2歳, 5歳, 10歳, 15歳時平均余命推計
江戸時代の乳児死亡率と出生時, 満5歳時, 満10歳時, 満15歳時平均余命の推計[55][59]


農村部では 2割から3割程度の乳幼児が死んでおり、出生時余命は30から50程度


東京各所の墓地から出土した江戸時代の江戸の満15歳以上人骨平均死亡年齢 (小林和正, 1967年)[74]

※ 死亡率の高い乳幼児期を過ぎて15歳以上になった人間でも平均で40代で死んでいる。
現在と違って 男性>女性 なのは出産時の死亡率が高かったからと思われる

これらの数字を見れば、江戸の将軍は長寿の部類です。

40から50までを平均的な寿命と見れば、平均以下は

家継 8歳
家定 35
家茂 21

程度です
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/23 19:43

家斉の子供は50人以上いたにもかかわらず半数が夭逝し、50歳を越えたのは数えるほど。

いくら昔だからといっても短命すぎますね。



この方の場合の、異常な幼児死亡率は、鉛です

http://www.po-holdings.co.jp/csr/culture/bunken/ …
化粧品会社なので、ゆるい感じの書き方

http://d.hatena.ne.jp/jidai-show/20050724
家で紹介されている本ではもっと激しいです

===
最も豊かな食生活を送り万全の医療看護

これで思い出したのが、瀉血
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%89%E8%A1%80

日本では流行りませんでしたが、ヨーロッパでは高度な医療を受け入れられる人ほど、やられている。

なので、万全の医療看護ってのも怪しいものです。

この回答への補足

なるほど。昔は身分が高い人ほど、早死にだったかも知れませんね!

補足日時:2014/10/22 19:34
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/31 00:40

#2さんの回答が的を射てる気がしますが、要するに一言でいうと「基礎体力がないから」に尽きるんじゃないかと思います。


創業者ってのは、家康もそうですが若い頃から戦場を駆けずり回ったりして鍛えられるわけですね。勝ち上がった創業者というのは、もうその時点でふるいにかけられています。もし家康が精神的にも肉体的にももっと脆い人であったなら容赦なく彼は死んでいたでしょう。

ところが代が下っていくに従ってそういうふるいにかけられることはなくなります。確かに置かれる環境ははるかにそういう意味では恵まれた環境となりますが、快適な空間にいるからこそストレスに耐えるように鍛えられる機会が失われてもしまうわけです。
そうなると、ちょっとした病気やら何やらがきっかけであっさり死んでしまうことはよくあると思います。本人の基礎体力と基礎免疫力が弱いですからね。

そういう意味では、現代も同じなのではないでしょうか。今の日本は大変な長寿社会ですが、今の老人世代は若い頃は車もなくてどこに行くにも歩いていかなければなりませんでした。「学校に行くのに片道1時間歩いた」なんて話がゴロゴロありますよね。そして中年以降は栄養も生活環境も恵まれた状態で生きています。今の老人世代はスポーツにも熱心で、老人世代の体力は年々向上する傾向にあります。基礎体力があって普段から鍛えていて栄養状態もいいんだから長生きするに決まっています。
一方、最近の若者や子供世代はどうでしょうか。交通機関は発達していて、昔は「田舎の人はどこまでも歩いた」なんていわれたけど、今や田舎の人のほうが「200m先のコンビニも車で行く」といわれるほどです。家の中も冷暖房が発達していて、そんな環境で育っているから子供の体温調節能力が落ちていて、ちょっと炎天下に晒されただけで熱中症で倒れたりします。私が子供の頃は学校の朝礼で倒れるのは「体力がないもやしっ子」とむしろバカにされたくらいです。外で遊ぶ場所もなく(これは子供が可哀想)、子供世代の基礎体力は年々落ちているのが明らかです。「しゃがめない若者(子供)も多い」っていいますよね。そんな若者や子供が体を鍛えることがないまま体力のピークを過ぎた中高年になったらどうなるか。
いつか日本人の平均寿命も緩やかに下がっていくはずです。

この回答への補足

体力は落ちてますが医療技術は進歩しています。寿命がどこまで伸びるのか。将来ガソリンが貴重品になったら再び基礎体力が向上したりして。

補足日時:2014/10/22 19:38
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/31 00:39

中国の皇帝の場合、ストレスが原因で短命なことが多いです。



なぜならば、中華の皇帝というのは、「天命を受けて天下を統治する」存在で、
「天地自然のすべてを統治する優れた人物でなければならない」という暗黙のルールがあるからです。
つまり、避けようのない天災や飢饉についても、皇帝のせいになってしまうわけです。
「皇帝が天に見放されたからこのような天災が起こるのだ」
という価値観は根強かったわけですね。
そしてそれを理由に、何度も王朝が後退しているわけですから。
皇帝も、それを避けようと頻繁に改元して天地自然の理をリセットしようとしたわけです。
(当然、ほとんど意味をなしません)

ですので、中華の皇帝で長生きだった人は、その人物の健康への意識や治世ともう一つ、
「在位中に大きな天災が起きないこと」
「起きたとしても、見事に復興できたこと」
が重要です。

長命で有名な乾隆帝の場合、乾隆帝の父・雍正帝が倹約に努め、
また当時は経済的にも清国の最盛期を迎えていました。
これが非常に大きいです。
この潤沢な資金によって、乾隆帝は軍事活動や文化事業など、多岐にわたる政策を実現できました。
それ故、国民や臣下からの評判も非常に高く、そして乾隆帝自身のストレスも少なかったでしょう。
まさに正のスパイラルであって、乾隆帝が優秀だったのはもちろんですが、
それ以上に周囲の環境が作用しました。
乾隆帝は「天の時、地の利、人の和」を得られたわけでして、
この乾隆帝の背景をもって、他の皇帝と比べるのは酷と言うものでしょう。
清の皇帝が比較的長命なのは、
 ・「皇帝は天地自然をつかさどらなければならない」という迷信から逃れられたこと(時代が後ですし、漢人ではありませんからね)
 ・経済的に恵まれていたこと=政治的に比較的安定していたこと
が大きいです。

そして、王朝の創始者が長命なことが多いのは、
彼らが比類ない成功体験を持っているため(国を興すくらいですからね)、
結果的にストレスが大変少なくて済んだということだと思います。
創始者は、成功も失敗も自己責任です。
失敗したら「次はどうやって挽回しようか」と前向きに考えることができます。
自分の失敗を見つめ直し、すぐに取り返せる立場にいます。
しかし、2代目以降はそうではありません。
失敗=創始者と比べられる=多大なストレスを受ける
という図式が出来上がります。
中華の皇帝でやたら蛮行を行う人物が出るのは、
多大なストレスの持って行き場がなかったというのも関係していると思われます。
「周の文王」の故事は、実は「ストレスを溜めない権力者の生き方」の指南でもあったのかもしれません。

北の三代目も、おそらくはストレスでしょうね。
絶対権力者として気ままに振る舞えますが、
もし統治が上手くいかなかったり、外圧があったりしたら、必ず臣下は権力者を疑いの目で見ます。
また、権力者がそう思い込みます。
かくして、ストレスのはけ口の無い権力者は孤独に陥り、粛清を繰り返し、それでもストレスが晴れぬまま死んでいくわけです。

この回答への補足

創業者以外で長寿の皇帝は、他に漢の武帝、唐の玄宗皇帝、明の万歴帝などが居ますね。皆、統治した時代がよく、ストレスも少なかったのでしょう。ムガル帝国のアウラングゼーブなども80歳を越えています。そういえばフランスのルイ14世も長生きでしたね。
北の3代目、確かにストレスが凄そうてす。あれは長生きできないですよ。

補足日時:2014/10/23 19:41
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/10/31 00:39

アジアではないのですが、近親婚による影響で有名なのがヨーロッパのハプスブルク家ですね。



極端な例でしょうか。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/10/23 19:42

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Q徳川家はなぜ天皇家をつぶさなかったのか

徳川家はなぜ天皇家をつぶし、最高の権威を手に入れなかった

のでしょうか?

自分は徳川家が早い段階で天皇家を滅びさせていれば

明治維新は起きなかったのではないかと思っています。

徳川家は惜しいことをしたと思うのですが、やはり天皇家は

日本人にとって切っても切れない存在だったのでしょうか?

Aベストアンサー

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
すね。ですから、天皇家をつぶす為には、天皇に代わる権威(支配の
正統性)が必要なのです。徳川に限らず、結局のところ、力では圧倒
しても、天皇に代わる権威を見出せず、実行できなかったのだと思い
ます。

平家は都落ちに際し安徳天皇を拉致?しますが、京都には天皇家の家
長である後白河院が健在であったため、焼け石に水。
承久の乱では、北条義時が天皇家の家長である後鳥羽院の島流しを敢
行しますが、北条得宗専制ですらまだ始まってはおらず、あまりにも
時期尚早。天皇を頂点とする公家勢力・寺社勢力の息の根を止める以
前に、まだそれ以下の鎌倉「将軍」の権威で武士の統合が必要な時代。
元弘の乱の後醍醐天皇の配流と、建武新政崩壊後の南朝への攻略は、
持明院・北朝の存在を前提としたもので、天皇家抹殺の意図なし。
足利義満による皇位簒奪計画という学説もありますが、事実だとして
も未遂。
織田信長が将軍や関白などの官職を受ける意志がなかったとすれば、
どのように権威(支配の正統性)を樹立するつもりだったか、興味深い
ところ。信長自身の神格化?がそれという説も。
豊臣秀吉は天皇を中国に移し、自分はインド方面まで手を伸ばすつも
りだったとか。天皇を一国王としての地位に留め、その地位を保証す
る世界皇帝になることで、天皇を超えようとしたという説も。
で、本題の徳川家ですが‥
徳川家康の場合は、京都や大坂を掌中に置くのに時間がかかり過ぎ、
短期決戦できなかったのがネックでしょう。家光の代までに幕府も安
定し、禁中並公家諸法度などで従来の権門(公家・寺社)を幕府の法制
下に置き、武家官位と公家官位を分離するなど、色々と手は打ってい
るようですが‥
でも綱吉になると、生母桂昌院に従一位を貰って喜んでみたり‥
そうこうしているうちに将軍の継承問題、そして改革と挫折の連鎖の
時代となり、天皇家に構っている余力はない‥ 要は支配の正統性の
問題は、権力を握ったらすぐに手を打たないと、手遅れになるという
ことですね。

あと、蛇足ではありますが、源・平・藤原・豊臣などの「氏」が、
日本の場合天皇から与えられるという性格を持つという点も、天皇制
存続に関して何らかの意味を持つのかもしれません。平清盛・源頼朝
・平(北条)義時・源(足利)義満が姓を自分で決めて自称せず、織田信
長・徳川家康が源・平姓を名乗り、羽柴秀吉が豊臣姓を貰って喜んで
いるうちは、天皇の風下に甘んじるという一面を持ちます。もっとも、
姓を自分で決めて自称するとか、姓を捨てて天皇家と同じ無姓となる
という発想自体が、思考力の枠を超えるものでしょうけど。でも、信
長あたりは長生きしていたらやっていたかもしれないし‥

ヨーロッパの王権神授説は有名ですが、中国でも漢民族の王朝の交代
に際しては、武力による旧王朝の打倒であれ家臣や姻族による簒奪で
あれ、タテマエだけでも禅譲という形式を取ったります。徳を失った
皇帝が徳のあるものに権力を譲るという「形式」ですね。イスラムは
宗教と王権が合体?していますね。前の方々も述べられているように、
要は、武力や経済力による実効支配だけではダメなんですね。

日本の場合、天皇からの権力の委任という形を取っているのが特徴で
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Q徳川幕府の最大の名君・暗君は誰?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%B0%86%E8%BB%8D%E4%B8%80%E8%A6%A7

徳川幕府において、最大の名君と言えば誰でしょうか?
幕府の礎を築いた徳川家康。
その百年後に享保改革を行ない、幕府財政を立て直した吉宗。
おそらくこの2人が筆頭に挙がるでしょう。

では、最大の暗君とは?
「お犬様」を保護する「生類憐れみの令」という偏狭な動物愛護法を
国民に
押し付けた綱吉。
子供を53人も産むというムチャをして幕府の財政を疲弊させた家斉。
鳥羽伏見戦において敵前逃亡をした慶喜。

皆さんの考える徳川幕府における最大の名君・暗君は誰ですか?
それぞれ挙げてください。

Aベストアンサー

何をもって名君と言うか。   ここでは幕府の為の名君でなく日本国民の為としての、名君を取り上げて見ましょう。
「そうせい公」であっても国民が豊になり、喜ぶ時代であったなら名君です。   もう一つ、時代の変化を読み取り、その方へ舵をとれば、たとえその時代に成功しなくとも、国民にとつては名君でしょう。

家康  は勿論。   前者の轍を踏まず、新体制を作り長い泰平の世を作る。
家光  家康の蓄財を惜しげもなく費消し、経済の活況の基とした。
綱吉  元禄の盛況を国民は謳歌した。   「お犬様」の失敗はあっても。
吉宗  経済の停滞から革新を夢見た。   失敗続きでも挑戦の意欲は評価できます。
家治  田沼意次の登用。   意次は時代の変化を正確に見ていましたが、改革を急ぎすぎました。   功をあせったと言うのか、じっくり布石をして、次の世代に渡すべきでした。   残念です。
   そのあとの改革はまるで、時代の逆行です。  新井白石も経済に強い関心がありましたが、具体策なく日本の金銀海外流出を、防げませんでした。
慶喜  幕府閉幕の決断です。

何をもって名君と言うか。   ここでは幕府の為の名君でなく日本国民の為としての、名君を取り上げて見ましょう。
「そうせい公」であっても国民が豊になり、喜ぶ時代であったなら名君です。   もう一つ、時代の変化を読み取り、その方へ舵をとれば、たとえその時代に成功しなくとも、国民にとつては名君でしょう。

家康  は勿論。   前者の轍を踏まず、新体制を作り長い泰平の世を作る。
家光  家康の蓄財を惜しげもなく費消し、経済の活況の基とした。
綱吉  元禄の盛況を国民は謳歌した。...続きを読む


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