プロが教えるわが家の防犯対策術!

あなたの知っているお経が始まりました。
あなたは唱和しますか?
読経の間、どこを見、何をしたり、考えたりしていますか?

私は、カトリック信者で、キリスト教式の葬儀の際は、大声で祈りの言葉や聖歌を一緒に歌います。
本来、葬儀の式典には、参列者が進んで参加し、一緒に、祈りの言葉や聖歌(賛美歌)、仏式の場合はお経などを一緒に唱和したりしたいものですが、とかく仏式の場合は、お経の文句を知らないために、唱和することもかなわず、皆、所在無げに、前を向いたり、祭壇の方を眺めているだけ、ということが多いような気がします。

幸い、私は、過去に坐禅や読経の経験もあり、般若心経や四弘誓願、白隠禅師坐禅和讃を唱えたことがあるので、一緒に唱えることができます。
皆さんは如何でしょうか?

A 回答 (9件)

唱和ができないから俯いているか前をじっと見ているでしょう



葬式は過去2回しか経験がないので、よくわかりません
    • good
    • 0
この回答へのお礼

俯いているか前をじっと見ている・・・それが多数派でしょうね。

お礼日時:2014/11/03 17:00

ある葬儀での講話(?)を聞いてから、法事や葬儀での読経中は、故人とのことを胸に想い、安らかに休まれるよう願うことを心がけてますね。


お経も知ってるものはありますが、逆に割り切ってしまい、読経は全てお坊様に任せるつもりでいてます。

たとえお経がありがたいものだとしても、「おじいちゃん、今までありがとうね」という風に、故人への想いは自分だけの言葉の方が良いように思います。

「知ってるからお経を唱える」というのは、どうも暗唱テストみたいな気分になりそうで…(^^;)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どんな講話だったのでしょうか?
葬儀の時は、故人とのことを胸に想い、安らかに休まれるよう願いなさい、というお話だったのでしょうか?
確かに、
(1)お経の内容に思いを致したり、一緒に唱えるよりも、故人のことを憶う方がラクですし、
(2)お経はお坊さんに任せて、故人のために手を合わせるのが本務だという気もします。
その場合、お経は、故人のために祈るためのBGMと考えればよろしいのでしょうか?

知っているからといって、お経に声を合わせるのは、確かに「俺は知ってるんだぞ!」と自己顕示しているようで、果たして良いことなのか?と疑問を感じたことが、この質問を出したきっかけです。

白状すると、私自身の心の中にも、故人を憶う気持ち以上に、お経を知ってるんだぞと自己顕示する気持ちの方が大きかったのも事実であり、それでも、ほかの誰ひとり唱和していなかった中で、あくまで続けた自分の行動を肯定して良いのかどうか、ちょっと再考しているところです。

尚、カトリック教会の場合は、むしろ、参列者全体で、祈りの言葉や聖歌(プロテスタントの場合は賛美歌)を唱和することを奨励しているので、気を遣う必要がなく、非常にラクです。
ひとつには、キリスト教の祈りの言葉は、現代日本語になっており、その中には故人を憶う言葉も散りばめられているので、自分の故人に対する祈りが、皆で唱和する祈りの言葉とリンクしており、やりやすい、ということが挙げられると思います。

お礼日時:2014/11/03 17:19

以前お話したかもしれません。

oozoraさんもたしかうちと同じ禅宗だったという気がします。

般若心経は、寺の坊主が歌詞カードみたいに経典を配り「ご唱和ください」といわれます。
おかげで

「まーかーはんにゃ はらみたしんぎょう
 かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃはらみーたじ しょうけんごーうんかいくーどー
 いっさいくうやく しゃーりーしー・・・むーけーげー、・・・あーのくたらさんみゃく
 さんぼーだい・・」だいたい音で覚えています。

道元禅師の修証義も
「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり・・」も昔は覚えていました。
白隠禅師ということは臨済宗ですね。

我が家は、父母と弟の命日には短い般若心経だけ唱えて終わります。45年前に弟が
亡くなったあとは、父母が毎日修証義を唱えていて私も一緒に読経していました。
これもこの間お話しましたよね。失礼しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

exhivisionist2さんからは、旧友のような親しみを感じます。
私は、お経にも、もっと日頃から皆で親しんでも良いと考えています。
特に禅宗には、般若心経のほかにも、白隠禅師坐禅和讃(臨済宗)や修証義(曹洞宗)のように、日本語で書かれた親しみやすいお経が多いですね。禅は高尚な奥の深い教義ですが、一方では大衆にも浸透している宗派だと思います。
私のこれまで接してきたお寺もお坊さんも、経本を皆に配り、唱和を促していました。
しかし、客として(或いは親族の一人として)葬儀の席に臨むと、やはり一方的にお経を聞く側だけに留まり、自分としては物足りなさを禁じえません。
自分も佛と一緒に故人を弔いたい、という気持ちが正直あるのに、参画意識を得られない。・・・そう感じてしまうのです。

こういう感覚を持つこと自体、大変少数派であり、普通の人は、別に唱和しなくても、お坊さんに任せればいいと思うのかもしれません。

お礼日時:2014/11/03 22:05

oozora2000さん、こんにちは。



 うちは日蓮宗ですが、若いやる気のある(笑)僧侶がご住職で、葬儀や法事の際は経本を皆に配り唱和させられます。
 いちおう漢文読めるので「提婆達多品(デーバダッタほん)」などは物語のように、思わず読んでしまいます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

宗派や僧侶によっても、経本を配って皆で唱和しましょう、と言われることもあったり、
いや坊さんに任せなさい、という所もあるのですね。

お礼日時:2014/11/03 22:07

<お経の文句を知らないために、唱和することもかなわず、


信者というのは人によりいうこと違うのですか
それはしてはいけないと聞いたことありますけどね
もっといえば線香とかは拒否するということですよ

<読経の間、どこを見、何をしたり、考えたりしていますか?
教本配布されるのでそれを読むだけですね
独特ないいまわしので慣れないと無理ですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

前にも書きましたが、第二バチカン公会議以降のカトリック教会は、他宗教との対話と交流を推進しており、他宗教の良い所も進んで導入するようにしています。
しかし、それは、他宗教でもキリスト教でも同様に救いが得られるかということではなく、救いが得られるのはやはりキリスト教からのみであり、他宗教の信者もキリスト教の神を通じて救われる、と信じているようです。

カトリック中央協議会編集の『カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A』のp.123を引用すると

法事などに参列して、念仏、読経などがあるとき、会衆とともに合掌しますが、一緒に念仏・読経することは差し控えましょう。というのは、たとえば「阿弥陀仏」は「限りないいのち、さえぎることのできない無限の光」の意味であり、「南無」は「身を伏して崇める」ことです。言葉そのものは、キリスト教の神の概念に近いものともいえるので、「南無阿弥陀仏」と称名してもよさそうですが、このような宗教用語には、それぞれ長い歴史的宗教的伝統に基づく格別な意味がありますから、折衷主義に陥らないように注意が必要です。

とあり、読経は差し控えるようにとのご指導ですが、私はこれに従うつもりはありません。
なぜなら、私も、キリスト教と仏教を折衷するつもりはありませんが、心の半分は仏教信仰に捧げており、その時間帯はそれに専念するつもりです。それでたとえ地獄に落ちることがあっても結構です。

又、線香にするか献花にするかというのは、宗教の問題ではなく、その土地の習俗の問題であり、キリスト教で線香を捧げても問題ありません。

お礼日時:2014/11/07 01:24

お経に詳しくないので唱和する事はない。


ひたすら足のしびれにたえ、和尚さんの袈裟のできばえを見ているくらいだな。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

まあ、普通の対応でしょうね。

お礼日時:2014/11/07 01:39

自分の自慢話に聞こえます(不愉快)

    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうですか。それはお生憎様でした。

お礼日時:2014/11/07 01:40

私のところでは経本をもってきて手渡してくれますよ。


大勢参加する場合はないかもしれませんが、
法事の場合は一緒に唱和しますよ。
その教本は残していきますから、あとの法事の場合、
誰かが音頭をとって唱和もしますよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そう・・・経本を片手に私も皆で読経したいのですよ。

お礼日時:2014/11/07 01:49

ANo.1の者です。


お返事に質問があったようなので、補足回答させていただきます!

>どんな講話だったのでしょうか?
うちの家では、法事の度に同じお坊様をリピート指名(?)してます。
いろんなお話をしてくださるのですが、宗教的な儀礼・作法に、身近で取り組みやすい意味を見出せるような話をしてくれます。

たとえば。
法事でわざわざ親戚で集まるのは、「3年たったけど、こうしてみな無事に集まることができましたよ」ということを報告し、この3年間見守ってくださったことを感謝する場なんですよ、とか。

手を合わせるのは「心に念じた思いを伝える」ことを表していて、だから手を合わせるのは胸のあたりで、指先は墓だったり仏壇だったり「その人はここにいらっしゃるんだ」という場所を指すといいよ、とか。

毎回の話で共通してるのは、「だからこういう場では、作法とかも大事だけど、亡くなられた方に改めて感謝することが大事なんだよ」というメッセージが込められていることです。

宗教学の先生が聞いたら目くじらを立てそうな内容もあるかもしれませんが、僕はこういう行事の本質をついた教えだと思ってます。
そもそも僕は、葬儀というのは「死んだ人を送り出すための儀式」というより「生きている人を死の悲しみから日常へ戻すための儀式」と捉えています。
そうだとすると、キリスト教で「聖歌・讃美歌を歌う」ということに違った意味・狙いが見出せるのではないでしょうか。


>お経は、故人のために祈るためのBGMと考えればよろしいのでしょうか?
正直、お経のリズムだったり不思議な言葉回しだったりに、気持ちが引っ張られることはあります(笑)

摩訶不思議な単語が続くなかで、たまに意味のわかる単語が不意打ちで出てきたりするんですよ。
あと、お坊様によっては節回しが独特な方がおられたり。
亡くなられた方への想い…のはずが、いつの間にか読経の方に気持ちがいっちゃってるってことは、正直ありますね~(^^;)

ただ、宗教的儀式として絶対必要なもので、誰かがやらないといけないんだとも思ってます。
それを、僕が亡くなった人に気持ちを向けられるよう、かわりにお坊様が代表して唱えてくださってる、という解釈ですね。
なので終わったあとに、身内でもないのに務めてくださったお坊様に感謝するということも大事なのだと思ってます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

再度、ご丁寧に説明して下さり、有難うございました。
なるほど、どんなご講話だったのかがわかりました。
先日、葬儀の導師を務めて下さったお坊さんも、故人は、残った家族が幸せであることを見守ってくれているのだから、こうやってたまには集まって故人に感謝すること、皆元気で良い人生を過ごせるように努力することが一番だと言われていました。

葬儀というのは「死んだ人を送り出すための儀式」というより「生きている人を死の悲しみから日常へ戻すための儀式」というのは、本当にそうだと思います。

亡くなられた方への想い…のはずが、いつの間にか読経の方に気持ちがいっちゃってるってことについて、今回疑問を感じたのが、質問の動機ですが、それならば、お坊さんに全てお任せしてもよかったかな、とも思っています。

お礼日時:2014/11/08 20:41

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!