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 《神は死んだ》ったって キリスト・イエスはすでにハリツケになって死んでんぢゃんか。このバカタレが。


 《ニヒリズムにあらがう・チカラへの意志は そのニヒルの暗黒なる孤独の影がわが身にわが心に迫って来たそのつど何度も何度も永劫回帰のごとくおのれの内から発揮するのだ》ったって それぢゃ 進歩がない。シシュフォスの神話ではないか。

 ニヒリズムを《思うようにならないという苦》から解脱するのは凡夫ではダメだとでも言うように大化城なる――つまりは インチキなる――さとりを自分は得たと説いたペテン師なる誰か知らんの言う《苦》がけっきょく凡夫のままでは乗り越えられないのだと言うそれと同じだと説くかのごとく 賽の河原で石を積む《力への意志行為》を永劫におこないつづけると言う。

  一切衆生 悉有仏性 あるいは 梵我一如

 とひと言となえて 一点突破すればよいはずであるものを。


 どこまでも・いつまでも主体性無き人生をあゆむムラカミハルキのモヤモヤ・ワールドにどうしてイカレポンチになるのか?


 トラウマは一生直らないだって? そういう定義のトラウマを先に前提として置いたのだから 当ったり前だよ。このあほんだらめが。

 ひとびとはなぜ目覚めないのか? 誰かに義理立てしているのか? 《有名や肩書き》によわいのか? それほど人びとも阿呆なのか? 阿呆どうしの傷のなめ合いなのか この世界は?

A 回答 (5件)

私には二つ主張があります。

一つめは#1のお答えに対して、二つめはご質問者へのお答え。

1)イデア論とは無関係である、ニーチェは「お前らが殺した」とはっきり言っている、
つまりエヴァンゲリスト(プロテスタントのこと)は除いても、形式化して精神のどこにも
神はいないし、産業革命は神など不要にしてしまった。つまり人間が神の位置に居るのに
神をあがめているが如き行動は「欺瞞だ」と言った。もちろんニーチェは狂う前から超優秀な
文献学者だったから、#1のお答えは頭の隅にいつもあっただろうが、それでは「近代人」は
「それ美味しい?」と言うアホだから、表には出さなかった。

2)a)旧制高校のドイツ語の教科書として、古典も論ずるニーチェは非常に便利、今教えているか
どうか知らないが、駒場でのドイツ語のテキストは「悲劇の誕生」名文で素晴しい。
つまり「まともな論文」が他に無い、ゲーテのウィヘルムマイステルは古過ぎるし、ロマン派は
ファンタジーばっかり書く、他にテキストが無いからだ。なおショーペンハウアーは良いが、
むつかし過ぎて、誰も理解出来ない、カントなんかカビが生えてる。
b)これも旧制高校、時代は実存主義の花盛り、だがキェルケゴールはキリスト教寄りだし、サルトル
はフランス語でまだ生きてて活躍中、レジスタンスの大御所、だから狂ったがニーチェぐらいしか
居なかった。

なお羊のおじさんは私とは縁が無い一冊も開いたことさえ無い。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 1)
 ☆ 総じて――第三者ながら――思うところとしては 《神が死んだ》と宣言することも《おまえら人間がころした》とおしえる場合も 問題はその神が何であるか これが分かっていないのだと見ます。

 わが心なる《非思考の庭》にあっては――思考ではないのですから―― それとして《生き続けている》でしょう。(人間の生に限界があることには その当人にあっては したがうのは当然です)。

 そしてもう一方では オシエがあります。これは 思想です。《信じる(神の名を受け容れる)》ことではなく あくまで《考える》ものです。それについて 《生きている・死んでいる》というのは 文学的なアヤであって いちいち哲学がどうこう言うものではないでしょう。内容を吟味し検証し判断すればいいことです。





 ★ 2)a)
 ☆ 引用を省略しましたが ヘーゲルは古典に入らないのですか?


 ★ 2)b)
 ☆ ニーチェは おかしい。でよいでしょうか。


 ★ なお羊のおじさんは私とは縁が無い一冊も開いたことさえ無い。
 ☆ この人は誰ですか? 素養がなくてすみません。

お礼日時:2014/11/17 11:56

他の人との質疑応答を、ながめてみたよ。


今回のバトルは興味深いのだがね。
イデアはこうだと宣戦布告した私には挑戦者が現れず。
あんたはバトルを楽しんでいる。
うらやましい様な、、、
哲学カテでは私は所詮霊感商法なのかな~。
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この回答へのお礼

 ははははっ。

 懸賞金はどうなった?

 あなたは ヒラメキで勝負すればよい。



 ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2014/11/17 23:08

日本人に関して言えばね、文明、文化の由来として研究する西洋の精神的土壌を、研究制覇しなくても、西洋の文明を自己崩壊の余地があるではないかという安心感だろう。


奴らも完ぺきじゃないとね。
西洋文明の従軍慰安婦像だと考えればいい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 西洋文明の従軍慰安婦像だと考えればいい。
 ☆ そうなのかも分かりません。哲学者はかわいがられている・・・かも分かりません。


 ニーチェは ひどい。何かあるように見せかけているだけだと思う。

 カント ヘーゲルは 学べば必ず得るところがあると思う。


 けっきょく《神》を 到るところで直接――つまり 言葉としてだけれど直接に――出してしかもこれを論じるという態度で来たから なかなか肝が据わった姿勢が出来て来たのだろう。ただし どうしても行き過ぎがあったのだと思う。ひとが神をあやつれるわけがない。

お礼日時:2014/11/17 23:06

ご返答有り難うございます。


一応「反論?」します。
 ☆ 総じて――第三者ながら――思うところとしては 《神が死んだ》と宣言する
ことも《おまえら人間がころした》とおしえる場合も 問題はその神が何であるか 
これが分かっていないのだと見ます。
 ★分かっている筈が無い、分かって居れば「殺さなかった」「無意識に」神は
 世界から外され「ゴミ箱」に放り込まれたが、それさえだれも気付かなかった。
 だから「ゴミ箱を開いて」ここにお前らの「神」が腐っているがそれで良いのか?
 と「キツイ言葉」で警告したのだ。

 わが心なる《非思考の庭》にあっては――思考ではないのですから―― それとし
て《生き続けている》でしょう。(人間の生に限界があることには その当人にあっ
ては したがうのは当然です)。
 ★これは「個人」の自我の庭なので、「定義」して意識的に曝さなければ、議論
 できない。だれも「自我」の中を他人に歩き回られたくない。

 そしてもう一方では オシエがあります。これは 思想です。《信じる(神の名を
受け容れる)》ことではなく あくまで《考える》ものです。それについて 《生き
ている・死んでいる》というのは 文学的なアヤであって いちいち哲学がどうこう
言うものではないでしょう。内容を吟味し検証し判断すればいいことです。
 ★それはおかしい、文学的なアヤは「内容を吟味し検証し判断される」だけの「強
 度」が無い、「内容を吟味し検証」されうる対称は「哲学で無くてはならない」

 ★ 2)a)
 ☆ 引用を省略しましたが ヘーゲルは古典に入らないのですか?
 ★ヘーゲルは著書で分かる様に明らかに、堅固な世界を構築する側に居り、著作は素晴しいが
 その考えは既に「古過ぎる」またドイツでは「役に立たなかった」し「人文」では無い。
 ★ 2)b)
 ☆ ニーチェは おかしい。でよいでしょうか。
 フロイトの「後継者」を勝手に押し付けられたユングは、ニーチェは狂っている、それは梅毒患者
 に見られる躁状態だ、フロイトもユングも優秀な医師だった、ユングは見誤らなかった、だが「病
 気」と「思想」を混同しなかった、それが正しいと私には思えないが、ユングはニーチェの「思想」
 の上に自らの「科学」を建てた、著書「無意識の心理」で宣言している、同じ本でニーチェは「病
 気」だともはっきり書いている。ニーチェは確実に狂っていたが巨大な知識が反論を無意識のうちに
 「封じてしまった」
 ★ なお羊のおじさんは私とは縁が無い一冊も開いたことさえ無い。
 ☆ この人は誰ですか? 素養がなくてすみません。
 書きたくないので伏せました、作品が羊だらけなのでこう呼んでいます。村上さんの一人です。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ・・・だから「ゴミ箱を開いて」ここにお前らの「神」が腐っているがそれで良いのか? / と「キツイ言葉」で警告したのだ。
 ☆ これは 神が何であるかが分かっていないのだから ごみ箱に入れたとか捨てられているとかすら分からないのだと思います。
 
 ですが これはあまり議論にはなじまないのではないかとも考えます。何しろ《非思考の庭》なる動態の問題ですから。




 ★ これは「個人」の自我の庭なので、「定義」して意識的に曝さなければ、議論 / できない。だれも「自我」の中を他人に歩き回られたくない。
 ☆ 《自我》ではないですが――《非思考の庭》は 思考に非ずですし思考のチカラの主体でもありませんから―― 他人からは見て分からないし おそらく自分でも分からないはずです。事後的にヒラメキのようなかたちで 何らかのイメージや観想を得ることがある。といったものだと思っています。




 ★ それはおかしい、文学的なアヤは「内容を吟味し検証し判断される」だけの「強度」が無い、「内容を吟味し検証」されうる対称は「哲学で無くてはならない」
 ☆ あぁ これは舌足らずでした。表現がまづかった。

 つまり 《もし文学的な表現のほかに何がしかの哲学の部分が残っているとしたら それについては 吟味・検証すればよいし しなければならない》という意味で言おうとしていたものです。あしからず。


 ★ ヘーゲルは・・・またドイツでは「役に立たなかった」し「人文」では無い。
 ☆ なるほど。そういう事情があるのですか。わたしは原書では読んでいませんが 日本人にとって通過しておくとよい思索があると思いました。



 ★ ・・・ニーチェは確実に狂っていたが巨大な知識が反論を無意識のうちに 「封じてしまった」
 ☆ ほお。そういうものですか。そういう見方にもなるのですか。
 
 ニーチェは よいところもあるとしたら・あるとしても 活かし方がむつかしいと思います。厳格な思考のカントと一緒に溶かし合わせるとよいという見方があるようです。


 ★ 羊のおじさん / 村上さんの一人です。
 ☆ 小説を読まないわたしが唯一か唯二くらいでたまたま読んだものですから――ストーリテリングとしてまことに面白い筋書きだと思う反面で―― その軟弱なエートスについては批判しておきたいと思いました。そう言えば 羊がたくさん出て来ます。

お礼日時:2014/11/17 20:44

キリスト・イエスは、おっしゃる通り十字架に架けられて死にましたが、その後キリスト教がそのイエスを神のように祭り上げて、みずから教義を作り、西欧の中世から、近世まで、キリスト教世界として発展してきました。


キリスト・イエスの肉体は滅んでも、その教えは古代から近世まで、受け継がれてきたんだから、決してキリスト・イエスは死んだのではありません。
そしてキリスト教はみずからの神学を作るにあたって、古代ギリシャのプラトンの「イデア論」を用いて、理論武装してきたのであり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、私たちの地上の生活は仮象であり、ニセモノだと言ったのですが、キリスト教も天に神がいて、私たち人間はその神の被造物、神の作ったものと言ってきました。
だから、私たち人間は神に感謝し、神の前にひれ伏して、神を崇めねばならないとされてきたのです。
ニイチェが攻撃したのは、そのようなキリスト教の神学とプラトンの「イデア論」の考え方でした。
プラトンやキリスト教は、天の世界が本物の世界であり、地上の世界はニセモノの世界だと言いましたが、ニイチェは、それに反発して、地上の世界の方が本物の世界であり、天の世界なんか存在しない、だからもう「神は死んだ」のだと言いました。
したがってニイチエのいう「神は死んだ」というのは、肉体としてのキリスト・イエスが死んだと言ったのではなく、そんなことは当たり前なので、キリスト教の神学とプラトンの「イデア論」の終焉を宣告するものでした。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ キリスト・イエスは、おっしゃる通り十字架に架けられて死にましたが、その後キリスト教がそのイエスを神のように祭り上げて、みずから教義を作り、西欧の中世から、近世まで、キリスト教世界として発展してきました。
 ☆ ぢゃあそのように説明を添えればいいぢゃないですか。

 まだその当時《神が生きていた》(つまり 生きていると思っていた人びとがいた)という前提で話していますね。

 ですから《神は死んだ》と宣言するのではなく すでに神は死んでいる〔のだから そのことをまづしっかりと思わなくてはならない〕と発言すべきだった。



 ★ キリスト・イエスの肉体は滅んでも、その教えは古代から近世まで、受け継がれてきたんだから、決してキリスト・イエスは死んだのではありません。
 ☆ ご冗談を。

 オシエなどは おのれ自身にアヤマチがあってそれは ヤマシサ反応をも伴なうのならば或る意味で神――ほんものの神――に対して失礼であるという意味で罪を意識させるためにだけあるものです。

 ローマ教会があやまって このオシエをわざわざ信じなさいと――考えるべきものを無条件で受け容れよというワケの分からないことを――言っただけのことです。

 以上のように解説されるそういう主観真実をいだくようにともしキリスト・イエスが言い遺しているとすれば その意味ではキリストは生きていますが それはもはや言葉のアヤです。

 ご冗談を言っちゃいけません。



 ★ そしてキリスト教はみずからの神学を作るにあたって、古代ギリシャのプラトンの「イデア論」を用いて、理論武装してきたのであり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、私たちの地上の生活は仮象であり、ニセモノだと言ったのですが、キリスト教も天に神がいて、私たち人間はその神の被造物、神の作ったものと言ってきました。
 ☆ それは いま上に見たオシエです。オシエは ただの思想です。思想の表明は 表現の自由にもとづきます。

 あるいは もうひとつの見方は オシエは神そのものではない。これは はっきりしている。経験思考を超えている何ものかが 思考としてのオシエそのものではあり得ない。ただし オシエは――律法にしても――伊達にかかげられているというものでもない。それは 本体のシルシとして(代理表現として) 本体を指し示すための補助線には成り得ます。

 鴫立つ沢の秋の夕暮れは もののあはれを知ったというときのシルシに成り得ます。または もののあらはれ・ないしもの自体をあたかも知ったというときの――その本体(つまり 神)のシルシとして捉えられ得て その結果 そこに指し示された神を見たという――むろん当人の主観にとっての――まぼろしの問題に成り得ます。オシエがです。

 プラトンのイデアは 煮詰めた議論においてけっきょくのところ 観念です。思考の領域を出ません。神のシルシには成り得ますが イデアからこの経験世界が仮象として現われているといった《演繹》をすれば アウトです。

 創造主としての神は あくまで《絶対》の――擬人化としての《絶対者》なる表現を経たあとの――単なる文学的表現です。物語です。神は 光あれと言ったと物語っているだけであって そのときのコトを誰も見ていません。分かりやすいように おとぎ話にして説明しているのです。これらは 表現の問題に還元されることです。(むろん文字通り受け取る向きもいるにはいます。そういう場合には 《文字はころし 霊は生かす》というパウロの文字をどう受け取るかが見ものです)。

 プラトンがすべては表現の問題であるとひと言ことわっているなら 話は違うと言っておきます。

 ニーチェはそうは採らなかった(つまり プラトンは文字はころすから自分のイデア論を霊において受け取りなさいとは言っていないと採った)から プラトン批判やクリスチアニズム批判をおこなった。






 ★ だから、私たち人間は神に感謝し、神の前にひれ伏して、神を崇めねばならないとされてきたのです。
 ☆ それほどお目出度かったというだけのことです。


 ★ ニイチェが攻撃したのは、そのようなキリスト教の神学とプラトンの「イデア論」の考え方でした。
 ☆ 攻撃の仕方が成っていません。これまでわたしが説明してきたように攻撃していたなら まだ話はつながります。さもなければ・さもなかったのだから 阿呆です。


 ★ プラトンやキリスト教は、天の世界が本物の世界であり、地上の世界はニセモノの世界だと言いましたが、
 ☆ 表現の自由であり 思想は手かせ足かせをはめられるものではありません。――とニーチェは 事情説明すればよかった。


 ★ ニイチェは、それに反発して、
 ☆ だから 阿呆か と言ってやらねばならないのです。そう言ってやる人間が出て初めてフリッツくんも成仏します。


 ★ 地上の世界の方が本物の世界であり、天の世界なんか存在しない、だからもう「神は死んだ」のだと言いました。
 ☆ だから おままごとだと言うのです。それを言う前に その前に神は死んでいるとまづ言わねばいけません。


 ★ したがってニイチエのいう「神は死んだ」というのは、肉体としてのキリスト・イエスが死んだと言ったのではなく、そんなことは当たり前なので、キリスト教の神学とプラトンの「イデア論」の終焉を宣告するものでした。
 ☆ あなたは 《肉体》と《思考・想像》とがいっしょであることを知らない。同じ次元のものごとだということを前提として話をすすめなければいけません。

 キリストが《復活》し その後もなお《生きている》のは おのおの人の心なる《非思考の庭》にであって 何も思想としてオシエとして生きている〔なり死んでいるなりの〕ことは お呼びではありません。

 そのように解説しなければ イデア論もキリスト教というオシエもなくなりません。しかるべき評価があたえられるようにはなりません。だから お医者さんごっこだと言うのです。ヨーロッパ哲学は成っていないのです。

お礼日時:2014/11/17 11:44

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