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 Wikiで室町幕府を検索したら、前政府:鎌倉幕府
後政府:織田政権となっています。

 尚、織田政権の後政府は豊臣政権となっていますが
秀吉は関白に就任しているので(あるいは太政大臣)
政権としての法的根拠はハッキリしているのですが、
織田政権(1568~1582年)は法的根拠がある政権なの
でしょうか。

 政権担当者として君臨しているのなら朝廷からわざわざ
三職推任など申し出る必要もないでしょうに。勝手に天下人を
気取っていたということでしょうか。

 ついでに鎌倉幕府を検索したら後政府は建武政権でした。
室町幕府ではありません。
方や事実を書き、もう一方では端折って書いている。WIKIは
むちゃくちゃです。

A 回答 (6件)

法的根拠というか、形式主義で言えば



1190年 頼朝 右近衛大将 正二位

1575年 信長 右近衛大将 従三位
1578年 信長 正二位

WIKIPEDIAの記事の相互関係の不統一は編集者がいなのだからいたしかたない。
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この回答へのお礼

右近衛大将が政権の法的根拠ですね。
そういえば1192作ろう鎌倉幕府は、最近は
>1190年 頼朝 右近衛大将 正二位 により
幕府開府は2年早かった、とする説もあると聞きます。

 近衛大将を政権担当の名目にしたのを朝廷が認めた
又は黙認したということですね。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/19 23:08

こんにちは


再追加となり、申し訳ありません。

>ベストアンサーに選んだ回答がシンプルで的を射た
答えだったということですね。
@その通りだと思います。

>左大将は武家では任官は難しいそうですが
@確かに、左右大将は摂関になった人物の大部分が経験する顕職です。武家の左大将の任官が難しかったわけではないと思います。「左大将になれない」ではなく、「左大将にならない」だと思います。左大将になった武家は3名。源実朝、德川家康、德川家慶です。特に、実朝は正二位右大臣左大将のまま鶴岡八幡宮で討たれています。これが悪い先例として武家では「左大将にならない」だと思います。
逆に右大将は頼朝以来の先例として、武家の棟梁の就く官職であるとの認識があり、だから右大将のままで、左大将に遷らないのだと思います。全ての左右大将の任官時期を調べると、武家の棟梁が右大将である時、多くの場合左大将は頻繁に入れ替わる傾向が見られます。武家が右大将から左大将に遷るタイミングはいくらもあると思えるのに、そのようにはなっていません。実朝の先例から左大将任官を忌避していると考えられます。
武家が左大将で実朝が討たれた先例を重んじて、左大将任官を忌避することは意外と思われるかもしれませんが、江戸時代の例ですが、日向守は謀反の明智日向守光秀の先例により、尾張守は『太平記』にある名越(北条)尾張守高家の討死が猪武者の印象(「おわりのかみ」の語呂が悪いという説もあります)から任官が忌避されたといわれるなどの例があります。また、戦国時代でも律令官職の持つ伝統的な権威を借り、大義名分を得ようとする傾向が残っています。*少弐氏と博多・筑前の領有を争っていた大内義隆が、(太宰)少弐の上官の太宰大弐の官職に補任されることを強く望み、実現させたことなどの例があります。
*少弐氏=鎌倉時代初期に先祖が太宰少弐の官職に就いたことから、姓を武藤氏から少弐氏に改める。その後鎮西奉行や九州北部の数ヶ国の守護を兼ねる。モンゴルの侵入に関して現地の中心勢力として活躍、室町時代に至って大内氏と争うようになり、戦国期に入ると大内氏の益々の侵攻と、竜造寺氏の台頭などにより滅亡。


>家康が任官したのは秀吉の力によるのでしょうかね。
@武家の官位奏請は、頼朝以来、一般的には征夷大将軍=武家の棟梁の専管事項でした。豊臣秀吉は太政大臣・関白・太閤という公家の官職のみで、征夷大将軍になってはいませんが、武家の棟梁ですので、官位奏請権を握っていましたから、家康の左大将の官位奏請は秀吉の考え方だったと思います。

さて、『信長研究 最前線』という新書が10月に発売されたそうで、昨日読んでみました。その中で、右近衛大将任官に関する記述については、1、頼朝の先例。2、足利12代*将軍義晴が将軍職を子の義輝に譲り、右大将に任官し、父右大将義晴-子将軍義輝体制を作った。この体制にならい、御父右大将信長-子将軍義昭として、信長が将軍義昭を*官位でも凌駕するためとする考えも載せています。3、権大納言・右大将任官は朝廷が信長を*武家の棟梁と認めたことであるとの考えも記載しています。
*将軍義晴が将軍職を子の義輝に譲り=義晴は大御所と尊称されています。
*官位でも凌駕する=信長の任官により義昭・信長共に権大納言ですが、右大将任官には先例に基づく重みがあります。
*武家の棟梁と認めた=Wikiは、「右近衛大将就任・天下人公認・家督継承・安土城築城」の項目を立て、次のように記述しています。
天正3年(1575年)11月4日、信長は権大納言に任じられる、また、11月7日にはさらに右近衛大将(征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される)を兼任する。信長はこの就任にあたり、御所にて公卿を集め、室町将軍家の将軍就任式(陣座)の儀礼を挙行させた。以後、信長のよび名は「上様」となり将軍と同等とみなされた(足利義昭は近衛大将への昇進を望むも未だ近衛中将のままであったので内裏の近衛府の庁舎内では信長が上司ということになる)。これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものと見られる

頼朝の先例を踏襲する信長の権大納言・右近衛大将の任官は、足利義昭の追放を受けて、新たな武家の棟梁として公的に認知することだという考え方は、古くから言われてきたことです。しかし、武家の棟梁というと当然ではありますが征夷大将軍の存在が大きく、権大納言・右近衛大将任官の意義が一般に顧みられないところがあります。征夷大将軍だけでなく、関白・太政大臣そして右近衛大将の任官により、武家の棟梁として認知されることがあるということもです。近年、最初の武家政権は、従来の鎌倉幕府ではなく、平氏政権(六波羅政権)であるとの考え方が有力になっていますが、従来の鎌倉幕府説の背景に、武家政権=征夷大将軍=幕府という構図・固定概念があったようにも思えます。
信長の権大納言・右近衛大将任官の意義について、質問者の方だけではなく、この質問を見られる方にも知って戴きたいと思って、締切後ですが追加・再追加をさせて戴きました。ご迷惑かとは存じますが、お許しください。
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この回答へのお礼

大変興味深い話で、引き込まれそうです。

 最初の武家政権は平家でしょうね。ただ、じゃあ
なぜ秀吉は右近衛大将で政権を握ろうとしなかったのか、
幼少秀頼を関白は時期尚早でも、早々に近衛大将にして
豊臣政権の現職後継者にしていれば、と思います。

 秀頼は右大臣になってますが、これも源実朝、信長の
例で右大臣を極官としたのでしょうかね。まあ秀頼は
若かったから平穏に生きていたら、どこまで官職が
上がっていたか分かりませんが。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/25 22:56

こんにちは 締切後の追加回答になってしまいました。

仕事の合間に史料による確認をしてから文章にするのでどうしても時間がかかってしまい、締切に間に合わないことになり、ご迷惑をお掛けします。参考程度に読んでいただければ幸いです。

『吾妻鑑』で「源頼朝」についての表記(肩書)を見ると、第1位が「二品(従二位・正二位)」、続いて「(前・故)右大将(家)」「(前・故・右)幕下」などの「右近衛大将」の肩書で登場します。この「右近衛大将」は、建久元(1190)年の11月9日に任官した権大納言に続いて、同年11月24日に任官した職で、同年12月3日に両職を辞任していますので、10日余りの在職でしかない経歴です。三位以上の公卿となると、*家政機関の*政所を構え、運営職員の家司を置き、御教書・下文を発給することができるようになります。鎌倉・室町幕府の職制は、主にこの家政機関を統治に利用していた面があります。鎌倉幕府の成立については従来1192年の征夷大将軍任官時を当てていましたが、現在では1180年の侍所設置。1182年の寿永2年の東国支配権公認の寿永2年の宣旨。1185年の守護地頭(内容に議論がありますが)の設置許可。同年の従二位。そして1190年の権大納言・右近衛大将任官とそれに続く政所の設置など諸説入り乱れています。それぞれ根拠のある説ですが、権大納言・右近衛大将任官もとそれに続く政所の設置も有力説であり、権大納言・右近衛大将任官したことの重みが分かると思います。
鎌倉幕府の場合、頼朝は文治元(1185)年に従二位となり、上記の条件を満たします。この時点で政所を設置したとの説と、建久元(1190)年11月の権大納言・右近衛大将就任後の、翌年(1191)1月設置説がありますが、1191年説が有力ではあります。
*家政機関=平安時代の貴族の例を見ると、政所だけでなく、侍所、納所、文殿などの機関の設置があります。また、三位以上の公卿となる時には、諸大夫成りとして、家司を任官させることがありました。
*政所=5位~4位の場合は公文所の設置が認められます。
では、信長の場合はどうなのか見ていくと、天正元(元亀4年=1573)年の足利義昭の追放、事実上の室町幕府の終焉の後、翌年の天正二(1574)年に、『公卿補任』によると、*従三位参議となり、公卿となったとされていますが、この記述は*翌年の権大納言任官に合わせて、遡って任官したことに記録をつくったもので、実態は無いとの有力説がありますので、『信長公記』の天正三(1575)年の権大納言・右近衛大将の任官関連記事を見ると、次のようになります。
天正三年七月三日の条
信長御官位を進められ候への趣、勅諚御座候と雖も、御斟酌にて、御請けこれなし。併しながら、内々御心持候ふや、御家老の御衆、友閑は宮内卿法印、夕庵は二位法印、明智十兵衛は惟任日向になされ、-以下略-
十月初めとして
大将御拝賀の政執行せらるべきの為、十月初めより、木村次郎左衛門を御奉行として、禁中に*陣座御建立、即時に出来し訖(*おわ)んぬ。
十一月四日の条
信長御昇殿ありて、大納言の御位に任ぜられ、
同七日の条
御拝賀の御礼。-中略-この節、信長、右大将に重ねて御官位を進められ、-以下略-
*天正元(元亀4年=1573)年=足利義昭追放の10日後に元亀から天正に改元。
*従三位参議=上記のように参議については実態が疑われますが、従三位についても、天正四(1576)年に正三位に昇った記録があるので、権大納言任官の時点で、従三位になったのではないかとされています。
*翌年の権大納言任官=『公卿補任』では中納言任官としています。
*陣座=大臣以下参議以上の現任公卿(議政官)が、天皇の諮問を受けて国政上の重要政策や、任官等を審議する陣定(じんのさだめ)の場所。本来、左右近衛府の詰所である陣(陣座)で行われた。しかし、長らく実施されていない。
天正三(1575)年の時点で、足利義昭は征夷大将軍の官位を保持し、従三位権大納言。左近衛中将を保持していた可能性があります。これに対して信長は、従三位権大納言・右近衛大将ということになります。しかし、その後正二位右大臣右近衛大将に至っています。
従三位権大納言・右近衛大将で政所を開設するなどの統治・家政機関の設置はありませんが、7月3日の友閑以下の任官、その後の御教書・下文・朱印状形式の文書の発給など、*律令体制(正確に言うと律令の規定そのものでない部分があります)に基づく任官という実質的に征夷大将軍もしくは武家政権の長としての地位にいたものと考えられると思います。ということは、
*律令体制に基づく任官=正確に言うと律令の規定そのものでない部分があります。近衛大将は令外官ですし、朱印状はもちろんのこと御教書・下文も、律令公式令に規定があるわけではないのですが、律令体制の中から発生し、成長しており、当時としては朱印状はともかくとして、当時としては正当の根拠を持つものと考えられていたと思います。
話が横道に逸れてしまいましたが、当時の社会、特に公家社会は先例が最大の基準であった社会であったことを考えると、任命する側の天皇・公家社会は、権大納言・右近衛大将の任官を、天下草創の源頼朝の先例を踏襲するものと意識したでしょうし、受ける側の信長も、当然その先例を意識したものと思います。特に長らく停廃していた陣定による議定を経るという正式の形式を踏むために、陣座を建設することに、信長の意気込みがうかがえます。このことから考えても、権大納言・右近衛大将の任官が、新たなる天下草創、武家政権の出発と認識された可能性は高いのではないでしょうか。
德川幕府の例では、初代の家康は豊臣政権下で左近衛大将に任官していますが、2代秀忠以下15代慶喜まで全てが権大納言右近衛大将に任官しています。将軍世子となると権大納言に任官し、将軍に任官するまでに期間がある場合は右近衛大将に就くことがあります(秀忠・家光・家重・家治・家慶・家定)。権大納言には任官しても、右近衛大将には就かず、将軍襲位と同時の者(家綱・綱吉・家宣・家継・吉宗・家斉)や、将軍襲位と同時に権大納言右近衛大将に任官する者(家茂・慶喜)などがいますが、全て権大納言と右近衛大将に任官しています。
さて、過去の例を見ると、頼朝の将軍任官時は、正二位前権大納言右近衛大将。頼家が従二位左衛門督左中将で将軍。極官が正二位。実朝が従五位下で将軍。その後権大納言左近衛大将を経て、極官が正二位右大臣。
摂家将軍としては、頼経が正五位右近衛中将で将軍。極官が正二位権大納言右衛門督検非違使別当。頼嗣が従五位上右近衛少将で将軍。極官が従三位左近衛中将。
皇族将軍としては、宗尊親王が三品で将軍。極官が一品。惟康親王が惟康王として将軍。臣籍降下して源惟康として正二位右近衛大将中納言。親王宣下を受けて極官が二品。久明親王が三品で将軍。極官が一品式部卿。守邦親王が守邦王で将軍。極官が親王宣下後二品。これを見ると親王となると、本品と八省の長(卿)には任じても(他の親王も同じ)、権大納言右近衛大将に任官させない先例があると考えられます。
足利将軍は、尊氏が正二位権大納言で将軍。極官も同じ。義詮が従三位参議右近衛中将で将軍。極官が正二位権大納言。義満が正五位下左馬頭で将軍。正二位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位太政大臣・准三宮。義持が正五位下左中将で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位内大臣。義量が正五位下左中将で将軍。極官が正四位下左中将。義教が従四位下参議で将軍。従三位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位左大臣。義勝が正五位下左中将で将軍。極官が従四位下左中将。義政が正五位下侍従左馬頭で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位左大臣・准三宮。義尚が正五位下左中将で将軍。従一位権大納言右近衛大将を経て、極官が従一位内大臣。義満以降義尚までは、五位で将軍に任官しても、権大納言右近衛大将を経て、大臣に至る家格が形成されていたと考えられます。このことについて詳細に研究された方もいて、摂関家並もしくはそれ以上の家格が形成されたとしています。
ところが、十代義材以降は権大納言が極官となっていきます。義材が従五位下左馬頭で将軍。途中将軍を解官され、従三位権大納言で将軍再任。それを極官となります。義澄は正五位下左馬頭で将軍。極官が従三位参議左中将。義澄は正五位下左馬頭で将軍。極官が珍しく従三位権大納言右近衛大将。義輝は正四位下左馬頭で将軍。極官が従三位参議。義栄は従五位下左馬頭で将軍。それが極官。義昭は正四位下参議右中将で将軍。従三位権大納言で追放。将軍といえども争乱の中で京都を維持できず、地方に流れることも多い時代ですが、家格の低下を招いていて、極官が権大納言で、右近衛大将は一名だけという状況です。
江戸時代は武家官位が公家官位と別建てなので、近衛大将に任官しやすく、それ以前は、近衛大将は公家にとっても顕官で、摂関家を中心に将軍家と競合する公家が多く、将軍が近衛大将に任官するのは難しかった事情があるにしても、室町時代の後半は、将軍の権威が低下したことが見て取れます。
以上のように、将軍の官歴(前例ということでもあります)を見ていくと、権大納言右近衛大将、特に右近衛大将任官の持つ意味がわかるように思います。征夷大将軍などの武家の棟梁が帯びるべき官職であり、信長の権大納言右近衛大将はその意味があったのだと思います。つまり、先例を含め、政権樹立の根拠を持つ任官であったと思います。
さて、歴史学者の佐藤進一氏は、室町時代初期の尊氏・義直の関係から、将軍権力は主従制的支配権と統治権的支配権に分かれるとしています。この説には多くの反論があり、説の通りではないとは思うのですが、将軍には、法律・先例などの法的なものに裏打ちされた公的な立場と、突き詰めて行けば、主従制などにみられる私的な立場の両面があったということでもあります。権大納言・右近衛大将任官は、信長の持つ私的な実力武力統治の公的な認知(法的な根拠を与える)という位置付けになるのでしょうが、当たり前のことを言うようですが、公的な認知があってこそ私的な部分が安定することになるのだと思います。

WIKIについてですが、同じように無茶苦茶だと思うことも、イラッとすることも、あきれることもありますが、多くの方が自主的に作成に携わっておられるので、ある面で仕方のないことだと思います。根拠が示されていることも多いので、疑問がある場合は自分で確認してみることもしていますが、要はいくつかある考え方の一つであるというスタンスで見るしかないのだと思います。でも、便利なツールであると思います。

以上、参考まで
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この回答へのお礼

ベストアンサーに選んだ回答がシンプルで的を射た
答えだったということですね。

 左大将は武家では任官は難しいそうですが
家康が任官したのは秀吉の力によるのでしょうかね。

 回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/20 23:48

鎌倉幕府の創建者源頼朝は、朝廷の権威を拒否して、武家支配の社会を目指しました。


朝廷から頼朝の許可無く官位を頂戴した義経に、極めて冷たい態度を取りました。
幕府(武家政権)成立と源氏再興には、欠かせない義経でしたが、朝廷を崇める姿勢=武家の朝廷従属を拒否していたものと解します。
北条氏以降の各政権も、朝廷の権威を無視することが出来ませんでした。
信長は『天下布武』をモットーに、朝廷の威光を敢えて無視しようとしました。頼朝思想の復活です。
従っていかなる官職も官名も、敢えて拒否しています。
その意味では法的根拠はないのですが、上京を目指して進軍するからには、朝廷権力そのものは無視出来ない存在だったのでしょう。
秀吉以降は官位官職を授かって、歴史を逆戻りさせています。
wikiの編集姿勢はともかくも、朝廷としては信長は不倶戴天の敵。出来る事なら、正史に残したくなかった人物と云えるでしょう。
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この回答へのお礼

 回答を読んで思った事は、信長は日本各地の
戦国武将を平定して一人勝ちになろうとした、
その敵の中に京都の朝廷(天皇)も含まれていると
思いました。

 信長がそう考えていたのなら つじつまは合いそうですが
織田政権と書いているのは現代人ですからねぇ、当時の
考えでは政権という思想はなく強いものが天下に号令を
出す、それにだれも異を唱えないのが”天下人”だったのでしょう。
結局、現安倍政権が当時の信長を「政治権力者」と追認している
と判断して、織田政権とは正当なものと判定します。法的には
不明ですが。
 回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/11/18 23:44

>また信長が官位を返上したのは事実でも、新たな官位を


>辞退したとか、天皇の下に入るつもりはなかったとか、
>本人しか知りえないことを断言するのは、高い所から
>モノ言い過ぎでまったく説得力に欠けます。

いやこれが信長さんにおかれましては、もう天下統一近しというときに突然右大臣の官位を返上したのです。その理由は「ウチんとこの明智光秀とかがいい官位を貰っていて、アイツらがもう朝廷との窓口になっているから、俺ァもう天皇の前にいちいち行くこともないし、だから官位はいらねーわ」だったんです。
朝廷は慌てました。「いやいや、官位がないとかってありえないですから」といったのですが、信長さんは「俺が朝廷と直接交渉することがないからいらない」の一点張り。とうとう朝廷側は「ええい、関白、太政大臣、征夷大将軍。もう好きなのもってけ」と言い出しました(本当)。
日本史上において「好きな官位を持って行け」といわれたのはおそらく信長さんだけだと思います。だけど結局信長さんはそれも辞退するんですね。

このへんの経緯が「本能寺の変・朝廷黒幕説」の根拠のひとつになっています。信長は日本史上でほぼ唯一天皇制というシステムに組み込まれることを明らかに拒否した権力者だったのです。
法的根拠に関していえば、そういう法的根拠云々が通用しなくなったのが戦国時代という世の中だったわけですから、実質的な支配者としての信長でいいのではないかと思います。ただ、質問者さんチックに学術的統一性という観点から見れば正しくないといえるとは思います。
しかし足利義昭が京都から追放されて室町幕府が消滅してから、豊臣政権までが権力の空白時代だったのかというと決してそうではなかったわけですから、実質的には織田政権といってもいいでしょうね。

秀吉が関白になったのは、成り上がり者だったからだと思いますよ。日本史上不世出の成り上がり者であった秀吉には、ご存知のように権威や血筋というものがまったくありませんでした。権威や血筋なんてのがあまり関係ないと思われる現代でさえ、明治天皇の玄孫というだけでメンヘラの流行歌手との関係でヘラヘラするような軽薄な人物でもエラソーに本を書いたりテレビに出られるわけですから、やはり当時においては秀吉には「天皇家の権威」というのは全国支配をするには必要だったのでしょうね。
家康は極めて保守的な人でしたから、古来日本に伝わってきていて、それで何はともあれ上手くいっているシステムをわざわざ破壊する必要はないだろうと思ったのだと思います。そのおかげもあってか、江戸幕府は200年もの間に渡って安定した統治を続けていたわけです。

>方や事実を書き、もう一方では端折って書いている。WIKIはむちゃくちゃです。

誰かの権威や指導に基づいているものではなく、誰でも自由に参加できるのがWikipediaの特長ですから、そういった学術的正確性を求めるならWikiは参考にしないのが原則だと思います。
最近は大学のレポートでもそれこそWikiのコピペなんかが横行しているそうですが、本来は論文やちゃんとした書籍から引用するものですよね。でも、ネットでの議論も変な話誰でもできるわけでしょ?Warbirdの人たちが時々バカにして「床屋談義」なんていうけど、床屋談義で何が悪いの?と思いますけどね。

この回答への補足

信長は尾張の人なので
>「ウチんとこの明智光秀とかがいい官位を貰っていて、
アイツらがもう朝廷との窓口になっているから、俺ァもう
天皇の前にいちいち行くこともないし、だから官位はいらねーわ」
 この漫談風のセリフも名古屋弁でやらにゃアカンでしょ。 

 忠臣蔵・赤穂浪士のセリフもバリ播州弁でやらんとリアルさに
欠けるのに言いまへんなぁ。

 床屋談議云々の前に漫談風の回答は真剣味に欠け、真面目な
回答かどうか判断しかねます。

補足日時:2014/11/18 23:20
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織田信長は当初もらった官位を返上し、新たな官位を辞退しています。

天皇の下に入るつもりはなかったのです。自分こそが国王になろうと思っていたと思います。武力政権に法的根拠はいりません。

この回答への補足

 >武力政権に法的根拠はいりません。

 ならば豊臣秀吉の涙ぐましい努力はなんなのですか。
征夷大将軍を目指して、足利義昭の養子になろうとして
断られ、ならばと関白を目指して藤原氏の養子になろうと
菊亭晴季が工作して実現させたことは何だというのですか。

 また信長が官位を返上したのは事実でも、新たな官位を
辞退したとか、天皇の下に入るつもりはなかったとか、
本人しか知りえないことを断言するのは、高い所から
モノ言い過ぎでまったく説得力に欠けます。

補足日時:2014/11/18 00:19
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