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もしかしたら関東にお住まいの人には気に障る質問であるかもしれませんが
感情的にならず冷静かつ具体的な回答をいただけるとありがたいです。

ネットを検索していますと、江戸っ子の洒落について記された記事がありました。

熊手→福をかきこむ
ゆず→金銀融通
南天→難転
海苔が来た→ノリが来た(のってきた)
春夏冬→商い(秋がない)
五合→繁昌(半升)

これって本当にすべて江戸っ子の洒落なんでしょうか?

江戸っ子が洒落が好きだというのは事実でしょうが、日本には古来より掛詞が存在し
平安時代に成立した古今和歌集には掛詞を用いた和歌が数多くあります。

たとえば「ながめ」に「眺め」と「長雨」の二つの意味をもたせたりしています。
このような掛詞が洒落につながっていると思います。
つまり江戸っ子の洒落のルーツは京都にあったともいえると思うのですが

そこで質問ですが、上にあげたような洒落のルーツが江戸っ子にあるという根拠を示していただけないでしょうか。
上にあげたもの以外の洒落のルーツなどもご存じでしたらご教授いただけますと嬉しいです。

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A 回答 (8件)

ネットのどちらでご覧になられたのかは知りませんが、ご提示された言葉はいずれも江戸っ子発ではありません。


全国共通の言葉遊びの一つです。
そもそもご提示になられた例は適切とは思えません。
熊手の話も、江戸浅草の鷲神社(おおとりじんじゃ)の年末の市で売られる縁起物の熊手を勝手に解釈した説明でしょう。
酉の市 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/酉の市
抜粋
日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。

熊手 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/熊手
抜粋
日本では、幸運や金運を「かき集める」という意味を込めて、商売繁盛の縁起物として熊手を飾る事がある。主に毎年11月の酉の日に神社で開催される酉の市などで販売されている。毎年、昨年度の物より大きい物を購入するのが商売繁盛等につながるとされている。

年末の酉の市そのものが江戸発ではありません
熊手の縁起物としてのいわれも江戸発ではありません

南天を難を転ずるなどというのは別に江戸発ではありません。
南天の葉にはシアン化合物が含まれていて弁当などの防腐剤として使われていました。
その際に食中毒などの難を転じるおまじないとして説明されていました。
平将門を射抜いた矢が南天の軸であったことから、葛飾など江戸東部ではむしろ忌嫌います。
庭木としても植えませんでした。
神田明神の祭神は平将門です。

春夏冬と五合は一対です
春夏冬二升五合として使います。
【ことばの豆知識】春夏冬二升五合 - (大紀元) - 大紀元日本
www.epochtimes.jp/jp/2006/04/html/d76493.html
このサイトでも説明されていますように、言葉遊びは何も日本独自のものではありません。
抜粋
このような判じ物は中国語にも多く見られ、例えば、『陳chen』という人が船に乗る時、自らを『chen』とは称せず、『耳er東dong』と言うことがあります。これは、『陳』という字をわざわざ「こざとへん(中国語では『耳刀』と言う)」と『東』に分解したわけですが、『陳』の発音が『沈』に通じ、縁起が悪いからです。
 極めつけは、『一二三四五六七 孝悌忠信礼儀廉』。これで、『忘(王)八無恥』 (ろくでなしの恥知らず)となります。『八』を言い忘れているので『忘八』、この発音が『王八』(ろくでなし)に通じ、人が備えておくべき八徳のうちの一つ『恥』がないので『無恥』(恥知らず)ということです。いやはや、恐れ入りました。

欧米でも類似のものがあります
cu ← see you
gr8 ← great
ic ← I see
4u ← for you
me2 ← me, too
P&A ← panda
YY U R ⇒ Too wise you are
 ̄torito_ パズル遊びへの招待 2-11.判じ物と判じ絵
www.torito.jp/puzzles/211.shtml
抜粋
プロイセンのフリードリッヒ三世(1740~1786)が、フランスの文学者で思想家のヴォルテール(1694~1778)をサンスーシー離宮に招いたが、その時の招待状に・・・ これは「p の下に à 、à 、6の下に100」となっているが、それをフランス語で言うと、「à souper à Sanssouci.(サンスーシーで晩餐を)」という発音になる。
 これに対して、ボルテールの返事も簡単そのもので、
 「 Ja 」
 つまり英語のイエスで承知しましたということであるが、「大きなJ、小さなa」とフランス語で言うと、「J'ai grand appetit.(私は大いなる食欲を感じます。)」とほとんど同じ発音になるのである。なかなかしゃれた話である

判じ物については以下のような論文があります
ことば遊びの歴史と ”判じ物“ - 大阪教育大学リポジトリ
ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/3472/1/...

「物尽くし判じ物」 新出資料考 - 大阪教育大学リポジトリしゅ
ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/60/1/KJ...
この論文に使われた絵のカラー版があります
江戸名所判じ物クイズ | 錦絵でたのしむ江戸の名所 - 国立国会図書館
www.ndl.go.jp/landmarks/quiz/

確かに江戸っ子は言葉遊びが好きでした。
江戸は新興都市で全国から集まった人達が作った街です。
そもそも江戸っ子なる言葉自体が明和年間(1764年~1771年)以降に生まれた言葉です。
新興都市で生まれ育った故郷を持たない住人としての連帯感を確認高揚するために判じ物などを持ち出しました。
「なんだわからねぇのか、野暮だね」とかなんとか言って喜んでいました。
この気質は現在でも残っています。
地方とくに関西の方から嫌われます。
嫌われることを分かっていてやります。
粋かどうかの境目ですので止めません。
ご提示されたような回りくどいものは使いません。
御心配いただかなくても一読しただけで判別がつきます。
これがわかんねぇから野暮は嫌いだてぇの!ということになります。
むしろ、違う!という理由をつけるのに四苦八苦します。
最近江戸しぐさなどということが流行っているようですが、江戸っ子からすればなにをいってやがると相手にしません。
いちいちやることに理由なんぞないのが江戸っ子です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 全国共通の言葉遊びの一つです。
起源を推理するのは不可能でしょうか。

熊手は関西でも「福をかきこむ」などといって十日戎などで縁起物として売られています。

酉の市の演技は面白いですね。
なんと熊手は武具だったのですか。
どのようにして武具として用いたのか興味があります。

お弁当に南天の葉が入っているのは防腐剤としての役割があったとは知りませんでした。
その際に食中毒などの難を転じるおまじないとして説明されていたのですか。
しかし葛城一言主神社では一陽来復難転魔滅守りを授与しています。
お守りの中には南天の実が入っています。
いつから授与しているのかしりませんが、記紀にも記されている古い神社なのでもしかしたら古くから授与しているものかもしれません。

平将門を射抜いた矢が南天の軸だったので江戸では南天は忌まれているのですか。

春夏冬と五合は一対でしたか。

『一二三四五六七 孝悌忠信礼儀廉』
ほんと、恐れ入りますね。

欧米の例もすごく面白いですね。
最近では日本語と英語の掛詞みたいなのもありますね。

大変面白く読ませていただきました。

お礼日時:2014/12/01 21:07

No.4.7です


再度お礼を記入頂きありがとうございます
お礼の中にご意見がありましたので、恥も外聞もなく愚考を述べさせていただきます。
お礼の中に、文献をしらべればわかるのではないか、とされておられますが、これがなかなか簡単にいきません。
何分にも庶民の習慣的な文化の産物ですので、世の好事家が何か書き残したものを探すことになりますが、余程古文書の類を数多く読み込まないことには見つかりません。見つけても研究対象とするには民俗学言語学などに慣れた研究者でないと纏まった報告とはなりません。
結果としまして、類似のものとしてあると思われたのがご紹介した国文学資料館のレポートです。
リンクしなかったとのことですが御手数でも検索サイトで「みたて やつし 共同研究成果報告書  国文学資料館」と長たらしいキーワードで検索してみてください。
「みたて やつし」なしで「 共同研究成果報告書  国文学資料館」としますと他のレポートもヒットしてしまい中で探すのが面倒です。(失礼しました)
国文学資料館というのは大学の先生に代わって古文書を収集している機関です。
収集できなかったものは、データベース化して所有者や所在地が分かるようにしています。

お礼の末尾に京都と江戸の気質の違いが書かれておられますが、この違いはおそらく伝統の厚みの違いでしょう
京都は千年からの歴史がありますが、江戸はせいぜい260年あるかないかです。
京都の町文化はおそらく朝廷や寺院などの文化が庶民へ浸透していく形で形成されたのではないのでしょうか。
これに対して江戸はお手本になるお公家さんがいません。
有職故実にやかましいお公家さんなしで自分達が勝手に作り出しましたから面倒な理屈がそもそもありません。四角い難しい字は閑なお武家の担当として自分達は理屈ぬきのお互いが分かればそれでOKでした。
何か知りたければ芝居か講釈しかありません。
読み本もこのような連中が相手ですから絵入りで仮名文字書きのすらすら読めるものばかりでした。
現代学生が専門書を放り出してコミックを読んでいるのと大差ありません。

京都には忌詞が多いとされておられますが、日本には元々言霊思想というものがあります。
街も歴史的な建造物が沢山残っていましたが、江戸は新開地でしたので人口の増加にともないドンドン街を広げていきました。その過程で町内そっくり引っ越しさせられることも度々ありました
年中ボヤ騒ぎもありました。
何分にも破壊消防ですからチョットでも火が出ればたちまち周辺は叩き壊されてしまいました。
京都のように風水がどうの鬼門がどうのと言ってはおられませんでした。
京都の六道辻のような場所が生まれる時間がありませんでした。
とは言えゲン担ぎはしていました。
江戸の郊外の亀有も元は亀の甲羅のような形を成した地という意味の亀成が亀無になっていたのを言い換えたものです。
これはおそらく全国共通でしょう
葦も「あし」と言わず「よし」と言います
塩も「しお」と言わず「波の花」といいます。
醤油も「し」がつくのを嫌って「むらさき」と呼んでいました。
櫛は「苦死」に繋がるからと看板には三十六などと書きました。
三代住まにゃぁ江戸っ子じゃぁねぇなどと言うのも親子三代も同じ場所に住むのが難しかったことに由来しています。
江戸文化と言いますが、元禄文化というのは上方文化の集大成でした。
江戸っ子が主体となったのはそれから更に百年後の文化文政期です。
文化的なものや高級品は全て上方からの下りものでした。
「くだらねぇ」という言葉も一大消費地である江戸へ送られてこない粗悪品「下らないもの」の意味でした。
飲み屋の酒も江戸近郊の地酒は1合8文~10文でしたが灘や伏見の下りものは20文~30文でした。
このようなことに対する劣等感といいますか反発から上方の公家文化由来のものを茶化してしまっていたのでしょう。
オレ達は江戸っ子ダ、箱根の向うたぁ違うという意地でしょう。
こうなれば女房言葉も何もあったものではありません。
質屋を一六屋と言い換える程度です
せいぜい焼き芋も十三里半でした。(九里+四里=十三里)
くりよりうまい十三里半とか言っていました。
江戸近郊の薩摩芋の産地川越が江戸から十三里あったのが語源だとかなんとか言っています。

いきも京都の粋(すい)とは違います。
早い話が、やせ我慢です。
日銭稼ぎの貧乏暮らしも「江戸っ子の生まれそこない銭を貯め」とか「宵越しの銭はもたねぇ」とか言っのけてしまいました。
「もたねえ」のではなくもてねぇのが実態です。
お洒落をする金がありませんから髷をひんまげて「いなせ」とかなんとか言っていました。
ひんまげた髷を上からみるとボラの幼魚のイナの背中のように見えるということです。
中高生が征服をわざとだらしなく着て目立とうとするのと変わりません。
なんでイナだといわれればボラは出生魚です。成長に従って名前が変わりました。
オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド
この先出世するんだと言いたかったのでしょう。
とどのつまりは相変わらず長屋住いでした。
「とどのつまり」という言葉もここからきています。
「いきでいなせ」などというのもやせ我慢を体裁よくしただけです。
このような情緒を持った連中が強い仲間意識で固まっていただけです。
こんな連中を学問的に文献に基づいて検証しようとしても無理でしょう。
理屈などなかった連中のやったことに理屈をつけても野暮です。
江戸っ子は皐月の鯉の吹流し口ばっかりで腹はなし、です。
今や絶滅危惧種です。
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この回答へのお礼

本当に何度もありがとうございます。

>文献をしらべればわかるのではないか、とされておられますが、これがなかなか簡単にいきません。

いや~、まったくそのとおりなんです。
調べてわかるんなら質問などせずに自分で調べろって話です。

>世の好事家が何か書き残したものを探すことになりますが

もしそういうものがあるならぜひ読んでみたいです。

共同成果報告書読みました。
「見立絵本」とか「見立浮世絵」というのがあるんですね。
見てみたいです。
鳥獣戯画なんかもそういう類なのかなあと思ったりします。


京都と江戸の気質の違いがなぜ生じたのかについては回答者様の意見に賛成です。
陰陽道は明治に禁止されたのに京都の人はまだそういうものを信じてるみたいな
保守的だといえるかもしれません。
それに対して江戸には自由な空気があったということかもしれません。
一度浅草あたりに行ってみると江戸っ子がわかるかもしれませんね。

> 「くだらねぇ」というそ言葉も一大消費地である江戸へ送られてこない粗悪品「下らないもの」の意味でした。

そういう説もあるんですね。
私は「くだらない」とは「百済ではない」という意味だと聞いた記憶があります。
いろいろな説があるということでしょう。

焼き芋が十三里半、 オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド、とどのつまりの語源など面白いですね。
頭がよくないとこうはいえない。
最近の流行語など全く意味のない音のノリのよさだけで
少しはこの時代を見習うべきだと思います。

本当に面白い話をたくさんありがとうございました!

お礼日時:2014/12/03 17:03

No.4です


わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
お礼の中で、やはり起源をお知りになりたいとのことですので愚考を述べさせていただきます。
最初のご質問で和歌の掛詞を挙げておられますが、それよりは新しいのではないのでしょうか
おそらく室町時代に始まったとされる朝廷の女官達の間で広まった女房言葉ではないのでしょうか、いわゆる物事を直接的に言い表さない言葉遣いです。
現在も一般用語として残っています。
その一つに文字詞(もじことば)と呼ばれるものがあります。
○○という文字がつく物という意味で使われていました
しゃもじ→杓子のことでした→杓子のしゃからしゃがつく物
おめもじ→お目に掛かるという言葉からおめのつく行為
江戸っ子は下っ端を呼ぶときに「八の字!」とか「やの字!」などと呼んでいました
相手は八兵衛や弥次郎などという下っ端です
この他に間接的な表現からきたものとしては
おみおつけ→味噌汁のことですが、主食の横に付けるものという意味に丁寧語の「お」と「み」を重ねてつけた表現です
漢字で書くと御御御付けとなってしまいます。
おかき→もともとは欠き餅のことです。
お供えなどの硬くなったのを欠いて焼いて食べていたことからきています。これに丁寧語のおをつけた言葉です。
これに「みたて」「やつし」などという表現方法が加わったのが江戸っ子好みだったようです。
「みたて」は一つのものを別のものになぞらえることです。
「やつし」は権威あるものを現代風に卑近にして表すことです。
「みたて」は、盆栽や盆景など小さなものに大木や山岳などをなぞらえることに見受けられる考え方というか表現方法です。
「やつし」については秀吉が北野で開いた茶会で乞食に扮して席を回った話などが伝えられています。
言葉あそびにも「みたて」「やつし」は沢山取り入れられています。

江戸っ子の言葉遊びの大半は芝居つまり歌舞伎からのものが多いという特徴があります。
歌舞伎由来で今でも全国的に残っているのが、お稲荷さんと巻きずしの詰め合わせを「助六」と呼ぶのがそうです。
歌舞伎の演題の一つである助六に登場する主人公助六の相方の花魁の名前が「あげまき」だったことに由来します
揚げと巻きが入っているという洒落です。
あげまきなら助六だろうということです。
しかつめらしく云うと語呂合わせとみたてが混在していることになります。
みたては下記のサイトにもありますように和歌の比喩に由来するとする説もあります。

共同研究成果報告書 - 国文学研究資料館
www.nijl.ac.jp/pages/research/21-08_kyodokenkyuseikahokoku.p

みたては大衆演芸である落語などの大喜利でよくお題頂戴として演じられる「ものは付け」という演目に見られます。
「・・・するものはなに」という題に対する回答です
題:遠くて近いものは
答:隣のご隠居(隠居=年寄りは耳が遠いことを言っています)
これが、前回回答しました判じ物に繋がっていきます。
植物のへちまの名前も実は判じ物からきた呼び名です。
元々の名前は糸瓜です。
これが「とうり」と訛りましたが「いろはにほへとちり・・・」のいろは歌で「と」は「へ」と「ち」の間にあることからきた洒落です。
現在でも糸瓜と書いてへちまと読ませています。

女房言葉も「みたて」の一つだと考えて国文研の研究に従って「みたて」は和歌の比喩に由来するとすれば、平安時代、更に万葉集もということになると奈良時代まで遡ります。

なぜこのように日本人は言葉遊びが好きなのかということになると言語学者が言う同音異義が多いことに由来するということになります。
こうなると、縄文時代までいってしまいます。
だんだんわけがわからなくなってきましたのでこの辺で止めにします。

なお、武器としての熊手は、お酉様の熊手とは様子が違います。
長い柄の先に太くて鋭い鍵爪が3本~5本ついたものです。
この爪を鎧にひっかけて馬から引きづり落としたり、身体の自由を奪って組み伏せたりするのに使いました
装飾過多の大鎧の武者をやっつけるのには好都合でした。
壇ノ浦で海に落ちた平家の女御達を引き上げるのにもつかわれました
十二単と長い髪にひっかけて引き寄せてあげました。
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この回答へのお礼

再度のご回答をありがとうございます。

女房言葉ですか。
物事を直接的に言い表さない・・・なるほど~、さぞかし多くの語呂合わせを産んだことでしょう。
八の字・やの字というのは江戸の言葉でしたか。
このごろはテレビがあるせいか文化がまじってしまって、言葉のルーツを知るのが難しいですね。
「みたて」「やつし」は私の考えでは万葉集の時代から和歌に用いられているように思えます。
歌舞伎由来ですか。
歌舞伎は京都で始まって全国に広まったものだと思いますが
助六は江戸歌舞伎だそうですね。
それにしてもお稲荷さんと巻きずしを「助六」と言っちゃうなんて粋だねえ~。
へちまも面白い!
現代人は昔の人の粋を見習うべきかも。

www.nijl.ac.jp/pages/research/21-08_kyodokenkyuseikahokoku.p
↑ すいません、これは検索すると「指定のページは存在しません。」とメッセージがでます。

たしかに語呂合わせのルーツは縄文時代までいってしまいそうですね。

しかし質問文に書いたような個別の例だと、文献などを調べると、いちばん古いのはどこそこだとわかったりしないかなあ、と思います。

熊手は掃除道具の熊手ではなかったんですね。お恥ずかしい~。

丁寧な説明をありがとうございました。
知らなかったことをたくさん知ることができ、とても楽しく読ませていただきました。

余談ですが、江戸と京では同じ語呂合わせでもかなりとらえ方がちがっていたのかもしれないと思いました。
京都に旅行をすると、京都の人々がとても信心深いというか、迷信や言い伝えなどを真剣に信じているのに驚くことが多々あるのです。
京都の人にとって語呂合わせは呪術であったのではないかと思うことがあります。
(縁起の悪いものを語呂合わせで別のものに変えて安心するとか)
一方江戸の人は語呂合わせをゲームのように楽しんでしまう心意気があったのかも。
いい加減な思いつきですが。

お礼日時:2014/12/02 17:51

其処まで調べるのにはタイムマシーン造りから始めるしか無い


絶対間違いなく、
  ↑
其処!? 単に発祥地は不明だから と書いてたら 気が済んだの!?

此処で質問する人は 質問の意図と回答の意図が少しでも違うと文句ばかり・・

だったら 自分で調べろよ・・・ってのが 俺の本音だ
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だから わざわざ縁起担ぎの部分に してあげたのに・・・



発祥は「縁起担ぎ」発祥地は不明なので 其処まで調べるのにはタイムマシーン造りから始めるしか無い

あなたが 縁起担ぎをルーツだと思わなかっただけ
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
そういう高度なお考えで回答いただいていたとは理解力が足りなくて申し訳ありません。
> 其処まで調べるのにはタイムマシーン造りから始めるしか無い
絶対間違いなく、ということであればおっしゃるとおりかもしれません。
しかし多くの歴史の謎は推理が論理的であるかどうかで判断されていますし
私はそれでいいと思います。

お礼日時:2014/12/01 20:00

ルーツという意味でいえば


日本の中心であった京都という考え方もあると思います

そしてそれが江戸で発展した

たとえばカタツムリをなんと言っているかなど
日本の言葉を調べてみると
京都を中心としてコンパスで測ったように
南と北とで同じ距離の地方で
おなじ言葉が使われているという事実が
たくさんあります

ただし
おもしろいことに
京都で使われていたりしても
あきられて使われなくなっても
伝わった地方の方で生きていることもあるんですね

「バカ」は京都で使われていたのですが
いつのまにか使われなくなって
「アホ」に変ったのですが
使われなくなった「バカ」が
いつのまにか地方で使われるようになった
江戸も当時は地方になるわけですね

かるたには江戸かるたと京かるたと二つあります

「ツーといえばカー」
つまり「ツーカーの仲」ですね
今では意味が不明になっていますが
京かるたに使われているものが残っているそうです

「カーッといえば(痰)つぼ」
誰かが(たぶんご主人)カーッと痰をはいたら
小僧でしょうか、さっと(痰)つぼを差し出す
「カーッといえばツボ」が「カーツー」
いつのまにかさかさまになって「ツーカー」
これがツーカーの仲(息があっている)という
言葉のもとだそうです

これだって江戸では意味もわからず使っていたわけですし
(いや、当時はわかっていたのかもしれませんが)
ルーツという意味でいえば京都でしょうね
京かるたにしかないわけですから

やはり
ルーツは京都で
江戸で発展したというので
正解だと思います

ついでに
「月夜にカマを抜く」
女性に月のものがあった夜には
カマ(つまり後ろ)を使う
という意味だそうです

ルーツとは関係ないですね

この回答への補足

お礼コメントを誤って書いてしまいました。
「ただし」は読み飛ばしてください。
すすすすすすいません!

補足日時:2014/12/01 20:13
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

> 南と北とで同じ距離の地方で
おなじ言葉が使われているという事実が
たくさんあります

それは聞いたことがあります。
それで蝦夷と隼人は同族ではないとかいう説もあったかと思います。
ただし
「バカ」が京都で使われていたとか、「ツーといえばカー」が 京かるたに使われていたと、「ツーカー」の意味、「月夜にカマを抜く」など面白く読ませていただきました。

お礼日時:2014/12/01 20:12

根拠らしい根拠というものはありません。


ただ、
それが使われてる地方がルーツであろう、という憶測でしかないのです。

現在も使われているんですから昔からそういう風習があったのだろう、と想像できます。

南天の実はウチでいまだに飾ります。

熊手は浅草の酉の市で大々的に売られます、
いまだにあれほど大きくやってるんですから江戸が発祥なんでしょうね。

結婚式をはじめおめでたの席に出るものとして
鯛(おめでタイから)などは全国的ですからどこがルーツだかわかりません。
昆布(よろコブ)も全国区かな。
でも、鰹節(勝つ男武士)は関東でしょーね。

春夏冬と書いてある五合枡を二つ並べて「商いますます繁盛」は商人の町
大阪なんじゃないでしょうか。

まぁすべてが江戸から始まったわけでもないでしょう。

鯛や昆布、えび(腰の曲がるまで)は海辺でしょう。

そのお読みになった文献がいい加減なのではないでしょうか。

あーそれから、せっかく「日本語」の質問なのに
間違った言葉遣いをしてはいけません。

ご質問の最後の行、「ご教授いただけますとうれしいです」
「ご教授」なんていう言葉はありません、正しくは「ご教示」です。
また「いただけますとうれしいです」は「いただけるとうれしいです」です。

言葉もどんどん変り(ラ抜き言葉も市民権を得たようで)
変って行くことには異を唱えませんが、
現在は現在の正しい使い方があります。
きちんと覚えましょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。


>現在も使われているんですから昔からそういう風習があったのだろう、と想像できます。

発祥の地ですたれてしまって別のところで用いられているというケースもあります。
蹴鞠は中国が発祥の地ですが中国ではすたれてしまって日本に残っています。

>熊手は浅草の酉の市で大々的に売られます、
いまだにあれほど大きくやってるんですから江戸が発祥なんでしょうね。

大々的であることと、起源の古さは関係ないのでは。
関西でも十日戎などで縁起物の熊手を売っています。
ただし、いつから売り始めたのかについては存じあげません。

「商いますます繁盛」は商人の町というのは賛成ですが
大阪以外にも商人の町はあります。

>そのお読みになった文献がいい加減なのではないでしょうか。

ネットの記事にそう書いてありました。
やはりいい加減だと思われますか。

私の言葉の使い方についての間違いを指摘くださいましてありがとうございました。
気をつけたいと思います。

お礼日時:2014/12/01 20:42
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この回答へのお礼

さっそく回答を下さりありがとうございました。
ご紹介いただいたサイトは様々な語呂合わせの例が紹介されていて大変勉強になりました。
しかしながら私の質問は語呂合わせ(洒落)のルーツはどこにあるかということで、それについては記されていないようです。

お礼日時:2014/12/01 15:29

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Q掛詞について

学校の国語で古今和歌集の技巧「掛詞」について習いました。
ネットで調べましたが分からなかったので質問します。

すみぞめの 君がたもとは 雲なれや たえず涙の 雨とのみふる
という壬生忠岑の和歌なのですが、どこが掛詞になっているのかどうしても分かりません;;
誰か古典などに詳しい方いましたら教えてください!!

Aベストアンサー

これは弔問歌のようですね。
掛詞は、同音異義語を利用して、ひとつの言葉に複数の意味をもたせるレトリックです。
No.2さんの「ふる」で正解だと思います。
No.1さんの回答は、ちょっと違いますね。しいて言うなれば「掛詞」ではなく、「縁語」ととれなくもないですが、「すみぞめの」は「たもと」を修飾しているだけでしょう。
「袂」の縁語として、よく使用されるのが「振る」です。(「君が袖振る…」なんて和歌もありました。「袖=袂」は振るものなのです)
「たもと」から「ふる」を導きだし、なおかつ「振る」と「降る」で掛けているのではないでしょうか。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。

Q江戸時代の藩の領地地図

江戸時代の全藩の領地地図を教えてください。
細かいのでお願いします。(飛び地など)
あと、天領も出していただけるとありがたいです。

Aベストアンサー

無理です
あなたが考えている以上に細かいので
一つの地域に
Aさんの田んぼはポコポコ藩領
Bさんの田んぼはニョロニョロ藩領
になている地域があります。

一石しか無い場所ってのがあるんですよ
今風でいう一坪地主
それを地図にしていくのは無理です
そもそも地図があった訳ではなく、言い伝えで私の家はXX藩領だったというレベルでしかないからです

Q江戸時代の「関東の金通貨」「関西の銀通貨」について

なぜ、関東圏関西圏で流通貨幣が違っていたのでしょうか(もちろん互換性はありますが)

Aベストアンサー

金や銀の産出量に由来します。
 
関東圏には、『佐渡金山』や『甲斐金山』など金の産地が多いため金建て、
関西圏では、『石見銀山』など銀の産地が多いため銀建てになったと思います。
 

Q江戸時代以前に日本人が作った世界地図を探しています

タイトルどうりで江戸時代以前に日本人が作った世界地図を探しています。
上記のような世界地図が載っているサイト、本などがあれば教えてください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代以前、日本人が作った世界地図はありません。行基が作ったとされる(実物は存在しない)日本地図を模写した地図はあり、奈良県立図書情報館では、古地図を展示していますよ。

http://urano.org/kankou/topics/gyoki/index.html

http://www.library.pref.nara.jp/gallery/ezu/map/index.html

http://www.library.pref.nara.jp/index.html

Q江戸時代の歩き方? 本当?

先日テレビのクイズ番組で 「江戸時代までの人は着物が乱れないように、今と違って同じ側の手と足を前に出す歩き方をしていた。  現代人のように反対側の手と足を連動する歩き方は 『ねじり歩き』 と言って、洋服が一般化する明治に入ってから」 という解説がありました。

ズボンを履いた現代人のような歩き方をすると着物の前がはだけるから、自然にこのような歩き方になったというものでした。

よく冗談で同じ側の手足を同時に前に出して歩く事がありますが、江戸時代までの人々はこれが普通の歩き方だったというわけです。

でも考えてみたのですが、絵画などから想像する以外、まず誰も実際に江戸時代の人の歩き方を見たわけではないですよね?

それと、そもそも人間を自然の状態で歩かせた場合、「ねじり歩き」 が一番理に叶っているように思うのですが、本当に江戸時代までの人々は同じ側の手足を連動して歩いていたんでしょうか?

もし着物のせいでそうだとしたら、たとえば前合わせの和服が一般化する前の、古墳時代の人々の歩き方はどうだったと考えられますか?

たしか動物の場合でも、ラクダ以外ほとんどの動物は 「ねじり歩き」 ではないかなと思うんですが?

先日テレビのクイズ番組で 「江戸時代までの人は着物が乱れないように、今と違って同じ側の手と足を前に出す歩き方をしていた。  現代人のように反対側の手と足を連動する歩き方は 『ねじり歩き』 と言って、洋服が一般化する明治に入ってから」 という解説がありました。

ズボンを履いた現代人のような歩き方をすると着物の前がはだけるから、自然にこのような歩き方になったというものでした。

よく冗談で同じ側の手足を同時に前に出して歩く事がありますが、江戸時代までの人々はこれが普通の歩き方...続きを読む

Aベストアンサー

 幼い子供を見ればわかりますが、人間は自然な状態で歩くと手をほとんど動かしません。あくまでも手は上半身のバランスをとるために存在しているだけです。江戸時代の絵画を見ると、火災で逃げまどうときなどみんな両手を前に突き出して走っていますが、これは速く逃げなければと思ってもどうすればいいかわからないため、気持ちばかりが焦って両手が前に出るからです。もし「ねじり歩き」ができれば、その延長として手と足を交互に動かす走りもできるはずですから、昔の日本人は「ねじり歩き」ができなかったと思います。

 では手と足を交互に動かす「ねじり歩き」は存在しなかったのかというと、飛脚など一部の職業では「技術」として存在していました。「ねじり歩き」の利点は早く歩けることですが、一般の人は日常において長い距離をラクに歩く「なんば歩き」は必要であっても、速く歩く必要はほとんどありませんでした。意外かもしれませんが、現代に生きる私たちもスポーツや電車に乗り遅れるといった状況以外では早足になったり走ることがないのと同じです。つまり手と足を交互に動かす「ねじり歩き」というのは長い間「特殊技能」で、明治以降の近大教育によって一般化した歩き方です。

 また、着物がなかった古墳時代でも「ねじり歩き」はなかったと思います。狩りをするから走るんじゃないかと思うかもしれませんが、いくら速く走っても動物には勝てませんから、それよりも獲物を探して長い距離を走る「なんば歩き」を自然に使っていたと思われます。

 なおヨーロッパなどでは古代から「ねじり歩き」が使われていますが、狩猟民族だからということではなく、古代オリンピアの例を挙げるまでもなく「歩く」ことや「走る」ことが早くから競技として発達し一般化したからだと思います。これはアフリカなどに現存する狩猟部族が「ねじり歩き」の技術を使用していないことからも推測できます。

 幼い子供を見ればわかりますが、人間は自然な状態で歩くと手をほとんど動かしません。あくまでも手は上半身のバランスをとるために存在しているだけです。江戸時代の絵画を見ると、火災で逃げまどうときなどみんな両手を前に突き出して走っていますが、これは速く逃げなければと思ってもどうすればいいかわからないため、気持ちばかりが焦って両手が前に出るからです。もし「ねじり歩き」ができれば、その延長として手と足を交互に動かす走りもできるはずですから、昔の日本人は「ねじり歩き」ができなかったと...続きを読む

Q 江戸時代の将軍の御鷹狩り時代の 漢文だと思います

 江戸時代の将軍の御鷹狩り時代の 漢文だと思います
「御鷹狩御用於相増困窮仕候」どう読めばいいのでしょう?
どなたか教えてください よろしくお願いします。

Aベストアンサー

元史学徒です。

「御鷹狩り御用、相増し(あいまし)、困窮仕り候(こんきゅうつかまつりそうろう)」

意味はそのまま
「御鷹狩りに関する御用が増えてきており、困窮しております」
と宜しいかと。

幕府や大名の鷹狩り場に指定された場所(かなりの広域に及びます)では、
将軍や大名鷹狩りに先立ち、村民による一切の狩猟が禁じられます。
場合によっては労役・資材供与の義務を課せられる場合もあります。

ご提示の文章だけでは確りとわかりませんが、それによる困窮を訴えたものと
推測されます。

Q江戸時代の文明レベルで南極海での捕鯨は本当に可能か

江戸時代は鎖国で幕府が、各藩が大きな船を持つことを禁止していたと聞いたことがあります。
もし、大型船製造禁止条例が江戸時代になかったら、あの当時の技術力で日本から何キロぐらい離れた場所まで行って帰ってこれてたんでしょうか。
また、現実の当時は幕府は大型船を使ったほかの国との行き来をほかの国のサービスをお金を払って利用していたのですか。
江戸時代、日本から遠く離れた海域での伝統捕鯨は具体的にどのように行われていたのか、詳しい方がいたらお願いします。

Aベストアンサー

江戸時代初期に、日本はガレオン船建造技術を習い、太平洋横断に成功してます\(^^;)...

・1607年、サン・ブエナ・ベントゥーラ号(120トン)が徳川家康の命令でウィリアム・アダムスによって伊豆国伊東の松川河口で建造された。日本で最初に建造された西洋式の大型帆船である。当時、フィリピン総督ドン・ロドリゴら一行が、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されていた。その後、一行がアカプルコへ帰還する際にサン・ブエナ・ベントゥーラ号を使用した。本船には田中勝介ら日本人22人が同乗し、アメリカ大陸へ渡った初めての日本人となった。帰国したドン・ロドリゴは、有名な航海士セバスティアン・ビスカイノを返礼の大使として日本へ派遣した。しかし、ビスカイノの帰国時に船が大破した為、伊達政宗が別のガレオン船建造を幕府に願い出て、承認された。
 1613年、サン・フアン・バウティスタ号(500トン)が伊達政宗の命令でフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロとセバスティアン・ビスカイノによって仙台藩石巻で建造された。サン・フアン・バウティスタ号は日本で最初に建造されたガレオン船であるとされている。ルイス・ソテロおよび支倉常長以下の使節団が、ローマ教皇のもとに派遣された時に、本船は太平洋を横断してメキシコ, アカプルコへ送りとどけ、同使節団の帰途にもメキシコから日本へ連れ帰った。

南氷洋は、ともかく、太平洋往復は、十分可能でした。

・捕鯨は、「侍ジャイアンツ」や「鯨神」に描写されてるように、明治に近代捕鯨船が導入されるまで。
近海に鯨が来たという漁師の通報で、鯨猟師が小舟で接近し、直接、素手で、槍や銛を叩きこんで肉薄攻撃して、しとめてたのです。

江戸時代初期に、日本はガレオン船建造技術を習い、太平洋横断に成功してます\(^^;)...

・1607年、サン・ブエナ・ベントゥーラ号(120トン)が徳川家康の命令でウィリアム・アダムスによって伊豆国伊東の松川河口で建造された。日本で最初に建造された西洋式の大型帆船である。当時、フィリピン総督ドン・ロドリゴら一行が、マニラからアカプルコへ向けての航行中に台風に遭い、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救出されていた。その後、一行がアカプルコへ帰還する際にサン・ブエナ・ベントゥーラ号を使用した。...続きを読む

Q戦後まで江戸時代のお金使えたのですか?

戦後まで江戸時代のお金使えたのですか?
http://ponsuke.site/archives/17307624.html

Aベストアンサー

寛永通宝などを「一文銭」と言います。

明治42年生まれの亡父から、
「一文銭で駄菓子が買えた」
という話を聞いたことがあります。

ただ、それが父が子供の頃、すなわち大正時代の話なのか、大人になった昭和も戦中戦後の話か、具体的にいつの時代の話かを聞いたか聞かないか記憶にありません。

いずれにしても、江戸時代のお金が明治維新とともに使えなくなったわけではないことは事実です。

Q江戸時代の関東で数百文の支払いをどうしたか?

江戸時代の貨幣は、明和年間(1764-1772年)に二朱銀と四文銭ができる前は、小判・一分金・一文銭の計数貨幣3種と丁銀・豆板銀の秤量貨幣しかありませんでした(元禄-宝永にかけて二朱金があったが短期間で例外)。一分金と一文銭の交換比率は変動しましたが、大まかに見て「一分 = 1000文」です。そこで質問ですが、そういう状況下で数百文の支払いや釣り銭が必要なとき、どのようにして受け渡したのでしょうか。一文銭を何十枚も何百枚もジャラジャラそろえて受け渡したのか、それとも、関東でも1000文以下の受け渡しのために豆板銀が頻繁に使われていたのでしょうか。たとえば、江戸の棟割長屋の店賃が一月あたり500文とか、東海道筋の旅籠が一泊250文とか、大井川の川越人足が手間賃65文、という話を読むと、それらをどのようにして支払ったのか疑問に思ってしまいます。

Aベストアンサー

100(または200)枚をひもで束ねた鎈(ぜにさし)で使用していました。
実際にはひも代が引かれていて98、9枚なのですが慣習としてばらさなければ100文として扱われました。


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