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源頼朝の流人生活はどのようなものだったのか詳しく教えてください

頼朝はそのころに政権の構想や平家打倒の計画をじっくり練っていたのでしょうか?

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A 回答 (5件)

こんにちは



頼朝の流人時代は、所領もなく、乳母の関係者、母親の実家の熱田大宮司家、家人の一部、そして監視役の伊豆の武士(在庁官人)の伊東氏・北条氏などが面倒を見ていたとされます。ただ、流人時代の生活については、史料が少なく、後代の『吾妻鑑』などに断片的に記述された記事によることが主になっています。

まず、なぜ頼朝が死罪ではなく流罪になったかということですが、従来の説では清盛の父の正盛の後妻の池禅尼の助命嘆願だけが言われていました。これは、平家の都落ちに平頼盛以下の池一門は同行せず、後に頼朝に対面していること(『吾妻鑑』など)によっても裏付けられます。池禅尼に加えて、現在、頼朝の生母の実家である熱田大宮司家の一族の子女が、後白河院と上西門院の近臣や女房として仕えていたことの影響(上横手雅敬・元木泰雄)との説があります。さらに、源頼政が伊豆の知行国主であることの影響から、配流地が伊豆に決定したのでは(五味文彦)と言われています。
*上西門院=統子内親王。鳥羽天皇と待賢門院との間の皇女で、後白河天皇准母。なお、頼朝の生母の由良御前(熱田大宮司藤原季範のむすめ)は、上西門院の女房であったとの説あり。また、姉妹には上西門院と待賢門院の女房がいた(『尊卑文脈』)とされています。
次に、伊豆までの道中ですが、長田資経が一族の長田資家を従者として付けてくれたことが知られています。この長田資経ですが、因幡国高庭郡の郡司であったようですが、頼朝との関係は分かっていません。平氏の家人で、平治の乱に参加し、捕虜になった頼朝を見て、憐憫の情を催したようですが、少年期(数え13歳)の頼朝は、人を引き付ける魅力があったということなのかもしれません。
さらに、熱田大宮司家では、由良御前の弟の祐範が、従者を1名付けたことが知られています。ただ、熱田大宮司家では、祖父の熱田大宮司藤原季範・母の由良御前は平治の乱当時には死去しており、また、季範の長子であったと思われる範忠は、頼朝の同母弟*希義を駿河で捕らえ、平氏に引き渡しています。季範と範忠の関係は悪く、季範は熱田大宮司の職を五男とされる範雅に譲っています(後に範忠が就任)。同じ大宮司家でも、範忠と由良御前・祐範・範雅は母を異にしているようで、それが行動の差になって表れているように思われます。特に由良御前と祐範は、祐範の行動などから、同母の兄弟であると考えられます。
*希義=土佐国へ流刑になり、後に挙兵しますが敗死します。

流刑地である伊豆に着いた頼朝ですが、頼朝には生活を支える領地はなかったとされます。これに関して、Wikiの関連記事である「関東御領」の記述の、「(*関東御領の)起源は、鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領である。これに平氏滅亡の際、平氏一門が持っていた荘園(平家没官領)を組み入れて継承した。」の部分は、紛らわしい表現で、「鎌倉幕府成立以前に源氏(源頼朝)が本家・領家として所有していた荘園群や国衙領」は、平治の乱後、平氏により没官されており、頼朝が流人時代には存在せず、平家の所領に組み込まれ、後に平家没官領の形で回収され(石井進・『国史大辞典』)、流人時代の頼朝には所領が無かったことになります。
流人時代の頼朝を支えたのは、まず、熱田大宮司家の祐範です。祐範は月に一度使者を頼朝のもとに派遣したとされています。当時は子の面倒は、母方がみる例が多いので、使者を遣わしただけではなく、なにくれの生活の面倒もみたのではないでしょうか。

次は、乳母のグループです。頼朝の乳母としては、摩々尼、山内尼・寒川尼・比企尼の四人が知られています。これもWikiは山内尼=摩々尼説ですが、摩々局が母、摩々尼が娘で、土肥氏の一族の女性であり、山内尼は山内首藤俊通の妻で、俊綱の母の女性で、山内尼と摩々尼は別人説が主流となっています。
さて、この乳母の中で頼朝の流人時代の生活の面倒をみたとされているのは、比企尼で、彼女は夫の比企掃部允と共に武蔵国の比企郡に下り、その後頼朝の挙兵までの*20年間面倒をみたとされています。
さらに、比企尼の長女の婿の安達盛長は、流人時代の頼朝の従者として側近に仕えたとされます。
また、どの乳母なのかは不明ですが、頼朝の乳母の妹の子である三善康信(*後の問注所執事)は、月に三度京都の情報を頼朝に送り届けたとされます。康信の情報が、頼朝の挙兵に影響を与えたともされています。
*20年間面倒をみた=能員姨母、号比企尼、当初為武衛乳母、而永暦元年御遠行于豆州之時、在忠節余、以武蔵国比企郡為請所、相具夫掃部允、掃部允下向、至治承四年秋、廿年之間、奉訪御世途(『吾妻鑑』寿永元年10月17日の条)

次に、家人と分類されるべきグループが存在します。
第一に上げられるのが、佐々木四兄弟です。近江源氏(宇多源氏)で、近江に所領を持っていた佐々木秀義は平治の乱で敗軍となり、所領を失います。その後、関東を通って、奥州に落ち延びる途中、相模の渋谷氏に引き留められ、そのまま居つくようになります。その子息の定綱・経高・盛綱・高綱は、流罪中の頼朝の家人として仕えたとされています。ただ、常時頼朝に近侍したわけでもないようです。
それ以外にも、伊豆や相模の武士が頼朝の下を訪れていたとの話もありますが、軍記物語などの話が多く、確実な資料とは言えない部分があります。
頼朝の日常生活ですが、法華経への信仰が知られています。父母や源氏一門の菩提を弔う毎日で、読経・暗誦・写経などをしていたようです。さらに、箱根権現・伊豆山(走湯)権現を信仰していたとされます。
それ以外には、弓が挙げられると思います。石橋山の戦いでは強弓により敵を射殺していますし、鎌倉に落ち着いたのちには、弓の故実を知る武士に故実を問うなどしています。当時の武士の表芸である弓と馬(弓馬の道)は、当然ですが鍛錬していたものと思われますし、狩などもしていたようです(物語作品にある話として)。
さて、伊豆国の知行国主は源頼政であることは前記しましたが、伊豆国の国守も頼政の嫡子の仲綱(その後は頼政次男頼兼など、知行国主として当然ですが頼政の影響下の人物が任命されています)であり、以仁王の挙兵の失敗で、この親子が敗死するまで、比較的自由な行動が許されていたとの見方もされています。流罪初期には伊豆国府に近い場所(一般に蛭が小島と言われています)にいたようですが、伊豆山権現や伊東氏の領内など、伊豆の国中を移動できたようです。しかし、知行国主が頼政から平時忠(*清盛の妻時子の弟。公家平氏)に変わり、流人生活は激変し、挙兵へ進むことになります。

頼朝の流人時代の生活については、史料が少なく、『吾妻鑑』の記録、それも当時のものではなく、頼朝が関東制圧後に、流人当時の関係者やその縁者についての記述に、断片的に記録されたものがほとんどです。それ以外は、『曽我物語』などの文学作品に出ているなどになります。上記は、『吾妻鑑』の記述にある事柄をもとにしましたが、一部は軍記物語なども参考としています。ともかく、わからないことが多いので、参考程度に。
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この回答へのお礼

史料が少ないんですね。それでも今まで一番詳しい情報をもらいました

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/12/22 08:44

古代・中世には、流人とはいえども高い身分が保障されました。


皇族の場合は隠岐の島、政治犯は八丈島などと、流刑先も特定されていましたし、貴族なら明石や須磨でも凄く寂しいところと嘆き悲しんだとか。
天神様として奉られる菅原道真公も、流刑先では「太宰の権守(だざいのごんのかみ)」という役職での赴任の形でした。権守の「権」は副官の意味です。
西郷隆盛は二度奄美に流されました。最初は奄美本島の「龍郷」現在の奄美市龍郷町。そこでは流刑人ながらかなり自由に外出も許され、「竜(りゅう)家お預け」の処置でしたが、龍家の娘を現地妻として子も産ませています。二度目は沖永良部島。此処では厳しい制約があり、軍隊の営倉入り状態でした。
身分の高い人は、下々と共に入獄するなど、あり得ないことでした。
頼朝は北条家お預け的な状態で、自ら武家社会を構想する程の実力はありませんでした。関東の有力武士団に担ぎ出され、そこへ古代政治からの脱却を希望する諸国武士団が呼応して、何となく鎌倉幕府の成立に至ったという流れでしょう。
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この回答へのお礼

kamobedanjohさん、また回答して貰いましたね

なんとなくで天下の主になるなんて羨ましいかぎりですね

回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/12/24 06:30

都からの仕送りもあれば都の様子を伝える手紙も届いていました


佐々木 定綱 経高、高綱などという家来もいました。
特別生活に困るような状態ではありませんでした。
伊豆のあちらこちらへ自由に出歩いて女性にチョッカイを出したりもしていました。
後の奥さんになる政子が女性問題で大立ち回りをしています。
偉くなろうとか金持ちになろうとか余分なことを考えなければ平穏無事な生活をしていました。

平家打倒とかなんとか言うことも特別考えていなかったでしょう。
戦を起こすのには手元に軍勢がありませんでした。
石橋山で戦闘したときもあっさり負けて逃げ出しています。

そもそも源平合戦といいますが実態はそうとうに違います。
平氏というのは高望王なる人物が上総の国司として下向したのが始まりです。
この一族が後に京都へでた伊勢平氏と呼ばれる一団と坂東平氏と呼ばれる一団に分裂しました。
伊勢平氏の中から清盛なる人物が現れ京都で成功して栄耀栄華を極めていました。
これに対して坂東平氏の連中は何のおこぼれもありませんでした。
むしろ京都の連中から卑下されていました。
平氏同士が戦をしたのでは単なる内輪もめで大義名分がたちません。
ここへ頼朝が伊豆に現れました。
預かったのが、坂東平氏の一人である北条氏です。
そうこうしているうちに、都で平氏に不満を持った以仁王なる後白河法皇の息子が平氏をやっつけろという手紙を送ってきました。(以仁王の令旨)
これ幸いとばかりに頼朝を担ぎ上げたのが坂東平氏の連中でした。
石橋山では失敗しましたが、房総半島へ逃げて北上している間に頼朝の父親義朝の戦友であった平常胤が加勢に加わりました。
当時坂東平氏の中で常胤が親分株でした。
常胤自身は自分の領地争いに頼朝を利用しよという腹積もりだったようですが、下総の葛飾八幡宮で面会した時点では打倒伊勢平氏の意気に燃える集団となっていました。
こうなったら後には引けません。(グズグズ言ったら袋叩きにされてしまいます)
源氏の白旗を掲げて京都を目指す以外に方法はありません。
現在も千葉県の市川市にはこの旗挙げの地として白幡神社というのがあります。
その後、現在の江戸川を渡り隅田川にたどり着いた時には、坂東中の平氏の不満分子が集結して大軍団になっていました。
つまり頼朝の軍団というのは義経が合流してくるまでは坂東平氏の軍団で頼朝は御神輿の飾りの鳳凰のようなものでした。
後はお馴染の源平合戦です。
鎌倉幕府スタート時点の主要閣僚は北条、三浦、和田などいずれも坂東平氏の末裔です。
頼朝の息子たちが死んだ後は北条氏すなわち平氏が権力を掌握しました。
これを、源氏の末裔である新田義貞が潰しました。
文字通りの源平合戦は恐ろしく息の長い合戦だとも言えます。

以上ザット説明しましたように頼朝には初めは平氏打倒などという考えも意志もなかったものと考えて差し支えはないかと思います。
権力闘争というのは何時の時代も本人よりも周りが煽り立てます。
個人名だけで歴史を見るとときとして誤解が生じます。
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この回答へのお礼

ichikawaseijiさん、おひさしぶりです

そうですね軍勢が無ければ、どんな名大将でもなにもできませんよね

いつも詳しい回答ありがとうございます。またお願いします

お礼日時:2014/12/24 06:41

平家打倒のことなんか考えてないでしょう


頼朝が平家打倒の兵を挙げたのは
新宮十郎義盛(源行家)による 以仁王の平家打倒を命じた令旨の流布によっての説得においてです
それも乗り気ではなくしぶしぶ挙兵しています

むしろ乗り気だったのは源義経だったと思いますよ
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この回答へのお礼

azuki-7さん、回答ありがとうございます

どうしてしぶしぶだったのでしょう?

回答どうもありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/12/24 06:25

あくまでも罪人ですから、静かな生活を送っていたのでしょうね。

読書や父親の供養、場合によっては散歩も許されていたようです。このころの頼朝には、武家による新政権や平家打倒どころか、それすらもなかったように思えます。北条政子との結婚もこの頃です。しかも、かなりモテていたとか。
1180年になって平家追討の話が持ち上がったわけで、政権の統治機構が形成されたのは、この時期です。当然、挙兵するには、独自の軍事組織を作らなければなりません。こうした組織が、後の鎌倉幕府の原型なのかもしれません。
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この回答へのお礼

stulteさん、再び回答してもらいましたね

軍事組織が鎌倉幕府の原型とはおもしろい話ですね。考えさせられます

回答ありがとうございました。またお願いします

お礼日時:2014/12/24 06:41

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Q清盛はなぜ頼朝、義経を殺さなかったのか?

こんにちは。

結局この二人に一族を絶滅させられた清盛です。
義経に引導を渡されその後は頼朝の追討により根絶やしです。

その前の戦(保元の乱?)の戦後処理でなぜこの二人を殺さなかったのか?
なぜ生かしておいたのか? 
その時期に清盛にはそう言う力が無かったのか?
でもその後でいくらでも出来たはず赤子の手を捻るがごとく。
頼朝のやり方と比較するとあまりにも寛容すぎてバカみたいです。

最高権力を握るほどの人なんだから女(常盤御前)の理由とも想えません。
それとも当時はそのぐらいが普通で頼朝がやり過ぎなのか?

では宜しくお願い致します

Aベストアンサー

 他の方の回答にもありますが,平安時代の日本では長らく死刑が行われておらず,保元の乱で平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝や義経の祖父)が処刑されたこと自体が,当時の法慣習としてはかなり異例の措置であり,貴族層からも相当の反発があったようです。もっとも,死刑が行われなかったというのは朝廷がやらなかったというだけで,武士団などによる処刑は平然と行われていましたが。
 清盛が,仮に頼朝や義経を始末するとすれば,両人の父・義朝は保元の乱当時清盛の味方だったので,それに続く平治の乱のときということになるでしょうが,幼年期に父親が処刑され,後に子供が成人して力を付けて親の仇を討つというのは,日本の歴史上は源頼朝や義経がまさにリーディングケースであり,清盛としてはそのような事態は想像もできなかったでしょうし,また謀反人の息子とはいえ幼い子供まで殺すというのは,武士の死刑自体にも世論の反発が強かった当時ではさすがに難しかったでしょう。
 もっとも,源平合戦の時代以降,日本では全国各地で武士同士の抗争が続き,成長した子供が親の仇を討つなどというのは珍しいことでもなくなりましたが,それでも子供まで平気で殺すという措置を取るには,あまりにも残虐だという非難を覚悟しなければなりませんでした。
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 戦国時代の価値観に慣れてしまうと,平清盛の措置は寛容すぎるとも感じられるかもしれませんが,平清盛については,逆に死刑を復活させてライバルの源氏を叩きすぎたため,後に源氏側の怒りを買って平氏の完全滅亡を招いたという見方も存在します。本来は,敵の一族は子供まで皆殺しというやり方自体が異常なのですよ。

 他の方の回答にもありますが,平安時代の日本では長らく死刑が行われておらず,保元の乱で平忠正(清盛の叔父)や源為義(頼朝や義経の祖父)が処刑されたこと自体が,当時の法慣習としてはかなり異例の措置であり,貴族層からも相当の反発があったようです。もっとも,死刑が行われなかったというのは朝廷がやらなかったというだけで,武士団などによる処刑は平然と行われていましたが。
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