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南北江戸町奉行所はあくまで町民の訴訟、裁判を行うところで、武士・武家の訴訟を扱うところではなかったのでしょうか? 武士の裁判を行う所は評定所でその担当の中心は大目付ということで理解していいのでしょうか。どなたか教えて下さいませんか、お願いします。

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A 回答 (7件)

町人を扱うとか武士を扱うとか身分で区分けしますと非常に分かり難くなります。


奉行(所)という名前がつく役職は勘定奉行、寺社奉行など他にもありました。
江戸町奉行というのは名前のとおり江戸の町すなわち町人が居住する地域を管轄する役所です
大名屋敷など武家が居住する地域は管轄外でした。
寺社奉行というのは寺社の所在地を管轄する役所です。
つまり寺社内というのは町奉行の管轄外です。
さらに町人の居住地も、どこまでとするかという問題があります。
地図の上に朱で線を引いて(朱引図)その線の内側と決めました。(文政元年:1818)
この線の外側は代官が管轄していました。
この線引きが行われる以前の元禄時代には隅田川の東側は町奉行の管轄外でした。
朱引きの外の代官支配地は、代官の手に負えない場合は勘定奉行配下の関東取締出役という役人が取り締まり、勘定奉行が裁決していました。

この管轄内で起きた事件はすべて所轄の奉行が取り扱いました。
武家は、幕臣であれば幕臣を管轄する目付がその任にあたりました。
目付も身分に応じて所轄が違っていました。
目付→旗本 徒目付(かちめつけ)小人目付→お目見え格以下 
大名の家臣であれば大名に引き渡され各大名が独自に裁決していました。
大目付というのは大名を管理していた役職です。
身元不明の浪人については町奉行が取り扱いました。
一口で浪人と言っても宗門改めのために戸籍制度が厳密に運営されていたために、出身地(藩)が不明ということは余程のことでした。
出身地がはっきりすれば大名に引き渡されました。
もとはといえばオマエントコのモンだろうということです。
グズグズ言えば領内管理不行届で下手をすれば大目付が出てきます。
こういう面倒なことにならないように日頃からセッセと付け届けをしていました。

牢屋敷というのは現在の刑務所とは違います。
あくまでも判決が申し渡されるまでの留置所でした。
つまり、町人地で捕まえた武家を裁くには、取りあえずここへ放り込んでおいて所轄の役人に引き渡せばハイオシマイでした。

お寺や神社の境内で博打をやったりお祭りのドサクサに盗みをする輩が増えたので寺社奉行が建物外の境内への町奉行配下の人間が踏み込むことを認めました。
武家地は明治まで踏み込むことができませんでした。
奉行所の警備に当たる役人は武士としての格が低いこともあり上位者へはうっかり手出しができませんでした。
武家地には各大名家が通りに番所を設けて治安を維持していました。

この他に穢多非人と呼ばれる身分外身分の人は浅草弾左衛門(世襲)という人の管轄下にありました
この人は役人とは違い全国を管理支配していました。
浅草寺の裏手に屋敷があり、そこで裁決を下していました。
浅草弾左衛門は将軍に直接会う資格を持ち、登城の際にも大名格の駕籠にのり行列を組むことができました。

江戸町奉行のお奉行様というのはTVの時代劇のように江戸中を支配していたわけではありませんでした。
遠島や死罪など生命財産にかかわる判決は評定所にお伺いして将軍の許可を貰っていました
「これにて一件落着!」とカッコよくはやれませんでした。
評定所というのは名前の通り評定をするところであって常設の役所ではありません。
まぁ~重役専用の会議室のようなものです。
評定する案件によってメンバーが変わりました。
メンバーの数で三手掛かりとか五手掛かり呼ばれていました。

江戸城内がこれだけ縦割りでバラバラでも治安が維持できたのは、町役人制度、五人組制度という自治組織と何事も連帯責任という制度があったためです。
奉行所の役人の手を煩わすということだけで大騒ぎでした。
相互監視、相互補助の社会でした。

超大雑把な説明でした、不明な点は補足質問をお願いします。
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こんにちは。



bungetsuです。

補足します。

評定所の役割としては、
★藩と藩の訴訟なども担当しました。

(よもやま話)
なぜ、忠臣蔵は素浪人の集団なのに町奉行でなかったの??

大石内蔵助を筆頭とする四十七士は、吉良上野介の首を挙げて本懐をとげましたが、
大石は、すぐさま使いを出して、吉良邸のすぐそばにあった回向院へ保護を求めました。
しかし、回向院側は幕府のお咎めを恐れて許可しませんでした。
なぜ、回向院に保護を求めたかと言うと、寺社奉行には犯罪者の捕捉権限がなく、町奉行より依頼があって初めて補足することがでかる。・・・つまり、時間稼ぎができる。
場合によっては、補足される前に自害する覚悟でした。
ところが、回向院が断ったため、大石は次の手段を取りました。
浅野内匠頭の菩提寺である泉岳寺に使いを走らせたところ、泉岳寺は受け入れを許可しました。
そこで、またまた次の手として、大石は泉岳寺に向かう途中で吉田忠左衛門兼亮(かねすけ)と富森助右衛門正因(まさより)に「討入口上書」を持たせて、大目付仙石伯耆守久尚(せんごくほうきのかみひさなお)に届け出をして、これは、吉良という藩主(実際には隠居)を殺したのだからと自首したのです。
これにより、例え筋違いであっても、大目付の判断が無い限り町奉行は一切動けなくなってしまったのです。
大目付は、先にも述べましたが、評定所の合議には加わることができても、自身で補足の許可を出す権限は無かったのです。
その後、仙石は直ちに登城し、討ち入り口上書を老中に手渡しました。

後は、皆さんご存知の通り、柳沢吉保お抱えの荻生徂徠と幕府学問所の林大学守篤信との論戦の結果、綱吉は、とりあえず、四家へお預けとし、翌年2月に切腹を申付けたのです。

この切腹という判決は、浪士を武士と認めて、武士として最も名誉ある死罪だったのです。

確かに、町奉行や火盗改などであっても、大名屋敷などへ逃げ込んだ犯人を補足することはできませんでしたが、藩主または重役(例えば、江戸詰家老)などに犯人引き渡しの要求をし、補足してもらうことはできました。

つまり、四十七士は、町奉行所に補足されれば、直ちに「打首」が分かっていたので、まああえて言うなら、みじめな死に方だけはしたくない・・・と、色々、知恵を巡らせたのでしょうね。
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こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

まず、町奉行所についてですが、確かに、町民の訴訟や裁判を行うところでしたが、武士も一部が町奉行所の管轄でした。
刑事事件においては、
★御見得以下の旗本や御家人。
★旗本の陪審。
★陪審は諸藩の重役などでも(例えば、家老などであっても)。
★諸藩の武士は身分を問わず。
などがそれに当たりますが、牢屋敷内に「揚屋」または「揚座敷」と呼ばれる部屋があり、そこへ収容されて町奉行から裁きを受けました。

評定所の役目としては、幕府管轄の武士に対しての訴訟を扱いましたが、
★大名と旗本の訴訟。
★武士と庶民などの身分違いの訴訟。
★町奉行の管轄である庶民と寺社奉行の管轄である僧侶や神官との訴訟。
★幕府領内の庶民と藩に所属する領民との訴訟。
これらは、評定所の管轄に入りました。

評定所の構成:
町奉行(南北で1名ずつ)+寺社奉行(4名)+公事方勘定奉行(2名)・・・ここまでを「評定所一座」と称し、
★評定所一座+老中1名。
重大な案件や大名などが関わっている場合には、
★評定所一座+老中1名+大目付+(場合によっては)目付

また、寛文5年(1665)には「盗賊改」が、天和3年(1683)には「火付改」が御先手組の加役として発足し、当時は、それぞれに頭(長官)がいましたが、間もなく、統一されて「火付盗賊改」となり、町奉行が文官であるのに対して、火盗改は武官であり、大名に対しての取締りの権限はありませんでしたが、それ以外は武士であっても庶民であっても「切り捨て御免」の特権を与えられていました。そして、裁判権も持っていました。

従って、この火盗改が発足してからは、町奉行は、もっぱら、民事訴訟専門と言っても過言ではないようになりました。
さらに、池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、いつも事件が起きているように思われますが、いわゆる、殺人事件などの重大事件は年に数件しか起きていませんでしたし、火盗改がすばやく行動をとりましたので、町奉行所はいたって平穏だったのです。

江戸の町って、人口100万人とも言われて、世界一人口の多い街でしたが、小さないざこざはありましたが、結構、平和な街だったのです。(以外にも・・・)
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将軍直参旗本の家来という意味での陪臣は奉行所扱いだったかと思いますが、陪臣でも他藩の藩士同士の訴訟等は町奉行ではなく管轄越え裁判ですので確か評定所だったと思うのですが。

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訴訟を実施するのは評定所



でも大目付は中心では無い模様
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武士でも「旗本の家来、藩士」などの陪臣・陪々臣は、町奉行


所管轄の町地で犯罪を起こした場合、町奉行所が捕えて裁く
ことができました。なので、町奉行所も武士を裁くことはあり
ます。
※ ただし、町奉行だけの権限で言い渡せるのは中追放までで、
  ドラマで大人気の切腹・打ち首獄門・終生遠島などは、老中
  さらには将軍の最終決済が必要でした。

評定所では、幕府管轄の直参武士(大名や旗本)に対しての訴訟
や、民事裁判で被告・原告が身分や「奉行所の管轄」をまたぐ
場合(町民と武士、町民と寺社など) を扱います。
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 武士に裁判はないと思います。


 裁判の結果が切腹だったなんて話はありません。
 奉行所は町人を裁く場所だったと思います。
 例えば吉田松陰ですが、江戸で捕まりましたが、長州の藩士を江戸で裁くことが出来ないので長州に送り返されています。
 長州でも他の役人による取り調べはあったと思いますが裁判のようなモノはなかったと思います。
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Q江戸時代の民事訴訟について

損害賠償請求等、江戸時代における民事裁判ではどのようなシステム、手続きで、どのような処分が下されていたのでしょうか?

特に気になるのは「処分の強制力」で、例えば、A吉さんが「B助さんに金5両を貸した。約束の期限から随分経つのに返済の気配はない。早々に返していただきたい。」として訴えを起し、B助さんに「速やかに返済されたし」というような督促が来て、B助さんがこれといった理由もなく無視し続けた場合、銀行口座(?)や不動産差し押さえなどの強制執行はされたのでしょうか?

又、B助さんが無一文で差し押さえる対象が一切ない場合でもB助さんに対し何らかの処分は下されるのでしょうか?(現代の日本だとA吉さんは泣き寝入りするしかありませんが)

ご回答のほどよろしくお願いします。

Aベストアンサー

1,
江戸時代の民事裁判は公事と言われました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BA%8B

2,
身代限という強制執行手続がありました。
以下、参照下さい。

身代限は債務者の財産に対する裁判上の強制執行であって、分散とは異なり必ずしも多数の債権者が競合することを要しません。
 身代限は、武士に対しては認められていませんでした。武士だけでなく、寺社関係者、能役者、由緒ある町人、御用達町人も身代限から除外されていました。つまり、身代限というのは、一般の町人と百姓に対するものでした。武士に対しては「揚屋入」が申しつけられ、寺社・能役者、御用達町人に対しては「咎」が申しつけられることになっていました。
 百姓や町人に対する身代限についても、すぐ申しつけられるのではなく、その前に一定の期間(たとえば30日内)に完済することが命じられ、その期間内に完済できないときには分割返済が命じられ、このいずれも出来ないときに初めて身代限ということになりました。しかも、分割金を支払わないときでも、すぐに身代限となったのではなく、その前に押込みまたは手鎖の手続がとられました。これは一種の人身拘留ですが、強制執行としては間接強制にあたります。
 大阪では、銀高10貫目以下の金銭貸借や売掛金の裁判では60日内の弁済が命じられるのが原則でした。これを支払わないときには61日目に手錠掛30日となり、91日目に身代限となりました。債務者本人が病気のときには押込です。ただし、債務者が女性のときは、たとえ健康であっても手鎖をかけず、ただちに押込となりました。
 身代限の手続は、まず債務者本人が身代限請證文を提出し、債務者側の町村役人か所役人(五人組、目付同心をふくむ)が立会して債務者側の全財産が換価処分されることになります。このとき、債務者の財産について「諸色附立帳」が作成されます。ただし、天保以前は、売却処分することなく、財産そのものを債権額に応じて債権者に引き渡し交付していたようです。
 債務者の妻子の所有物まで身代限の対象となっていたようですが、江戸では妻の持参財産で妻名義のものは除外されていました。

1,
江戸時代の民事裁判は公事と言われました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E4%BA%8B

2,
身代限という強制執行手続がありました。
以下、参照下さい。

身代限は債務者の財産に対する裁判上の強制執行であって、分散とは異なり必ずしも多数の債権者が競合することを要しません。
 身代限は、武士に対しては認められていませんでした。武士だけでなく、寺社関係者、能役者、由緒ある町人、御用達町人も身代限から除外されていました。つまり、身代限というのは、一般の町人と百姓に対するもので...続きを読む

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独り言のような疑問なのでおヒマな方、回答おねがいします。

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処遇の内容については皆さんお答えのとおり
刑務作業(要は強制労働)の有無のちがいです。

懲役刑は軽蔑すべき犯罪を故意に行った「破廉恥犯」に課されますが
禁固刑は政治犯など、自分の政治的信念に従って「正しいこと」と信じて行動した結果が犯罪になった場合、また過失犯など「非破廉恥犯」と言われる場合に課されます。

禁固受刑者で作業をしない人は1%にも満たないそうです。ほとんどの禁固受刑者は自ら望んで刑務作業(請願作業といいます)をします。

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江戸時代は戦もほとんどなっかたと思うのですが、平和時に侍は日常何をしていたのでしょうか?行政や事務方の仕事を兼務していたのでしょうか?

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 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
 お城の番兵みたいな人は、せいぜい月に数日間しか公用がないこともありました。
 接待係のような人も、御用商人が接待してくれれば遊べるかなくらいで、実際にはやる仕事が全然ないんですよね。
 一応、忙しい人がいないわけでもなく、御算用者という財務会計専門の役職は激務だったみたいです。
 理由は・・・そりゃあねぇ。お察しください。
 きっとストレスでバッタバッタ倒れたでしょうな。

 それに地方大名はやれることが限られてました。幕府がいろいろ禁止してますから。
 たとえばお城の石垣が傷んで直そうとしても、幕府の許可がないとやっちゃいけないんです。

 で、大部分のヒマな侍は何をしてるかと言えば「やることがない」のです。
 しょうがないから芝居見物、博打、酒盛り、釣り、生け花、俳句など、いかにヒマをつぶすかに一生懸命だったでしょうね。
 知行はあるけど、これだけ遊んでればお金も無くなります。
 だから武士の命のはずの刀を質に入れ、金を借りたりしてるのが普通なわけです。
 江戸に行けば生活費もかさみますので、ちょっとくらい手当をもらっても借金がふくれるばかりという人もいました。


 仕えていた藩を取りつぶされたりして、仕官先のない武士は「侍」とは言わず「浪人」と言います。
 今でも残っているこの言葉の通り「仕事も何もすることがない人」だったりします。つまりニートってこと。
 ホントに何もやらないと当然収入がないので、内職したりして日銭を稼いだりしてました。
 時代劇じゃ傘張りとか耳かきの製作とかやってますよね。

 そんなわけで士農工商とは言われてますが、武士も実際には商人に金を借りまくってたりして、あまり偉そうにはできなかったというのは有名な話。
 商人、職人、農民は何かヒット商品で成功すれば豪商や豪農のように成り上がれますが、武士にはそれがないのがつらいところ。
 経済的に豊かな武士というのはおらず、実質的に武士は江戸時代を通じて無職者集団に近かった、とさえ言われてます。

 参考になれば幸いです。

 侍は確かに今で言う公務員ですね。
 藩政に関わる仕事を基本にして、あとは娯楽や稽古など・・・。
 初期と幕末期は様子が違いますが、江戸時代らしいと言えばらしい、まるっきり平和ボケな中期の頃の話をします。
 んで旗本大名クラスじゃなくて、ホントの窓口公務員っぽい人たちの話。

 現代のように週5日で朝9時から夕方5時まで勤める、ということはありません。
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Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

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 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q町奉行の与力や同心の採用資格?

以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

ご回答よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上、勝重が他役に移動した後も請われて与力の仕事を続けましたが、当然身分は板倉家家臣ですから、奉行にとっては板倉家からの与力(寄力)ということになり、与力職を離れた後は板倉家に戻るというのが決まりであったと考えられます。

しかし、時代の流れとともに与力と板倉家の関係が希薄になり次第に幕臣に取り込まれていきました。元が中級の陪臣ですから、当然将軍への目通りや登城ができる資格がありませんでしたので、完全に幕府に取り込まれたのちも慣例として抱え席(後述)の目通り登城資格なしとなりました。

その後、江戸の市民も増加し、悪事を働く者もでましたので、寛永8年(1631)に家光が北町奉行に加賀爪民部少輔忠澄を、南町奉行に堀民部少輔直之を任命し(Wikiでは逆になっているが、それは間違いです)、板倉勝重の代からの与力と、新たに、関ヶ原の戦いなどで足軽大将を務めた者を与力に任命し、南北に各25騎ずつ計50騎を配置しました。

そして、与力は「御家人」と位置づけられましたが、正確には、「御家人」と「旗本」の中間くらいの位置づけでした。

旗本や御家人は、次の3つに分類されました。

★譜代・・・・・・世襲の家禄の家格。
★二半場・・・・役職(役料)を世襲で認められた家格。
★抱え席・・・・一代限りの役職(役料)の家格。


同心

(1)寛永8年(1631)に南北町奉行所が創設された時、与力の配下として関ヶ原の戦いなどで足軽を務めた者の中から選び出し、南北各60人ずつ計120人を任命しました。


>>以前本で与力や同心は非正規雇用であった、という記述を読みました。

「与力」「同心」は、上記の「抱え席」であったため、自分が死亡した時は、原則的には役職を返上しなくてはならなかったのですが、「不浄役人」と呼ばれて、新たにその役に就く者がいなかったため、一旦は役を返上し、改めて、その子などに同じ役が与えられるのが現実でした。

従って、「非正規雇用」という観点からみれば、原則的には一代限りですので、不安定な立場だったと言えるでしょう。


>>ということは武士の血筋でなくても、町人などでも採用される可能性があったということでしょうか?

「与力」や「同心」は常に「不浄役人」と言われ続けてきましたので、家名は残したいが跡継ぎはイヤダと言う者も出てきて、「与力」1,000両、「同心」200両という相場で、町民(商家の次男、三男)などに「御家人株」が売買された例もあります。


>>採用される場合は試験や面接を受けたり、現在の警察のように身辺調査を受けたりと、明確な採用基準があったりしたのでしょうか?

原則的には一代限り、しかし、実態は世襲と同じでしたので、試験も身辺調査もありませんでした。
さらには、嫡子が12~13歳になると、奉行所内での見習いをさせています。


(よもやま話)

(1)町奉行所の歴史
町奉行は、古くは室町時代まで遡ると言われています。また、「徳川実記」などでは、三河で松平氏を名乗っていた頃から、すでに、町奉行の職務が定められていました。しかし、当時は、在所の決まりはなく、町奉行を任命された者が自宅に「お白洲」を作って奉行所としていました。江戸幕府が開幕されても、家康、秀忠のじだいまでは、その形式が続いていました。

(2)町奉行は一人四役?
大岡越前守や遠山の金さんでおなじみの町奉行とは一体どんな役目だったのだろうか。町奉行は旗本から選ばれ、役人の花形であった。仕事は江戸の司法、警察、交通行政、民政の全般にわたった。また、四宿(板橋宿、内藤新宿、品川宿、千住掃部宿)を管理する役目も持っていたので、現在の「東京都知事」、「地方裁判所長」、「警視総監」、「東京駅長」を兼務していたようなものである。

(3)大岡越前守が有名になったわけ
享保16年(1731)、無宿の伝兵衛という者が火付けの罪で、江戸市中引き回しのうえ火焙(あぶ)りの刑を火付盗賊改から言い渡された。しかし、越前守の部下である手付同心が「伝兵衛にはアリバイがある」という噂を聞き、越前守に上申した。そこで、密かに、越前守は証拠集めを指示し、吟味のやりなおしをして無罪を言い渡した。当時は、1審制度だったので、再審まで断行し無罪を言い渡した越前守は、当然、庶民から人気の的となった。

(4)町奉行の管轄
町奉行の管轄は、町地だけに限られていた。つまり、町人だけが対象であった。江戸の街には武家地、寺社地、町地の区別があり、武家地とは大名の上屋敷、下屋敷、(また中屋敷を持っていた大名もいた)、旗本の屋敷などを指し、この地に犯人が逃げ込んだときや神社仏閣地へ逃げ込んだときには、町奉行所はいっさい手が出せなかった。武家地に逃げ込んだときは、目付に犯人の引き渡しを申し入れた。また、神社仏閣へ逃げ込んだときは、寺社奉行に申し入れをして犯人を捕捉してもらった。

(5)奉行所が三つ?
すでに多くの方がご存知の通り、江戸には南北二つの奉行所があった。通常は奉行所のことを「御番所」と言った。南は現在の数寄屋橋内、北は呉服橋内であった。しかし、元禄十五年(1702)に中町奉行所が東京駅八重洲口付近にできた。しかし、この中町奉行所は17年後の享保四年(1719)に北町奉行所に合併させられた。南北二つの奉行所は一ヶ月交代で門を開けて訴えを受け付けた。非番になると大門を閉じていたが、仕事をしなかったわけではない。前月のやり残しの事件処理にあたった。また、両奉行所同士で「内寄会(うちよりあい)」という連絡事項の回覧や相談書を交わしていたが、細部までは協定がされておらず、訴人は有利な扱いをしてくれる御番所へ、その月番を待って願い出ることもあったという。

(6)与力、同心の数
両奉行所にはそれぞれ25騎の与力と120人の同心が配属されていた。そして、与力は南北合わせて50人が一万石の知行地をもらい、200石づつ分けた。そのほかには、諸大名からの付け届けがあった。これは、その藩に属する者が問題を起こしたとき「よろしく頼む」という賄賂の性格があったが、中期以降は公然と奉行所内で受け取るようになっていった。また、馬上で指揮をしたので「騎」と数えるようになった。200石といえばれっきとした「旗本」であったが、罪人を捕らえる手の汚れたという意味で「不浄役人」と呼ばれ、登城もかなわなかった。同心は三十表二人扶持の御家人であった。ちなみに、同心を数える時は「人」。

(7)南北奉行所・・・どっちが偉い?
南町奉行所の方がやや格が上だったのである。遠山の金さんでおなじみの遠山左衛門尉景元は、天保11年(1840)、はじめ北町奉行に任命されたが、数々の手柄をたてたため、上役(老中)の引き立てもあり、嘉永年間(1846~)に南町奉行に「出世」した。しかし、役高はどちらも3000石だった。

(8)定町廻り同心の範囲
次のサイトの「墨線(ぼくせん、黒線とも呼ばれた)」範囲でした。しかし、時代とともに奉行所としての管轄範囲は広がりをみせています。
定町廻り同心の範囲  http://bungetsu.obunko.com/newpage507.html

(9)割合平穏
与力と同心は世襲制で、加増も栄転もまったくなかった。住まいも八丁堀の官舎住まい。「不浄役人」と言われ、一般の旗本や御家人などとの交際も「まれ」だった。縁組も同じ役職者に頼るほかはなかったので、幕末までに、ほとんどの与力、同心は親戚関係になったといわれている。また、凶悪犯罪は、多くて年に数回だったことと「火付盗賊改」がいたので、町奉行所は割合平穏な日々だった。

(10)奉行所付近の火事
奉行所または奉行所近辺で火事があると、髪結床が駆けつけた。「梅床」だとか「亀床」などという印のある提灯を持ち、「駆けつけ、駆けつけ」と大声で叫びながら奉行所に向かった。もちろん、この声を聞くと(現代の救急車みたいなもので)皆、道を空けたという。奉行所の書類は普段から箱に詰めて、麻縄が掛けてあったので、どんどん運び出したという。なぜ、髪結床だったのか?実は、髪結いの仕事は大変な力仕事だったのだ。武士の髪を結うには、髪を束ねて、鬢(びん)付け油を塗って、手首に力を入れて・・・と、かなりの力が必要だった。だから、男の髪結いが多かった。したがって、奉行所の火事には力のある髪結床が選ばれたのだ。では、大工も力仕事ではないか・・・。確かに、しかし、大工は仕事場がバラバラで結束しにくい。そこへいくと、髪結床は店を構えていて一箇所にいてくれたので集合しやすかった。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

まず、「与力」と「同心」の成り立ちからお話しをすると、

与力

(1)徳川家康が天正18年(1590)に小田原征伐での軍功として、豊臣秀吉から関東(江戸)の地を与えられた際、家臣であった板倉勝重が武蔵国新座郡・豊島郡で1,000石を給され、関東代官、江戸町奉行となり、駿府の地から騎馬武者(約10名位)を呼び寄せ、江戸の治安の維持に当たらせたことが最初と言われています。

当然板倉家の家臣として主人の手伝いをしていたと思われますが、その仕事の性格上...続きを読む


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