静岡で書かれた3月7日付けの手紙を解読中です。字の形から、下記の□に「宮」か「亮」が入ると推定できるのですが、どちらでしょうか。
「江戸表は上様御始め御附の御旗本衆迄、上野東叡山へ御入、坊中に御謹慎、上野□様御扱の為、此の程御上京との事に候えば、ひとまず静謐は申すべく、然れども会津の方、よほどむつかしき様子、何とぞ双方静謐に相成候様ひとえに念じ入る事に御坐候。」

A 回答 (1件)

歴史には疎いので、的外れかもしれませんが・・・・



http://www.aura-press.com/scriba/si/sst-boshin-u …
こんなサイト↑見つけました。
慶応4年の、 戊辰戦争 上野の戦い までが日を追って経過が書いてあります。
それによると、
3月7日には
> 旧幕府側の上野輪王寺宮・公現法親王が有栖川熾仁親王に面会し、江戸城総攻撃の猶予を嘆願。
(上記サイトより抜粋)
おっ、"上野輪王寺宮"だって。
この人かな??

参考URL:http://www.aura-press.com/scriba/si/sst-boshin-u …
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この回答へのお礼

ありがとうございました。「宮」のようですね。意味もそれで通じるようです。

お礼日時:2004/06/11 09:02

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Q徳川慶喜が六ヶ国の公使を招待した目的

年表に、

慶応3年10月14日(1868年11月9日)、徳川慶喜が天皇に大政奉還。慶応3年12月9日(1868年1月3日)、天皇が王政復古の号令。慶応3年12月16日(1868年1月10日)、徳川慶喜が大坂城に六ヶ国の公使を招待。

と書いてあります。

政権を返上して将軍でなくなった徳川慶喜が六ヶ国の公使を招いた目的は、いったい何だったのでしょうか。

ご存知の方、教えて下さい。

Aベストアンサー

私は、歴史に関する本を読むのが好きなだけです。
「慶喜の軍服姿」を調べたときに、当時の慶喜の行動を追ったのですが、そのとき「六ヶ国公使と大坂城で会談」したことを知ったので、今回のご質問に回答できただけです。

慶応3年10月大政奉還した直後の19日、慶喜は諸侯会議の開催に至るまでの間の当面
の措置について、3条8項目を設定して朝廷にお伺いを立て、委任されています。
外交関係の事務についてが第一条です。
委任を得て慶喜は、諸外国の外交官に対して、これまでに締結した条約は、政府間(日本側は幕府)で交渉し結実したものであるから、幕府が、条約履行の義務を負うと通達したということを、「外交権」と安易に表現してしまいました。
新政府が、駐日外交官に王政復古を告げ、条約履行の業務を継承するとしたのは翌年1月10日です。

「外交権」という大きな問題についてお答えできるような知識をもっておりません。

参考 吉川弘文館『日本の時代史20「開国と幕末の動乱」』
http://www.yoshikawa-k.co.jp/jidaishi2.htm#開国と幕末の動乱

私は、歴史に関する本を読むのが好きなだけです。
「慶喜の軍服姿」を調べたときに、当時の慶喜の行動を追ったのですが、そのとき「六ヶ国公使と大坂城で会談」したことを知ったので、今回のご質問に回答できただけです。

慶応3年10月大政奉還した直後の19日、慶喜は諸侯会議の開催に至るまでの間の当面
の措置について、3条8項目を設定して朝廷にお伺いを立て、委任されています。
外交関係の事務についてが第一条です。
委任を得て慶喜は、諸外国の外交官に対して、これまでに締結した条約は、政府間(...続きを読む

Q赤母衣衆とか黄母衣衆の母衣って・・・

母衣衆、という前田利家とかも在籍してた信長の親衛隊みたいな者たちですが、背中に膨らませて背負ってる母衣、アレって実際100キロ近い速度で飛んでくる矢なんて防げないような気がするんですが・・・
布とか薄い革風呂敷みたいなのにただ空気入れて膨らませてるだけですよね?

やはりただの色あい、見分け用のオシャレさんだったのでしょうか?

Aベストアンサー

>布とか薄い革風呂敷みたいなのにただ空気入れて膨らませてるだけですよね?
だけではなくこれで充分役目を果たします。

矢が相手に当たって致命傷を与えるのには、鏃の先端が垂直に当たる必要があります。
垂直でない場合は貫通しないか跳ね返されてしまいます。
TVの時代劇などで、戦闘直後の武士の鎧に矢が沢山引っかかったようにぶら下がっているのはこのためです。
要は矢の飛ぶ方向をそらせてやればいい訳です。
膨らんだ母衣に当たった瞬間に母衣が激しく動きますから、矢はそれ以上真っ直ぐ飛べなくります。
これでOKです。
この現象が起きるのは矢の飛んでいるときの姿勢というか動きがヒントです。
弓矢の矢というのは、直線状に飛んでいる訳ではありません。左右にくねくねうねるように飛んでいます。
さらに進行方向を軸として回転もしています。
下記の映像をご覧下さい。

ハイスピード撮影を弓道の指導に活かす - カシオ 教育情報サイト - CASIO
edu.casio.jp/h_school/ex/camera04/

上手な人が落ち着いて静かに射れば、この動きは小さくはなりますが、ゼロにはなりません。
戦場では矢継ぎ早にエイヤッと射ますから、矢は相当激しくうねるように飛びます。
この動きのために母衣に当たった瞬間進行方向が変わってしまいます。

蛇足
利家とか信長などの時代の母衣は見分け用というか名誉の装束でした。
母衣が実戦で意味があったのは大鎧と呼ばれる源平合戦当時の鎧を使っていた頃です。
大鎧というには背中で両側を合わせて紐で綴じていました。
弓を引いたり、太刀を振り回すときに、胸をそらせたり、腕を後ろへ伸ばしたりするときに背中が板状ではどうにもなりませんから、綴じ目に余裕を持たせていました。この余裕部分を射抜かれることを防ぐために考えられた装具です。
鉄砲が出現した信長の時代には、装飾過多で重い大鎧などは着ていませんでした。
組討ちになった際の防御服としての機能を果たせばいいだけの軽い鎧を着ていました。
火縄銃の玉は丸状ですから、母衣もへちまもありません。貫通します。
ということで、信長の時代は、あくまでも目立つ名誉の衣裳でした。

>布とか薄い革風呂敷みたいなのにただ空気入れて膨らませてるだけですよね?
だけではなくこれで充分役目を果たします。

矢が相手に当たって致命傷を与えるのには、鏃の先端が垂直に当たる必要があります。
垂直でない場合は貫通しないか跳ね返されてしまいます。
TVの時代劇などで、戦闘直後の武士の鎧に矢が沢山引っかかったようにぶら下がっているのはこのためです。
要は矢の飛ぶ方向をそらせてやればいい訳です。
膨らんだ母衣に当たった瞬間に母衣が激しく動きますから、矢はそれ以上真っ直ぐ飛べなくり...続きを読む

Q徳川慶喜はなぜ処刑されなかったの?

官軍にとって、徳川慶喜を処刑することは、江戸時代の終わりをアピールするうえで効果的だったと思うのですが、なぜそうしなかったのですか?

Aベストアンサー

関ヶ原のあと、徳川は島津と毛利の首までは要求しませんでした。
徳川慶喜は、大政奉還をしています。
大阪から江戸に逃げた慶喜は、引きこもって従順の意を示してます。
戊辰戦争では、徳川慶喜も含めて幕府の首脳陣は参戦していません。
徳川慶喜を処刑するような恐怖支配は、かえって多くの大名や武士たち
 の反感をかう恐れがあります。
天皇がトップの政権ができたことにより、江戸時代(江戸幕府)の
 終わりは十分アピールされてます。

と、まぁいくらでも挙げられますが、
本当のところ何人かは徳川慶喜らの処刑を考えていたらしいですよ。
しかし、当時の空気としては、天皇制の復活により江戸幕府の再興は
ありえないし、そんな気もおきないという雰囲気だったので
徳川慶喜を処刑する意義は、あまり無かったのでしょう。

フランスやロシア革命で王が処刑されたのは、市民革命であり
貴族や王支持の人間が大挙して国外に逃げたたため、王を生かして
おくことは危険だと考えられた面があります。
明治維新とは異なります。

中国で前王朝の王家が殺されてきたのは、王は唯我独尊で天子思想の
象徴であるためで、天皇のいる日本ではあまり考えられません。

関ヶ原のあと、徳川は島津と毛利の首までは要求しませんでした。
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徳川慶喜を処刑するような恐怖支配は、かえって多くの大名や武士たち
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Q雑賀衆・根来衆の住んでいた場所って?

こんにちは、初めまして。
質問はタイトル通りですが…。
雑賀・根来の里がどの辺りにあるのかが
イマイチはっきり分からないのです。
和歌山市の紀ノ川河口北岸とだけは
聞いたことがあるのですが…。
お詳しい方、お教え下さい。m(_ _)m

Aベストアンサー

~衆といのは基本的に地名です。

根来衆は、根来寺という有名な寺がありますよね。
現在の和歌山県那賀郡岩出町根来。
阪和自動車道和歌山ICから国道24号を東へ8km、
備前交差点を北へ県道泉佐野岩出線で2.5kmを右折し800mの所。
秀吉の根来攻めで当時の建物はほとんどを焼失しましたが、
国宝の多宝塔のほか大師堂、大伝法堂などの国の重要文化財に指定されている堂塔が残ります。
境内には、種子島から鉄砲を伝えた杉坊の住居跡といわれる愛染院があります。
彼の存在が鉄砲&宗教集団の根来衆の始まりで、
根来衆はこの地周辺に住んでいた一向門徒・僧侶のことです。


雑賀も、雑賀庄というのが昔あって
「雑賀」、「十ヶ郷」、「中郷」、「社家郷」、「南郷」などという
小さな5つの集落をまとめたものの総称です。
さらにその下位の惣村さらに惣郷・惣荘単位に結束した一揆集団。
雑賀城は、養珠寺(和歌浦中3丁目)の山頂にありました。

参考URL:http://eieio.jp/~saikashuu/04.htm

Q徳川慶喜について

徳川慶喜について皆さんはどう思いますか?例えば鳥羽伏見の敵前逃亡や長州征伐時旗本を率いて最後の1兵まで戦うとかいきなりの保身行動。。。会津は勝手にしろみたいな行動、これが先代の家茂だったらどうだと思いますか?

Aベストアンサー

徳川慶喜は高圧的な水戸藩主であった父、徳川斉昭の資質が遺伝したようで
けっして無能なわけではないが、独断専行で自分の本意を他人に絶対に悟られぬ様スタンドプレーまでするワンマンです

彼は会津藩主松平容保と桑名藩主松平定敬と《一会桑体制》(一は一橋)を作りますが

鳥羽・伏見で薩摩が錦の御旗を掲げるを見た慶喜は徳川が朝敵になるのを恐れますが
自らの真意を悟られるよう徹底抗戦を主張する容保と定敬を言葉巧みに軍艦へ乗船させます
要は彼らと各々の家臣と分断し、江戸に連れてきて孤立した彼らをあっさりと追放するためです

恐らく自らの保身というよりは他の犠牲を出しても徳川家の存続のみを考えていたのでしょう


家茂は若くして没したので能力は未知数ですが
当時の時勢では時には非情で冷徹な判断も必要になります
はたして心優しい家茂に当時の為政者としてまっとうな執政ができたかどうか…


余談ですが、家臣に裏切られ追放された桑名藩主松平定敬は新政府軍に函館まで徹底抗戦しましたが
恭順後、アメリカ留学し新政府のイタリア公使に転身しています

徳川慶喜は高圧的な水戸藩主であった父、徳川斉昭の資質が遺伝したようで
けっして無能なわけではないが、独断専行で自分の本意を他人に絶対に悟られぬ様スタンドプレーまでするワンマンです

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自らの真意を悟られるよう徹底抗戦を主張する容保と定敬を言葉巧みに軍艦へ乗船させます
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     2.江戸時代、徒組(かちぐみ)の若衆。

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とあります。

走衆=将軍に雇われている雑用
奉公衆=幕府のお偉いさんがたってわけです。

ようするに、

走衆は雇うものなので、奉公衆とは別物だと思います。

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最後の将軍・徳川慶喜の晩年の写真を見ると、髻がありません。
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Q候国or君候国@14世紀のアナトリア

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Aベストアンサー

公侯伯子男
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最初から誤解の元にある話です。

国の規模や統治システムではなく、任命者と任命される関係において、侯国と表現することは問題ないと思います。


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