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朝鮮労働党第一書記金正恩を揶揄する内容
⇒北朝鮮によるサイバー攻撃・映画館への脅迫
⇒アメリカが経済制裁

といった大体の流れだと思います。
わたしとしては、サイバー攻撃など北朝鮮の対応は正当防衛のようにも思えるのですが、どうでしょうか。
それに対して経済制裁などするのは、どうも筋が通らない印象を受けます。
日本は今年戦後70年の節目を迎えましたが、(人間宣言する前であればなおさらで)天皇に「揶揄」するような内容の映画が作られたなら、日本人はどう対応した(する)でしょうか。
アメリカも、日本のマスコミの論調も、北朝鮮を悪者扱いですが、それは逆じゃないでしょうか。
端的に言うと、あのような映画を作ったソニー・ピクチャーズ・エンタテインメントは間違っているし、それを後押しするかのような風潮もどうかと思う、ということ。
何か逆行してませんかね。人類に進歩があるとするならば、という前提ですが。
みなさんはどう思われますか。
哲学的に考察していただければ有り難いです。
   

A 回答 (18件中1~10件)

粘り強い補足要請を頂き、感謝して居ります。



NO,12 です。

>協定というのは、あくまで破られるためにある、と言っても差し支えないと思います。(無いよりはマシでしょうが)
そして、そこから発展して、単なる協定から、人類普遍の論理へと発展していく可能性はあるでしょう。
ただ、そのためには、そうした協定なるものを(建前ではなく無理なく)受け入れるための精神的土台が必須であろうと思います。
その場合、その土台を、我々は自らのうちに、どのようにして構築し、あるいは自らを納得させていくのが良いのか。


根本的な問題は分かっています。哲学的な問題としてはお互いに受け入れがたい精神の膠着があって、そこは論理ではどうしようもないものですね。つまり「宗教(金正恩体制などの王制も含みます)」です。
イスラムの偏向とキリスト教の偏向、あるいはユダヤ教の偏向、彼らは本心でそれを偏向だとは認識していません。根本問題がここにあることは間違いないと思います。
長ーい目で見て、宗教による幼児教育を世界的に禁止する、20歳以下の入信を禁止するというのが近未来の世界的な論理的解決法だと私は思っています。
そういう理性が支配する社会が面白いものかどうかは良く分かりませんが、少なくとも現在の宗教戦争を回避する有効なて伊達にはなると思います。
でも、まあ、絵空事ですよね。

ですから、宗教はまずおいて、今大きい摩擦を生んでいる各種条項を国連がひとつひとつ強制的につぶしていくという対案を述べさせていただきました。あまり哲学的にはおもしろくないかもしれませんが。

ご参考まで。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>イスラムの偏向とキリスト教の偏向、あるいはユダヤ教の偏向、彼らは本心でそれを偏向だとは認識していません。根本問題がここにあることは間違いないと思います。

おっしゃるとおりと思います。
自分たちだけは偏向ではない、と考えて(錯覚して)しまうことから、あらゆる悲劇はその芽を出すのでしょう。
生きていくには何らかの錯覚が必要・・・ということなのかもしれませんが、どのように対処していくべきか、その道筋を探りたいと思うわけです。

>長ーい目で見て、宗教による幼児教育を世界的に禁止する、20歳以下の入信を禁止するというのが近未来の世界的な論理的解決法だと私は思っています。

ひとつの具体策として傾聴に値しそうです。
ただ、そうすると今度は、「教育の本質」とは何か、という点が、さらなる問題として浮上してきそうな気はしますね。
やはり、哲学の出番に期待するのが遠回りでも着実な一歩になると思うのですが。
  

お礼日時:2015/01/24 16:45

 ☆☆(回答No.17)  ~~~~~~~~~~~~~


 あるいはその風刺新聞社の面々は 違うかも知れません。

 たとえば やつら(ムスリムたち)は無謀な人間たちだと分かっている。だから無思慮な行動に出られたとしても こちらは本望である。と思っていたかも知れません。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

彼らは自業自得と言っても良いのかもしれない、ということでしょうか。
わたしは、そうは思いませんし、仮にそうであっても、そういう人たちの話とは分けて考えたいと思います。
危険を承知で山に登る人の危険性についてあれこれ考えても仕方のないことであり、それこそ(個人の)自由の問題に立ち入ることはできないでしょう。
また、彼らは危険を受けたからといって、なんら後悔はしないはずです。
問題にすべき(したい)のは、【そのつもりはない】はずだったのに、結果的に、そのつもりだったのと同様の報復を受けてしまう、といった事態の根本的解決法です。
なぜなら、似たようなことは、イスラムやアメリカを持ち出すまでもなく、我々の日常として茶飯事的に数々の事件、あるいは目に見えぬ軋轢として生じているはずだ、と考えるのが妥当だからです。

おそらく勘違いされていると思いますが、新聞社が自業自得だと言いたいわけではありません。
許されべからざる行為であることは確かでしょう。
しかし、そうした行為をせざるを得ない人間心理というものが存在することが事実であることも、また、同時に示されたわけです。
そのことを収束に向かわせる術はないものか、という質問です。
  
  

お礼日時:2015/01/26 22:29

 ★ (No.16お礼欄) つまり、「上手にやれると思っていた」という無意識的な心理が、こうした事態を招いたわけで、そうした無意識によって、なぜ「そんなに甘くはない」事態を招いてしまったのか?


 ☆ ですから 《見通しが甘かった》と言ってるぢゃないですか。

 あるいはその風刺新聞社の面々は 違うかも知れません。
 たとえば やつら(ムスリムたち)は無謀な人間たちだと分かっている。だから無思慮な行動に出られたとしても こちらは本望である。と思っていたかも知れません。

 一般に われわれ第三者から見て《揶揄や風刺》をめぐる表現の自由にかんして 自由という基本の基本とそして派生的な問題とがあると見て間違っていないと考えます。

 派生した問題としては 見通しが甘かったかも知れないといったたぐいのことであって 表現の自由の基本とは別だという見方です。




 ★ ブラさんの見解を総合すれば、「そんなに甘くはない」結果になったのは、あくまで相手の責任であって、こちら側には一切責任がないのだ、と言っていることになりますよね。
 ☆ 第三者であっても 表現者の側に立って捉えるなら 《もうちょっとうまくやれたかも知れないな》といった感想が 当たらずと言えども遠からずだということ これが やはり基本の内容です。

 それに加えて 人殺しという無効の行為があった。というものです。

 表現者たちは 自己の表現の自由と裏腹の責任を避けたりはしなかった。はずです。




 ★ 揶揄に対して正当防衛としての反撃があるのは、むしろ論理的な帰結ではないだろうか? / というのが質問の趣旨です。
 ☆ 正当防衛というのは 相手に危害を加えなければこちら〔や別のひと〕がいのちにかかわるような危害を加えられるときにおこなう緊急避難です。

 どういう緊急の事態が 風刺画等によってもたらされましたか?






 ★ おそらく批判は論理に訴えるが、揶揄は感情に訴えてしまうから、ではないかと思います。
 ☆ これは 人間が 未開人であるかよほど社会のことを知らない幼児であるかを前提とした議論です。取り上げるにあたいしません。


 つまり 《感情にうったえた》場合には 正当防衛として相手をころしてもよいなどというたわけたことは よそへ行って言ってください。




 ★ 「根も葉もあれば中傷誹謗しても構わない」という論理になりますが
 ☆ 根も葉もあれば誹謗中傷とは言わないのです。それ相応の批判としての自己表現です。

 根拠や論拠が示されているのですから 批判を受けた側は それに対して説明責任を負って 答えなければなりません。




 ★ それで、実際問題として考えてみた場合、今度の件に関して言えば、「その場の(つまり相手の)事情や情況」は、「たとえ《自由》であっても一たん控えたり慎んだりする」対象になるのですか、ならないのですか。
 ☆ それは 決まっていません。それゆえにも派生的な問題なのです。

 当事者が自己の自由と責任とで 行動します。





 ★ 仮に、ならないとするなら、「控えなくても 有効な意志行為であるなら 表現の自由を侵したことにはならない」と判断していることになりますが、その根拠はなんですか?
 ☆ 次のように《無意味な記述》ならば 尋ねる方がどうかしていることでしょう。

 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
    > (1-2) 言いかえると 表現の自由を問題とするときには そもそも人間の意志の自由を踏みにじる(――つまり脅迫など。つまりたとえば 相手や自分のいのちを消そうとする意志を表明して話し合いをすすめたりすることのような――)内容をふくめば それは いくら自由意志であっても 無効の行為です。初めからその意志行為はなかったことになります。
 :
 こういう無意味な記述はやめませんか。
 「脅迫など」を含めば表現の自由は無効だとおっしゃっていますが、「など」の中に「揶揄」が含まれているのかどうかを問題にしているのではないのですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 相手の〔あるいは実際には自分のの場合もあるのですがその〕意志を踏みにじる内容が その思想と発言と振る舞いとにふくまれているなら 無効の意志行為です。無効でなければ 表現の自由は どこまでも有効です。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 一般に われわれ第三者から見て《揶揄や風刺》をめぐる表現の自由にかんして 自由という基本の基本とそして派生的な問題とがあると見て間違っていないと考えます。
 派生した問題としては 見通しが甘かったかも知れないといったたぐいのことであって 表現の自由の基本とは別だという見方です。

「派生的な問題」ですか。
ここは見解の相違なのでしょうが、仮にそうだとして、その「(たかが)派生的問題」が、相手側にとっての自由というものを大きく侵害する性質を持つことはあり得ない、というお考えでしょうか。
視点を変えて言うと、「相手側にとっての表現の自由」は「(人間にとっての)基本」という枠組みからは外れるものである、あるいは、そんなことについて、あれこれ考慮する必要はない、ということになりますか?

>☆ 第三者であっても 表現者の側に立って捉えるなら 《もうちょっとうまくやれたかも知れないな》といった感想が 当たらずと言えども遠からずだということ これが やはり基本の内容です。

もうちょっと上手な揶揄の手法があったと考えるのが妥当だ、ということでしょうか。
であるなら、揶揄ではなく別の手法で表現すべき相手であった、考えても良さそうに思うのですけどね。

>☆ 正当防衛というのは 相手に危害を加えなければこちら〔や別のひと〕がいのちにかかわるような危害を加えられるときにおこなう緊急避難です。
 どういう緊急の事態が 風刺画等によってもたらされましたか?

言葉尻を取りますか。
では、熟語ではなく、(彼らにとって)正当であると判断せざるを得なかった防衛、と言い換えてもいいですよ。

> つまり 《感情にうったえた》場合には 正当防衛として相手をころしてもよいなどというたわけたことは よそへ行って言ってください。

予想外のコメントです。
相手を殺してもよいと思わざるを得ないような感情を惹起させてしまうような類の揶揄、というものがあるのではないか?
という質問でもあるのですけどね。
そんな感情を惹起させるのは人間じゃない、とでもおっしゃるわけですか?
なんと言いますか、案外、底が浅いのかな・・・。

> 根拠や論拠が示されているのですから 批判を受けた側は それに対して説明責任を負って 答えなければなりません。

いや、ですから、それらの根拠や論拠を揶揄という手法に委ねて表現した場合の話をしているわけでしょう。

> ☆ 相手の〔あるいは実際には自分のの場合もあるのですがその〕意志を踏みにじる内容が その思想と発言と振る舞いとにふくまれているなら 無効の意志行為です。無効でなければ 表現の自由は どこまでも有効です。

『相手の〔あるいは実際には自分のの場合もあるのですがその〕意志を踏みにじる』という行為が、意識的に行なわれている、と思っておられますか?
自分の意志を通そうとする結果として、あくまで結果として、「相手の〔あるいは実際には自分のの場合もあるのですがその〕意志を踏みにじる」という事態が生じる場合が多いように、わたしは思うのですけどね。
いわゆる無意識というやつ。
つまり、やつらもわれらも、何をやっているのかわからないまま何かをやっているにすぎないんじゃないでしょうか。
むろん、やつらもわれらも否定はするでしょうが、しかし、実際問題として、そう言わざるを得ないのが真実じゃないですかね。
その辺りに哲学的な道筋を付けることはできないものですか。
  

お礼日時:2015/01/26 18:07

 ★(No.14お礼欄)~~~~~~~~~~


 (1) 「執拗に必要以上にと見られるほど相手にうったえようとする行為」は、なぜ行なわれるのか。
 (2) このことについての考察が大事ではないですかね。
 (3) また、この場合には、正当防衛も止む無し、というお考えなのでしょうか。
 (4) 「別のもの」と区分する意義を含めて明らかにください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (1) 表現の自由にもとづくものです。

 (1-1) 人間の自己表現については 自分や相手の意志を踏みにじることのない自由な意志行為であるならば それは 情報不足などによるあやまちがあっても それとして有効な意志行為です。

 (1-2) 言いかえると 表現の自由を問題とするときには そもそも人間の意志の自由を踏みにじる(――つまり脅迫など。つまりたとえば 相手や自分のいのちを消そうとする意志を表明して話し合いをすすめたりすることのような――)内容をふくめば それは いくら自由意志であっても 無効の行為です。初めからその意志行為はなかったことになります。

 (1-3) 時計の針を過去にもどすことは出来ない相談ですが できるだけ原状復帰という措置が取られます。無条件にそうされます。盗みは いのちに危害がおよぶものではないとしても無効であり モノが元の所有者に返却されます。

 (1-4) たとえ《必要以上にしつこい》としても 有効な自己表現は 成され得ます。




 (2) いまは 北朝鮮にかんする問題とは別になっていますが そのまますすめますが 上の(1)なる事項は 当たり前のことがらです。ことさら言わなくてもいいことです。


 (3) 有効な意志行為としての自己表現は 《正当防衛》の問題にはなりません。
 
 (3-1) ぎゃくに言えば 《揶揄や風刺》なる表現のどこが 無効な内容であるのかを示してください。

 (3-2) もしクルアーンにもとづくと アッラーフや預言者ムハンマドについて何かウタガイをはさみこれを表現するならすでに《無効》だと決まっているのだと言うとすれば これは 非ムスリムに対して どうして効力がおよぶのかを説明しなければなりません。

 (3-3) なぜクルアーンあるいはキムジョンウン〔の思想や行動〕についてウタガイを持ってはいけないのか?


 (4) 《執拗な行為》は 有効である。《別のもの》ではありません。

 (4-1) 有効な表現であっても 相手が無効の行為で応答する可能性がある場合には 《うまくやるかどうか》の問題が 実際には生じて来ます。それだけのことです。その意味で〔のみ〕 問題とするときには 《別のもの》になるというものです。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   >預言者ムハンマドを批判してはいけないし 批判されたらムスリムは 気持ちを害されると言うとき 問題は 非ムスリムのおこなう批判については 何も出来ないということです。
 :
 (5) 案外なご見解ですね。 / わたしは、大いに批判してよいと思います。
 (6) そこには論理で解決する道が残されるからです。
 (7) しかし、(言ってみれば批判ではなく侮辱としての、あるいは、おっしゃるところの「執拗な」)揶揄はいけない。
 (8) それと、本論とは関係ないことで申し訳ないのですが、「ナツィ」という表記はどういう意図ですか? / 格好いいと思っておられる?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ (8) ナチと書くと どうも那智の滝を連想してしまうので 発音どおりに書いています。


 (5) ☆☆ 批判されたらムスリムは 気持ちを害されると言うとき
 ☆ というからには すでに《非ムスリムがイスラームについて批判するのは自由である》という立ち場です。

 (5-1) 《気持ちを害されたとしても その批判についてジハードのごとき殺しの行為をふくむ批判は 何も出来ない》という意味でした。ここは 舌足らずですし 誤解を生んでも仕方がなかったようです。おわびします。


 (6) つまり ★ そこには論理で解決する道が残されるからです。
 ☆ というごとく 意志の自由を踏みにじる無効の行為でなければ 互いに自由に批判しあって行けます。話し合いです。

 (6-1) つまりこの話し合いの精神なる趣旨は 初めから言って来ている《表現の自由》なる精神にもとづいて帰結されると言っても あながち自分自身に甘いとは見られないでしょう。


 (7) これについては すでに(1)から(4)までの議論で済んでいます。

 (7-1) ★ (言ってみれば批判ではなく侮辱としての、あるいは、おっしゃるところの「執拗な」)揶揄
 ☆ 《揶揄》は 表現の自由のもとにあります。

 (7-2) 《執拗さ》は 同じく自由のもとにあって ただし相手があることであるからには うまくふるまうかどうかは 大人の行動だということになります。

 (7-3) 《批判ではなく侮辱としての揶揄》とは何か? 
 おそらく 《意志自由を踏みにじる――たとえば根も葉もない中傷誹謗によって 時間稼ぎのごとくにでもしばらくのあいだその人の社会的生命を落としめようとするような場合の――侮辱や名誉棄損》は 問題となるでしょう。表現の自由に対して 有効ではないではないかという嫌疑がかけられます。

 (7-4) イスラームについて クルアーンとして伝えられたものは すでに人間の言葉で表現されているからには 人間はこれについて考えます。自分の考えでウタガイを持って問い求めることをします。――端折りますが けっきょく(6)の民主的な話し合いの問題に帰着するでしょう。

 (7-5) つまり 第一に 表現の自由の問題であり そのときその自己表現が有効かどうかが さらに問われる。あとは 派生することとして その場の(つまり相手の)事情や情況によって たとえ《自由》であっても一たん控えたり慎んだりすることは 実際問題として考えられる。控えなくても 有効な意志行為であるなら 表現の自由を侵したことにはならない。




 結論:
 ☆☆(回答No.14)  問題は 上手にやれると思っていたが そんなに甘くはなかった。というだけのことです。
 ☆ この問題をあなたは 《執拗に必要以上に》追求している。だけのことです。
 これが 哲学的考察です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

はっきり申し上げて理解不能の内容です。
おそらく私の頭が悪いせいなのでしょう。
念のため確認させていただきたく、さらに質問させていただきますので、お時間がございましたら、また利他の精神が残っておいでのようなら、お付き合いください。
以上のおことわりを申し上げましたので、以下、無用の遠慮表現は控え直裁にお尋ねしますのでよろしくお願いいたします。
くれぐれも、誰にでもわかるような言葉を使っていただきますようにお願いいたします。
言葉遊びをするつもりはありませんので。
端的に申し上げて、ブラさんの見解は、相当矛盾していると思います。
あるいは、全く意味のないことを言っているかですね。(確信犯なのか、何か他の原因があるのかは不明ですが)

> 結論:
 ☆☆(回答No.14)  問題は 上手にやれると思っていたが そんなに甘くはなかった。というだけのことです。
 ☆ この問題をあなたは 《執拗に必要以上に》追求している。だけのことです。
 これが 哲学的考察です。

この記述にも象徴的に現れているので、最初に触れておきましょう。省略せずに示せば、
『☆☆人びとの考えや振る舞いについて それはおかしいぢゃないかとからかったりする表現行為は たとえ初めから 必要以上に相手の気持ちを刺激しこちらの表現へと目を向かせ反応を求める意図も目的もあったとしても それでも 表現の自由のもとにあります。問題は 上手にやれると思っていたが そんなに甘くはなかった。というだけのことです。』という箇所ですね。
わたしの言っていることは、これらの事柄を『☆《執拗に必要以上に》追求している。だけ』だとブラさんはおっしゃる。
わたしに言わせれば、ブラさんは『適度にいい加減なところで切り上げて、言葉遊びの道具にしているにすぎない』としか思われません。
『上手にやれると思っていたが』というのを、ブラさんの発見だとしましょう。
しかし、結果的に『そんなに甘くはなかった』という事態が現実として発生したわけですよね。
つまり、「上手にやれると思っていた」という無意識的な心理が、こうした事態を招いたわけで、そうした無意識によって、なぜ「そんなに甘くはない」事態を招いてしまったのか?
という点を問題視しなくて、どうしますかね。
ブラさんの見解を総合すれば、「そんなに甘くはない」結果になったのは、あくまで相手の責任であって、こちら側には一切責任がないのだ、と言っていることになりますよね。
それが哲学でしょうか?
実に浅薄ではあるな・・・という印象を受けてしまうのですが、いかがですか。

> (1-2) 言いかえると 表現の自由を問題とするときには そもそも人間の意志の自由を踏みにじる(――つまり脅迫など。つまりたとえば 相手や自分のいのちを消そうとする意志を表明して話し合いをすすめたりすることのような――)内容をふくめば それは いくら自由意志であっても 無効の行為です。初めからその意志行為はなかったことになります。

こういう無意味な記述はやめませんか。
「脅迫など」を含めば表現の自由は無効だとおっしゃっていますが、「など」の中に「揶揄」が含まれているのかどうかを問題にしているのではないのですか?

> (3) 有効な意志行為としての自己表現は 《正当防衛》の問題にはなりません。

同じことを繰り返したくはないのですが、「揶揄」が有効な意志行為であるのかどうかを論議しているのに、こういうことを平気で言う神経が理解できません。

>(3-1) ぎゃくに言えば 《揶揄や風刺》なる表現のどこが 無効な内容であるのかを示してください。

それを質問したつもりなのですが、表現が下手でしたかね。
揶揄に対して正当防衛としての反撃があるのは、むしろ論理的な帰結ではないだろうか?
というのが質問の趣旨です。
なぜそうであるのか、を「哲学的に考察していただければ有り難い」と記したつもりです。
とはいえ、せっかくのお尋ねですから推論でよろしければ申し上げますが、おそらく批判は論理に訴えるが、揶揄は感情に訴えてしまうから、ではないかと思います。
因みに、個人的感覚としては、風刺と揶揄ではニュアンスが結構異なるように感じています。
重要なのは、論理的風刺はあっても論理的揶揄は、その精神性において、おそらく無いように思われる点です。

>意志の自由を踏みにじる無効の行為でなければ 互いに自由に批判しあって行けます。話し合いです。

本気でこういうことをおっしゃっておられるのでしょうか?
「無効の行為でなければ」とことですが、「無効の行為なのかどうか」を問題にしているのではないんですか?

> (6-1) つまりこの話し合いの精神なる趣旨は 初めから言って来ている《表現の自由》なる精神にもとづいて帰結されると言っても あながち自分自身に甘いとは見られないでしょう。

あいた口が塞がりません。

> (7-3) 《批判ではなく侮辱としての揶揄》とは何か? 
 おそらく 《意志自由を踏みにじる――たとえば根も葉もない中傷誹謗によって 時間稼ぎのごとくにでもしばらくのあいだその人の社会的生命を落としめようとするような場合の――侮辱や名誉棄損》は 問題となるでしょう。表現の自由に対して 有効ではないではないかという嫌疑がかけられます。

「根も葉もあれば中傷誹謗しても構わない」という論理になりますが、その場合には、結果として「時間稼ぎのごとくにでもしばらくのあいだその人の社会的生命を落としめようとするような場合の――侮辱や名誉棄損」になっても止むを得ない、とおっしゃっていますか?

>(7-5) つまり 第一に 表現の自由の問題であり そのときその自己表現が有効かどうかが さらに問われる。

それはそうでしょうね。
それで、問うた結果として、今度の件(=「そのとき」)に関しては、どうなのですか?

>あとは 派生することとして その場の(つまり相手の)事情や情況によって たとえ《自由》であっても一たん控えたり慎んだりすることは 実際問題として考えられる。控えなくても 有効な意志行為であるなら 表現の自由を侵したことにはならない。

なるほど。
それで、実際問題として考えてみた場合、今度の件に関して言えば、「その場の(つまり相手の)事情や情況」は、「たとえ《自由》であっても一たん控えたり慎んだりする」対象になるのですか、ならないのですか。
仮に、ならないとするなら、「控えなくても 有効な意志行為であるなら 表現の自由を侵したことにはならない」と判断していることになりますが、その根拠はなんですか?

お礼日時:2015/01/24 22:27

 No.10です。




 わたしは 詳述の必要を覚えませんが 説明せよと言われて放っておくわけにも行かず。・・・



 たとえばナツィが ユダヤ人たちを集め列車に乗せてキャンプに送った。
 これが たとえばじっさいに基本的に裏表無しに 工場労働への徴用であったとすれば それ以外に何かが起こったとしてもそれは 付随して発生した事態になります。


 つまり 強制収容所の職員の一部のみが図って 勝手に毒ガス室で人びとを虐殺したという事件であったとしたら こちらの問題は 徴用工という基本政策とは いちおう別のことだと見られるものと思われます。偶発的な事態であると。


 ちなみに兵士たちのために売春婦を募集してあつめることと それらの集めた人たちを虐待することがあったとしたらそのこととは いちおう別だと考えられます。売春婦を利用することのほかに 人間の虐待をも目的としたということは まづないでしょう。派生してしまった事件だとなります。


 それらと同じように 相手のおかしなところをからかうという表現〔の自由のもとにある表現〕と そしてその同じ表現行為を 執拗に必要以上にと見られるほど相手にうったえようとする行為とは あくまでふたつの別のものです。

 つまり しかもふたつは 同じ比重で並列されることではない。という意味を込めて 前回までに説明して来ています。


 つまり 早い話として乱暴に言ってしまえば 《挑発》行為があったとしても 表現の自由は 基本的におよそ無条件に保証されなければならないし それが 自由であることの意味だということです。

 行き過ぎがあったことは 表現の自由を少しも侵したり傷つけたりすることはありません。


 ですから 注意深く議論を運んでおくためには つけ加えることとして ナツィのおこなった強制収容が もともとユダヤ民族等の滅失を目的としているものであったなら 話はまったく別です。その行為じたいが 人間のおこなう意志行為として無効であるとなります。

 ところが 人びとの考えや振る舞いについて それはおかしいぢゃないかとからかったりする表現行為は たとえ初めから 必要以上に相手の気持ちを刺激しこちらの表現へと目を向かせ反応を求める意図も目的もあったとしても それでも 表現の自由のもとにあります。

 問題は 上手にやれると思っていたが そんなに甘くはなかった。というだけのことです。





 それと もう一点は 預言者ムハンマドを批判してはいけないし 批判されたらムスリムは 気持ちを害されると言うとき 問題は 非ムスリムのおこなう批判については 何も出来ないということです。ましてや フランスという国にあってはその法律やナラハシにしたがうのが ふつうのことです。

 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

かなり行き当たりばったりですね。
突っ込みどころは満載ですが、些事にこだわっていてもつまりませんから、論点を絞らせていただきます。
明確に(論点を外さずに)お答えいただければ幸いです。

> それらと同じように 相手のおかしなところをからかうという表現〔の自由のもとにある表現〕と そしてその同じ表現行為を 執拗に必要以上にと見られるほど相手にうったえようとする行為とは あくまでふたつの別のものです。

「執拗に必要以上にと見られるほど相手にうったえようとする行為」は、なぜ行なわれるのか。
このことについての考察が大事ではないですかね。
また、この場合には、正当防衛も止む無し、というお考えなのでしょうか。
「別のもの」と区分する意義を含めて明らかにください。
(もし済んでいるのならですが)過去のURLを参照しろ、だけは勘弁してください。
今回の論点に沿って、適切にお答えいただきたいと思います。

>預言者ムハンマドを批判してはいけないし 批判されたらムスリムは 気持ちを害されると言うとき 問題は 非ムスリムのおこなう批判については 何も出来ないということです。

案外なご見解ですね。
わたしは、大いに批判してよいと思います。
そこには論理で解決する道が残されるからです。
しかし、(言ってみれば批判ではなく侮辱としての、あるいは、おっしゃるところの「執拗な」)揶揄はいけない。
それと、本論とは関係ないことで申し訳ないのですが、「ナツィ」という表記はどういう意図ですか?
格好いいと思っておられる?
    
  

お礼日時:2015/01/24 16:36

どうも。





>「暴力でそれを破壊する」要因であった
:いいえ。暴力を使う言い訳にはなりません。
目的が手段を正当化できると考えるのは幼児です。
目的が何なのかさえ分からないのは胎児です。


>天皇に「揶揄」するような内容
:わたしは特に何とも思いませんが。
そのような表現方法は好きません、と
言いたいひとは言えばよいでしょう。



だいたいね、
赤ん坊が母親にいたずらをして
わざわざ怒らせるのも、かまってもらいたいから、
本当は仲良くしたいから。
ただ表現方法が歪なだけ。
もう少しゆったりと受け止められないものか。


やれやれ。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>わざわざ怒らせるのも、かまってもらいたいから、
本当は仲良くしたいから。

そうなのかもしれません。
それを相手に通じるようにやる必要はありそうです。

お礼日時:2015/01/19 20:46

NO.2 です。

しばらく出られなかったのですが、まだ開いていましたので、思うところを。

この事件の後、フランスのテロがあって、更に「言論の自由」について考えさせられる状況が続いています。
質問者様の思いに私も近づいたような瞬間があったのですが、またそらしてしまったかもと思っています。
金正恩への侮辱と、モハムードの肖像権侵害とは良く似たものかもしれません。ただ北朝鮮はそれが金一族の私的な利害から来ていること(もちろんそれが崩壊したら国が崩壊する可能性はありますし、それが彼らの最大関心事であるという可能性はありますが。)、一方は基本的にイスラム教の宗教観を否定する彼らにとっての生死にも関わることだというちがいはありますが、いずれにせよ、わたしたちは彼らの心に発生した激しい嫌悪感と怒り、敵意を理解することはできません。だからこそ平気で彼らのいやがることを、自由だからというだけの理由でやってしまうのでしょう。
私は、ソニーも倫理的に良くないと思っていますし、フランスの通俗的な漫画家たちも良くないと思います。

生き残った同僚(女性)が怖くなかったかといわれれば、怖かった、死ぬほど怖かった、と正直に言っています。他宗教への揶揄(北のぼんぼんへの揶揄も含めて)は、それだけのリスクをかかえて行うほどの立派なことではない、と私は思います。言論の自由は高貴な思想ですが、そういった思想そのものが神になるのはやはり危険なのではないかとも思います。とりあえずは休戦協定のような意味で、お互いに入り込まないタブーを作る、それを新しい世界平和の倫理にするというようなことはあってもいいかと思いますが、どうでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>いずれにせよ、わたしたちは彼らの心に発生した激しい嫌悪感と怒り、敵意を理解することはできません。だからこそ平気で彼らのいやがることを、自由だからというだけの理由でやってしまうのでしょう。

おっしゃるとおりと思います。
で、どうすべきか?という質問です。
どうさせるべきか?ではなくてです。

>とりあえずは休戦協定のような意味で、お互いに入り込まないタブーを作る、それを新しい世界平和の倫理にするというようなことはあってもいいかと思いますが、どうでしょうか。

協定というのは、あくまで破られるためにある、と言っても差し支えないと思います。(無いよりはマシでしょうが)
そして、そこから発展して、単なる協定から、人類普遍の論理へと発展していく可能性はあるでしょう。
ただ、そのためには、そうした協定なるものを(建前ではなく無理なく)受け入れるための精神的土台が必須であろうと思います。
その場合、その土台を、我々は自らのうちに、どのようにして構築し、あるいは自らを納得させていくのが良いのか。
そこらへんを詰めていただければ有り難いです。
  

お礼日時:2015/01/19 20:43

>言論の自由の前には、国家元首の威信、あるいは、個人の自由などは一切存在し得ない、ということですか?



多分、言いたいことがここに集約されているんじゃないかと感じました。

北の数ある声明を鑑みるに、「国家元首の威信」、「国家の尊厳」、「個人の自由」は存在していません。

>サイバー攻撃など北朝鮮の対応は正当防衛のようにも思えるのですが

非難声明は正当でしょうが、手を出すことは正当ではないでしょう。また、アメリカは「インタネットへの攻撃は戦争状態とみなす」と従来から宣言していますし、北も「金王朝への侮辱、北への制裁は宣戦布告とみなす」と従来から宣言しています。

これを馬鹿正直に捉えれば、少なくとも北は戦争もしくはそれに近い感覚を持っていることは間違いなく、その状態では(北が口だけでなければ)経済封鎖を受けることも想定範囲内なはずです。米国視点では、このレベルの映画で戦争状態にあるとは思っていないでしょうが、北のインタネット攻撃は看過できない問題なので、経済制裁としたのでしょう。

>天皇に「揶揄」するような内容の映画が作られたなら、日本人はどう対応した(する)でしょうか。

一定の理解に基づくものであれば議論にはなるでしょうが、無知と偏見に基づくものであれば、多くの日本人は不快なはずですし、抗議はするでしょう。
陛下、皇族への誤解、誹謗が国際法違反のための免罪符と思える程の低学歴な者はほとんどいないでしょう。

>何か逆行してませんかね。人類に進歩があるとするならば、という前提ですが。

結局のところ、金氏を王朝王族と考えるか、かの治世を正当なものと理解できる理由があるかということがキーである気がします。あの統治が前近代的なものと認ずることができるかどうか、かつ時代背景の考慮が必要だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>米国視点では、このレベルの映画で戦争状態にあるとは思っていないでしょうが、

「レベル」認識の違い、ということですか?

>一定の理解に基づくものであれば議論にはなるでしょうが、無知と偏見に基づくものであれば、多くの日本人は不快なはずですし、抗議はするでしょう。

今回の金正恩の場合は、どのように位置づけられますか。

お礼日時:2015/01/19 20:35

 ご返答をもらいましたので やはりこちらもと思いました。




 ★(No.5お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  >ひとの意志を踏みにじる行為は すでに初めから無効なる意志行為です。
 :
 若干、いや、正直に言うと、結構、短絡的な表現ですよね。
 「ひと」の中に北朝鮮は含まれていないわけですか。
 であるなら、なぜ含まれないのかをおっしゃっていただかないと、言葉にする意味はないでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《意志を踏みにじられた》のは 次のように《かの国家指導者》がと言っていますよ。

 ☆☆ (回答No.5) ~~~~~~~~~~~~~
  映画の中身は知らないで言っているのですが かの国家指導者は 要するにその映画がつくられたと知ってそれは自分に対する脅迫だと感じたということでしょうか? 

 パワハラとでも受け留めたのでしょうか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《パワハラ》というのは 精確な表現ではありません。とことわっておきます。映画の製作者と金正恩とのあいだに権限関係はないのですから。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >その映画が もしいま触れた脅しをふくむ表現行為であるとしたら
 :
 「脅し」にも通じるかもしれませんが、まず、わたしとしては「揶揄」という要素について考えてみたいのですが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《通じる》部分でまづは 回答者の言うところを受け留めてください。そのあと こちらも次のようにお伴します。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 今日のニュース、フランスでのテロも、本質的な要因は「揶揄(風刺)」であることは、むしろ真理といっても良いのではないでしょうか。
 あまりにタイミングが良すぎて驚いている次第。
 本腰を入れて考察するに値する課題だと思いますけどね。
 どうですか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《本質的な要因》は わたしの造語で《虚数癖シンドローム》だと考えます。現実から逃避する想像――《虚数》の世界――に染まってしまうクセです。

 【Q:《虚数》という想像力の世界に現実はあるか(つづき)】
  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8873741.html

 ここに引用しませんが その趣旨説明欄を見て頂ければさいわいです。


 《揶揄》は からかうことであり 一般に表現の自由の範囲にあると考えます。
 揶揄が二言三言や一二枚の漫画などで済ませるところを 《風刺》は その表現がまとまったかたちを採って――だからしばしば長くなっており―― 思想や行為について批判するものだと捉えます。

 ふたつはともに 言ってみれば対等の立ち場で相手に〔自分がよしと思うところの内容として・つまり主観的であることは否めないながらの〕《ふつうのわれに還って欲しい》旨を告げるものだと理解します。相手に あなたのかくかくしかじかなる発言や振る舞いは おかしいぢゃないかと告げるものだと。


 つまり 揶揄も風刺も かさねて言いますが 表現の自由のもとにあります。

 今回のテロに遭ったシャルリ・エブドの編集方針について言うならば 次の報道記事にあるごとく一般の人びとの反応がちょうどふたつに分かれているように そのどちらも当てはまるとわたしは考えます。つまり:

 ▲(「コーランでなくフランスの法に従う」風刺武器の名物編集長、警護対象も壮絶な最期) ~~~
 http://www.sankei.com/world/news/150108/wor15010 …

 宗教や政治のタブーに挑む編集方針には、「言論の自由を体現する存在だ」と称賛する声のほか、「敵意をあおる」との批判も出ていた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《言論の自由を体現する存在だ》は 表現の自由という基本原則のことです。
 もうひとつの側面としては 《敵意をあおる》であり これはつまり《すすんで相手と対立の関係に入って こちらの表現に対する反応を挑発する》部分があった。ということだと捉えます。

 言いかえると 《表現の自由にのっとる揶揄や風刺をおこなうこと》とそして《そのカラカイや批判を必要以上に繰り返して相手を挑発すること》とは ふたつの別のことであると見なければならないという考えです。
 
 以上のように
 ★ フランスでのテロも、本質的な要因は「揶揄(風刺)」であることは、むしろ真理といっても良いのではないでしょうか。
 ☆ とお尋ねであるなら それは まったく違うと答えます。
 もし表現の自由にかかわるところに《本質的な要因》があると見るのなら それは すでに触れました《虚数癖症候群》に罹っていると見なければならない。こう思います。

 批判する側も 主観的であることをまぬかれませんが それに対して《テロ》で挑むという行為は 表現の自由としての批判を超えている(踏みはづしている)ことは自明です。それは 想像の世界に入り浸っているクセから来ている。という理解です。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
  > ただ これまでに脅しの発言は いくらでもして来ていますよね。あちらさんがです。言葉のミサイルだけではなく じっさいのミサイルも飛ばしていますね。
 :
 いやはや、こういうくだらないことをおっしゃるとは思いませんでした。
 じゃあ、脅さなければ、ミサイルを飛ばさなければいいんですか?
 「哲学的に考察していただければ・・」と言った意味を理解しておられないのかな。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《脅しなるミサイル》を初めとする無効の意志行為 これが多すぎますよという揶揄であり風刺であり そういったもろもろの批判を 相手側であるわれわれはおこないます。

 キムジョンウンよ どうかわれに還って欲しいのですと。これが 哲学です。
 【Q:哲学する人間は 触媒である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8866566.html
 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 言いかえると 《表現の自由にのっとる揶揄や風刺をおこなうこと》とそして《そのカラカイや批判を必要以上に繰り返して相手を挑発すること》とは ふたつの別のことであると見なければならないという考えです。

さすが良いことをおっしゃいますね。大いに同意できます、と言いたいところですが、そんなことは当然じゃないでしょうか。
なぜ、{表現の自由」にのっとっている、と言いつつ(思いつつ)、「そのカラカイや批判を必要以上に繰り返して相手を挑発すること」を人はやってしまうのか?
そこを言っていただかないと回答とは言えないでしょう。
まさか、《表現の自由にのっとる揶揄や風刺をおこなう人》と、《そのカラカイや批判を必要以上に繰り返して相手を挑発する人》の2つに分類できる、とおっしゃっているわけではないのでしょうから。

>《脅しなるミサイル》を初めとする無効の意志行為 これが多すぎますよという揶揄であり風刺であり そういったもろもろの批判を 相手側であるわれわれはおこないます。

あらら、ですね。
われわれは《表現の自由にのっとる揶揄や風刺をおこなう人》であり、《そのカラカイや批判を必要以上に繰り返して相手を挑発する人》ではない、という自信がおありの上での発言だと思いますが、その根拠はどの辺におありか開陳していただけるとありがたいですね。
  
>キムジョンウンよ どうかわれに還って欲しいのですと。これが 哲学です。

「これが 哲学です」と大見得をきられる以上、還ってくるべき値打ちのある存在であるよ、われわれは、
と言える論拠をお持ちなのでしょうから、それを聞かせていただくわけにはいきませんか。
 

お礼日時:2015/01/19 21:06

>未来を見通す力の減衰、あるいは未熟さと言うべきなのか。


「何か逆行してませんかね」という質問文の文言にはそういう意味もあります。

なぜか困っている人は危険という発想?その発想が危険というのではないか?
こういう逆説ではどうか。
「和むことは見事に破壊すること」この逆説の意味は不安や不満、傷みを破壊し、
暗さを明るさに転換することに。だと思うです。
     
政治とか外交とか、自分の管理だけでも面倒くさいし、
頭が超絶悪い私には無理ですがアメリカの哲学でもない信条は「ドルは偉い」ってことで、
「傷だらけのヒーロー」じゃないんですよ。

アンパンマンは飢えた子供の為に自分の頭を食べさせ実を削ってくれます(涙)、
自国にさえ福祉法を禁じて飢餓人口が増えてるアメリカ。
一部のココロ豊かな人が自発的に自由に施すこともままならないとか。

>、「人が嫌がる」と判断できるかどうか? あるいは、人が嫌がるのなら、たとえ、自分の生命が脅かされても何もしないのか?


アメリカは移民が独立国を作った。
生物学的に原住民は育んできた土地で「信頼、安らぎという通貨」を守ろうとしますが、
移民社会の生存通貨は冷たく肌さわりが悪そうで
裏切りによって内部から破壊される運命に縛られて利益を楽しむどころではないそうです。
冷たい社会の反動で個人レベルでボランティアとかネットが発達させた先見性というか
多大に世界を感動させる成功例もあるから。
やはり権力や歴史じゃなく人を見ないとだめですね。

日本人が移民したケースでは当地で信頼を得るために忠誠を近い
老若男女が命がけで尽くした様子を最近知りました。
日本人の遺伝子は根源が明るいのですね。
今の日本人はセコイからな。自愛はあっても慈愛はどうだろう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>アンパンマンは飢えた子供の為に自分の頭を食べさせ実を削ってくれます(涙)、

人間の場合、食べさせると自分が飢えてしまう、という根本的な問題があるのでしょうね。
ま、正確に言うと、「飢えてしまうと思ってしまう」という問題、ですが。

>今の日本人はセコイからな。

それは言えてますなあ・・・。
いつごろからか、そうした傾向が次第に強くなっていったということは事実としてあるでしょう。
  

お礼日時:2015/01/19 20:29

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