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結城秀康の息子(嫡男)は越前福井藩主松平忠直ですが
何故結城姓では無いのでしょうか?
秀康は結城家を継いでいるのだからその嫡男の忠直も結城姓で良いと思うのですが?

A 回答 (6件)

慶長9年(1604)に松平姓に復したとの史料もあるようです。


少なくとも越前福井藩主の初代は松平秀康とされています。

結城秀康に関する出生から死去までの概略は下記のURLをご覧ください。
  http://dic.nicovideo.jp/a/%E7%B5%90%E5%9F%8E%E7% …
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/11 18:07

秀康は次男で秀吉のところに養子に出されている。

その後徳川が関東に入封されると、秀吉より結城家に養子に出された(秀頼が生まれたため)。(実際はどうなのかはよく知りません。案外家康が跡取りを秀忠にするつもりだったので、秀吉から返された時敢えて結城家に養子に出したのかもしれません。)
その後徳川の天下となるが、順番から言えば2代将軍になってもおかしくないのですが、後継者争いで3男秀忠に決まったので2代将軍になれなかった。。
秀康の本来の出自は松平姓なので、本人は松平姓に戻りたかったと思います。(将軍家からは松平を名乗ることを許されているみたいです。)ただ諸事情でしなかったのでは(養子先に遠慮とか)。本来徳川一門の松平で有りたかったのだとは思います。結城家は5男が継いでいます。結城家が存続できればよいのでこのようにしたのだと思います。
そして嫡男には松平を名乗らせたのです。(徳川の一門ですよ としたかったのでは。)
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/11 18:06

秀康が、結城姓ではなく松平姓だったからでは?

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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/11 18:07

azuki-7 さん おはようございます。



No.1 の者ですが、少々補足。

松平忠直は、その他、家宝として、名物「童子切安綱」(東京国立博物館蔵)と結城秀康が、石田光成が、加藤清正や福島正則に追われ、家康邸に逃げ込み、石田光成は佐和山城に蟄居となりましたが、その時、石田光成は家康が自分をかくまう、交渉をしてくれた、結城秀康に、所有していた、名物「石田正宗」(東京国立博物館蔵)を譲ったそうです。

これらの名刀を使って、松平忠直は諫言する忠臣を、ばっさばっさ切りすて、甘言する重臣を登用したのかもしれません。

しかし、これらの甘言する重臣も、志村けんの「バカ殿」の重臣であった、田代まさしのように覚せい剤に手を出していた「バカ重臣」と私は推察します。

文献があるかもしれませんが、歴史はロマンです。想像力を働かせ楽しみましょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2015/01/11 18:07

羽柴秀康⇒結城秀康⇒松平秀康と名を変えています。

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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2015/01/11 18:07

azuki-7 さん こんばんは。



歴女っぽい、azuki-7さんなら、もうご存知と思いますが、松平忠直は乱心を起こして、福井藩お家断絶となったと記憶してます。

おそらく、大名物茶入れ「初花肩付」をお披露目し、藩主として政策をせず、茶の湯三昧の日々を過ごしたのでは。

そんな、長男に結城秀康は、子供の頃から、こりゃだめだ(いかりや長助)と思い、長らく家系の続く名門、結城家当主にはふさわしくないと、バカ殿(志村けん)を福井藩に、追いやったとするのが私の想像上のロマンの仮説です。

もう少しましな回答が、投稿されると思いますから、その回答を待ち、参考にしてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2015/01/11 18:08

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