個人事業主の方必見!確定申告のお悩み解決

 哲学カテが 劣化して来ていませんか。

 神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。
 神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。

 人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。
 あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。


 1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。

 2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。

  (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~
    経験事象
      可知
        既知
        未知
      不可知(知り得ないと知ったものごと)
    非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)
      非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)
  
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。

  (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~
    信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観
    --------------------------
    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教
    感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ 
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。
   

 3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。

 3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。


 4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。
 《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。

  (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~
  =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。

  A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空(シューニャター)・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

  C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)
   仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)
      / マハーワイローチャナ(大日如来)
   仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)

  D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

  E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

  F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)

  G. ユダヤイズム:霊霊一如
   霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)
   霊:われ

  H. イスラーム:霊霊一如
   霊:アッラーフ(イラーハ=神)
   霊:われ

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。

 4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。
    よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。

 4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。
    有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。
    
 4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。

 4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。

 4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。

 4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。

 4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

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A 回答 (22件中1~10件)

丁寧な御礼をありがとうございます。

内と外、遍在という辺りはわかりやすく頷けるものでしたが、仰るように、神が遍在であると表現した例は昔からあるように思えます。
ブラジュロンヌさんの神論が、過去既出の神論と異なる点は何処なのでしょうか。非知や、謎という表現は確かに耳慣れないもので、それがツボかと思ったのですが。
言語で表現されるところの一切を超えていて、(それは無分別智に似てもいるのかなと思いましたが)それが絶対とか遍在とか表現されるのは、あくまで仮であるというのもわかるのですが。
どこら辺が新しいのかを今一度教えていただけないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 仰るように、神が遍在であると表現した例は昔からあるように思えます。
 ☆ 《ありきたりのパタン》で説明しています。

 ☆☆(No.21お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 しばしばこの見方が 好かれていて言われるようです。《非在なる神》は この現実世界に遍在しているのだと。 

 この神の遍在という見方が いやな向きには 《無》が好まれるようです。絶対無という捉え方です。
 絶対無は 絶対有とまったく同じことです。有か無かは 人間の好みでそういう捉え方をしただけです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~





 見ても見ない。聞いても聞かない。
 そういう向きもあるようです。

お礼日時:2015/01/20 08:40

非経験の場が、この世から絶対的に隔たっている故に非知であるというのはわかったのですが、その非知の向こう側が、絶対という属性を帯びている保証はないのですよね。


絶対的に隔たっている故に、その先のことは絶対的に(わかるかわからないかも)分からないわけで、それが無限かどうかもわからない。無限かもしれないが、そうでないかもしれない。非知とは想定不可の領域だと受け取ったのですが、違うでしょうか。それとも、非知の神とは、ただの想定の集合体に過ぎないのでしょうか。謎と言うからには前者だと思うのですが。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 お答えいたします。


 ★ 非知とは想定不可の領域だと受け取ったのですが、違うでしょうか。
 ☆ 《想定》と言いますか その内容説明ということだと考えますが そのとき《不可》という概念は 《非知》にはなじみません。
 
 まづ《不可知》は 数学の定理か何かにおいて これこれは知り得ないという仮説があってそれが証明されたなら そのことを表わします。つまりそれは《人間には知り得ないと人間が知った》ということを表わします。《知っている》限りでそれは 人間の取り扱いうる経験事象です。

 《不可》というのは 《想定が出来ない。想定してはならない》という意味でしょうか。
 少し見方が 違うとは思います。

 ですから 世界の分け方は ひとつに経験事象か非経験の場かで捉えます。因果関係の――つまりは時空間の――過程にあるかどうかです。 非経験の場は この時空間からまったく自由な場を想定しています。

 世界のもう一つの分け方は 知り得るかどうかです。すでに知っている(既知)かまたはいづれ知り得る(未知)かこれらふたつを合わせて《可知》と捉え得るものごとがあります。そうして 先ほどの《知り得ないと知り得た》ものごとが来ます。つまり これら可知と不可知とをふくむものごとが 経験事象であると捉えます。


 非知は 非経験の場とはどういうふうに説明するのか? の問いに答えるために 《可知・不可知》の切り口から捉えたものです。

 《可知・不可知》には属さない。そして《経験事象》にも属さない。だとすれば 《知り得るか知り得ないかが 人間には知り得ない》という説明になるはずです。これでも じゅうぶん《ナゾ》だと思います。


 《想定不可》かどうかという切り口とは 別のかたちになっていると思うのですが。





 さらにいま ついでに付け加えますが いま《非知》は 《可知・不可知には属さず 経験事象にも属さない》と言ったのですが この点 それだけでは あいまいです。

 属しはしないのですが 経験世界を超えているという想定にもとづくなら その経験世界を非知は じつは覆い包んでいる。かも分からないわけです。

 あるいは ニュートリノのごとく 経験世界をつねにつらぬいて走っているのかも分かりません。

 さらにあるいは 指先どうしが互いに触れるか触れないかのような状態で 非知なる神は 経験世界に対して漂っているかも分かりません。

 あるいはつまり 非経験の場(なるチカラ)は 経験世界の到るところにじつは 存在している(つまり 遍在)かも知れません。しばしばこの見方が 好かれていて言われるようです。《非在なる神》は この現実世界に遍在しているのだと。

 勘所は 非知は経験事象には属さない(そういう想定です)けれども あらゆる経験事象に 人に知られることなく顔を出しているかも知れないといったその可能性だと考えます。つねに 非知は 開かれているということだと思われます。


 

 つまり
 ★ その非知の向こう側が、絶対という属性を帯びている保証はないのですよね。
 ☆ というふうな《こちら側と向こう側 あるいは 内と外》といった切り口 こういう見方も なじまないと思います。

 経験世界に果てがあるのか・無いのか。といった内と外との問題は 非知には当てはまりません。何しろ超えているのですから。仮りに外や向こう側があるとしても その外や向こう側も 内やこちら側と同じように すべてを超えています。(超えているということは 大きく覆い包んでいるかも分からないし遍在しているかも分からない。となります)。

 《非知》には こちら側もあちら側もありません。あっても すべてをふくみます。
 すなわちそれが 《絶対》ということでもあります。

 絶対は 属性というよりは 非経験の場= 非知= 神 の基本説明になるかと思います。《無限》もそうでしょうね。

 この神の遍在という見方が いやな向きには 《無》が好まれるようです。絶対無という捉え方です。
 絶対無は 絶対有とまったく同じことです。有か無かは 人間の好みでそういう捉え方をしただけです。






 ★ 絶対的に隔たっている故に、その先のことは絶対的に(わかるかわからないかも)分からないわけで、それが無限かどうかもわからない。
 ☆ 以上のように《絶対的に隔たっている》というのは 因果関係からまったく自由でありその時空間としての経験世界を超えているナゾを 非知として想定したことです。

 《その先のこと》という意味がよく分からないのですが。

 《非経験の場》が想定され それは《非知》として説明された。これは じつは 概念説明であることにおいて 《絶対》や《無限》の意味内容と同じことである。と知られる。

 《その先のことが無限かどうかも分からない》のではなく そうではなく そこで《想定》が定まったというふうに捉えてください。






 この世の出来事のすべてを知っている存在は 想像できますか?

 この地球あるいは宇宙のすべての歴史と空間を知っている存在は どうですか?

 あの時あそこでは だれだれがどうしているといったことをすべて分かる存在は いますか?

 《絶対》という概念説明からは 擬人化して《絶対者》という派生的想定をひとは持ちました。

 ラプラスの悪魔とかいうのがあるようですが 神は この絶対者だという見方も出されます。

 神は そういった人間の規定によって制約されることはないはずですが この全知という能力は 神に当てて捉えられているようです。

 神にあっては 内と外 こちら側と向こう側 果て・境界・限界といった見方は あり得ないという想定になっています。むろん 時間や空間によって規定され制約を受けることもあり得ません。


 ★ それとも、非知の神とは、ただの想定の集合体に過ぎないのでしょうか。
 ☆ 《想定》は われわれ人間が 何とかして神とは何かを知ろうとしておこなったものです。神は その人間のしわざによっては何の影響も受けません。
 
 《想定の集合体》というのも 人間が勝手に考える見方です。自由ですが。




 ▲ (アウグスティヌス:時間と永遠) ~~~~~~~~~~
 たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。
 しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。
 永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/01/19 07:42

そういえば、キリスト教や仏教もそうですが、


以前に比べるとそもそも話題が減ったような気がします。
ヨシュア記でキリスト教を批判していた人たちや
魔女狩りがどうだとか、
仏教もテーラワーダがどうだとか原始仏教がどうだとか
すっかり、いなくなってしまいました。
哲学カテゴリーなので、
そもそも宗教の話をする必要が無いのでしょうが、
肯定する人も否定する人も減りました。
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この回答へのお礼

 そうでしょうかね。


 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2015/01/18 09:14

仏教の心相続とか識相続とか心続生は肉体が滅んでも心が続くのですから


やはり脳とは関係ないと思うのです。
もちろんそれは科学的には正しくないのですが。
意根がなんなのかとか思考器官マナスがなんなのか
具体的に臓器を仏教徒が定めていたのかどうかわかりません。

精神の源泉が脳ならばとか書いたら
「源泉」について嫌みばかりあちこちから書かれました。
原泉と源泉の差異をネチネチ。

ところで、私が気になったのは、
そういえば心でも、魂でも、霊でも、肉体よりは
まともであると考える傾向がありました。

とはいえ仏教では
心相続で続く心に欠陥があるという前提にはなっていないと思います。
今まで考えたことがない観点なのですが。

心脳同一説の問題は、肉体に欠陥があれば精神まで欠陥があるのか?
という差別になってしまう可能性があります。

ある程度は分けたほうがいいだろうと思いました。
もちろんそれは科学的には正しくはないですが。

ついでに、
旧約聖書で神が土から人間を創造した時、命の息を吹き込んだのですから、
土には霊魂がないような気がします。

これは神道的なアニミズムの世界観とはやはり異なっているのではないか。

六道輪廻に植物も土もコンクリートも石も含まれていないように。
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この回答へのお礼

 分かりません。


 それに 《科学的には正しくないのですが》と言うのなら それを出す必要がどこにあるのか。これも分かりません。




 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 ついでに、
 旧約聖書で神が土から人間を創造した時、命の息を吹き込んだのですから、
 土には霊魂がないような気がします。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《土》には初めには霊魂があったが その霊魂は ヒトに移った。ゆえに 土には霊魂がない。という推理ですか?

 ついでに 触れました。



 ご回答をありがとうございました。

お礼日時:2015/01/18 09:14

一つ。


文芸作品だよ~ん。

君を記憶にとどめる者が、君の愛を理解できる事が供養だよ。

君自身が、肉体が滅んでも自らが愛し続けると言う自信を持てればこれはたやすい。
古い言い回しでは死んでも愛し続ける言う言い方だな。
永遠の私には、君達の錯誤がなかなか理解しがたいからな。
弟子が受け継いで一方的に愛しているだけでないだろ。
君自身が自らの記憶を宝石にするんだ。
墓標じゃなくってね。
ここで君は、私の好意をイエスの鏡で確認するかい。
それとも自らの言葉で答えるか。
聖書は書かれていない事だから、君自身で答えなくてはならないだろうね。
粗末だろうと何だろうと、君の答えに期待するよ。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。




 ★ 君自身が、肉体が滅んでも自らが愛し続けると言う自信を持てればこれはたやすい。
 ☆ 根性が違っている。

 自分ひとりのことだけを どうしてそんなにこだわるのだ?

 直前の回答のやり取りですでに済ませたので それを見てください。




 ★ 永遠 / 死 / 愛 / 墓標
 ☆ といった言葉を安易に使いすぎる。《いま・ここ》にわれが立っていれば そんなに目をあちこちに散らかさないはずだ。

 《弟子》という言葉は わたしの辞書にはない。

お礼日時:2015/01/18 09:08

今回の勉強会に私なりの流儀で参加るよ。


なに言われても、与えられなければ沸騰するほど君はもう猿じゃないね。
イデアの解説で私が見せた、観念世界でたどたどしい私の手を握る神。
これを神と言うのは人の世では禁じられているがね。
ビジョンと言う、誰にでも理解できる心理学的説明では、私はそこに各自において、認識の強弱がある事を確認している。
アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本では、宗教とは神を確認することで、人と人の調和を確認することであったね。
それぞれ別であっても、神を道しるべにする限りお互いに兄弟であると。
君の批判の仕方は、このような人と人の道しるべを壊す危険な暴言なんだ。
やりたければいくらでも暴れたまえ。
君は私から言わせれば、より未完成な西洋の輸入品の様な哲学お気にしすぎて、アマテラスの輝く光に不成功の疑念でもあるかのようだ。
それから、非知だけ言って満足していると、能天気にブチかましているつもりでも、あんたの嫌いな日蓮のように、聞く者の闇を深めることになるだろう。
観念世界を認識できる強い自己を持った私、そしておそらく君であるが、恐れることなく神を語る猥褻物陳列罪であってこそ、王様は裸だとケラケラと笑う事が勇者の証となる。
私はアマテラスさん専用カスタムの改造人間。
こう言っているが、君はイエスの鏡を通して語るしかないから慎重すぎるんだよ。
それはやめてもいいと思うが、試してみなよ。
君は闇を深める鏡になりかけている。
私は仮面ライダーを名乗っているから、その点では大丈夫だよ。
丹念に説得すると言うのなら、君の論理は君自身の記憶の墓標として、理解し記憶にとどめる弟子も現れるだろう。
私も44歳で結婚していないから、自分を誰かが受け継ぎつつ、自己の肉体が滅んだ後も記憶をとどめる者の、受け止める者の気持ちも、授けるあんたの心も判る。なんといっても、子供相手に商売しているおもちゃ屋だ。
君を記憶にとどめる者が、君の愛を理解できる事が供養だよ。
問答無用で、非知に連れ去るならば、君の強引さは日蓮と同様だ。
ここで沸騰するだけでなく、そろそろ爆発しろ。
君をさらに慎重にさせては、猿回しの意味がない。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ イデアの世界 / ビジョン
 ☆ これらについて その内容が 具体的にこのふつうに生活している現実のものごととどのように対応しているのか? 果たしてつながっているのか? これを明らかにしないと いつまで経っても おままごとの世界だとかお医者さんごっこの別世界だとかとからかわれます。




 ★ アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本では、宗教とは神を確認することで、人と人の調和を確認することであったね。
 ☆ たとえばこういった表現について ツッコミを入れずに話をそのまま受け留めていたとすれば それは アマテラスさんうんぬんのところは 文学的な――つまりみづからの見解を明らかにしないしまたそこには結論はないとことわっているような――表現の仕方であると〔違ったとしても〕受け留めておいたからである。

 けれども問題にしようと思えば ツッコミは必要。

 ★ アマテラスさんの失敗作、または完成途上のこの未完成な日本
 ☆ そもそも《アマテラスさん》とは どういう神を言うのかから始まって 《未完成な》とは何を言うのか? についてしっかりと説明を聞かなければ 先へとすすめない。と言えば 言えます。そういうツッコミどころが いくつかあります。



 ★ それぞれ別であっても、神を道しるべにする限りお互いに兄弟であると。
 ☆ たとえば こういうひとつの結論をみちびくのであるなら 先ほどのアマテラスさんうんぬんは ほとんど要りません。《神を道しるべにする限り》という条件も この場合要らないと言えば要らない。

 ひとは その生まれつきの身と心としての能力などが互いに自然本性として同じである(似通っている)。ゆえに 《兄弟である》ことが出来るとほかの根拠無しに想定できる。のではないだろうかと。

 ですから イデアの世界は この点では 要らないわけです。

 《ほとんど要らない》と言ったのは この自然本性にしてもそれが 非知なる神につながっていると言えばそうなので 《ほとんど》と言っておかないと矛盾して来るからです。




 ★ 君の批判の仕方は、このような人と人の道しるべを壊す危険な暴言なんだ。
 ☆ いまちょうど言ったように《生まれつきそなわった自然本性》において兄弟どうしである。こういう言い方をするわたしが ほかの人の見解を批判したとしても この兄弟どうしだという《人と人との道しるべ》を壊すことは していない。自然本性が壊れるものとは 見ていないのだから。

 ぎゃくに言えば もしその道しるべが わたしにその見解を批判された人において壊れたとしましょう。だとすれば その道しるべは もともと壊れるべきインチキなものであったということです。ただ それだけのことです。


 もし いや そうぢゃない この道しるべは 確かなものだ ぶらじゅろんぬが間違っているのだ。というふうに思い直したなら 再反論をすればよい。すべて 自由です。それだけのことです。






 ★ それから、非知だけ言って満足していると、能天気にブチかましているつもりでも
 ☆ 問題が違う。目の置き所が違っている。ひとの品性が問われている。

 もし《非知》という説明で神が納得行ったのなら これは世界中の人びとそれぞれに例外なく当てはまる理論なのです。違う神のもとに互いにいがみあっている人間は ただちに恥ぢなければいけない。その問題を ただちに世界の人びとに問うて行かねばならない。

 そのように歴史に立って しっかりと哲学をして生活をすすめなくてはいけない。この人づくりは 社会づくり・くにづくりでもある。しかも 世界史じょうの次の一手になります。一人ひとりにとってです。

 どこが《満足している》んぢゃい? どこが《能天気にブチかましている》んぢゃい? 顔を洗って出直して来なさい。




 それから 理論としては言っていないが この理論が現われ得たのは イエスという人間が出たからです。
 イエスは キリストなる神でもあると物語られるが その人類史におけるシワザの栄光は 神に帰している。
 だから 神に栄光が帰されその光が増して行くならば 誰もがそれぞれまた互いに歴史の共同相続人に成れるし 成っている。という将来の姿をも いま・ここで見てください。

 

お礼日時:2015/01/18 09:02

2015年1月17日 対馬沖 bragelonne バルチィク艦隊 VS 大日本哲学連合艦隊



秋山参謀「Z旗あげ~。」

秋山参謀「東郷閣下、そろそろ潮時では?」

東郷閣下「まだじゃ。時と言うものがあるごはす。旧約聖書のコヘレトの言葉3章1節にも書いとうごはす。bragelonne の弾などあたらんごはす。」

東郷閣下「そろそろ、ころあいじゃの。」

伝令「取りかーーーじ。いっぱい。」

操舵室「とりかーーーじ いっぱい。」

bragelonne 艦隊の進路全面封鎖。

東郷閣下「全艦一斉射撃の前に、原子力イージス艦「カント号」のトマホークを一発お見舞いするごはす。」

「私はあえて哲学から神を排除した。

1)宇宙の秩序の根拠が至高の叡智(悟姓)によって、宇宙の組織に関する計画が普遍的運動法則としてあらかじめ自然のうちに設定され、それが計画どおり実現されると考えるか?

それとも

2)宇宙の構成要素である一般的法則なりは全く調和能力を欠いたものであり、自分以外(神)の手に託さねばないのか?

私は1)を選択した。

ところが、それを選択し困ったことは、「最高善」を「徳」と「幸福」との両立したものと定義したとき、やはり、神の創造目的という概念を持ち出さざるを得なかった。そして「実践理性批判」を書いた。」

私の苦悩のトマホークを受けてみよ!

上記に関する、本日の大学入試センター試験における、東京帝国大学入学希望者の解答欄。

bragelonne さんはいつも長文なので、十字以内でお礼回答すること(注、句読点を含む)(笑)

上記は冗談として、bragelonne さんは、カントに対し、いかがお考えですか?

砲撃は次の回答者に引き継ぎます。
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この回答へのお礼

 天気晴朗なれど波高し。ご回答をありがとうございます。




 《非思考の庭》を カントは言っています。(20字)



 ▲ (木田元:『反哲学史』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・数学と同様に普遍妥当性をもった認識と認められている理論物理学は 直観の形式と悟性のカテゴリーとの組み合わせによって生ずる現象界の形式的構造についての先天的認識の体系にほかなりません。

 こうしてカントは 一方において数学および数学的自然科学(ニュートン物理学)の確実性を基礎づけるとともに もう一方では 独断的形而上学を否認することになります。

 というのも この独断的形而上学は もともと現象界だけにしか客観的妥当性をもっては適用されえない空間的・時間的規定やカテゴリーを 神だとか世界 不滅な霊魂といった元来現象としては現われえないものに適用して 勝手な理論構成を試みているにすぎないからです。

 彼は こうしたものはわれわれの認識の対象にはなりえないのであるから それについて議論してもはじまらないと言うのです。ハイネが カントは神の首を切り落としたというのは このことにほかなりません。



  ☆ (ぶらじゅろんぬ註) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   《神・霊魂》は 《われわれの認識の対象にはなりえない》という命題は 表現がマチガイです。厳密に言えば。
   つまり 神や霊は われわれ人間の思考ないし認識の対象である経験世界を超えている。と同時に そのときには 人間の思考の対象に成り得るか成り得ないかが 人間には分からない。これが 分かるか分からないかが 分からない》。こう表現すべきだと考えます。

   つまり 神の首を切り落としたかどうかは 分かっちゃいない。また 分かっちゃいないようなかたちで カントは表現しておくべきだった。と。
   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 ・・・
 神の問題にしてみても たしかに彼は『純粋理性批判』においては神の存在を否定しているかに見えますが それはむしろ 神を理論的認識の対象として扱うことの不都合さを主張しただけなのであって 彼の言葉を借りれば 

   私は信仰に席をあけるために 〔* その信仰をめぐる・つまり
  神をめぐろうとするところの〕知を否定しなければならなかった

 のです。つまり 信仰を純粋に信仰として生かすために 知識(* =思考の緑野および感性の原野)と信仰(* 非思考の庭)とを峻別し 知識のおよぶ領域を限定する必要があった というわけなのでしょう。〔彼は 理論的認識としては否定した形而上学をも《実践の形而上学》として つまり道徳的実践の条件として生かそうと試みています〕。
 (1995版 §8 pp.150&152)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2015/01/17 17:16

 人事を尽くした限界の先に、漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。


 これは「なぜ」という問いを持つ人間にとって自然なことだと思います。

 そして、「生物学的に寿命のある人間が、活力に満ちた段階から衰えて絶対の存在にゆだねる形で一生を終えて溶け込んでいく」というニュアンスの大筋(梵我一如的方向への流れ)が存在し、この究極の限界に関して(1)を拠り所にするのも自然なことだと思います。

 さらには人為一般の意味づけをする究極の拠り所としての(1)への信仰。
 つまり、直感的に正しいと思われる道徳的価値観の実践のための拠り所を求める気持ち。
 これ自体が、群れを成す動物から進化してきた社会的動物である人間の遺伝子の中に枠組みとして組み込まれていたものが文化遺伝子の発現という形で継承されてきた、根底の部分にある基本的な人間性の一つだと考えてよさそうな気がします。
 
 宗教というのは、そうした拠り所に関する「時代背景や社会環境による違いを含めたそれぞれの思想体系」と言っていいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 ええっとですね。質問者の見解と中身が錯綜しているように思います。

 まづは ご回答をありがとうございます。


 そこで その錯綜しつつ違いが出ているところを 勝ってながらこちら側の判断にて 取り上げてまいります。




 ★ 人事を尽くした限界の先に、漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。
 ☆ 《天命を俟つ》ときに到れば じつはその前にすでに人事を尽くしているその過程において――わたしの感覚では――その神にたぐいするナゾの何ものかによってみちびかれている(いた)というような感覚は なかったですか?

 つまり 何がしかのそのような感覚がなければ そんなに人事を尽くすというまでの重要な仕事であるとも思えないのです。(大したことない仕事だというのとは ちょっと違いますが 《限界》を感じるまでの重要なことであるなら すでに途中から・あるいは初めから わが存在を賭けてのごとく人事を超えたところを見てみる気持ちになるのではないかと)。

 そして確かに
 ★ 漠然と「神もしくはそれに類する存在」(1)を意識する。
 ☆ というときに到れば 人事を尽くしたという或る種の満たされた感覚をおぼえるかと思います。
 
 つまりは その失敗があったとしてもひとつの達成感を味わうときには すでに神のたぐいのナゾの何ものかによるみちびきは じつは終えている。のではないだろうか。





 ★ 「生物学的に寿命のある人間が、活力に満ちた段階から衰えて絶対の存在にゆだねる形で一生を終えて溶け込んでいく」というニュアンスの大筋(梵我一如的方向への流れ)
 ☆ この場合も 上と同じような反応を持ちます。

 すなわち 《人生における活力に満ちた段階》にあって すでに神のたぐいのナゾの何ものかにみちびかれていて あぁ ここまで来たかという感慨を持ったときには たしかに《絶対の存在に〔身も心も〕ゆだねる形で・・・(中略)・・・溶け込んでいく》と感じることもあるのかなと思います。

 ただし 中略した部分つまり《一生を終えて》というような感覚はほとんどない。こう思います。

 なぜなら もし《一生を終える》といった感じについてなら それはすでに 若いチカラに満ちて活動的であったそのときにおいてであって あとは そのことの充実感があるとしても やぁ これから人生の終わりに向けて歩んで行こうとかのようには 思わない。それは すでに卒業して来ているから。


 ――このような違いをおぼえる感覚があります。






 ★ つまり、直感的に正しいと思われる道徳的価値観の実践のための拠り所を求める気持ち。
 ☆ そうですか。わたしは ご存じかどうか がらっぱちでして 道徳という文字や発音からもっとも遠いところにしか生息していません。規範は 屁の河童であると思っています。まったくの自由。において生きます。

 何が根拠か? 神のたぐいのナゾの何ものかである。

 つまり 無根拠である。思考にあらざる庭にあってである。

 拠り所は その拠り所のほうが われわれの面倒を見てくれます。

 われわれが 道徳規範を守りその義務を満たすのではありません。

 神が その霊なるハタラキにおいてすべて 面倒を見てくれます。またそういう規範の充足でないなら ただ理屈によってかともかくの必死の努力によってか人間のチカラと知恵で《よいことをおこなう》かたちである。どうぞ ご自由にと言うだけです。




 ★ 宗教というのは、そうした拠り所に関する「時代背景や社会環境による違いを含めたそれぞれの思想体系」と言っていいのではないでしょうか。
 ☆ あとで――例のミネルワの梟のように夕方に起きて来て―― それまでに通って来た道をまとめるというわけでしょうか?

 それもあるのかも知れませんが 梟も朝や昼間からすでに活動していて欲しいですね。

 
 となりました。
 

お礼日時:2015/01/17 16:58

私が神を信じる理由をお答えします。


この宇宙は、物質のみで構成されている訳ではありません。もし、私たち人間が物質のみから出来ているとしたら、ロボットと同じ存在であるはずです。科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
これに比べて、人間はやかんに触れれば、実際に熱いと言う感じが生じます。そして、その熱いと言う感じは、物質ではありません。幾ら顕微鏡で脳の中を覗いて見ても、熱いと言う感じを見る事は出来ません。確かに、物質が熱いに対応した動きをしていることでしょう。しかし、それは熱いと言う感じそのものではありません。
脳と言う物質の熱いに対応した動きが刺激となり、私が熱いと感じているのです。熱いと言う感じは物質ではありません。従って、それを感じている私は物質ではないのです。私は、無限の感受性である精神です。
心は、物質と精神のコラボレーションです。物質がなければ、何の刺激も受けないので精神は何も感じません。また、物質のみでは何も感じることが出来ません。
では、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神は、今の私である精神でしょうか。その保証は何処にもありません。精神に記憶が蓄えられるのであれば、一秒前に私の脳が刺激を送っていた精神と、今の私の精神とは同じか違うかが分かるでしょう。しかし、記憶は脳と言う物質に構造として蓄えられます。
脳と言う物質が移動する度に、異なる精神に刺激を送っているかも知れません。一秒前に他の精神が感じた記憶を脳と言う物質に蓄え、今の私の精神に記憶と言う刺激を送っているだけでしょう。そうなると、この宇宙には、精神が満ちていることになります。若し、精神のない空間があるのであれば、人がその空間に移った時、何も感じなくなります。しかし、その様なことは起こりません。
精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。他人も私も同じです。ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
物質の全体を宇宙と呼びます。精神の全体を何と呼んだら良いでしょうか。私達は皆、至高な精神の一部分なのです。
また、精神は物質を動かすことが出来るのです。物理学では、物質を動かす力は、重力・電磁力・強い力・弱い力の4つの力であるとします。しかし、実際には、私と言う精神は手と言う物質を動かすことが出来ます。 
そして、この社会は、精神の意思により動いています。この様に、社会の動きを物質のみで説明することは出来ないのです。
そして、この宇宙の始まりを物質のみで説明することは出来ません。物質の因果関係は、原因が結果を生じ、その結果がまた原因となり結果を生じると言う形となります。宇宙の始まりは、原因なくして結果が生じなければなりません。つまり、無から有が生じなければならないのです。
しかし、物質は無からは生じません。これに比べて、感じは生じたり消えたりします。精神は原因から自由です。従って、宇宙の始まりにおいて、最初に動いたのは自由な精神でしかあり得ません。宇宙を創造した精神を何と呼ぶべきでしょうか。
 私は、その至高な精神がどの様にこの宇宙を作ったのかを探求しています。もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。こう言う意味で、物理学と神学とは、排斥し合うものではありません。

詳細は
http://www42.tok2.com/home/catbird/syuukyouhahik …
を参照下さい。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ★ 科学が発達し精巧なロボットが出来ると、そのロボットは世間話をし、またやかんに触れれば熱いと言うでしょう。しかし、ロボットはそう言っているだけで実は何も感じてはいないのです。
 ☆ これは 《生命》の有無について述べておられましょうか。


 ただしこの《いのち》は
 ★ 心は、物質と精神のコラボレーションです。
 ☆ といったときの《物質だけではなく精神だけでもなく それらのコラボレーションたる心だけでもない》と思われますが いかがでしょう?

 つまり イノチにまでなると それはすでに《非知》の領域にあるのではないか? 《霊》とよぶ場のことではないか? とは考えます。





 ★ 精神は宇宙に一つあり、全宇宙に満ちています。
 ☆ この場合の《精神》は 《いのち》のことでしょうね。つまり霊です。


 ★ 人は移動する度に、その精神の異なる部分に刺激を送ります。
 ☆ いのちの海の中にあると見なせばよいのではないでしょうか。


 ★ ですから、私は私と言う特定の存在ではないのです。
 ☆ たぶん いえ。わたしという掛け替えのない特定の存在が 普遍的なイノチなる霊の海の中にいるのでしょう。

 ★ 他人も私も同じです。
 ☆ 同じなのではなく 互いに違ったワタシでありつつ 同じイノチの海に存在しているということでしょう。


 ★ ですから、汝の敵を愛することが出来るのです。
 ☆ 同じ成り立ちの存在であることをとおして 互いに好きであったり嫌いであったりすることが出来ます。敵をも愛情を持って接したり蔑みを持って扱ったりし得ます。そのようにプラスとマイナスのふたつのサマとしての愛が 現象するでしょう。




 そうですね。後半のご議論についてですが
 ★ もし、物質の因果関係のみでは説明出来ないことが残されたら、それは神の存在を証明したことになります。
 ☆ これは 微妙なご主張です。

 もし神がその存在を証明されたとしたら その証明された内容は 人間の思考するところであり 《非思考》ではありません。つまり 考えたから その神があるとなったわけです。そういう神って ほんとうの神でしょうか?


 《精神》を――ヘーゲルのごとく―― 神やその霊に使っていますね。これが ふるい。そうでなくても あいまいであり 分かりにくいと思います。

 人間にも思考能力などなどの精神があるからです。人間の精神は 神ではありません。うつろいゆくものです。



 そこらへんを再考なさるとよいと思うのですが。

お礼日時:2015/01/17 14:14

ちょっと待ってください。


まずは1.2.3.4.についてです。人々が自由勝手に非知の神に属性を付与するというのは、非知であるという定義と矛盾するのでは?それが絶対かどうかも、人間には分からないはずです。まして慈愛とか最高善などという属性があるかどうかなど全く不明なはずです。その点においてはいかがでしょうか。まずは御礼の冒頭部分のみの返信となりますが。
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この回答へのお礼

 ご回答あろがとうございます。


 ★ 人々が自由勝手に非知の神に属性を付与するというのは、非知であるという定義と矛盾するのでは?
 ☆ (あ) 《非経験の場》という想定が まづ第一に来るのでしょうね。:

   ものごとの因果関係からまったく自由な場(チカラ)
   あるいはモノやコトが有ったり無かったりするという経験的な事象の世界 この経験世界を超えている場

 (い) この非経験の場を こんどはそれでは 人間が認識しうるか? の問いが来ます。

 (う) その答えとして 《非知》という概念での説明になります。

 (え) 《非経験の場 これは非知なるナゾである》ということ この想定が決まったら――どこにも人為的なネツゾウのあとは無いと分かったら――  あとは そこにさらに細かい想定やら再定義やらをおこなって行くことは 割り合いかんたんです。最初の想定に矛盾しないならば いちおうそれとして ゆるされている。となるはずです。

 (お) それらの細分規定は 大前提としての想定からの派生事項として扱われるということだと思います。或る程度ひとは好きに その非知をめぐる属性を規定して行くものと思います。

 (か) 初めの想定からのニ番目の想定(としての派生)は 非知を神と捉えたなら その神は有ると神は無いとの選択ではないでしょうか。

 (き) 有神論をえらんだ場合には その有る神についてあとは 好き勝手にというほどよさそうな内容を属性としてつけ添えて行ったのだと見られます。

 (く) けっきょく 《悪神》にまですすみました。これは 悪魔がそれでも 神――全体としてひとつの非知なるナゾの神――に飽くまで従属するものであるという規定があれば まだゆるされるようです。悪魔も 神に到るための依り代になりうるという理解のようです。

 (け) 二元論つまり 善神と悪神とが互いに同等のチカラを持って並び立つという神の物語 これは アウトでしょうね。矛盾します。あい対立するふたつのチカラが 秩序を保てないというのでは 非知の派生説明としても 受け容れられないと思います。

 (こ) 神は えこひいきだ。これは 非知の属性の説明として なじむか? いろんな問題が出て来るでしょうか どうでしょうか。





 ★ それが絶対かどうかも、人間には分からないはずです。
 ☆ 非知は 絶対ということだと言いました。唐突だったでしょうか。

 (さ) これは(つまり 絶対ということは) 非経験の場という想定から来ています。因果関係から自由なものごとというは 人間が考えても分からない。はっきりとは つかめない。

 (し) 経験事象としては 特異点が それだと言われています。(因果関係から影響を受けないコトだと)。
  ただし 特異点は まだ経験世界のものです。

 (す) ですから 非経験の場というのは 経験世界と《絶対的な》隔たりがあるというふうに説明され想定されるものと思います。

 (せ) 要するに 《絶対》を想定したということと同じかたちになるのだと考えます。《無限》と言っても 同じくです。





 ★ まして慈愛とか最高善などという属性があるかどうかなど全く不明なはずです。その点においてはいかがでしょうか。
 ☆ そうですね。
 (そ) 《不明なはずです》よ。非知なんですから。

 (た) ただし 《絶対者》という属性が想定されたなら その内容をさらにしかるべき概念でひとは説明したい。ということのようです。

 (ち) 絶対者なら・絶対なる神なら 《慈愛》にあふれていて欲しい。《最高善》を具現していて欲しい。うんぬん。というふうに 属性付与は つづくものと思います。

 (て) 神は有る。という有る神をえらんだあとでは この神の内容をめぐって 属性付与を人びとはおこないたいのだと思います。

 (と) ほんとうに愛にあふれる神であるのかどうかは 確かに不明です。そうであるかも分からないのですが。

 (な) ですから 最初の想定――《非経験の場としての非知なるナゾ》――およびその非知が有るのか無いのかを決めてからは 人びとは派生的な規定を 好きなようにおこなって行くものと思います。


 △ (クルアーン:第一章) ~~~~~~~~~~~
 http://www2.dokidoki.ne.jp/islam/quran/quran001. …
  開端章(アル・ファーティハ) マッカ啓示 7節

 1-1.慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において。

بِسْمِ اللهِ الرَّحْمنِ الرَّحِيمِِ    1

 1-2.万有の主、アッラーにこそ凡ての称讃あれ、

الْحَمْدُ للّهِ رَبِّ الْعَالَمِينَ  2

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ アッラフマン(アル‐ラフマン):慈愛あまねく 
   アッラヒーム(アル‐ラヒーム):慈愛深き

 つまり《慈愛》を意味するのは √RHM なる三つの子音でつくられる語であって 微妙に変化させて その属性付与の熱心さを物語っているものと思います。《万有の主》とも呼ばれています。これも 属性付与だと思います。

お礼日時:2015/01/17 13:53

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