マンガでよめる痔のこと・薬のこと

 最近の“言論の自由”に関する質問を見て、いろいろと考える事になりました。

 私が初めてこの言葉を聞いたのは随分と前の若いころの事で、漫画の社会に与える害悪を取り締まるべきだとの意見に言論界の人たちが“言論の自由”を阻害するものだと、反発した時のことです。
 その時は社会に害悪を与えるんなら取り締まってもいいんじゃないの?と思いながらその線引きをどこにするかが難しい、とも思いました。

 もちろん表現者たちは、線引きなんてとんでもない、線引きこそが“言論の自由・表現の自由”を侵すものだとの意見でしょうけど。

 今日のニュースではフランスのパリで起きた事件について、ローマ法王がフィリピンへ向かう途中の機内でのコメントを取り上げていました。

 それによると法王は「神の名においていかなる殺人もばかげている・他人の信仰を侮辱したり笑うべきでない・信仰の自由も表現の自由もいずれも基本的人権である・これらの権利は他人を傷つけることなく行使されるべきだ」と云っています。

 私なんぞは全くその通りと浅い受け止め方しかできませんが、それでも武力と言力?の両者を批判し、自制を求めたのだと思います。

 “言論の自由”と云う言葉には、私はいつも“言論の自粛”と云う言葉が浮かんできます。

 「ペンは剣よりも強し」と云う言葉は言論界の人たちが云った言葉だと思いますが、それはペンの怖さを知っていると云うことですよね。

 たぶん、フランスの風刺漫画家はその事を軽く受け止め、だから“自粛”ができなかったのかもしれません。

 言論の自由、また表現の自由という思想?はいつ頃からですか。
 マスコミが発達してからでしょうか。昔の西洋の哲学者たちの時代からのことでしょうか。
 
 教えてください。
 

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A 回答 (6件)

西欧の歴史からいうと、ハンナ・アーレントが「人間の条件」でいうところによると、古代ギリシャの都市国家アテネでは、労働は奴隷に任せ、市民は戦争をやるか、それとも民会とか、議会で、政治的討論をする以外にやることがなく、「公論」とか「公共性」というものが明確にあったけど、つまり言論の自由はいくらでもあったけど、中世の封建制になると言論の自由は無くなってしまった。


人びとは農奴とか農民になり、領主の土地を耕して年貢を納め、さらに賦役労働という無償奉仕をしなければならなかったし、若い娘があると、「初夜権」と言って、処女は領主によって奪われ、それに対して農奴や農民は何も言えなかった。
言論の自由があるためには、何よりも「公共の場」があることが必要ですが、西欧の中世には「公共の場」というものがありませんでしたし、言論というものがそもそもありませんでした。
議会がないし、あっても王侯貴族の議論するところで、一般庶民が議論するところではありませんでした。
たいてい国王が最終的にすべてを決定します。
もし、市民が都市の広場で、勝手に議論をして、国王の政治に抗議すれば、捕まって、火あぶりの刑に処せられます。
こうして、西欧は中世から近世の絶対主義まで、言論の自由というものはありませんでした。
その風向きが変わってくるのは英国では絶対主義が1640年と1688年の2度の革命で、打倒された後です。
都市の市民が力をつけ、政治に介入してからです。
いわゆる共和制の時代が訪れてからです。
フランスの場合も、1789年のフランス革命以降です。
でも、フランスはナポレオン3世の王政復古などがあり、1870年の普仏戦争に敗北して以降です。
市民革命としては西欧全域の1848年の革命以降です。

活版印刷の普及で、新聞が発行され、「公論」というものが登場しました。
古代ギリシャで市民が議会で「公論」を戦わせていたのが、ようやく西欧は19世紀の半ばになって、復興したのです。
議会という「公共の場」ができました。
一般庶民も新聞のおかげで、「公論」というものを知ることができ、みずからも政治に参加します。
ハーバーマスの「公共性の構造転換」という本によれば、古代ギリシャの「公共性」とか「公論」を新聞やメディアが代行することになりました。
新聞を読めば、その国の国民が何を考えているかが分かるとされています。
新聞は「公論」を代表している「公器」とみられているからです。

だから新聞を守ることが重要なのです。
市民の言論が、新聞に代わりに表明されているのですから。

しかし、近年はインターネットが普及して、ネットが新聞に代わって、「公共の場」「公論」を代表するメディアになりつつあります。
中国共産党もネットの世論を無視できなくなりました。
絶えずそれを気にするようになりました。

このように考えてくると、言論の自由が登場するのは比較的最近だということが分かります。
せいぜい150年くらいの歴史しかない。

日本の場合は明治維新以降、自由民権運動と新聞が「公論」を代表するものとして発行されるようになって以降、だから西欧と同じ、150年足らずの歴史しかない。
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この回答へのお礼

 言論界に携わる人たちがいざと言う時に「言論の自由」を盾と矛とする事の意義を学びました。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/16 20:06

"言論の自由、また表現の自由という思想?はいつ頃からですか。


マスコミが発達してからでしょうか。昔の西洋の哲学者たちの
時代からのことでしょうか。"

表現の自由というのは、昔からありましたが
それが特に意識されるようになったのは民主制が
発達してからです。

つまり、民主制とタイアップしてその重要性が叫ばれる
ようになったのです。

民主制というのは君主制に対する概念で
民が政治をやる制度、ということです。
民が政治をやるのですから、民には権力者のこととか
国家の情報などを知る必要があります。

その知る権利に奉仕するものとして、表現の自由が
重視されるようになったのです。

つまり、表現の自由は民主制に資するから特に重要な
ものとして保障されるべきだ、
ということです。

この面からいえば、あのようなパロデーが、どれだけ
民主制に資するのか、疑問があるわけです。
新聞社にとってはただの金儲けでしょう。









 
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この回答へのお礼

 頂いた回答から原点に返る。原点を見直してみる。と云う行為の重要性を知りました。

 言論の自由、は本来は民の為だったんですね。
 それを今は言論に携わる人たちが、自分たちの都合で安易に使っている様な印象を私が持ってしまうから、なんで?と思ってしまうんでしょう。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/16 19:54

 こんにちは。




 シャルリ・エブド事件の問題は 基本として言論・表現の自由であることに変わりなく そのことに絡むかたちで実際問題として《相手とのあいだに自分からすすんで対立関係を置き相手からの反応を是が非でも促そうとする攻撃的な呼びかけ――挑発ですね――》があると考えます。


 あるいは 細かくなりますが 表現の自由とは 表現行為がすべて自己表現であるからには 片や内面における信仰(信教・良心)の自由をもふくみます。言いかえると ほとんど形を持たない信仰なる動態から 形を持つ思想が生まれ言葉にして述べられるというその過程の全体 この全体についての自由を言うはずです。

 
 まとめて言えば ムスリムの過激志向の人びとを その新聞社が相手にまわしたという実際問題は それでも 《信教・良心 および思想や言論としての表現 これらの自由》が 基本であってこの基本原則のもとに取り扱われるものと考えます。

 一般の原則とそして特殊ないし個別の問題という恰好なのだと見ます。

 ですから
 ★ たぶん、フランスの風刺漫画家はその事を軽く受け止め、だから“自粛”ができなかったのかもしれません。
 ☆ というのは 決して《一般論》には来ず 特殊な場合であり そのつどその場で臨機応変に対処すべき課題に属すものと考えます。

 法王フランシスコが 四つの項目を言ったと引かれていますが その中でとりわけ《表現の自由》が 基本原則であってそれは ほかの項目と並列されるべき内容(重要度)であるとは考えません。

 それと
 ▲ 他人の信仰を侮辱したり笑うべきでない
 ☆ この項目については 表現があいまいです。内面に生きる信仰は 《本人の信仰を侮辱することはおろか 批判も讃嘆することも出来っこない》と知らなければ行けないでしょう。批判したり賛同したりするのは 信仰から出たとは言え それがすでに思考の領域に降りて来たオシエないし思想についてです。

 信仰とオシエとは 分けて考えるべきです。



 そもそもかたちのない信仰については 自分のそれであっても――表象すら出来ないものであるからには―― 認識も成し得ず批判も賛同も行ないえません。

 オシエないしその思想について 人びとは批評し批判します。そしてこのことは たとえ宗教の教義であったとしても 思考の領域に卸したからには 表現の自由における批判の自由として保証されるかたちになります。――これが 人間の自由です。




 イスラームの問題は その信徒であるムスリムが アッラーフなり預言者ムハンマドについて疑問をいだき その疑問を人びとのあいだに表現してはいけないのか? という問いに帰着します。

 イスラームの人びとのあいだで きちんとしっかりとその問いを考え答えを明らかにして欲しい。こういう問題ではないでしょうか? シャルリ・エブドは そのことを問い回答を 少なくともフランス国内の市民一般に明らかにするよう うながしていると考えます。





 ★ 言論の自由、また表現の自由という思想?はいつ頃からですか。
 ☆ ヲルテールの話がよく出ますが 知らないで以上のようなことを回答しました。
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この回答へのお礼

 宗教を二つに分類します。

 信仰と信心とに。
 信仰には理と情が含まれると思いますが、信心には情のみで理(哲学)は不要であると。

 今回の事件は“信心”に依るものと思うのです。

 風刺漫画がイスラムの信心ごころに哲学的に考えよ、と云うメッセージを発信していたのでしょうか。
 イスラムの人たちがそのことをキャッチしていたのでしょうか。
 疑問です。

 ありがとうございました。
 

お礼日時:2015/01/16 14:25

#1の者です。



>「とりあえず言論の自由は確保しておく」という表現には
>“条件付き”と云う思いが含まれているように受け止められます

たとえば、「優れた人物ならば独裁制の方が効率的だ」
と言う主張がある。
確かに、民主制の議論の冗長さ、結論の平凡さよりも
先見の明のある人間がリードした方が良い結果につながる。
しかし、そうして独裁的になってしまうと、途中で私利
私欲に変節したり、世代交代において利己的な権力欲を
排除する批判力が失われる。
「民主主義+自由主義+言論の自由」は、問題はあるけど
低空飛行で墜落は避ける体制なのだ。
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この回答へのお礼

 その“問題”が起きてしまったと云うことは、今の西洋の社会は“低空飛行”ではなかったんですね。

 低空飛行で墜落は避けなければならない体制なのに、「民主主義+自由主義+言論の自由」が正しく機能させていないので、“問題”が起きたんだと思えば矢張りそれには「自制」が必要だったんでしょう。

 この見方は間違ってますか。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/16 13:57

言論の自由、表現の自由は保護されるべき案件です。

でないと、昨今の事例から説明しますと朴大統領の行動を疑問視した報道をしただけで産経新聞ソウル支局長は逮捕されてしまいます。大統領にとっては侮辱罪を適用してソウル支局長を排斥できるように権利者に対する意見や批判ができなくなります。
他方、表現の自由や言論の自由は基本的人権を尊重した上での自由であるので
他人の迷惑になるものは
基本的にはできないと言うことになります。しかしながら、それでは自由な意見交換は不可能になります。他人を批判することは、その当該者に対しては侮辱に該当することもあります。
要するに正当な意見か侮辱かの線引きが非常に難しくなるのです。

今回のフランスメディア襲撃事件においても
キリスト教国であるフランス人から見た場合には
イスラム批判は正当な主張ととらえることもできますが、
その表現方法は預言者を蔑みあきらかにバカにしている風刺画なわけで
これを基本的人権におきかえて判断すれば
侮辱罪が適用するほど
イスラム教徒に対しての
尊重がなされてないわけで問題です。

言論や表現の自由は万能ではなく、批判をするからには、その対象者からの反論や抗議あるいは実力行使に対しても発言者としての責任を持つべきものだと思います。

そのような、意識を持てば笑いとばすような風刺画を簡単にかけることもなくなるでしょう。

意見は自由ですが主張には責任が発生する。そのことを自覚しての言論、表現の自由と言う位置づけが正しいのではないでしょうか?
テロリストと表現の自由のどちらが正しいのかは
基本的人権の尊重がなされてなければ、どちらも正しくないと思います。
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この回答へのお礼

 言論の自由は万能ではない、と云う言葉に自制が必要だ、との思いを感じます。
 また、主張には責任が発生する、とは正にその通りと思います。

 やはり、自覚が足りなかった、ということでしょうか。

 必要なのは規制ではなく、基本的人権に則った自制、なんでしょうね。
 そして、基本的人権に則った規制は有りか?なんて事も。

 ありがとうございました。

お礼日時:2015/01/16 13:21

「社会の害悪になる言論は取り締まった方がよい」と


言う場合の、『社会の害悪』が、必ずしも大多数の市民
への害ではなく、権力者や既成の体制にとっての不都合
である場合が多いので、とりあえず言論の自由は確保
しておいた方が次善の策なのだ。
言論の自由を阻害するのは一般市民ではなく、権力や力
を有する者だから。
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この回答へのお礼

 頂いた回答に疑問が生じました。

 『社会の害悪』と「社会へ与える害悪」とでは意味が違てくると思うのですが。
 「社会へ与える害悪」なら“大多数の市民へ与える害”と受け止めるのが普通ではないでしょうか。

 でも、「とりあえず言論の自由は確保しておく」という表現には“条件付き”と云う思いが含まれているように受け止められます。

 何でもあり、なんて思っていないんですよね。

 ありがとうございました。

 

お礼日時:2015/01/16 12:33

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