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こんなところで質問していないで
シャンカラの研究でもしていたほうがいいのかもしれないけれど

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6.智慧波羅蜜 - 般若(はんにゃ、prajñā プラジュニャー)は、諸法に通達する智と断惑証理する慧。前五波羅蜜は、この般若波羅蜜を成就するための手段であるとともに、般若波羅蜜による調御によって成就される。

波羅蜜
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E7%BE%85% …

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菩薩は智慧と慈悲が強調されているけれど、
意外とめんどうな人たちだったのでしょうか?


問題は般若波羅蜜多です。

此岸から彼岸へ。彼岸から此岸へ。
なぜこのような天地をひっくり返すようなことをしていたのか?

空が問題なのかもしれませんが、
空は面倒なので無視します。

菩薩の目的とか動機はなんだったのでしょうか?

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A 回答 (5件)

kazamidori365様、こんばんは。




>「菩薩の目的とか動機はなんだったのでしょうか?」

・・・もしかすると「天使」よりも先に存在したとか?
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お礼、ありがとうございます。



そうですね。

自己同一性を手に入れるというか、取り戻すというか
そこから始まり、起点がはっきりしてくるにしたがい
線引きが明確になってきます。

そうして、かかわり方が自己の中で明確な区別として
存在を明らかにしていくので、かかわり過ぎるのも減って行く。

と言うことは、菩薩行はかかわりながら自己を見つけることになりますね。
基本的には人を助けているようで、実は人に助けられているってのを
理解するためかと思いましたが、複数の理解で構成されていても不思議ではないですね。

過程の立場であるから、途上段階での変化とみれば
一連の流れとして行程が分かると言う話しですね。

行程目安のメモを見ている感じを受けています。
そこに答えが無かったとしても、記録として残すのも悪くないですね。
残すと読んだ人が囚われるのは、分かるのだけれども。

残しても残さなくても、越えない人は超えないし超える人は超える。
超えて行ったと言うことが分かるだけでも、先人の記録はあったほうがいいかな。
私としては。
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お礼、感謝!!




維摩が病気になったとき、釈尊の10大弟子をはじめに弥勒菩薩などの菩薩まで、維摩のお見舞いに行くのを逡巡した、「嫌だ」と釈尊に言った。
過去に、みんな一度、維摩にやりこめられたことがあるので(笑い)。

文殊菩薩でさえ
「維摩は付き合いにくい人なんですよね~。弁がやたらと立し、いろんなことを知っているし…」
と言ってから、
「私が行きましょう」
とお見舞いに行くことになった。
 ───智慧の菩薩、文珠だけが維摩にやりこめられたことがなかった───
文殊と維摩の問答はさぞ見ものに違いないと、10大弟子をはじめに「維摩のところに行くのは嫌です」といった人々も見物に行くことにした。
 ───ここでも、10大弟子の筆頭であるシャーリプトラは、維摩や天女に散々かわれる。シャーリプトラに代表される小乗の立場が否定される───

菩薩とは、かくも、付き合いにくい生き物なのです。
 ───『維摩経』にそう書いてあるんだ!!───
誰彼なく議論をふっかけたソクラテスの姿を思い浮かべればよろしいのではないでしょうか。
世間一般の見方からすれば、ソクラテスなんか体に始終つきまとうハエのように鬱陶しい相手でしょ。
こちらから頼みもしていないのに、余計なお節介をして、こちらを困らせるのですから。
まっ、菩薩は、ソクラテスのように誰彼かまわず議論をふっかけるようなことはしませんけれど、
先方が「攻撃されている」と感じる攻撃性を有していますよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

素人と専門家の壁として一次資料を入手できるのかというのもあるので、
出典を質問すれば黙るだろうというのもあるのかもしれません。

お礼日時:2015/01/20 17:06

こんにちは。




☆菩薩は智慧と慈悲が強調されているけれど、意外とめんどうな人たちだったのでしょうか?
◇『維摩経』の維摩を見ると、人助けをするいい人だけれど、お節介で議論好きで結構面倒くさい人だよね。
「お友達になりたいか」と尋ねられると、「う~ん」と考えてしまう(ポリポリ)。

単純な図式化をするならば、
 智慧 → 議論
 慈悲 → 人助け、お節介
というような対応関係になるのであろう。
実際は、議論も慈悲(布施)、つまり、利他行の要素を含むのだけれど。

菩薩行というのは、生きとし生けるものすべてを救済するという活動であり、そもそもお節介だから、菩薩行を実行する菩薩なる存在は、ウザい存在である。
このことは日蓮系宗教の折伏などの布教活動を思い浮かべてもらえれば、納得いただけるのではなかろうか。
時に、あまりの鬱陶しさと煩わしさから、『法華経』の常不軽菩薩のように、人々から石などを投げつけられたりもする。杖などでぶたれたりして、遠くに逃げ去ってもなお、そこで
「わたしはあえてあなたたち軽んじたりはしません。あなたたちはやがて仏になられるでありましょう」
と叫ぶ。
六ハラミツに《忍辱》、耐え忍ぶがあるから、人に悪し様に罵られようが、人からぶたれようが耐え忍ばなければならない。怒ったりしては絶対にいけない。



☆此岸から彼岸へ。彼岸から此岸へ。
なぜこのような天地をひっくり返すようなことをしていたのか?
◇ものごとの真実の姿が空であるからですよ。
大乗の空という観点からすると、此岸と彼岸という二項対立の構図はそもそも成立しない。般若というのは無分別、つまり、此と彼や有と無といった二項対立を超えたものだからね。

 此岸から彼岸 → 自利
 彼岸から此岸 → 利他
とも考えることができるかもしれないね。
「此岸から彼岸」は、いわゆる小乗の道なので、大乗はこの道をとらないのですよ。

一人成仏できる存在であったとしても、
菩薩というのは、成仏できないように、わざわざ、煩悩を少しだけ残しておくんですよ。



☆菩薩の目的とか動機はなんだったのでしょうか?
◇生きとし生けるものすべてを救う、成仏させることです。



まっ、そういうことで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

ふつうは菩薩を批判的に考察することがないので
いろいろと考えてみました。

お礼日時:2015/01/20 14:19

コペルニクス的転換は、起こすものではなく起きるものです。


自己の中でグリンとまわれば、その分自己矛盾がなくなり
(実際は一度で全てひっくり返らないで一つずつね)
そこに根底からの理解(悟り)というものが、現象として起きるので
物事がスッキリと理解できるようになる。

理解できることから始める。
今を生きるのが目的だと思います。

西洋でも東洋でも、たどり着くのは同じと言えると思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

『ミリンダ王の問い』の
Dhammasantatipañhaにでてくる

dhammasantati を調べたとき、

決まった訳があるのかどうかわからないけれど、
おそらくウィキペディアのミリンダ王の記事にある
「形象の連続継起」だと思ったけど
これについて言及したとき、距離とかの批判をされました。

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変化と同一性[編集]

ナーガセーナ長老は、「形象の連続継起」としての変化は、「集結・重置」する作用を伴うものであり、同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという「形象の連続継起」は、2つの形象を一定点に「集結・重置」するものであり、それによって、もはや両者は時間とは関係なく同一存在の相を帯びることになる、したがって、「連続継起」した各形象は同一ではないが、「集結・重置」したものとしては別ものではない (と我々の感覚的認識は捉える)と述べる。


ミリンダ王の問い
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AA% …

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>同時・同所にある形象が生起し、ある形象が消滅するという

なにしろこういう説明ですから、
同時・同所を批判するとしたら、距離や時間が離れているということになるとは私も思います。

デリダの差延とかいうものでしょうか。

もしくは、仏教的な文脈であればゴータマ・ブッダから距離も時間も離れていることを嘆いた末法思想などがあるでしょうね。

お礼日時:2015/01/20 13:37

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