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日本もここで舵取りを間違えていたら列強の植民地になったと思われるのはどのあたりですか?

A 回答 (5件)

それは長州征伐戊→辰戦争の時でしょう。

なにしろ日本人同士で内戦やってたわけで。
ある程度強力な現地の政権がある領域を植民地化するには、現地人同士の対立を煽って内戦を起こして、どちらか(あるいは両方)の勢力の支援要請を受けてそれを名分に、あるいは、武器を売りつけてその代金のカタとしての租借地を守るという名分で、内戦に介入してメインランドを植民地化(協力した勢力は僻地の「藩王」にして分断統治)ってのは、まさに常道です。
インド、ベトナム、ビルマ、、とそういう例はたくさんあります。

もし、鳥羽伏見の戦いあたりで膠着状態になっていれば、かなりの確率で列強の介入を招いたと思います。
舵取りというか、ようは、新政府側のイギリスと、幕府側のフランスとの利害調整が終わる前に内戦の大勢が決したから介入されなかった。
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以外に皆さん忘れていますが、日本の領土を積極的に侵略しようとしたのはロシアです。


薩英戦争・馬関戦争などがありましたが、これらは日本側の挑発もあっての戦争ですが、それに対してロシアは日本側の意志とは無関係に上陸・占領作戦を実行していました。

いわゆる一連の「露寇事件」のことですが、これにより樺太や択捉島などは被害にあい、廻船問屋の高田屋嘉兵衛一行が拉致されたりしています。

この露寇の最初の首謀者はニコライ・レザノフで、彼はかなり強硬派であり、アラスカもロシアの領土にする野心をもっていましたので、最初の日本来航のすぐ後、1807年に病死しなければカルフォルニアにも進出していたかもしれない、という記録が残っているぐらいです。

また1861年にはポサドニック号事件と呼ばれる、対馬占領事件も起きており、総じてロシアが西欧列強の中で強硬な手段を取っているといえ、択捉島の事件も対馬の事件も一歩間違えば、ロシア領になっていた可能性も否定できません。日本側が応戦したわけではないのに、上陸して陣地を築いたのはロシアだけ、と言っていいぐらいでしょう。

まtあ、ロシアは「不凍港が欲しい」という領土上の欲求がありますので、これが維新後、旅順をめぐる戦いに発展していくわけで、とにかくロシアの「領土欲求」は他の西洋列強に比べて切実な背景があったといえます。
ということで、いちばんやばかったのはロシア、だったと思います。
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日露戦争の奉天会戦は、幸い日本の勝利に終わっていますが、敗北していた可能性も充分にありました。


また、奉天会戦におけるロシア軍の退却は戦力的退却であって未だ充分な戦力があり、またこれに対し日本はすでに軍事能力としては限界であったことを考えると、奉天会戦直後にロシア軍指揮官のクロパトキンが罷免されなければ、日本が敗北していた可能性が高いと思われます。
さらに、奉天会戦で敗北していれば、続く日本海海戦の勝利も危うく、当然日露戦争は、ロシアによる日本の占領で終わり、チェチェンやウクライナ同様、日本も、もちろん朝鮮も、ロシアあるいはソ連の一部あるいは影響下になっていたものと思われます。
やはり、一番危なかったのはここでは無いですかね。
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日本すべてではないですが、


幕末。小栗忠順の、蝦夷地(北海道)を担保にして、フランスから軍事費用を借りるという案が採用されてたら。
他にも、小笠原諸島をはじめとする僻地の島々を日本の国土と認めさせるのに苦労したのもこの時。植民地どころか、外国の領土にされてた可能性があります。

長州が下関で四ヶ国の連合艦隊相手に戦い負けたとき、香港のような形で下関の一部を植民地にという条件が出てました。高杉晋作の活躍で条件撤回だから、そのうちNHKの大河ドラマでやるかな?。
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一番大きかったのは


1945年8月9日に対日参戦したソ連は、8月11日に南樺太の占領作戦
http://blog.livedoor.jp/lancer1/archives/1702646 …
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