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強制徴用された慰安婦の20万人は戦地に兵士とともに連れて行かれたのですか?ほとんどの方が亡くなったのでしょうか?私が単純に興味があるのは、慰安婦の客として通った兵士たちの日記や手記などないのかです。例えば、どこどこのあの子は良かったとか感想めいたものが手記には書かれていると思うのです。それとも恥ずかしいからそんな事書けませんかね?

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A 回答 (5件)

1990年代に問題が深刻化するまで慰安婦は全く問題の無い合法的なものでした。


このため、当時の従軍した兵士の日記などでは頻繁に慰安所の利用が出てきます。
シンガポールの総領事館勤務だった篠崎護の手記にも、日本の軍兵站部が
慰安所を開設したことが述べられていました。
孫引用になりますが、「慰安婦と戦場の性」(秦郁彦 新潮選書 P72)にも
「この開業に立ち会ったと思われる歩兵第101連隊兵士の日記(1月8日)に、
『夜隊長より慰安所開設の話を聞く。喜ぶ者多し』とあり、(以下略)」
など、数点が引用されています。
もっとも、個人的な日記だけでは、慰安婦の出身や、どのような事情かは
判断しにくいので、慰安婦問題ではあまり重視されていません。



>強制徴用された慰安婦の20万人は戦地に兵士とともに連れて行かれたのですか?

慰安婦問題は論点がかみ合わないことが多いようです。
ある意味有名な河野談話でもあるように、
日本がスマラン事件のような強制連行をした事実は現実に存在し、
慰安婦の動員があったことは事実です。
ただし、慰安婦を問題視する方々は「慰安婦を動員した」を
「動員して慰安婦にした」「動員するために慰安婦を強制した」
にすりかえて述べることが多いようです。
そのため、「強制連行の証拠はない」に対して、岡村寧次の日記や
関特演の「軍特殊慰安所開設に関する件通達」などの公文書のような
慰安婦動員の一次史料を挙げて「日本が関与した証拠」にしています。
動員に関与したのは事実ですが、それと強制連行は無関係です。



近年では、強制連行の資料が発見できないことから、
日本の慰安婦問題追及派の方々の主張は
「慰安婦は辞める自由が無かった」とか、「客を拒否できない」
「前借金で拘束していた」「金銭による契約の譲渡は人身売買」
「職業詐欺で集めた」などで「慰安婦は自由が無かったから性奴隷だ」
という批判が多いようです。
(海外では、某市の少女像のように今でも強制連行で広報しているようです)

「辞める自由が無かった」などの意見については、
既述ですが、2012年5月に朝鮮人の慰安所管理人による日記が見つかりました。
ttp://www.naksung.re.kr/xe/index.php?mid=sepdate&document_srl=181713&ckattempt=1
(一番下からPDFで日本語訳が入手可能です)
この中では、慰安婦を辞める方が複数存在し、20人規模の慰安所で
日記の記述だけでも10人近くが辞めています。(一部は帰国しています)
「慰安婦は行動の自由が無かった」という方もおられますが、
普通に観劇に出たりしていたようです。
奴隷制と大きく異なるのは、借金を返済すれば辞めることができたことです。
私にとっては当たり前ですが、借りたお金を返済すれば辞める自由はあり、
借金を返済しないのに「辞める自由」と主張される方々の真意が理解できません。

これも既述ですが、ミートキーナの報告書(日本人戦争捕虜尋問レポート No.49)でも、
「贅沢といえる生活」や「接客の拒否」「混雑時の利用制限」などとともに、
日本軍が「借金を返済した女性は帰国できるようにせよ」と
命令されたことも記載されています。
(別の報告書によると、周囲の説得で帰国しなかったようです)
ただし、報告書にもあるように就業詐欺ととれる手法が横行していましたので、
日本の取りしまりが十分でなかったことも事実です。
当然ですが、日本が黙認していたのではなく取締りで逮捕者も出ています。
ttp://gall.dcinside.com/board/view/?id=history&no=1283822
(某韓国での親日派有志によるまとめサイト 韓国語です)



・慰安婦20万人説

「慰安婦20万人説」については、1969年の日刊紙で
「(1943年~1945年にかけて)挺身隊として動員された朝鮮と日本の女性は
全体でおよそ20万人であり、そのうち朝鮮女性は5万~7万人と推算される」
を引用した宋建鎬が「日帝支配下の韓国現代史」(1984年)で
「日帝が挺身隊の名目で連行した朝鮮の女性は、ある記録によれば20万人で、
その中で5万~7万人が慰安婦に充てられた」となったものが変わったようです。
このように朝日新聞が慰安婦と挺身隊を誤用する以前から混同されていましたが、
事情をしっているはずの日本人が誤用を訂正せずに助長することは問題と考えます。

実際問題、慰安婦の方々が供述する「毎日、1日20人以上を相手にした」が事実なら、
20万人×20回で、1日のべ400万人の日本軍人がかよったことになります。
時期によりますが、兵力を200~300万人(開戦前後なら100~200万人)とすると、
一人が1日1回以上を毎日通ったことになります。
ガダルカナルやコヒマ、ペリリューなどの激戦地は慰安所どころではないし、
下級兵士はその給与から月数回と考えられることなどからも、
いくらなんでも、無理があるでしょう。

出典は失念しましたが、兵士150人に一人を基準に動員を計画していたようで、
実際にはそれより多かったでしょうから50人に一人と計算すると
(日本人等も含めて)約5~6万人が実数ではないでしょうか。

アメリカなどの記述における20万人説は吉見教授の研究を参照にしたようですが、
さすがに慰安婦追及の第一人者である吉見教授でも20万人説は無理があるのか、
最近は「5万人以上」に修正したようです。
ttp://www.asahi.com/articles/ASG7L5HWKG7LUTIL03L.html



・最近の慰安婦側証言

慰安婦の方々による証言は検証に耐えられないのか、有名な金学順氏や
(最初の証言者ですが、「親に40円で売られた先の義父に慰安所へ売られた」とか
裁判で「金儲けができると説得された」では、都合が悪かったのでしょう)
李容洙氏、文玉珠氏らの証言が取り上げられることは少なくなりました。
直近では、韓国が準公式にオープンしたサイトに証言が載せられています。
http://contents.nahf.or.kr/japanese/item/level.d …
どこをどう検証したのかわかりませんが、本当に専門家が検証したのか疑問で、
1940年にシンガポールへ連行された(シンガポール陥落は1942年2月)とか、
インドネシアで7年間勤めたとか、
だれの入れ知恵か、徴用で赤紙が来た(徴用令状は白紙)とか
慰安婦になるのに親の許可が必要だったとか、
(年端もいかない少女を連行したはずが)年齢制限で慰安婦になるのに待たされたとか、
日本軍が撤収したので(商売にならないから)追いかけましたとか、
もう「本当にこの証言を公開していいのですか?」状態です。



最近の韓国は、大統領が先頭に立って慰安婦問題を追及する姿勢ですが、
米軍を相手として慰安所を開設したいわゆる「基地村慰安婦問題」で
朴正熙元大統領の直筆サインがされた「基地村女性浄化対策」文書が公開されて
ttp://japan.hani.co.kr/arti/politics/15985.html
訴訟まで起こされたのに、無視して日本を非難しています。
朴大統領のいう「女性の人権」とはなんなのでしょう。
(質問の主旨から逸脱した部分が多い解答で申し訳ありません)
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この回答へのお礼

ありがとうございます。おそらくあの時代の朝鮮での女性の地位はあまりにも低くて、簡単に朝鮮での女衒が女性を徴用できたのは確かだと思います。現在の韓国でも真剣にどれだけ徴用されたか調べるとわかることとだと思います。

お礼日時:2015/04/12 20:46

月刊誌『正論』の2014年12月号と、2015年1月号に、過去、月刊誌等に寄せられた体験証言記の採録が特集されています。

各表題は、
 12月号
   <発掘特報 軍・官40人が遺した汚名への反論
       慰安婦問題 日本の証言
         ありえなかった「性奴隷」「強制連行」>

 1月号
   <大反響! 慰安婦問題 日本の証言 第二弾>

 です。

 戦地ですので、兵隊の駐屯地に敵軍の奇襲攻撃が来てドンパチ、交戦になることもあったわけですが、そういう時、日本人慰安婦や他の国の女性は怖がってばかりだったのに対して、朝鮮人女性はすすんで弾薬を運んで日本兵を激励するなどまさに天使であった、という証言。
 フィリピンでは日本兵は主に週末しか慰安所に行けないので、平日は慰安所で働く女性たちは別の仕事を持っている人が多かった。
 同じくフィリピンで、デパートの前で自分(日本兵)に笑顔で手を振る女性がいて、よく見ると慰安所の知ってる女性がデパートに買い物に来ていたところだった。フィリピンでは日曜日、教会のミサに行ってから慰安所に出勤してくる娘が多かった。
 インドネシアかフィリピンで、なじみの娘でない別の娘を指名したい時は、なじみの娘のところに最初に行ってひと言断って、「今日は別の娘を指名するけど、次に来るときは必ずいつものように君を指名するからすねないでくれ。」と言ってから、今日指名する娘のところへ行った。そうしないと、すねられて後が大変なことがあった。
 ビルマでは敗退の時、日本兵にくっついて一緒に敗退(もちろん徒歩で)した朝鮮人慰安婦たちもいた。

 おぼろげですが、こんなような証言が載っていました。
 図書館等でお手になさってください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。ですから現在の韓国政府が激しく非難するほど慰安婦は奴隷のような生活ではなかったわけですね。多分、お金を儲けて普通の生活にもどった女性も多かったと思うのです。

お礼日時:2015/04/13 11:24

他の方もいってますが


まずはされてませんし、そもそも慰安婦は朝鮮人は全体の3割です。
一番多いの6割が日本人です。1割が台湾
 なので当時の記録も多々残ってます。
 ちなみに漫画もありますよ。
  当時、兵卒として参加した漫画家が体験記として書いてます。

後、慰安婦の客として通った兵士たちの日記や手記以外にも慰安婦の従業員の日記もあります。
■慰安所:朝鮮人男性従業員の日記発見 ビルマなどでつづる(毎日新聞 2013年08月07日 07時00分
 魚拓 http://megalodon.jp/2013-0809-1331-13/mainichi.j …

 後、米軍が占領後、兵士や慰安婦に関して聞き取り調査した資料も米国にありますよ

たとえば

日本人戦争捕虜尋問レポート No.49
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …

 正直、全文を書くと多すぎて書き切れません。たとえば米国が日本の慰安婦に関して調査した資料
(IWQ報告書)だけで14万2千ページもあるんですよ
 ※一応その米国資料の中には全ての証言の中で『強制徴用』は見つかってないとされてます。

正直、14万2千ページなんて ここに転載しても目次だけでもえらい量になりますよw
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この回答へのお礼

ありがとうございます。米軍の資料を歴史的にきちんと残そうとする管理能力は、ものすごいですね。それがあるならもう少しそれを使って日本ももう少し反論したらよいのにと思います。

お礼日時:2015/04/09 21:48
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この回答へのお礼

わざわざ調べて頂き有難うございました。

お礼日時:2015/04/08 12:35

>強制徴用された慰安婦の20万人は戦地に兵士とともに連れて行かれたのですか?



強制徴用という物はありません。徴用は強制ですし、当時の日本人は応じる必要がありました。
また慰安婦を徴用した事実はなく、前提が間違っています。
そもそも朝鮮人女衒が朝鮮人を騙して売春婦にしたのですから、日本は関係ありません。
しかも親が自分の娘を売春婦として売り渡していたのです。

当時は売春が合法でしたので、日本人慰安婦もいました。朝鮮人だけではありません。

慰安婦の数20万人というのも、韓国の嘘です。
当時の日本軍将兵は戦闘もせずに、セックスばかりしていたのですか?


>慰安婦の客として通った兵士たちの日記や手記などないのかです。

あります。中には慰安婦と結婚した人もいます。検索すれば出てきますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。そうですね日本でも昔は女性の地位が低すぎました。私の祖父の友人はばくちの負けが多すぎて娘を売春宿に売りました。戦争中の話です。娘は年季奉公として3年働いて自宅に帰って来たそうです。日本でさえそうなので女性の地位がもっと低かった朝鮮ではもっとえげつない話があったと思うのです。

お礼日時:2015/04/08 12:29

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 だが、彼女たち、仕事柄自暴自棄だったかというとそうでもなかったようで、それなりにプライドも持っていたということです。彼女は母にこうも言ったそうです。私たちがこんな仕事をしなかったら日本中の女性たちはあいつ等進駐軍にみんな犯されてしまっただろうさ…と。そしてそのことが、せめてもの彼女たちの儚いプライドであったことでしょう。

 パンパンとて生身の女性たちですから、身を売れば妊娠もします。当時は優性保護法もまだ施行されておらず、街にはアングラな堕胎医者という者がまた跋扈していたといいます。不適切な中絶手術によって大出血をおこし、そのまま死んでしまったパンパンも少なくなかったといいます。

 それでもなお、いわゆるハーフの子供たちが増えたことは事実です。こうした祝福もされず生まれてしまった不幸なハーフの子を預かる施設エリザベス・サンダースホームの創始者沢田美紀さんなどは推定20万人は居るだろうと語っていますが、その実態は今も判然としていません。一部は米国などの家庭に養子として引き取られたということですが、これもまた戦禍のひとつと言っていいでしょう。

 それでは、パンパンと呼ばれた彼女たちのその後は…。その後は…ようとして分かっていない、これが実際のところです。ですが、やがて駐留軍の兵士たちは順次帰国し、さらに朝鮮戦争の勃発によって駐留場所が変わってしまいました。しかし、この日本も年を経るにつれて産業も復活し、目に見えて豊かになり始めました。昭和29年には、もはや戦後ではない…と言われるまでに国力は回復を果たしました。仕事は増え、求人も増えました。

 性病や結核、栄養失調、それらは多くの彼女たちの身体を蝕んだはずです。しかしあの時代では抗生物質などといった良薬はおろか、どんな医薬品であれ払底してしまっていた頃、医療施設も不備で適切な治療も行き渡らなかった。身体を壊してしまい、不幸な人生を短くして終えてしまった彼女たちもおそらく少なくなかったことでしょう。ですが、多くは汚れた世界から立ち直り、なにかしら生業を見つけたことでしょう。そしてきっと、幸せな家庭も持ち得たことでしょう。そうであったと信じたい思いがします。

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 街とは名ばかり。当時住んでいた都市も空襲で文字通りの焼野原となってしまい。街の一方から反対側まで一望できてしまうような有様でした。焼け跡にはとりあえず雨風を凌ぐことが出来るだけのバラックと呼ばれた急作りの掘立小屋が並んでいました。こんな粗末な住まいでさえも、ちょっと油断をすると、何か、たとえば靴の片方といったものでさえ、あっという間に盗まれてしまう、そんな時代でした。

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2.仮にいたとしたって日本人と朝鮮人の間に生まれた子って外見じゃわかりません。
3.かの国では日本に併合されるまで戸籍というものが存在しませんでした。戦中戦後の混乱期にきちんとした登録が行われたかどうかはわかりません。
4.日本鬼子の子供を生んだなんて周りにしれたら何をされるかわかりません。
5.8万から20万人ってのが否定されちゃいましたし。
 *将官の年収と同等なんて慰安婦を抱えたら財政が破たんします。ちなみに文玉珠さんの訴訟の関係で慰安婦の年収が最低1万円以上はあったことが確認されていますので、最低の8万人で年間8億円、20万人だったら40億円。戦艦大和が6隻から30隻建造できますがな。

 ということで、そもそも少なかった。いたとしても闇に葬られたって可能性が高いんじゃないですかね。


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