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小林秀雄という人が「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」と書いている。この言葉をどう受け取りますか。
1、たんに、「美しい花」は具体物として実在するが、そこから取り出された「花の美しさ」などという抽象的な概念はない、というありきたりなことを言っているだけなのか。
2、1でないと僕は思うが、だとすれば何を言いたいのか。
1と2に順にお答えくださいね。

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A 回答 (12件中1~10件)

no.9さんの回答で勉強させていただきました。


このままで済ましてしまうのはもったいないので
追加でもう一段参加させていただきます。

>「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい」

①肉体の動き:梵我一如的な自然体で不自然な人為の要素が入り込まない動き。
②観念の動き:不自然で人為的な分析的要素が入り込んでしっくりこない動き。

《美しい「花」》という表現は、
 ‘美しい‘と‘花‘が分離できずにくっついている感覚、を示している。
 これが①。
《花の「美しさ」》という表現は、
 ‘美しい「花」‘という存在を人為的に翻訳しようとしてぎくしゃくしてしまう感覚、を示している。 これが②。

ブルースリーの映画の「考えるな。感じろ。」というセリフにも通じていますね。
(考える②。感じる①。)

そこから、観念の無駄な要素を省いた洗練された象徴としての「面」の肯定という結論に至る。
というのが主旨だと思いました。
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ご質問の文章は、小林秀雄の本を一冊も読んだことのない私でよく知っている、いわゆる、良く言及されるくだりです。

聖書の文言のように、”一人歩き”感がしますね。

皆さんのご回答を楽しく拝読していたのですが、ああ、なるほどお能のことを言っているのか、と、納得しました。

私は、バレエと社交ダンス、両方いたします。お能の仕舞とは似たところもありますし、違うところもあります。似ているのは、たとえば、単純に基本の姿勢をしてひざを曲げるだけ、足を前に伸ばすだけでも、正しい方法を体得し、それを、意識せずにできるようになるには、何百回もその動きを繰り返す。。。それしか、方法がありません。それを、プロの先生にみていただいて、何度も直されて、そして、ようやく、”無心”で、できるようになります。

お能でも同じように、ただ、遙を眺めて、扇をかざす、その姿が人の心を打つようになるには、大変な精進が必要になると聞いています。人の心を打つのが美しさであるなら、それが花でありましょう。その花は、”無心”の上に咲くものであって、それ以上でもそれ以下でもない、”芸術を作り上げよう”などという意気込みで日ごろの精進以上にいきみ返ると、しぼんでしまうものなのでしょう。

演者の側から見ますと、そんな風に読み取れますが、小林秀雄は、観る側でしたから、どんな風な思惑を持っておられたか。
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回答番号5,9のplapotiです。

誤解があつてはいけませんので、追記しておきます。suzumenokoxさんの投稿はウケウリ精神がなく独自の感性が優れてゐて、いつも勉強になります。私のアホ回答は自分の思ふところをそのまま書いただけで、小林秀雄の真の意図かどうかはわかりません。回答番号8の方の御指摘どほり、「花」には、能芸と植物の花のふたつの意味がふくまれ、ややこしい説明になつてゐます。比喩は、理解しやすくするために使用してもらひたいものです。すでに回答が10件ですが、いろいろな解釈が出てくるのは当然です。私以外の、どの回答も有力です。

私が言ひたいのは、内容よりも、「木を見て森を見ず」の危険性です。文学などの人文系にかぎらず、科学の分野でもしばしば生じます。素粒子がわかれば世界がわかる、遺伝子がわかれば生物がわかる、小さく分析すればすべてが理解できる、といふのは、自然への敬虔な態度を失つた、きはめて怖ろしい姿勢のやうに感じられます。私は、古生物学者スティーブン・グールドのエッセイを読むのがすきなのですが、部分と全体のバランスの重要性について、ことあるごとに気づかされます。ここでも何名か指摘なさつてゐますが、次回からこのやうな御質問のときは、きちんと出典を明示なさつたほうがよろしいかと存じます。ネットでは、STAP細胞騒動の教訓がまつたく活かされてゐません。もし不明なのでしたら、まづ「この言葉はほんとうに小林秀雄の文章ですか」といふ質問を立てるべきです。ネット情報は玉石混交がはなはだしく、ガセネタのウケウリの山です。
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回答番号5のplapotiです。

補足かコメントで、言葉の出典について記載なさるのかと思つてゐたのですが、そのおつもりはないやうですね。ちなみに回答番号7の方とは、先日、名言についての出典不記載や文脈無視について話をして共感したばかりです。私はだれのためでもなく、自分自身の勉強のためにQ&Aサイトに参加してゐますので、いつもどほり好き勝手に回答します。小林秀雄の文章は、今回のことばにかぎらず、意味不明です。

今私が所持してゐるのは、小林秀雄『モオツァルト・無常という事』(新潮文庫)で、66-69ページに掲載された「当麻」と題する評論です。昭和17年に発表されてゐます。「当麻」といふ能の舞台を鑑賞したあとの感想文といつたところでせうか。

多くが語られるのは、「顔」、そして「仮面」です。念仏僧は「麻雀がうまそうな顔付き」、老尼は「何かが化けた様な妙な印象」で注目に値するのですが、観客は小林秀雄をふくめみんな「眼が離せない様な面白い顔が、一つもなさそう」なのに、「お互に相手の表情なぞ読み合っては得々としている。」

素顔の観客より、能面をつけた役者のほうが立派です。他人の顔色をうかがふ人生は、仮面によつて破壊することができます。素顔をさらせ、と主張する近代文明を批判し、仮面を重視した室町文化を礼賛します。

ここまでが前半の内容です。つづいて中将姫の舞について述べられます。あでやかな姿が「花」なのですが、仮面の内側に祕められた場所には、入りこむことができません。そこで、世阿弥の言葉が引用されます。
「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし。」
(『風姿花伝』第五 奥義)
「花」を永遠の芸とするためには、多くの演目を経験し、演出の工夫を徹底的に稽古しなければなりません。

小林秀雄とは別の箇所を引用します。
「時分の花、声の花、幽玄の花、かやうの条々は、人の目にも見えたれども、そのわざより出で来る花なれば、咲く花のごとくなれば、またやがて散る時分あり。されば久しからねば、天下に名望少なし。」
(『風姿花伝』第三 花の段 角川文庫140ページ)
自然の花が咲いて散ることを繰り返して生き延びるやうに、芸としての花も代代受けつがれてゆかなければならないことを述べてゐます。ここでは「花」とは明らかに「能芸」を指してゐます。

さてここで、つひに問題の文面が登場します。
「美しい「花」がある。「花」の美しさという様なものはない。」
そして、さらにその解説が述べられます。
「肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに深遠だから、彼はそう言っているのだ。不安定な観念の動きを直ぐ模倣する顔の表情の様なやくざなものは、お面で隠して了うがよい」
「肉体」と「観念」とが対比されてゐます。「肉体」によつてうみだされる「能芸」つまり「花」は存在し、その永続性を願つてゐます。そして、「観念」つまり「美しさ」は心の状態であり、物体として存在するわけではありません。だから「花」はあるが、「美しさ」はない。ただそれだけの意味に私は読めます。顔色をうかがふやうな姿勢は、存在しないことにしませう。大切なのは仮面についての主張であつて、花と美しさの区別ではありません。この言葉だけを部分的に取り上げることにどんな意義があるのか、まつたく不可解です。

余計なものは仮面で隠して、「花」のある生き方をしてゆきませう。
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「花」が植物の花と技芸の最高到達点を意味しているので、解釈が難しくなります。


単純に解釈すれば、技芸を極めた「花」がある、その「花」に美しさなどの解釈は不要であると言う事になると思います。
要は、比較する必要が無く、そのまま感じ取るべき事だと言う事を言いたいのだと思います。
「花」=美として解釈している人もいますね。
同一のものに、美しさなどの形容詞や比較要素は不要なのでしょう。
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やはり、出典をハッキリさせないと・・・。



というわけで、アンケート的に回答しますと、

・美しい「花」は、健全な捉え方・・・・?

  美しい「本」と、置き換えますと、その本の中身も含んでいるような感じ・・・・
  
  
・「花」の美しさ、は、技巧というか、嫌らしい捉え方・・・・?

  「本」の美しさ、と置き換えますと、“無い”ような・・・・。



※関係ないですけど、
「花」の美しさ、というと、何か、嫌らしい感じがします。
 どこか、下からジロジロ覗いているような・・・・。下品というか。
  歪んだモノの見方、というか。
(極端な話、女性の下着とか。)

                   <(_ _)>
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Google検索での即席知識を通して思った事は・・・



どうやら"小林秀雄"は自身の実感を大切にした人の様です。他者に依って提供された知識より、自分の感覚に自信を持っていて、だから重視していますね。

たぶん「花」の美しさという様なものはないと表現することで、花の美は感じ取るものであって、その美を分析し薀蓄を述べる様なことをしても仕方ない、と云っているようです。
また推測ですが、"小林秀雄"と云う人は一般的な美的感覚を軽んじているようにも感じました。

上手く言えませんが私の平凡な感想です。
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回答番号1の方の御意見につきる、と思ひます。

ネット上には、名言集サイトが乱立してゐますが、

出典の明示がない
解釈が本来の意味とは正反対
発言者とされる人が言ひさうもない言葉がある

などなど、見るに耐へない情報の山です。言葉の表面だけに魅力を感じて、文脈には関心を抱かず、思想にはなほさら無頓着なのでせう。

質問文のことばは、若いころ読みましたし、今も手元にあります。小林秀雄の文章は、論理的でなく、ウケ狙ひの名言が数多く見られます。今回の文章も、難解で、すぐには結論がでません。私は能楽鑑賞の経験がなく、手持ちの『謡曲選集』(岩波文庫)にも該当演目はなく、そのことがさらに理解のさまたげになつてゐます。平日はあまり時間がとれませんので、日曜日でしたら、『風姿花伝』を読み直してから回答できるかもしれません。この質問に適切に回答できる人をひとり知つてゐるのですが(昨日も回答をもらひました)、哲学カテゴリは休息宣言をなさつてゐて、たぶん無理です。
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読んでないですが、ランボーに傾倒したようですから


美しいものを見て、美しいと感じる者の心に有る美しさを
映し出したかったのだと思います。
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1: ちょっと違うと思います。


2:「美しい花がある。その美しさを分析しようとすると無粋になる。
   美しいものを純粋に美しいとして感じることの大切さ。
   いいものはいい、というような対象との接し方が
   人生の骨子と言える。」
「人生において分析は二次的なものだ」という主張なような気がします。
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