今仕事の関係で「熱海」についての歴史を調べています。
明治22年に東海道線が神戸まで開通したときに、
「小田原」と「熱海」を通ったかどうか、について知りたいのですが、どなたか教えていただけないでしょうか?

熱海を通ったのなら、大正14年に熱海線(現在の東海道小田原~熱海間)を作ったのはなぜなんでしょう???
この熱海線開通により「それまでの鉄道では小田原~熱海間を約2時間30で結んでいたのが、この開通により東京~熱海間が3時間20分で直結されることになった…」と文献に出ていたのですが、それ以前に東海道線が熱海を通っていたのなら、東海道線のほうが早いのではないかな、と思うのですが…。
ネットで調べたりしたのですが、はっきりと停車駅まで書いてあるものを探すことは出来ませんでした。

どなたかご存知の方、いらっしゃいませんでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (4件)

当時まだ熱海-三島の間に横たわる箱根を越える方法がなかったため、(現在の熱海-函南間を結んでいる丹那トンネルが開通したのは昭和に入ってからのはずです)当時の東海道線は小田原付近(現在の国府津)から箱根を大きく北に迂回し、現在で言うところの御殿場線を経由して沼津へ至っていました。


そのため、当時はまだ東海道線は熱海駅を通っていなかったと記憶しています。
なにぶん昔に聞いた話(地元人)なのでうろ覚えではあるのですが。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

そうですか、やはり箱根越えは大変だったんですね。
当時の苦労がしのばれます。
本当にありがとうございました!

お礼日時:2001/06/13 16:28

 明治33年「鉄道唱歌」にも「山北」「小山」「御殿場」の地名が見えます。



参考URL:http://www.music.ne.jp/~hmika/tetudousyouka.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

鉄道唱歌って「汽笛一声新橋を~」って歌ですよね。私はよく知らないんですが、父が口ずさんでいたのを覚えています。当時の人はこの歌、全部覚えたんでしょうか(^^;
地理の勉強になりますね。ありがとうございました!

お礼日時:2001/06/14 10:07

他の方が言ってる通りです。



昔は「御殿場線」が「東海道線」でした。
丹那トンネルが完成した後に今の東海道線ができ、旧東海道線は「御殿場線」と改名しました。

ちなみに御殿場線の沼津駅から2駅目に「下土狩駅」(駿東郡長泉町下土狩)があるのですが、昔はこの駅が「三島駅」だったようです。
(現在の三島駅と下土狩駅は1km程度しか離れていません)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

そうでしたか。主人の実家が伊豆なので、三島はよく行くのですが、下土狩駅が昔の三島駅だったとは知りませんでした。御殿場線もまだ乗ったことがないので、こんど是非乗ってみたいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2001/06/14 10:02

昭和9年に丹那トンネルが開通するまでの間、国府津-沼津間は現在の御殿場線が東海道線でした。


言い方が正確かどうかは、もっと詳しい方にお任せします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

あぁ~、そうか、そうだったんですね!!
迅速な回答で非常に助かりました!
どうもありがとうございました!!(*^^*)

お礼日時:2001/06/13 16:25

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q事実はどうなのか。 大河ドラマで、真田丸で小田原攻めを放送ちたが、小田原の北条氏に使者として遣わさ

事実はどうなのか。

大河ドラマで、真田丸で小田原攻めを放送ちたが、小田原の北条氏に使者として遣わされたのは、真田丸では、真田信繁
軍師官兵衛では、黒田官兵衛
独眼竜政宗では、前田利家
が、太閤に降伏するように使者では入ったが
一体どれが正しいのか?
NHKは、大河ドラマは、史実に基づくとうたっているが、実際は、誰が使者として入ったのか?
この前の真田丸を見てそう思いました。
どなたか、本当は、誰が使者では入ったのか
歴史に詳しい方教えてください。

Aベストアンサー

小田原城攻めでの降伏勧告は、攻め手に加わった大名たちが各個に使者を送っていますので、
「どれも正しい」というのが答えです。
信繁ひとりが代表として遣わされたと言ったら史実に反しますが、他の使者については描写
を割愛しているだけなら、実際に信繁「も」使者にはなっているので「史実に基づいている」
と言っても嘘ではないのです。

Q旧東海道はなぜ名古屋中心部を通らない?

旧東海道は、大都市である名古屋の中心部を通らずに、熱田から南下し、伊勢湾を船で渡ってしまうのは、なぜでしょうか。城のすぐ近くとはいかなくても、城下町なので、城近辺を通るのが一般的なのでと思うのですが。また、わざわざ船に乗るというのは、非常に面倒くさいと思うのです。教えてください。

Aベストアンサー

実はこの件、私も疑問に思っていましたが、最近回答を発見しました。「中世の東海道をゆく」という中公新書です。最近読んだ専門書以外の本の中では、もっともエキサイティングな本でした。
この本は、鎌倉時代以降の京都-鎌倉間を旅した人々の紀行文を元に、中世(鎌倉から戦国時代)の東海道のルートを再現したものです。その終章に、家康が海路を定めた理由が記されていました。

もともと、江戸時代までの東海道は、美濃から墨俣付近で木曽三川を越え、南下して熱田神宮(海に突き出した半島の上の神社だったそうです)の辺りで、干潮時のみに現れる海岸線を、対岸の鳴海まで歩く、というルートが普通でした。現在の名古屋市南部はまだ海の中だったわけです。東国からだと、熱田-(北上して)-墨俣の「美濃ルート」です。

これを変えたのが、家康です。家康が出した桑名宛の伝馬朱印状によると、「下は宮へ船路のこと」と記されていて、ここで初めて東海道の正式ルートとして、海上利用が規定されたということになります。江戸からですと、熱田-桑名-鈴鹿峠ですね。

理由は二つあったそうです。そもそも東海道の伝馬ルート(宿場)は、旅行者の便宜を考えるより先に、何よりも「軍事情報」の伝達ルートであったことです。このためには、確実に、しかも速く情報が江戸-京都・大阪間を流れる必要がある。何しろ、この伝馬朱印状が出たのは、関ヶ原の翌年、まだ豊臣家がバリバリで健在の時代です。

そうすると、まず第一に、美濃ルートには冬季に雪に閉ざされる危険がある。現在でも関ヶ原・米原辺りは新幹線がストップしますよね。
もう一つは、京都-熱田間の所要日数が伊勢周りの方が早いのだそうです。紀行文を読むと、京都から美濃回りで熱田まで行くと到着するのは、五日目だそうです。それに対して、鈴鹿峠を越えて、桑名から熱田まで舟を利用すると三日目には、到着したそうです。

ただし、それだけなら熱田を利用する理由は無いわけで、単純に距離の問題を言えば、岡崎辺りを出発してそのまま西に向かい、桑名よりも南部で鈴鹿峠に近い場所があります。ところが、そのルートだと、当時家康の子どもだった松平忠吉が入封していた清洲に情報が寄らない。
なるべく早いルート、でも、清洲(名古屋)に情報を入れる、という2つの条件を満たす方法として海上七里が決められたのではないか、とのことでした。

ですから、伝馬ルートとしては熱田(宮)-桑名が公式ルートですが、実際には江戸時代でも美濃ルートは使われていたそうです。特に大名行列や
朝鮮通信使などは美濃ルートを使うことも普通にあったとのことです。

実はこの件、私も疑問に思っていましたが、最近回答を発見しました。「中世の東海道をゆく」という中公新書です。最近読んだ専門書以外の本の中では、もっともエキサイティングな本でした。
この本は、鎌倉時代以降の京都-鎌倉間を旅した人々の紀行文を元に、中世(鎌倉から戦国時代)の東海道のルートを再現したものです。その終章に、家康が海路を定めた理由が記されていました。

もともと、江戸時代までの東海道は、美濃から墨俣付近で木曽三川を越え、南下して熱田神宮(海に突き出した半島の上の神社だ...続きを読む

Q「東海道四谷怪談」はどうして「東海道」なのですか?

「東海道四谷怪談」は、四谷(東京都新宿区左門町)に実在する「お岩稲荷」が由来とされています。
新宿といえば甲州街道とおもうのですが、どうして東海道なのでしょうか?
オリジナルの物語に東海道がでてくるのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

あくまで一説ですが

この「東海道」は「とうかいどう」ではなかったというのだ。実際『東海道四谷怪談』は初演の絵本番付では「あづまかいどうよつやかいだん」と読まれている。
当時、京都から見て江戸は「あづま」と呼ばれていた。そう考えれば、「あづま」の街道なら、東海道でも甲州街道でもいい。甲州街道の四谷も「あづまかいどう(東海道)」に入るという説。

Q軍通の搬送線、実回線、電信線

軍通の搬送線、実回線、電信線

久保村正治「通信隊戦記」p.34 に

「重構成線路には裸線が使用され、搬送線には銅線が、実回線および電信線には鉄線が使用される。」

とあります。これについて、いくつかわからない点があります。ご教示いただければ幸いです。

1.
上の「搬送線」とは通信線の一種で、1本の電線を多重化して複数回線を乗せるものだと思って良いでしょうか? (それとも電力線なのでしょうか?)

2.
http://www.kanetuu.co.jp/yougo/index_s.html
によると、「実回線」とは2線式の回路方式のことのようです。ということは、「電信線」は1線式だったのでしょうか? (軽構成の手順を読むと、どうもそうらしい気がします。)

3.
同書 p.186 には「逓信省標準型の搬送電話機と九八式多重電話機」なるものが出てきます。搬送電話と多重電話の違いは、搬送線路を使うか実回線を使うかの違いでしょうか? 多重化の方法は両者でどう異なるのでしょうか?

4.
電話が多重化できるなら、電信はもっと簡単なはずです。しかし戦記では、電信は一線路一回線らしく読めます。軽構成ならそれで不思議はありませんけれど、重構成でも多重化はされなかったのでしょうか?

軍通の搬送線、実回線、電信線

久保村正治「通信隊戦記」p.34 に

「重構成線路には裸線が使用され、搬送線には銅線が、実回線および電信線には鉄線が使用される。」

とあります。これについて、いくつかわからない点があります。ご教示いただければ幸いです。

1.
上の「搬送線」とは通信線の一種で、1本の電線を多重化して複数回線を乗せるものだと思って良いでしょうか? (それとも電力線なのでしょうか?)

2.
http://www.kanetuu.co.jp/yougo/index_s.html
によると、「実回線」とは2線式の回路方式の...続きを読む

Aベストアンサー

一般人でその道の専門ではありませんが、判る範囲でお答えします。 

質問1.その理解でよいと思います。ただし、当時のレベルでは伝導状況が良いことが条件で、複線としたうえアースをとりませんでした。「搬送線は銅線が‥‥」というのは鋼線より伝導性に優れていたからでした。しかし銅線は強度に難があり、電流は線の表面を伝わるので、この場合の銅線とい
うのは鋼線に銅メッキをした線を意味します。さらに急を要する場合は被覆線を地に這わせる方法もありましたが、戦場では度々断線してしまいました。

質問2.いったん作戦が始まれば各師団はどんどん前線に進出していきます。そこで通信兵は、軍司令部通信から前線にある師団通信を追っかけ碍子一個を棒の先につけた電線を張る軽構成作業に励みつつ追及していきました。これを陸軍通信将兵は「裸線一条の構成」と呼びこれが通信構成の基本でした。ちなみに送信機が+(プラス)で、受信機はかならず地面にアースを取る。

質問3・4.搬送通信(波形を変え多数回線を取る)には、九八式多重電信機、九八式多重電話機が使用され搬送用通信線を張りました。逓信省の電話と軍用電話の多重化の方法について詳細はわかりませんが、大きな違いはないはずです。いずれにしても当時の技術では通信機(有線・無線)も電話機の性能も今とはかなり違い、また、電話機の場合は電線の途中で傍受されやすくそのため秘話電話機という特種機器を使用することがありました。また、搬送通信機も距離や地形などの条件が必要でしたし、さらに無線機は送信能力に難があり、暗号を完全に送受信できないため再送信を繰り返して戦機を逸することも度々あったようです。当時の能力としては有線の裸線一条の構成が最も確実でした。

 
 資料:野元巳郎『大陸通信戦記』図書出版社  

    なお野元氏は久保村氏と甲種幹候の同期生。

 

一般人でその道の専門ではありませんが、判る範囲でお答えします。 

質問1.その理解でよいと思います。ただし、当時のレベルでは伝導状況が良いことが条件で、複線としたうえアースをとりませんでした。「搬送線は銅線が‥‥」というのは鋼線より伝導性に優れていたからでした。しかし銅線は強度に難があり、電流は線の表面を伝わるので、この場合の銅線とい
うのは鋼線に銅メッキをした線を意味します。さらに急を要する場合は被覆線を地に這わせる方法もありましたが、戦場では度々断線してしまいました。

質...続きを読む

Q大正時代の教育について

夏休みの宿題で大正時代の教育等をレポートに書かなくてはいけないんですが、僕は学校関連について調べようかと思います。
いろいろネットで調べましたがよくわからないことがあったので質問させてもらいます。

学校制度は、尋常小学校卒業後に就職するか、高等小学校に進むか、中学校・高等女学校に進むかなどありますが、
小学校が2つあることがよくわからないんです。高等小学校が今の中学校で中学校が高校と考えていいのでしょうか?

また、この時代には尋常小学校は大体何歳ぐらいから入学するんでしょうか?

この時代は就職等ありますが、中学校卒業後は全員就職していたのでしょうか?

大正時代の各学校の入学する年と何年ぐらい勉強するのかがわからないのでそこも教えてもらえるとありがたいです。

わかりずらい文章ですみません。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

戦争前に中学の教師だった祖父に聞いたことがあります

小学校の入学年齢は今と同じでした
小学校は尋常小学校が6年、その上に高等小学校が2年(学校によっては3年)ありました
農村の子供たちは家を助ける為に尋常小学校を出るとすぐ働く人が多かったのです
高等小学校はそろばんや簿記、裁縫を教えるので商店に勤めたい人達が主に行きました
中学校、女学校に行く人は尋常小学校を出ると入学の資格が出来ましたが家庭の都合で高等小学校を出てから入学する人もありました
中学を出ると高等学校、私立大学予科、陸海軍の学校、専門学校にそれぞれ進学しました
歌人の石川啄木は故郷の尋常小学校を出てから中学の入試に備えるため盛岡の高等小学校に通い盛岡中学に合格しました
これは明治時代の事ですが大正時代も事情は同じだったそうです


人気Q&Aランキング

おすすめ情報